通り過ぎる人

赤城ロカ

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通り過ぎる人

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 最近よく寝言を言うらしい。
 どんなことを言っていたのかはわからないし彼女も教えてはくれず、そのくせ朝起きるときまって不機嫌で、僕と目を合わせようとすらしない。
 今日もいつものように二人でテーブルに向かい合って、黙々と朝食を食べている。彼女はマーガリンと砂糖のついたトーストをかじっていて、僕はスクランブルエッグをフォークですくっているが少々焼きが足りず、なかなかすくえないので結局諦めてフォークを置くと、ため息をひとつついた。
「僕はどんな寝言を言っていたのかな」
 紅茶を飲んでいた彼女はティーカップを置いて、
「大したことじゃないよ」
 と言うとベーコンをかじった。大したことではないのにも拘らずこんな状況になっているのは僕には解せないが、とりあえずこの朝食さえ済んでしまえばお互いに仕事に行くことになるので、帰ってきたころにはほとぼりも冷めているだろうという気持ちが芽生えていた。
 お互い朝食が済んで、僕は煙草を吸っていて彼女は紅茶を飲んでいるときに、彼女がティーカップを置き、僕の目を真っ直ぐに見てあくまで夢のことだもんねとひとり言のように呟いた。僕は紫煙をゆっくりと吐き出した。
「どんな夢を見ていたのかな」
 彼女は悪戯をしている子どもでも見るかのような目をして
「それはあなたにしかわからないよ」
 とそれだけ言うと、洗面所に行ってしまった。僕は呼び止めることはせず、二人分の食器を片付けると仕事へ行くのに身支度を整えた。
 今日も車で彼女を駅まで送ったのだが、そのときに会話はなかった。駅についてロータリーの中に停車すると、じゃあねとだけ言って彼女はさっさと構内に入ってしまった。
 僕は一人きりになるとちょっとした開放感を覚えて、それと同時にその開け放たれた心の中に、湿り気を帯びたやるせない風が吹き込んでくるのを感じた。ため息をひとつついてハンドルをしっかりと握り直すと僕は車を走らせた。
 僕としては夢を見ているという覚えはなく、むしろ最近はぐっすりと眠れていて、朝起きるのが辛いということがなくなっているくらいで、目覚まし時計のアラームで起きると布団の中でぐずぐずすることなく、さっさと起きて顔を洗ってひげを剃ってから朝食を用意している。そうして彼女と二人で食べるという時間を大切にしたいと思っているのだが、目覚めの爽快な気持ちは起きてきた彼女の不機嫌な態度で一気に失せてしまう。もともと彼女は低血圧だし朝に弱いと言っているし、あるところまでは仕方がないと理解しているつもりだから、多少なら気にしないで明るく彼女におはようと言い、なるべく普段通りに振舞うようにしていた。しかしいつの日からか、彼女の寝起きがさらに悪くなっていった。それがいつからなのか正確な日にちまでは覚えていないが、気がついたときには朝から重い沈黙が部屋を満たすようになっていた。
 普段は自分の体のことを彼女は自覚していて、彼女なりに気を遣ってくれていたので特になにも思うところはなく、僕は周期的なものでいつもよりも調子が悪いのかなくらいに思っていたが、それにしてはいつまで経っても上向くことがないので、それとなく体調について訊いてみたこともあった。しかしそれも素っ気なくあしらわれるだけだったので、それ以来僕は努めて気にしないようにすることにしていた。
 そうはいっても一緒に暮らしていればどうしても気になるし、身に覚えはないがおそらく原因は僕にあるのだからとベッドに入ったときに、背を向けて寝入ろうとしている彼女に訊いたことがある。
「なにか怒らせるようなことをしたかな」
「そうじゃない」
「それならここのところ様子がおかしいのはなんでなの」
