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遥かなる恋人に
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二ヵ月後、エリーゼとフェリクスの結婚式当日。
オルデンブルク伯爵の指揮のもと準備は迅速に進んでいた。宣誓の儀式は王宮の大広間で荘厳に執り行われ、披露宴は明日、街に繰り出して盛大に開催されることとなる。
品位と格式を求める貴族も、この機会に自分を売り込みたい商人も、何でもいいからお酒を飲んで騒ぎたいだけの民衆も、全員の心を掴む形の式次第だ。さすがは歴史と資産を兼ね備えた大貴族、やり手である。
エルハーフェン王家にとって頼もしい部下であると同時に、決して政敵にはしたくない相手だった。
ディートリヒの結婚式、つまりは私の結婚式だけれど、あの時は華やかさより厳粛な雰囲気を重視した内装だった大広間が雰囲気を一変している。
今回はオルデンブルク家の財力を存分に発揮して壁一面を豪奢な生け花が埋め尽くし、天井からも花吹雪のように色とりどりのサテンのリボンが垂れ下がったいかにもな結婚式場の様相だ。
楽団が奏でる優雅な調べに乗ってエリーゼが大広間に入ってくる。
硬直しているディートリヒの隣で私も彼女の門出を見守った。
エリーゼが好きな淡い黄色のドレス。カナリアの羽のように滑らかな光沢がシャンデリアの明かりを弾いて、この世の何より価値ある金貨のようでもあった。
幾重にも重なるレースとシルクが歩くたびにふわりと揺れる。彼女のふわふわのピンクブロンドには、王妃の庭で私と一緒に育てた花が編み込まれていた。
そして祭壇の前で新婦を待つフェリクス。近衛騎士団の紋章をあしらい、エリーゼに合わせてやや淡い色合いの青い礼服がよく似合っている。
新婦を迎えるために彼が手を差し伸べると真っ白なマントが揺れた。
いつも身嗜みを欠かさず見目麗しい男ではあるけれど、今日の彼はまさに物語の王子様そのものだった。
いつか聞いた「フェリクス・フォン・オルデンブルクを名乗ってもらいたい」とはオルデンブルク伯爵の言葉だ。確かに、名家の出身と主張しても誰もが信じる気高さを放っている。
伯爵のやり手ぶりを見るに、エリーゼよりもフェリクスこそオルデンブルク家の血を引いているかのようだもの。
祭壇に立つ神官長セルギウスが厳かに式を進める中、私はちらりと隣を見た。
我が夫殿はその美貌に誰が見ても穏やかな微笑を浮かべ、元婚約者と臣下の晴れ舞台を祝う慈愛に満ちた王太子の顔をしていた。
ここが正念場だ、がんばれディートリヒ。これを耐えれば明日の披露宴は多少仏頂面を晒しても見咎められはしないぞ。
誓いの口づけが交わされるとファンファーレが鳴り響き、大広間に拍手が湧いた。
祝福の声が降り注ぐ中、エリーゼとフェリクスはこのうえなく幸せそうに微笑み合っていた。
その翌日、王宮から出発した馬車の列が凱旋パレードのように街へ向かう。
城下町全体がオルデンブルク家の披露宴会場と化し、裏通りにまで人々で溢れかえっていた。
やや治安が心配になるほどだけれど、主要な建物から魔法研究室の職員がマジックレンズで強固に監視体制を敷いている。それに人目がありすぎてある意味どこにも犯罪者の付け入る隙がない状態だった。
遠方から集まった貴族たちの紋章がそこかしこに掲げられ、どの店も満員御礼。経済効果は計り知れない。
今日という日に、フェリクスが愛してやまない金が凄まじい勢いでエルハーフェン王国を循環しているのだ。
披露宴はいわゆる無礼講、身分を問わず歓談しながら王族レベルの食事が皆に等しく振舞われる。
昨日は形式通りの挨拶しかできなかったフェリクスが、隙を見てグラスを片手に近づいてきた。
