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序章
雪下の名
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雪は、無音で降っていた。
真っ白な空から大粒の雪がはらはらと降り、大地を真っ白に染めている。
大地にそびえ立つ雪嶺山の頂は白に閉ざされ、天地の境が溶けあっていた。
沈景真は石段の下に膝をつき、額を地に伏せていた。
額から流れていた血はすでに止まり、寒さだけが残っている。だが、彼は身じろぎ一つしなかった。
―――まだ、終わっていない。
「名は」
頭上から落ちてきた声は、澄んでいて、冷たかった。
沈景真は唇を噛み、答える。
『沈……景真、です』
一拍の沈黙。
雪の向こうに立つ人物は、白衣をまとい剣を背負っていた。洛玄。修真界において、その名を知らぬ者はいない。
正道の象徴。
清廉無比。
情を断ち、道を極めた仙師。
「なぜ、ここにいる」
試すような問いだった。
沈景真は、ゆっくりと顔を上げたとき、そこにあったのは、冬の深夜の海をそのまま切り取ったような、深く冷たい藍色の瞳だった。定規で引いたかのような直線的な眉と、彫りの深い眼窩に落ちる濃い影が、洛玄の顔立ちを彫刻のように端正に、そしてひどく非人間的なものに見せている。
その瞳は光を捉えながらも、一切の感情を反射しない。まるで、深い湖底に沈んで二度と浮かび上がってこない氷塊のように、ただ静かに、冷たくこちらを射抜いていた。
短くない時間、雪の上に座していた沈景真の睫毛に雪が積もり、視界は滲む。それでも目だけはけっして逸らさない。
『弟子に……していただきたく』
周囲の空気がわずかに張り詰めた。
清嵐宗の本拠地がある雪嶺山は誰でも登れる場所ではない。ましてや、洛玄が弟子を取ることなど、何年もなかった。
「理由は」
『……ここなら。正しくなれると思いました』
洛玄は沈景真を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。その瞳は、氷湖のように静かで底が見えない。
「修行は厳しい。情を持てば、道を誤る」
『それでも構いません』
即答だった。
雪が、風に舞った。
洛玄の指が、わずかに動く。
「……立て」
短い命令。
沈景真は、何度か足を滑らせながらも立ち上がった。
その瞬間、洛玄は彼の脈に触れた。
――重い。
霊根は歪み、体内には不穏な気配が渦巻いている。
このまま放置すれば、いずれ魔に喰われる器だ。
「……厄介なものを抱えているな」
『はい』
沈景真は、なぜか微笑った。
『だから、ここに来ました』
洛玄は、手を離した。
「今日から、お前は私の弟子だ」
その言葉が発せられた瞬間、沈景真の胸の奥で、何かが静かに音を立てた。
救われた、と思った。
同時に――縛られた、とも。
洛玄は背を向け、歩き出す。
「沈景真」
呼ばれ、息を呑む。
「道を誤れば、私が斬る」
振り返らぬままの声。
沈景真は、深く頭を下げた。
『――それでも、清嵐宗へ入門します』
雪は降り続ける。
この日から、師と弟子の名の下に決して清くは終わらぬ因縁が、静かに始まった。
真っ白な空から大粒の雪がはらはらと降り、大地を真っ白に染めている。
大地にそびえ立つ雪嶺山の頂は白に閉ざされ、天地の境が溶けあっていた。
沈景真は石段の下に膝をつき、額を地に伏せていた。
額から流れていた血はすでに止まり、寒さだけが残っている。だが、彼は身じろぎ一つしなかった。
―――まだ、終わっていない。
「名は」
頭上から落ちてきた声は、澄んでいて、冷たかった。
沈景真は唇を噛み、答える。
『沈……景真、です』
一拍の沈黙。
雪の向こうに立つ人物は、白衣をまとい剣を背負っていた。洛玄。修真界において、その名を知らぬ者はいない。
正道の象徴。
清廉無比。
情を断ち、道を極めた仙師。
「なぜ、ここにいる」
試すような問いだった。
沈景真は、ゆっくりと顔を上げたとき、そこにあったのは、冬の深夜の海をそのまま切り取ったような、深く冷たい藍色の瞳だった。定規で引いたかのような直線的な眉と、彫りの深い眼窩に落ちる濃い影が、洛玄の顔立ちを彫刻のように端正に、そしてひどく非人間的なものに見せている。
その瞳は光を捉えながらも、一切の感情を反射しない。まるで、深い湖底に沈んで二度と浮かび上がってこない氷塊のように、ただ静かに、冷たくこちらを射抜いていた。
短くない時間、雪の上に座していた沈景真の睫毛に雪が積もり、視界は滲む。それでも目だけはけっして逸らさない。
『弟子に……していただきたく』
周囲の空気がわずかに張り詰めた。
清嵐宗の本拠地がある雪嶺山は誰でも登れる場所ではない。ましてや、洛玄が弟子を取ることなど、何年もなかった。
「理由は」
『……ここなら。正しくなれると思いました』
洛玄は沈景真を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。その瞳は、氷湖のように静かで底が見えない。
「修行は厳しい。情を持てば、道を誤る」
『それでも構いません』
即答だった。
雪が、風に舞った。
洛玄の指が、わずかに動く。
「……立て」
短い命令。
沈景真は、何度か足を滑らせながらも立ち上がった。
その瞬間、洛玄は彼の脈に触れた。
――重い。
霊根は歪み、体内には不穏な気配が渦巻いている。
このまま放置すれば、いずれ魔に喰われる器だ。
「……厄介なものを抱えているな」
『はい』
沈景真は、なぜか微笑った。
『だから、ここに来ました』
洛玄は、手を離した。
「今日から、お前は私の弟子だ」
その言葉が発せられた瞬間、沈景真の胸の奥で、何かが静かに音を立てた。
救われた、と思った。
同時に――縛られた、とも。
洛玄は背を向け、歩き出す。
「沈景真」
呼ばれ、息を呑む。
「道を誤れば、私が斬る」
振り返らぬままの声。
沈景真は、深く頭を下げた。
『――それでも、清嵐宗へ入門します』
雪は降り続ける。
この日から、師と弟子の名の下に決して清くは終わらぬ因縁が、静かに始まった。
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