 彼女はしばらく逡巡しているように見えてなかなか言葉が出てこず、そのうちに泣き始めてしまって慌てて僕は抱き寄せたが、彼女はそれを受け入れることなく、ベッドの隅に丸くなってさらに泣き出してしまった。僕が頭を撫でようとすると、触らないでと言われてしまい、僕がしばらく泣くに任せて落ち着くのを待っていると、泣きながら彼女は、
「最近あなたはどんな夢を見ているの」
 と呟くように尋ねてきた。思い出そうとしてみても僕には夢を見た記憶がなく、それをそのまま伝えたら、じゃあとさらになにかを追求しようとしたみたいだったが、そのあとの言葉は涙と一緒に流れてしまって僕には届かなかった。
「なにか変な寝言でも言ってたの」
 彼女はすすり泣くばかりでなにも言わない。
「どんな寝言なの」
 次第に睡眠導入剤と精神安定剤が効き始めて思考が鈍くなっていって、羽毛のように柔らかくて温かいものに包まれているような感覚になって、泣き続けている彼女をよそに僕は眠りについた。
 仕事をしていても彼女のことが気がかりでなかなか集中できず、いくつかミスをしたせいで少し帰るのが遅くなってしまった。
 アパートへ車を走らせているときも心配は募るばかりで、それが心にこびりついていてそこから侵食していって、いつか僕らの関係が腐ってまるでダメになってしまうのではないかという思いがした。
 帰ってくると彼女は夕食を作っていて、僕に気がつくとおかえりなさいとそっと微笑をたたえながら言った。僕がなにか手伝おうかと言うと、彼女は穏やかな声色で大丈夫だよと言うので、僕は彼女に笑いかけるとバスタブにお湯を張った。
 風呂から上がって部屋着になると夕食ができあがっていた。食べながら彼女は、電車にいた変わった人のことや仕事のことや上司のことなど、いろいろなことを喋っていて、僕はそれを相槌をうちながら聞いていた。僕は彼女の話を聞くのが好きで彼女の喋っている姿を見るのも好きだったので、こうして嬉しそうに話してくれることが僕にとってとても幸せなことだった。僕はこの時間を大切にしたかったし実際大切にしていたので、敢えて朝のことを話題に出すことはせずに彼女が喋るがままに任せていた。
 夕食を食べ終えて僕らは酒を飲んだ。僕はビールを飲み彼女はワインを飲んだ。こうして彼女と酒を飲むのは久しぶりだった。一緒に暮らすようになってから外で飲むことはなくなったが、僕も彼女もお酒は好きなので家で飲むことがある。彼女はワインをゆっくり三杯飲んで終わりだった。彼女がお風呂へ行くと、僕はグラスやら食器やらを洗って、冷蔵庫から缶ビールを出すと一人でまた飲んだ。
 そう広くない部屋の向こうからシャワーの音が聞こえてきて、それを聞いているうちに僕は一体こんなところでなにをしているのだろうと思い始めた。普段の慣れ親しんだ光景じゃないかと自分に言い聞かせたが、どこか新鮮で不自然な状況のような気がしてならず、酔っているせいかとも思ったが、たかが缶ビール三本で酔うはずもなく、逆にどんどん意識が鮮明になっていって、立ち上がって浴室の前まで行くと彼女が鼻歌まじりに身体を洗っている様子が磨りガラス越しに見えた。それを見ていると、これは僕にとってありえない状況だという思いが確定的になって、その場にうずくまって頭を抱え泣き出しそうなのをこらえて鼻歌を聞いていたが、無邪気なその声がかえって僕の神経に障り、たまらなくなって這うようにしてリビングへ逃げると、残ったビールでいつも飲んでいる睡眠導入剤と精神安定剤を流し込んで、ベッドに腰掛けて音楽を流した。しかしそれに集中しようとしてみても、どうしても浴室からの物音が気になってしまって、それと同時に恐怖感が全身に駆け巡っていき、やがて僕の心の中が波立ちささくれてきて、抑えることもままならくなってしまった。髪を掻きむしってその恐怖感を意識の外へと追い出そうとしたが、そうすればするほど強く激しいものになっていって、部屋に虚しく漂う音楽すらも、自分を追い詰める敵だと思えてきたので電源を切ると、今度は静けさが不穏を強調しているようで、心が波立っているのが手に取れるくらいに感じられるようになった。