「改めておめでとう、フェリクス。いい式だね」
「ありがとうございます、マリ殿。伯爵の手腕はまったく見事ですよ。民衆に寄っているようでいて、しっかりと貴族の方々の支持も得ている」
そう。王宮で閉じた式に終わらせず街に繰り出したことで、社交の場としてあまりにも広く開かれているのだ。
普段は王都と取引のなかった辺境地方の貴族たちにとってこれは“王都の見本市”、一方で職人や商人側にとっても自分を売り込む大チャンス。
あちこちで交わされている祝福の言葉の大半は実質商談なのだろう。
新郎であるフェリクスが平民出身の近衛騎士だという事実も大きかった。
オルデンブルク家は彼を迎えることで、貴族と平民、対立しがちな双方を納得づくで取り込む絶好の機会となったのだ。
「有能だわ。王家の評判を上回っちゃいそうで怖いくらい」
「ははは」
「否定しろよ」
あなたはあくまでも近衛騎士なんだからねと念を押すと、フェリクスは「すっかり王太子妃ですな」と愉快そうに笑った。
さて、エリーゼとも話したかったけれど、彼女は少し離れたところで王太子殿下の祝福を受けている。
ものすごくがんばって理性的に、元婚約者への未練を見せないように紳士的に振舞っているディートリヒが面白い。もとい、いじらしい。
フラれて婚約破棄されたという表向きの傷はまだ癒えないようだが、ディートリヒが泥を被ったおかげでそれは単なる失恋として回復可能なものとなり、エリーゼは「次期王妃に不適格だった」という致命的な罪悪感を抱かずに済んでいる。
フェリクスのある意味で献身的な支えを受け入れて、花嫁に相応しく晴れやかな顔をしていた。
決して隣に寄り添うことはないけれど、互いの手を離したからこそ、ディートリヒとエリーゼは別れて初めて分かり合える恋人になったのかもしれない。
もどかしい二人はそっとしておいて、こちらはフェリクスとのんびり話すことにする。
「でも正直なところ、よく惚れずにいられるよね。政治的資質を求めなければエリーゼって理想的な彼女じゃない? 殿下は極端だけどデレデレになってもおかしくないじゃん」
「はい。俺も相当、エリーゼ様に絆されていると思いますよ。惚れていけない理由はないわけですから」
そんなことを淡々と言われても情熱を感じないけどなあ。
「あれ見てどう思う?」
ディートリヒたちを指し示す。フェリクスはワイングラスを呷って苦笑した。
「マリ殿の野次馬根性を満足させて差し上げたいところですが、嫉妬はできませんね」
「一応は自分の妻になった人と元カレなんだしさー。もしかしたら、よりを戻しちゃうかもよ?」
「仮に不倫でもなさった日には、俺は喜ぶと思いますよ。お二人とも成長されたものだ、と」
「不敬だな。でもまあ、そうか」
敬愛と恋愛の区別もないほど単純だったエリーゼが夫を裏切るほど熱烈な恋に目覚めたとしたら、それはある意味すごい成長だし、ディートリヒは歓喜の涙で溺れ死ぬかもしれない。
「尤も、殿下とエリーゼ様の名誉のために、その事実が決して明らかにならないように守るくらいはしますがね」
「自分の不利益に繋がるからね……」
「マリ殿も同じでしょう?」
「はい」
私もディートリヒが誰かと不倫をしたところで自分に害が及ばなければどうでもいいと思う。彼がその相手から糾弾されることが私にとっても重大な不利益で、フェリクスと同じく秘密を守るためにむしろ協力しようとするだろう。
「でもあの二人は、仮にエリーゼがディートリヒに恋したとしても不倫には走れないタイプだよね」
「俺もそう思いますよ」
自分に課せられた責任を放棄し、義務を裏切ってまで自分の欲望を通すなんて真似をできるはずがない。それができるくらい利己的であれば、とっくに結ばれていた二人だった。
