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「あまり覚えておきたくない知識だが」

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「う」
 背後から呻き声が聞こえた。
 スクは息をついて起き上がろうとしたが、エメラードの腕に変わらず押さえ込まれている。王が出て行った扉も閉じられ、室内には他に誰もいない。
「おい、こら、もういいだろ、離せ」
「……」
「おーい」
 まだ衝撃から立ち直れないのだろうか。顔が見たい。かなり見たい。やわらかな心が傷ついた表情は、スクの育った世界では見られない貴重なものだ。
「……どうすればいい」
「は? なにがさ」
「とても……赤く、なっている」
「ああ? ああ、そりゃ、叩いたらそうなるよ」
 そんな何の不思議もないことより、顔が見たい。顔が。
「……すまない」
「じゃなくて、だから手、離して」
「すぐに冷やすものを」
「あ」
 思い立ったら素早かった。スクが足にまとわりつく布地にもたもたしているうちに、エメラードは出て行ってしまった。
「え、ええ……」
 そのくせ格子の扉にはしっかりと鍵がかけられた。急に可愛げがなくなってしまった。
「うーん」
 いや、鍵をかけ忘れられても困るは困るのだが、冷静さを見せられると少しつまらない。スクはひりひりする尻を撫でつつ起き上がり、クッションを抱えた。
 尻は出したままだ。
 どうせ服は服でなくなっているし、見せびらかしておこう。



 エメラードはすぐに戻ってきて、さあどうだと見せつけた尻に表情を曇らせた。だがやるべきことがあるせいか、それなりに元気そうだ。
 慣れた仕草で格子の内側に入ってくると、スクの尻にぺたりと布を押し当てる。
「ひゃっ!?」
 これが今日一番の刺激だった。腫れた場所を冷やすのは悪くないが突然すぎた。飛び上がるように驚いたせいで、おかしな姿勢をしていた体が痛む。
「うあ」
 尻がヒリヒリするのも余計に強く感じられた。
「ひど……」
「す、すまない。大丈夫だろうか」
「大丈夫じゃないけどさあ……もうちょっと優しく……」
 こっちは一応エメラードに優しくしているというのに、理不尽である。涙目で伝えると動きを止めた。
「……何?」
「いや……反省している」
「それはいいから」
「ああ、うん、そうだな。……温めたほうが?」
「……冷やして。このまま」
「そうか」
「しばらくしたら落ち着くよ」
 なんなら冷やさなくても、いずれ落ち着くだろうとわかっていた。さすがに尻を叩かれた経験はそれほどないが、頬ならいくらでもある。これは軽症も軽症だ。
「それよりさ、お尻叩くならこう、手のひらを平ったくして」
「平ったく?」
「そうそう、それでこう、べちーんと」
「むっ」
 スクはエメラードの手のひらを叩いてやった。派手な音が立つ。
「したら、派手な音が出るし、あんま痛くない」
「痛く……ないな……」
「次から覚えときなよ」
「うむ。……あまり覚えておきたくない知識だが……」
 気持ちはわかる。
「今必要な知識だろ」
「……そうだな。大事なことだ。練習しておく」
「練習……」
 スクはぺちんぺちんとエメラードが自分を叩くさまを想像した。
「ふ」
 このご立派で育ちのいい男だから、それはもう真面目な顔でやっているのだろう。もちろんひとりだ。他に誰もいない部屋で、ひとり。
「ふっ、ふふ、ははっ! 笑わせ……っ、の、やめて」
「む。なんだ、何かおかしなことを言ったか」
「いや、だってさぁ……うん? うん、まあ、そんなに面白くないけど、あはは」
 考えてみればスクもスクなりに真面目に監獄生活をしていた。話をするのはこの騎士か、あるいは色狂いの王様くらいだ。
 それはたまには大笑いもしたくなる。
「あー、そっかそっか……」
 自分なりに殺伐としていたらしいと気づいて、スクはクッションに抱きついた。今日もやわらかい宝物である。
「くふふ」
 尻は丸出しだ。
 と、エメラードが額に手を触れてきた。
「ん?」
「……熱はないようだな」
「ふはっ」
 それはない。尻はほかほかしているが、体温はいつもと同じだ。
「まあ、いつでもおかしな奴だが」
「……それって俺のこと?」
 他に誰がいる、という目を向けられた気がする。心外だ。
「あんたよりおかしな奴なんていないだろ」
「はあ」
 エメラードは呆れたような顔をしたが、スクの尻を見て表情を引き締めた。周囲に散らばった布を拾い上げる。
「……新しい着るものを、もらってくる」
「あ、それは助かる」
 いくらスクでも、裸で過ごすにはこの牢は寒い。クッションひとつで凌ぎ切れるとは思えなかった。
「いや、衣食を与えるのは当然のことだ」
「人道的に?」
「……そうだ」
 エメラードはまたスクの尻を見て、暗い顔をした。気にしなくてもいいのに。と、思うと同時に、気にされて悪い気もしなかった。
(でも尻を出しとくのはちょっとな。さすがに)
 服は着たい。
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