目に映るすべてのものが忌々しく思えて、オイルライターを手に取って公共料金の領収書を燃やそうと火をつけてそれに近づけたら、火を見ているうちに僕の心が静寂を取り戻しつつあることに気がついたので、ライターの火を消してテーブルに戻した。ため息をついて周りを見渡していると、もともと僕だけの場所だったのが気づかないうちに化粧道具やら服やらバッグに歯ブラシなど、僕以外の人間が使うものが置かれていって、いつの間にかここは僕と彼女の共通の場所となって、それはあまりに自然な段取りだったので違和感なく受け入れられたのに、いまになって急にそれが不審なのもに思えてならず、彼女がシャワーの蛇口をひねる音すらも僕の身体の歯車を狂わせる異物のように思えて、かぶりを振って気にしないように努めようとすると、そうするだけ歯車が音を立てて二個か三個外れたような恐ろしさを感じてしまうのだった。やっぱり燃やしてしまおうかと、再びオイルライターを手に取ったところで彼女が風呂から上がった。
 身体にバスタオルを巻いた彼女は僕の目の前まで来ると、僕の肩と頭をそっと抱きしめた。やけに温かい体温とボディソープの香りを感じながら、僕はその胸に抱かれるがままなにも言わずに彼女の鼓動を聞いていた。
 大丈夫と彼女は言ってくれた。
「この状況がどうだろうと明日がどうだろうと、いまこのときが幸せだということには変わりないし、それはきっと今後も変わらないよ。大なり小なり問題があっても、それはわたしたちにとっては大したことではないから」
 囁くような声を聞いていると自分でもそう思えてきて、僕は頷いた。
 彼女はゆっくりと僕から身体を離して笑いかけた。僕もそれに応えるように笑ったつもりだったが、その笑顔が引きつっているのが自分でもわかった。それでも彼女は両手で僕の頬を包むと、キスをしてリビングから去った。
 寝間着姿で戻ってきた彼女にもう大丈夫と言うと、彼女はそうと言ってドライヤーで髪を乾かし始めた。僕はその後ろ姿を見つめていて鏡越しで目が合うと二人で笑った。彼女は丁寧に、肩につくくらいの長さの髪をブラシを使って乾かしていた。
「もう薬は飲んだの」
 手を止めずに彼女は言い、僕は頷いた。そこで僕の意識の中の糸のようなものが弛緩していて、心に吹きすさぶ風が凪いでいることに気がついた。僕は溶けそうな思考のなかで好きだよと言ったが、ドライヤーの音で彼女には届いていないようだった。
 僕がベッドに潜ると、髪を乾かし終えた彼女が部屋の電気を消して入ってきた。僕らはお互いに向かい合うようにして横になっていたが、暗くて表情はわからず繋いでいる手の温もりと呼吸の音だけが全てだった。やがて彼女の手が離れて、僕の耳をくすぐるように撫でている感触がして、そこからは寂寞のようななにかしらの切ない感情が読み取れた。きっと彼女は悪い予感の檻に閉ざされているのだと思えてきて、僕はそこから彼女を連れ出そうと、もう一度好きだよと呟いた。彼女の手が止まって、しばらくして僕の耳から離れると、なにかを確かめるように僕の胸に手を当てて、そのまま彼女は寄り添ってきた。僕は抱きしめて彼女の髪に顔を埋めると、さらにもう一度言葉にしようと思ったが、結局なにも言わずに確かめたい気持ちを殺して、静寂と共に感情を置き去りにして眠りについた。
 僕が目覚めたのはちょっと遅めの朝で、横に彼女はおらず目を開くと、とうに起きていてジグソーパズルをしていた。
 僕がおはようと言ってベッドから出ると、彼女はコーヒーを淹れるねとキッチンへ行った。
 外は小雨が降っていて、晴れていたらどこか散歩でもしながらお昼ご飯でも食べに行こうと思っていたのにと少し残念だった。それでも雨の日の休日もそれはそれでいいものだと思い直した。そしてそう思えたことで、僕は今日は大丈夫そうだなと安心して、しばらく雨を見つめていた。いつも気圧の低い日は体調がすぐれないことが多いので、こうして雨を見ていられるというのも僕からすれば素晴らしいことで、それだけで今日という日がいいものになるような気さえした。