結婚式を終え、次期オルデンブルク女伯爵となるエリーゼは王宮に与えられていた私室を引き払って伯爵領に戻っていった。
フェリクスは近衛騎士団の業務を続けながら非番の日にだけ彼女の待つ家へと帰る。
すでに伯爵のお墨付きを得ているフェリクスは伯爵領に籠もって統治を学ぶ必要もないようだ。
エリーゼが爵位を継いだ暁には、夫が実務を担うこととなるのだろうか。
私の暮らしは緩やかに変化の兆しを見せていた。
ある水曜日の午後、魔法研究室からの呼び出しを受けた私は王宮の北棟へと足を向ける。白い扉をノックすると中からソフィアが顔を出した。
「マリ様! お待ちしておりました」
セルギウスも座って待ち構えていた。相変わらず散らかったテーブルの上に何の変哲もなさそうなジョウロが鎮座している。
「これがエリーゼに頼まれてたやつ?」
「左様です。植物の種類と土の状態を感知して、最適な水量を調整する。名づけて『オートマティック・スプリンクラー・ポット』といったところですな」
「マリ様に差し上げた万年筆の応用で思いついたのです! 私が!」
「すごい。さすがソフィア」
セルギウスのネーミングセンスはさておき。ソフィアは魔法の研究よりもアイデアを実用化する発明家のほうが向いてるみたいだ。
この自動ジョウロはエリーゼの要望に私が横から口を出して、それをもとにセルギウスとソフィアの共同開発で完成したものだった。
オルデンブルク伯爵領には私のような暇人がおらず、彼女が育てる植物に合わせて細かくマニュアルを更新してくれる者がいない。であればジョウロが私の代わりを果たせるようになればいい。
どんなにたらふく水を汲んだところでジョウロが判断してくれるから、エリーゼが必要以上の水をやることはない。これで新たに植えた花や野菜を根腐れさせることもないだろう。
「量産したら一般にも普及できそうだね」
「はい! まだコストがかかりすぎますが、これから改善していく予定です」
将来的には家庭菜園だけじゃなくて農業にも役立ちそうだ。王室印の魔力が込められているから他の企業に模倣されることもない。
「これ、フェリクスに預けておいて。今度帰った時にエリーゼに渡してもらうように」
「承知いたしました」
今はエリーゼが忙しく手紙のやり取りをする暇もないけれど、この贈り物が彼女への言葉となってくれるだろう。
その足で、いつものようにディートリヒの執務室へ向かう。
「今日は遅かったな、マリ」
「ちょっと研究室に寄ってて。例のジョウロ完成しましたよ」
そう聞いてディートリヒはふと口元を緩めた。机の端に一輪の『エリーゼ』の花が揺れている。
「……そうか。エリーゼも喜ぶだろう」
「ですね。これでオルデンブルクの庭を腐海にすることもないでしょう」
「言葉を選べ」
自分の席に座ってソフィア製の万年筆を手に取る。今日も今日とて山のような手紙を切り崩し、テンプレ返信を印字していく。
満員電車も期限切れの納豆もなく、地獄の月曜日は訪れない平穏な世界。
「殿下、今日はクララが新作ケーキを焼いてるらしいんですけど」
「……仕方ないな。付き合ってやろう」
「やった」
「その返信が終わったら、だ」
「やる気出てきたー」
割のいい仕事があり、面倒くさいなりに面白い人たちがいて、おいしいごはんとあったかい布団が待っている。
――愛の歌は遠い隔たりで消えることがない。そして愛に満ちた心は届く。愛に満ちた心を捧げた人へ。
ここに二組の夫婦がある。
魔力が一欠けらもなくて事務仕事だけは得意な空気清浄機の聖女と、相変わらず元婚約者を一途に愛し続ける次期国王。
夫も含めた世界のすべてを平等に愛する博愛主義の次期女伯爵と、現実主義の拝金主義でそんな妻の広すぎる愛を束縛しない包容の騎士。
私たちは互いに恋とは遥かな距離を置いた変な夫婦だった。
