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第2章
大好きだった
しおりを挟む「晴日ちゃん、お水ここ置いとくね」
「すみません」
ソファの座り心地は低反発で、いつも決まってカウンターで飲んでいる私は今日この席に初めて座る。
レザーの感触を確かめながら零士さんの声にだけ反応する。私を安心させるように見せねくれた笑顔は少しだけ気持ちを落ち着いかせてくれた。
ふたりっきりになり、改めて矢島さんと向かい合う。水を飲んで深呼吸をして彼の目をじっと見つめた。
「さっきは大きい声出してごめん。でもちゃんと話したかったんだ」
彼の言葉を聞き、身構えるように背筋が伸びる。こくりと頷き俯くと長い前髪がさらさらと垂れてきた。
「本気で心配してた。結婚するって家を出るなんて騙されてるんじゃないかと思った」
「違うよ」
「だって俺たちはあの日までちゃんと付き合ってた。騙されてないなら誰と結婚するんだよ」
切ない言葉たちが降ってきて、乗り越えようとしていた悲しみを思い出させる。だけどそんな悲しさの奥からはだんだんと笑いがこみ上げてきた。
ちゃんと付き合っていたとは何だろうか。
裏切っておいてどの口が言っているのか。
冷静になったら、自分のことを棚に上げて三年間の愛があったなんて思えない言い草でほとほと呆れ返る。
そんな言葉は何ひとつ響かなかった。
「そういえば、ちゃんと聞けてなかった。桜と結婚するっていつから知ってたのか」
ずっと気になっていた答えを聞きたくて真実が知りたくて、私は口角をピクリとも動かさず真顔を貫く。
「結婚式の三ヶ月前、院長から呼び出された」
そこで矢島さんが重い口を開き、そのままうな垂れるように自分の足に体重を預ける。しばらく考えたように俯いたままでいたら観念したように体を起こした。
そのとき真っ直ぐ目が合い私の覚悟が決まった。それは全ての真実を聞く覚悟である。
「家に呼ばれたからてっきり晴日との結婚話だと思ってた。でも違って病院の将来の話をされた」
「将来?」
「赤字経営が続いてて廃業寸前のところにいる。そう言われた」
父の側で経営を学びながら経理の仕事もこなして、病院の現状は理解しているつもりだ。
しかしどうしてわざわざ呼び出してまで彼にそんなことを言ったのか。まるで分からず、すぐには理解出来なかった。
「なんで晴日が神谷製薬とお見合いをすることになったのか、ちゃんと聞いてる?」
突然の問いに頭をフル回転させる。
神谷製薬とのお見合いはうちの病院にとって必要だ。ただそれしか知らず深い理由までは聞けていない。
眉間にしわを寄せながら両親の言葉を思い出すが、分からずに静かに首を横に振った。
「向こうが結婚を条件に全面的な出資するって言ってきたんだよ」
アーモンドのような瞳が私を真っ直ぐにとらえる。ゆっくりと言葉を咀嚼し考え込むが、正直わけが分からなかった。
「神谷製薬の御曹司がどうして私なんかと」
考えるより言葉が先に出る。
私より条件の良い相手は山ほどいるだろうし、わざわざ潰れかけた病院の娘をもらいたいと思うはずもない。あちらにメリットがあるようには思えなかった。
「社長が病気でもう長くないらしい。今も体に鞭打って働いてるんだ」
水を飲もうと手を伸ばしたら危うくグラスを落としそうになる。
神谷社長とは何度か挨拶をしたことがあって、昔から私たち家族によくしてくれていた優しい人だ。思い返せば私が行ったアメリカの大学を紹介してくれたのも社長だった。
それが病気だなんて初耳で、驚きを隠せない。
「すぐにでも世代交代が必要だって言われてる。でもちゃんとパートナーを見つけて安心させてくれるまではって粘ってるらしいんだ。自分が生きているうちになんとか縁談をまとめたいって、それで晴日と」
罪悪感にさいなまれた。
「友人の娘って言うのもあって安心して任せられたんじゃないかな」
事情を知らなかったとはいえ逃げるようにお見合いを破談にさせたのは間違いだった。矢島さんとの結婚や私の人生を壊した父への怒りから思い通りにさせてなるものかと頭に血が上っていた。
感情に任せるばかりで、いろんなものが冷静に見られなくなっていたのだ。
「何も知らなかった」
「晴日は悪くない。実際病院のために利用されたと思うのも無理ないよ」
励まそうとする矢島さんの言葉を聞いても呆然としてしまう。一度落ち着こうとコップに手を伸ばしたが自然と震えてきた。
そのとき、そっと彼の指が触れゴツゴツとした男らしい手に包まれる。好きだったその感触を思い出し、自然と涙腺が緩んでくる。
しかし私は一瞬にして現実に引き戻された。彼の薬指に光る銀色のものを見て桜の顔がチラつく。
慌てて彼の手を払いのけていた。
「ごめん」
矢島さんはすかさず謝る。それが余計に苦しい。チクチク刺さった棘が彼の一言によってさらに深く押し込まれたようだ。
「矢島さんは最初から全部知ってたの?」
テーブルの下で握る手をさすりながら俯く。
ごめんの言葉が頭の中で反響する中、矢島さんは何かを思い出すように微笑んだ。