「雨なんだね」
 振り返ると彼女がテーブルに二つコーヒーカップを置いて僕の隣に来た。住宅街なので取り立てて面白いことはない光景だが、雨によってそれらと僕らが遮断されたような気がして、見慣れた風景もそう思うとなんだか特別なもののように感じた。
「ちょっと寒いね」
 彼女が言うので窓を閉めてテーブルにつくと、音楽を流してコーヒーを飲んだ。お互いになにも喋らずに流れてくる音楽に耳を傾けながら飲んでいて、僕はこの天気だし、もしかしたら彼女のほうが調子が悪いのだろうかと考えた。別に沈黙が怖いわけではないし、それはそれで構わないのだが、彼女の顔を見ると少しばかり翳りを感じて、僕の心にもそれが忍び寄ってくるようであまりいい予感はしなかった。
「昨日も僕は寝言を言っていたの」
 コーヒーカップを置いてそう切り出すと、彼女はコーヒーを一口飲んでから頷いたので、僕は自分の意識の外で不穏な足音が近づいてくる気がしてため息をついてしまった。
「どんなことを言っていたの」
 彼女は俯いたきり話そうとしなかった。口ごもっている姿を見ていると、なんでいつもいつもこうなるのだろうといままでの自分の人生すらも嫌になってきた。
 流れている音楽はあまりに場違いで、やけに明るい曲調がなんだか馬鹿馬鹿しく感じられて僕は少し笑いそうになってしまった。それを飲み込むのはちょうど油を飲んだときのような気持ちの悪いもので、不快感はやがて部屋を満たし、積乱雲のように僕らの上に重くのしかかってくるのだった。
 黙ったままの彼女を見ながらコーヒーをもう一口飲んで、じっと待っていたが彼女は一向に話し出す様子を見せなかった。
「僕は最近夢を見ることはないし、仮に記憶がないだけで見ていたとしても、それがいまの僕らの関係を危ぶむようなことはないと思う。なにより僕は君のことが好きで、本当に好きだから、君にそんなに悲しい顔をさせるのもそんな気持ちにさせるのも、僕からしたら不本意なんだ。だからそうさせないようにいままでだってやってきたつもりだし、それは君に信じてもらうしかないことで、僕としても信じてもらえるようにしてきたつもりなんだけど、いまのままでは正直に言ってなにもできないんだ。いまだってベストを尽くしてはいるけど、まるで関係のないところから邪魔が入ってきている状態だから、君がその寝言とやらを教えてくれない限り申し訳ないけど僕にはなにもできないんだ」
 彼女の手を握ると彼女はわかってると呟いた。
「わかってるけど、無意識のうちに出てくることだからこそ不安になるの。あなたがいろいろと良くしてくれて、わたしたち二人の幸せを一生懸命考えてくれているのはわかってるけど、心のどこかでもうわたしに飽きたとか、いまの暮らしが退屈だとか思っているんじゃないかなって、そう感じちゃうときがあるの。もともとあなたは恋人はいらないし、結婚や同棲なんて考えられないって言ってたから、いまこうして一緒に住んでいるのも、本当はわたしのために無理をしているんじゃないかなって思って、それが寝言として出ているような気がするの」
「まったく心外だ」
 僕は言って、それからその寝言を教えてほしいと言うと、彼女はぼそりとある女性の名前を呟いた。それを聞くとため息が出てしまった。
「昔のことだよ」
 その言葉も弱々しく、彼女を安心させることすらできない自分に腹が立った。かといって抱き寄せて耳元で囁けば彼女に嘘をつくようで、懸命に君が好きだと言えば、言うだけ馬鹿馬鹿しくなってきて、目の前で泣きそうなのをこらえている僕にとって大切な人すらも僕のそばを過ぎていくような気がしてしまった。

 その女性の名前は、こうして彼女と交際を始める前に僕が想いを寄せていた人だった。その人と出会ったのは大学のサークルに入ったときで、僕より三つ年上で、サークルの勧誘ブースで初めて見たときからなにもかもを投げうってでもそばに居たい、僕以外の誰とも関わらないでほしいと強く激しく思うようになった。