でもおかげさまで、エルハーフェン王国は今日も平和な豊かさに満ちているのである。
オルデンブルク伯爵の指揮のもと準備は迅速に進んでいた。宣誓の儀式は王宮の大広間で荘厳に執り行われ、披露宴は明日、街に繰り出して盛大に開催されることとなる。
品位と格式を求める貴族も、この機会に自分を売り込みたい商人も、何でもいいからお酒を飲んで騒ぎたいだけの民衆も、全員の心を掴む形の式次第だ。さすがは歴史と資産を兼ね備えた大貴族、やり手である。
エルハーフェン王家にとって頼もしい部下であると同時に、決して政敵にはしたくない相手だった。
ディートリヒの結婚式、つまりは私の結婚式だけれど、あの時は華やかさより厳粛な雰囲気を重視した内装だった大広間が雰囲気を一変している。
今回はオルデンブルク家の財力を存分に発揮して壁一面を豪奢な生け花が埋め尽くし、天井からも花吹雪のように色とりどりのサテンのリボンが垂れ下がったいかにもな結婚式場の様相だ。
楽団が奏でる優雅な調べに乗ってエリーゼが大広間に入ってくる。
硬直しているディートリヒの隣で私も彼女の門出を見守った。
エリーゼが好きな淡い黄色のドレス。カナリアの羽のように滑らかな光沢がシャンデリアの明かりを弾いて、この世の何より価値ある金貨のようでもあった。
幾重にも重なるレースとシルクが歩くたびにふわりと揺れる。彼女のふわふわのピンクブロンドには、王妃の庭で私と一緒に育てた花が編み込まれていた。
そして祭壇の前で新婦を待つフェリクス。近衛騎士団の紋章をあしらい、エリーゼに合わせてやや淡い色合いの青い礼服がよく似合っている。
新婦を迎えるために彼が手を差し伸べると真っ白なマントが揺れた。
いつも身嗜みを欠かさず見目麗しい男ではあるけれど、今日の彼はまさに物語の王子様そのものだった。
いつか聞いた「フェリクス・フォン・オルデンブルクを名乗ってもらいたい」とはオルデンブルク伯爵の言葉だ。確かに、名家の出身と主張しても誰もが信じる気高さを放っている。
伯爵のやり手ぶりを見るに、エリーゼよりもフェリクスこそオルデンブルク家の血を引いているかのようだもの。
祭壇に立つ神官長セルギウスが厳かに式を進める中、私はちらりと隣を見た。
我が夫殿はその美貌に誰が見ても穏やかな微笑を浮かべ、元婚約者と臣下の晴れ舞台を祝う慈愛に満ちた王太子の顔をしていた。
ここが正念場だ、がんばれディートリヒ。これを耐えれば明日の披露宴は多少仏頂面を晒しても見咎められはしないぞ。
誓いの口づけが交わされるとファンファーレが鳴り響き、大広間に拍手が湧いた。
祝福の声が降り注ぐ中、エリーゼとフェリクスはこのうえなく幸せそうに微笑み合っていた。
その翌日、王宮から出発した馬車の列が凱旋パレードのように街へ向かう。
城下町全体がオルデンブルク家の披露宴会場と化し、裏通りにまで人々で溢れかえっていた。
やや治安が心配になるほどだけれど、主要な建物から魔法研究室の職員がマジックレンズで強固に監視体制を敷いている。それに人目がありすぎてある意味どこにも犯罪者の付け入る隙がない状態だった。
遠方から集まった貴族たちの紋章がそこかしこに掲げられ、どの店も満員御礼。経済効果は計り知れない。
今日という日に、フェリクスが愛してやまない金が凄まじい勢いでエルハーフェン王国を循環しているのだ。
披露宴はいわゆる無礼講、身分を問わず歓談しながら王族レベルの食事が皆に等しく振舞われる。
昨日は形式通りの挨拶しかできなかったフェリクスが、隙を見てグラスを片手に近づいてきた。
「改めておめでとう、フェリクス。いい式だね」
「ありがとうございます、マリ殿。伯爵の手腕はまったく見事ですよ。民衆に寄っているようでいて、しっかりと貴族の方々の支持も得ている」