「昔、母さんが入院してたって話はしたろ?」
「うん」
「院長のこと本当に尊敬してるんだ。医者を目指すきっかけも瀬川院長だったから」
ふとある記憶を思い出す。
出会った頃に聞いた子供の頃の話だ。ステージ四の乳癌を患っていたお母さんがうちの病院に入院していて、担当医は私の父だった。
病気が見つかったとき、もうすでに内臓や骨への転移があり余命宣告を受ける。亡くなるまでは病院で抗がん剤治療を続けていた。
当時五歳だった矢島少年は、若い頃の父を見て医者を目指そうと決めた。うちの病院を選んだのもそのためである。
私が矢島さんに恋に落ちたのは偶然か必然か。それとも瀬川家に入り込みたいという彼の企みだったのかは、今となっては分からない。
だけど付き合い初めてすぐ、そういう過去を打ち明けてくれた彼の目に嘘はなかったと思う。
「院長に頭を下げられたら断れなかった。晴日を愛してたけど院長のことも裏切れない」
辛そうな感情を押し殺すように笑って、誤魔化す彼が声を出す。無造作に伸びた黒髪をかきあげ、大きく息をはく姿に心が痛くなった。
「母さんとの思い出は全部あそこだから。あの病院はなくしたくなかった」
絵本を読んでもらったり今日会ったことを話したり、真っ白いベッドの上には小さい頃のお母さんとの思い出が全て詰まっている。
話を聞いていた私はその気持ちが痛いほど分かった。
「本当は随分前から別れろって言われてた」
「矢島さん」
「でもできなかった。三ヶ月もあって何度も言うタイミングはあったのに、晴日の手を離せなかった」
その瞬間、私の頬に一筋の涙が伝う。
「馬鹿だよな。何も知らない方が傷つく。結婚式当日に知らされた方が残酷だって分かってたはずなのに、嘘でももう愛してないなんて言えなかった。嘘でも別れたいなんて言えなかった。言いたくなかったんだ」
彼の想いを聞けば聞くほど涙が溢れ出す。
それは私がずっと聞きたかった彼の本心だ。
私はどこで道を踏み外したんだろう。どこで間違えてしまったんだろう。ひとりでいたらそんなことばかり考えてしまう。
下唇をギュッと噛みしめ、必死に涙をこらえようとする。でも溢れ出す涙は止められない。何度も何度も涙を拭った。
「それだけ聞ければもう充分だよ」
私の目には彼の顔が歪んで見える。涙で頬を濡らしたまま笑顔を見せた。
「矢島さんは桜を支えてあげて? 弱いから。とっても脆くてすぐ壊れちゃう繊細な子だから」
どちらが姉だか分からないようなセリフだ。
でも瀬川の家を出て唯一の心残りは、桜を気にかけてあげられなくなったことだから。私が側にいられない分、矢島さんにはどうにか支えてあげてほしい。
きっと今も私のせいで自分を責めているに違いないから。
「もう私たちの関係が戻ることはない。どうにも変えられない。だからこれが運命だって受け入れるしかないんだよ」
やっと涙が止まり、私は鼻をすすりながら自分に言い聞かせるように言う。
矢島さんは一瞬何かを言いかけたけれど、言葉を飲み込み渋々頷いた。
「今までありがとう。大好きだった」
もう振り返らない。どこかで線を引かなければずっとこのままこの恋の中に囚われて動けなくなってしまいそうだ。だから私は乗り越える。千秋さんのおかげで今なら吹っ切れる気がした。
私は立ち上がり大好きだった彼に別れを告げる。目も合わせずに足早に歩き出した。
「幸せになれる?」
通り過ぎざま、腕を掴まれ引き止められる。顔を歪めながら彼の顔を見る勇気はなかった。
「そいつといて幸せになれる?」
「なりたい......」
もう一度確かめるように言われ、私は消えそうな声で呟く。もはや願望に近かった。
諦めたように彼の手がスルスルと抜け落ちていく。いろんな感情を押し殺して、零士さんのいるバーカウンターへ急いだ。
「大丈夫?」
鞄を引き寄せ財布を探すがこういうときに限ってすぐに出てこない。ちらりと心配そうに見る零士さんと目があったが答える余裕なんてない。
「あれって前に見せてくれた写真の」
零士さんの言葉を遮るように慌てて出した千円札がカウンターに音を立てる。勢い余って叩きつけてしまった。
「お騒がせしてすみませんでした」
「いいよ、今日は奢りだって」
「千秋さんには絶対言わないでください」
口止め料のように置いていく。
不本意だったが仕方ない。このことを千秋さんには知られたくなかった。
鞄を抱え、黙り込む零士さんに頭を下げた。
「晴日!」
慌てて帰ろうとしたら、その足を止めようと叫ぶ声が聞こえる。
「桜さん、晴日がいなくなってから寝込んでるんだ。連絡してあげてほしい」
矢島さんの言葉に立ち止まった私は思わず目を瞑り、桜の姿を思い浮かべる。
今すぐにでも手を握ってあげたい。大丈夫だと声をかけてあげたい。それができないのがとても不甲斐ない。
私は何も言わず店を出た。
そこからどうやって帰ったかはあまり覚えていない。気づいたらリビングでぼんやりと一点を見つめながら座っていた。
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