 サークルに入り、新歓の飲み会のときに連絡先を交換して、そこから他愛のない話をするようになった。そしてサークルに行ったときもなるべく接点を持とうと、いつも隙を伺うようにその人のそばにいて関わりを持つようにしているうちに、二人で話をする機会が増えていきだんだんと打ち解けていった。
 その人は誰にでも分け隔てなくコミュニケーションを取る人だし、いつも笑っていて明るくてみんなから慕われていたので、最初は僕もその他大勢のうちの一人なんだなと思っていた。しかしある夜に電話がかかってきて夜明けまで話していたことがあり、そのときのその人の様子が普段とは全然違って、とても脆くてか弱くて、そんな部分を初めて見たので、僕は多少驚きはしたものの、しっかりと受け止めてあげようと心に決めた。
 その電話のあともキャンパスで二人で講義をサボって喋ったり、夜になると長電話をしたりしてその人を理解しようと懸命にその人を受け入れて肯定して信頼した。その人は僕といるときはナーバスになるときもあって、こんなこと言われても困るよねと弱々しく笑うのを見ていると、みんなの前で明るく振舞っているのが次第に痛々しく感じるようになってくるのだった。
「そんなに無理してみんなに合わせることはないんじゃないですか」
 その人は無理をしているわけではないと言った。
「みんなといるのも楽しいし、わたしにとって必要なものには違いないけど、たまにちょっと疲れちゃうだけなの。そういうときに君みたいにそばにいてくれる人がいると、ついつい甘えちゃうんだよね。君が年下なのに頼りがいがあるっていうか、しっかりしてるからかな。こんな話をしても、君は幻滅したり落胆したりしないから安心できるんだよね」
 なんだかとても照れくさかったが、それよりも惚れた女性にそんな風に思われているのだと知った嬉しさというか、達成感にも似た気持ちのほうが強く、改めてこの人を大切にしようと守ってみせようと思った。
 その人と話をしているうちに踏み込んだ話題になることもあって、ときには過去の恋愛の話をするようにもなった。僕は話せるほど恋愛をしてこなかったが、何人かの女性を好きになりそして振られていたことを話した。その女性たちはみんな僕ではないほかの男性と一緒にいて幸せそうだったり、それなりに大変な目に遭ったりしている。たまに連絡が来て彼氏の愚痴を聞くこともあって、そんなに嫌なら別れればいいのにと思うこともあったが、愚痴を吐いたあとは晴れ晴れしい表情でまたその男性のもとへと帰っていくのが常だった。
「あなたって本当にいい人なんだね」
 その人はなぜだかため息混じりに言った。
「きっとその女の子たちも安心していられるんだろうね。ちょっと疲れちゃったときにあなたのところに行って、また飛び立っていくような感じなんだよ。宿り木みたいな感じなんだろうね」
 その言葉に喜んでいいのかどうかはわからなかったが、なんとなく納得できる気がした。僕とその人は、比較的空いている学食で話していて、周りでは数組のグループがトランプや携帯ゲームをやっていた。昼休みのときの喧騒が嘘のようで、講義に行く気にならず、ただ時間が過ぎるのを待っているだけの気怠さが空気と混ざり合って、べたべたと身体に張り付くような感じがした。
 でもさとその人は、缶コーヒーのラベルを指で撫でながら言った。
「あなたに彼女ができたらすごく優しくしてくれそうだよね」
 どう答えたらいいものかわからず、適当な返事しかできないまま俯いていた。
「羨ましいな」
 僕が顔を上げると目と目が合って、僕は動くことができなかった。するとふいにその人が小さく笑いだして、僕もそこで少し表情を緩めた。
「そういえば、先輩って彼氏はいるんですか」
 できるだけ明るい調子で尋ねてみた。
「さあどうなんだろうね」
 その人は笑って席を立ち、
「次の講義は必修だから」
 と僕のもとから去っていった。僕はため息をついて、いまの意味深な微笑についてもう少し考えることにした。そうしてその人の顔を思い巡らせていると、さっき僕に向けて言った言葉のひとつひとつがジグソーパズルのピースのようで、組み合わせていくとその人の気持ちが出来上がるような、そしてそれをその人は待っているような気がした。