そう。王宮で閉じた式に終わらせず街に繰り出したことで、社交の場としてあまりにも広く開かれているのだ。
普段は王都と取引のなかった辺境地方の貴族たちにとってこれは“王都の見本市”、一方で職人や商人側にとっても自分を売り込む大チャンス。
あちこちで交わされている祝福の言葉の大半は実質商談なのだろう。
新郎であるフェリクスが平民出身の近衛騎士だという事実も大きかった。
オルデンブルク家は彼を迎えることで、貴族と平民、対立しがちな双方を納得づくで取り込む絶好の機会となったのだ。
「有能だわ。王家の評判を上回っちゃいそうで怖いくらい」
「ははは」
「否定しろよ」
あなたはあくまでも近衛騎士なんだからねと念を押すと、フェリクスは「すっかり王太子妃ですな」と愉快そうに笑った。
さて、エリーゼとも話したかったけれど、彼女は少し離れたところで王太子殿下の祝福を受けている。
ものすごくがんばって理性的に、元婚約者への未練を見せないように紳士的に振舞っているディートリヒが面白い。もとい、いじらしい。
フラれて婚約破棄されたという表向きの傷はまだ癒えないようだが、ディートリヒが泥を被ったおかげでそれは単なる失恋として回復可能なものとなり、エリーゼは「次期王妃に不適格だった」という致命的な罪悪感を抱かずに済んでいる。
フェリクスのある意味で献身的な支えを受け入れて、花嫁に相応しく晴れやかな顔をしていた。
決して隣に寄り添うことはないけれど、互いの手を離したからこそ、ディートリヒとエリーゼは別れて初めて分かり合える恋人になったのかもしれない。
もどかしい二人はそっとしておいて、こちらはフェリクスとのんびり話すことにする。
「でも正直なところ、よく惚れずにいられるよね。政治的資質を求めなければエリーゼって理想的な彼女じゃない? 殿下は極端だけどデレデレになってもおかしくないじゃん」
「はい。俺も相当、エリーゼ様に絆されていると思いますよ。惚れていけない理由はないわけですから」
そんなことを淡々と言われても情熱を感じないけどなあ。
「あれ見てどう思う?」
ディートリヒたちを指し示す。フェリクスはワイングラスを呷って苦笑した。
「マリ殿の野次馬根性を満足させて差し上げたいところですが、嫉妬はできませんね」
「一応は自分の妻になった人と元カレなんだしさー。もしかしたら、よりを戻しちゃうかもよ?」
「仮に不倫でもなさった日には、俺は喜ぶと思いますよ。お二人とも成長されたものだ、と」
「不敬だな。でもまあ、そうか」
敬愛と恋愛の区別もないほど単純だったエリーゼが夫を裏切るほど熱烈な恋に目覚めたとしたら、それはある意味すごい成長だし、ディートリヒは歓喜の涙で溺れ死ぬかもしれない。
「尤も、殿下とエリーゼ様の名誉のために、その事実が決して明らかにならないように守るくらいはしますがね」
「自分の不利益に繋がるからね……」
「マリ殿も同じでしょう?」
「はい」
私もディートリヒが誰かと不倫をしたところで自分に害が及ばなければどうでもいいと思う。彼がその相手から糾弾されることが私にとっても重大な不利益で、フェリクスと同じく秘密を守るためにむしろ協力しようとするだろう。
「でもあの二人は、仮にエリーゼがディートリヒに恋したとしても不倫には走れないタイプだよね」
「俺もそう思いますよ」
自分に課せられた責任を放棄し、義務を裏切ってまで自分の欲望を通すなんて真似をできるはずがない。それができるくらい利己的であれば、とっくに結ばれていた二人だった。
結婚式を終え、次期オルデンブルク女伯爵となるエリーゼは王宮に与えられていた私室を引き払って伯爵領に戻っていった。
フェリクスは近衛騎士団の業務を続けながら非番の日にだけ彼女の待つ家へと帰る。
