雪下に名を呼ぶ

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序章

洛玄

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雪は、止む気配を見せなかった。

洛玄ルォ・シュアンが山門へ向かったのは、ただの巡察だった。

登門を願う者は多い。
だが、門前に座して待つほどの者は、そう多くない。

石段の先、霧の向こうに、一人の少年がいた。

門の前に正座し、背を伸ばして動かない。

(……この雪の中、登ってきたのか)

この山は、未修行者が軽い気持ちで登れる場所ではない。

息は荒れていない。だが、衣はところどころ擦れている。

そして――
額。

乾きかけた血が、薄くこびりついていた。

(転んだか)

それでも、
手当をした形跡はない。

洛玄ルォ・シュアンは、その一点に強い違和感を覚える。

美しい顔立ちだった。

線は細く、どこか中性的で整っている。

だが血があっても、乱れていても本人が気にしている様子がない。


洛玄ルォ・シュアンが近づくと、少年は顔を上げた。

視線が合う。

澄んだ瞳。
だが、そこにあるのは期待ではなく覚悟だった。

『沈……景真、です』

声は静かで、
震えも、媚びもない。

『弟子に……していただきたく』

洛玄ルォ・シュアンは、しばし沈黙する。


「額の傷は」

そう問うと、沈景真《シェン・ジンヂェン》は一瞬考え、答えた。

『登る途中で、転びました』

(……すでに感情が削られすぎている)

洛玄ルォ・シュアンの胸に、先ほどとは別の重さが生まれる。


沈景真シェン・ジンヂェンは雪の上に座し、再び頭を下げた。
その背は細く、折れそうでそれでいて奇妙なほど頑なだった。


「理由は」

問いは、選別のためのものだった。

沈景真は、少しだけ視線を落とす。

『……ここなら。正しくなれると思いました』

その言葉に、洛玄ルォ・シュアンは目を細める。

正しさを、外に委ねる者。

それは、宗門が最も好む資質であり、同時に――最も壊しやすい。

洛玄ルォ・シュアンは、自分がすでに一歩踏み込んでいることを自覚した。

「立て」

短く言う。

沈景真《シェン・ジンヂェン》は、ふらつきながらもすぐに立ち上がる。

「今日から、お前は私の弟子だ」

そう告げると、少年の瞳がほんの一瞬だけ揺れた。

喜びではない。

安堵だ。

(……喜びを、後回しにする)

洛玄ルォ・シュアンは、自分の外套を外し沈景真の肩に掛けた。

「傷の手当てをする」

沈景真《シェン・ジンヂェン》は、戸惑ったように瞬きをする。

『……ありがとうございます』

その声は、どこか遠慮がちだった。

洛玄ルォ・シュアンは思う。

(この子は――守られなければ、自分から壊れる)


これは同情ではない。
まして、慈悲でもない。

「……厄介だな。」

自分の声が、思ったより低かったことに、内心で気づく。

沈景真シェン・ジンヂェンの霊脈は歪んでいる。
このままでは、遅かれ早かれ魔に呑まれる。

だが、それ以上に厄介なのは――
情を捨てきれぬことを、最初から知っている、そのあり方だ。

それは、いつか必ず、誰かを選ばせる。

その「誰か」が、自分でない保証は、どこにもない。


洛玄ルォ・シュアンは、雪の中を歩き出した。

弟子にしたのは、理に適っている。
放置すれば、死ぬ。
導けば、道を保てる可能性がある。

そう、合理的な判断だ。

――そうでなければ、ならない。

洛玄ルォ・シュアンは振り返らず、ただ一言だけ告げた。

「道を誤れば、私が斬る」

それは戒めであり、誓いであり、
そして、洛玄ルォ・シュアン自身に向けた警告でもあった。

雪は、静かに積もり続ける。

この弟子が、情を捨てられなかったとき――
自分は、本当に斬れるのか。

その問いには、まだ名を与えない。
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