 その人と次に会ったのはサークルの飲み会のときだった。二次会に行ったときにはすでにみんな泥酔していて、一回誰かがトイレに立つたびにグラスがひとつ割れるような有様だった。僕も酒を一気飲みさせられたり、勝手にウイスキーを頼まれたりと無茶苦茶な飲み方をしていた。視界がぼやけて目の焦点は合わず、挙句の果てには平衡感覚も狂っていて、一次会から二次会の店に行く道中で一回吐いて、二次会のカラオケのトイレで三回吐いていた。
 ほとんどがなり立てるような歌声が狭い空間を跋扈していて、中には服を脱ぎ出す奴までいたが、僕は固いソファに身を沈めて吐き気と眠気に耐えていた。それでも酒の弱い奴だと思われないように、焼酎だかなんだかわからないがジュースみたいな味がする得体の知れないものを飲み続けていた。グラスの酒を飲み干して席を立つと、脳みそがひとりでにグルグル回っている感じがした。思わずその場に崩れ落ちそうになり、足で踏ん張ろうとしたら少しよろけてテーブルにぶつかった。グラスが落ちて割れる音がしたが、誰も気づいていない様子だったので僕も構わず、ドアを寄りかかるようにして開けて廊下へと出た。阿鼻叫喚の熱気に支配された部屋と、束の間の静けさが腰を落ち着けている廊下との温度差を感じて、少し正気になれたような気がした。壁を伝って、喉元までせり上がっている胃液をどうにか飲み下しながらトイレまで向かうと、女子トイレのそばで女の人がうずくまって泣いていた。
 短いスカートで膝を曲げているものだから、派手な柄のパンツが見えていて、そんなこともお構いなしにうずくまっているのは、それだけで不穏な空気を感じさせられた。声をかけると僕が好きになったサークルの先輩で、僕の姿を見るなり抱きついてきて僕の胸の中で泣きじゃくった。
 僕らは手をつないで非常階段に出て、階段に並んで座ると僕の肩に頭を乗せてきたので、それを受け止めるように腕を回した。ビルとビルの間の生臭い夜風が吹き抜けて、おまけに二人とも強烈な酒の臭いを身体から放っていて、それはたまらないほど実直な現実感を僕に知らしめた。その人はなかなか泣き止まなかった。どれくらいの時間が経ったのかわからないまま、ただひたすらに僕は待っていた。
 やがてその人は僕の肩から頭を離して、充血した目でじっと僕を見つめた。
「なんでそんなに優しいの」
 僕を責めるように言ってきた。僕は四回吐いたせいで頭がしびれているような感覚がして、脳みそが泥の塊になっているような状態だった。
「好きだからです」
 その人は僕の顔を手で押さえて唇に舌を入れてきた。僕の舌と絡まり合ったり歯茎を伝ったり酒臭い吐息を受け止めていたりしていくうちに頭のしびれが増していって、ほとんど眠っているような感覚でされるがままにどろどろの唾液と唾液が溶け合って混ざり合って、その人の野性的な舌で犯されていった。どれくらい続いていたのかはわからないが、とにかく長い時間だったように思えて、気がつくとお互いに上気していて、どこからが自分の意思でその人の意思なのか区別がつかないほどぐちゃぐちゃになっていた。快感も嫌悪感もなく、ひたすらにお互いの引力によってひとつになったような気がしていた。僕らはなにも喋らないまま店を出て、裏通りをふらふらと抱き合いながら歩いていた。料金の書いてある看板の文字すらろくに読み取れない状態だったが、どこに入っても似たようなものだろうと思ったし、それは僕らにとって大した問題でもなかったので、なにも考えずに建ち並ぶ中のひとつに入っていった。
 部屋に入ると僕らは絡まり合うようにベッドへ倒れ込んだ。お互いの身体を暴力的に貪って、滲んだ汗すら一滴たりとも逃さないようにしゃぶりついた。感じたままにあげる声も、髪にへばりついた煙草の臭いも、さっきの涙の理由も、なにもかもが僕らの意識の中でヘドロのように沈んでいて、優しさも温もりも切ない気持ちも、汗と一緒になって弾けてどこかへ消えていき、なにも残されていない、がらんどうの身体と身体が重なり合っているだけだった。