すでに伯爵のお墨付きを得ているフェリクスは伯爵領に籠もって統治を学ぶ必要もないようだ。
エリーゼが爵位を継いだ暁には、夫が実務を担うこととなるのだろうか。
私の暮らしは緩やかに変化の兆しを見せていた。
ある水曜日の午後、魔法研究室からの呼び出しを受けた私は王宮の北棟へと足を向ける。白い扉をノックすると中からソフィアが顔を出した。
「マリ様! お待ちしておりました」
セルギウスも座って待ち構えていた。相変わらず散らかったテーブルの上に何の変哲もなさそうなジョウロが鎮座している。
「これがエリーゼに頼まれてたやつ?」
「左様です。植物の種類と土の状態を感知して、最適な水量を調整する。名づけて『オートマティック・スプリンクラー・ポット』といったところですな」
「マリ様に差し上げた万年筆の応用で思いついたのです! 私が!」
「すごい。さすがソフィア」
セルギウスのネーミングセンスはさておき。ソフィアは魔法の研究よりもアイデアを実用化する発明家のほうが向いてるみたいだ。
この自動ジョウロはエリーゼの要望に私が横から口を出して、それをもとにセルギウスとソフィアの共同開発で完成したものだった。
オルデンブルク伯爵領には私のような暇人がおらず、彼女が育てる植物に合わせて細かくマニュアルを更新してくれる者がいない。であればジョウロが私の代わりを果たせるようになればいい。
どんなにたらふく水を汲んだところでジョウロが判断してくれるから、エリーゼが必要以上の水をやることはない。これで新たに植えた花や野菜を根腐れさせることもないだろう。
「量産したら一般にも普及できそうだね」
「はい! まだコストがかかりすぎますが、これから改善していく予定です」
将来的には家庭菜園だけじゃなくて農業にも役立ちそうだ。王室印の魔力が込められているから他の企業に模倣されることもない。
「これ、フェリクスに預けておいて。今度帰った時にエリーゼに渡してもらうように」
「承知いたしました」
今はエリーゼが忙しく手紙のやり取りをする暇もないけれど、この贈り物が彼女への言葉となってくれるだろう。
その足で、いつものようにディートリヒの執務室へ向かう。
「今日は遅かったな、マリ」
「ちょっと研究室に寄ってて。例のジョウロ完成しましたよ」
そう聞いてディートリヒはふと口元を緩めた。机の端に一輪の『エリーゼ』の花が揺れている。
「……そうか。エリーゼも喜ぶだろう」
「ですね。これでオルデンブルクの庭を腐海にすることもないでしょう」
「言葉を選べ」
自分の席に座ってソフィア製の万年筆を手に取る。今日も今日とて山のような手紙を切り崩し、テンプレ返信を印字していく。
満員電車も期限切れの納豆もなく、地獄の月曜日は訪れない平穏な世界。
「殿下、今日はクララが新作ケーキを焼いてるらしいんですけど」
「……仕方ないな。付き合ってやろう」
「やった」
「その返信が終わったら、だ」
「やる気出てきたー」
割のいい仕事があり、面倒くさいなりに面白い人たちがいて、おいしいごはんとあったかい布団が待っている。
――愛の歌は遠い隔たりで消えることがない。そして愛に満ちた心は届く。愛に満ちた心を捧げた人へ。
ここに二組の夫婦がある。
魔力が一欠けらもなくて事務仕事だけは得意な空気清浄機の聖女と、相変わらず元婚約者を一途に愛し続ける次期国王。
夫も含めた世界のすべてを平等に愛する博愛主義の次期女伯爵と、現実主義の拝金主義でそんな妻の広すぎる愛を束縛しない包容の騎士。
私たちは互いに恋とは遥かな距離を置いた変な夫婦だった。
でもおかげさまで、エルハーフェン王国は今日も平和な豊かさに満ちているのである。
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