 朝になって外へ出るときには僕は、そしてたぶんその人も、あの部屋になにかを置いてきた気がして語るべきものもなにもなく、お互いに少しばかり距離を置いて駅へ向かって歩いていた。そのまま黙って駅で別れて、家に向かっているときも、シャワーを浴びてベッドに潜ったときも、どこかしらその人に対してつれない思いがした。そしてそれが悩ましいのではなくて、当然のことのように受け入れようとしている自分に、信じられないほど残酷さを感じさせられた。窓から差し込んでくる陽の光さえも鬱陶しいような、言葉にならない感情が僕の心を埋め尽くした。
 その日からその人からの連絡もなく、僕も億劫でサークルに顔を出していなかったので顔を合わせる機会がなかった。
 ある日教室へ向かってキャンパスを歩いているときに、たまたまその人とすれ違った。声をかけようかと思ったが、その人は男の腕にすがるようにして歩いていたのではばかられた。目で追っていると視線が合い、お互い凍りついたがその一瞬後に、男がその人にキスをしたのを見て僕は講義を受ける気が失せて、二人が人混みに溶けて消えたあともそのまま立ちすくんでいた。
 それからその日のことを思い返してみても感情らしい感情はなく、ふと星を見ようと空を見上げたら雲に覆われていたときのような気持ちで、本当にあの人のことが好きだったのかすらもわからなくなっていた。そのまま年月が経つにつれて、ついには僕の心からその人の存在はなくなっていたように感じていた。

 ため息をついて、僕は飲んでいたコーヒーのカップを置いて彼女の顔を見たが、俯いていて表情が読み取れなかった。
「昔のことだよ」
 もう一度僕は言って、視線を落として飲みかけのコーヒーを見た。するとなんでコーヒーはこんなに黒いのだろうと思って、いつの間にかそれについて考えていた。すぐに思い直して俯いたきりの彼女を見ると、僕の目を真っ直ぐにその瞳は捉えていて不意のことだったので僕はたじろぐように目をそらした。それからもう一度彼女を見た。
「その人とは結局それきりだし、未練を残すほどの恋愛らしい恋愛でもなかったから、君が気に病むようなことではないよ」
 さらに彼女を思う気持ちを素直に言葉を尽くして話した。しかし彼女は納得できていない様子で、僕も僕でいま彼女に伝えたその言葉がどこかの小説から拝借してきたもののような気がして、途中で言葉を切ってコーヒーに口をつけると彼女もコーヒーを飲んだ。
 雨が窓を叩く音がして二人でそちらを見た。雨はさっきより強くなっていて、この狭い部屋に閉ざされていても、昔のように妙な孤独感にとらわれないようになっていたことが不思議な思いだった。もちろんそれは彼女の存在があるからこそだとわかってはいるが、その彼女だって僕からすればわからない部分のほうが多いし、彼女だってそれは同じことだろうと思うと、その少ない共通点だけを握りしめて肌を寄せ合ってお互いをかばい合っていることがそもそもの苦悩の種であって、いっそ以前のように孤独の風を一人で打ちつけられるように感じていたころのほうがごく自然な生き方ではないかとさえ思えてきた。
 それは彼女に対して多少の罪悪感はあるものの、それでも根幹には自分以外の他者と関係しているせいだという気持ちがあって、もう一度ひとりになることができればなにもかもから解放されて自由になれる気がした。しかしそれをすぐに行動に移せるほど彼女の存在がちっぽけであるとは言えないし、いま自分が間違った道を進んでいるとも思えなくて、彼女の温もりに心地よさを感じながらも、僕は孤独の冷たさと彼女の体温とに挟まれたまま、完全に冷たくなることも、また完全に温度を取り戻すこともなく、それはちょうど暖房の効いた部屋にすきま風が入ってくるようなもので、彼女を思う気持ちはありながらも一定の冷めた気持ちは振り払うことができなかった。
 僕はだんだん頭が痛むのを感じて喋る気になれなくなってきた。そして、思いつめた表情の彼女を見ているうちに、さっきまで好きだと、大切な存在なんだと言っていた気持ちが僕の心で反旗を翻して、憎悪へ変わっていくのを感じて頭痛はそれに伴って酷くなっていった。いつまでも僕の言葉を待って黙っている彼女が物乞いのように見えてきて、怒鳴り散らしたい思いをすんでのところで抑えた。そうすると腹の中でそれがくすぶって、身体を蝕んでいくのがわかって、僕はもう一度寝ると彼女に言うとベッドにもぐった。
 夢を見る間もなくすぐに目を覚ましたが、波立つ心はどうにか落ち着いていた。
 寝返りをうつと彼女の背中が見えて、その小さい背中をさらに小さくしてジグソーパズルをやっていた。背中の影から見える、半分くらいできているそれは風車と海が描かれていて、僕は彼女がピースをはめていくのをぼうっと見るでもなく見ていた。彼女はなぜか慎重にピースを選んでいるようで、ひとつ拾うのに時間がかかり、それをはめるのにも多くの時間を要していた。そしてさらに時間をかけるようになり、次第にほとんど手が止まっているように見えた。
 一向に進まないパズルを見ていると、雫がひとつそこへ落ちるのが見えた。彼女の背中は震えていて、漏れそうな声を殺してそれでも抑えきれない嗚咽がときおり聞こえてきた。
 僕は彼女が泣くのをそのまま見ていて、ついにここから出て行くのではと思っていたが、彼女は立ち上がることすらせず、ただただ僕の目の前で僕が起きていることに気づかないまま、起こさないように気遣いながら溢れてくる感情と戦っていた。
「なんでだろう」
 彼女の呟きが聞こえてきた。
「どうしてうまくいかないのかな、こんなに好きなのに。あの人だって大切にしてくれているのはわかっているはずなのに。なんですれ違っちゃうんだろう。こんなにそばに居るのに、なんで遠く感じるんだろう。あの人はどこを見ているんだろう。もうわたしたちは終わりなのかな。もう一緒に過ごすことはできないのかな」
 涙に混ざってときおりぐちゃぐちゃになりながらもそう言っていたのを聞いていると、彼女のその小さい背中に自分はどれだけ重たいものを背負わせていたのだろうとたまらなくなり、気がついたときには彼女を後ろから抱きしめていた。
 僕は彼女の耳元で好きだと言った。彼女は首を横に振っていたが、構わずに続けた。
「好きだけど――」
「けどってなに」
 彼女が僕から離れようとしたので抱き寄せた。
「どうすればうまく伝えられるのかがわからないんだ」
「そんなの信じられない。嘘よ。」
「嘘じゃない」
「嘘よ」
「信じてよ」
「信じられない」

 夜になって僕らは車で出かけた。雨はもう止んでおり、空で月が半分だけ顔を覗かせていた。それは助手席に座っている彼女の顔とよく似ていた。
 どこか遠くへ行きたくて高速道路に乗って、とにかくいまの場所から離れようとアクセルを踏んでいると、すぐそばで月が追いかけてくるようで恐ろしい気持ちになってきた。カーステレオからは陰鬱なオーケストラが流れていて、彼女はそれに聴き入っているようで前を見る目はどこか遠くを見ていた。
 真っ直ぐに伸びている夜を走りながら、僕はいろいろな人の顔を思い浮かべていた。
 僕は気がついたときには多くのものを失っていて、過ぎていく人々にかける言葉も見つからず、そうして立ちすくむ僕に去り際に唾を吐きかける人もいたが、それに激昂する権利すら自分には与えられていないし、むしろそれをいつの日か自ら放棄したような憶えさえあった。曖昧で断片的な記憶をかき集めて一つにまとめようとしても、なお欠片が足りず、失ったものが人だけではないと気づいたときに、僕は一度生きるのをやめることにしたことがある。
 まともに生きていても一定数の敵がいることを知って、しかもそれが僕の想像以上に僕に敵意を抱いていて、どこにも妥協点が見つからなかった。仮に僕が無条件降伏したとしても、その人は赦すことをしないだろうと思うと気が滅入ってしまうのだが、そのくせ阿諛追従するのは絶対に嫌だという思いはあって次第に関わるのをやめた。それでも敵は追撃の手を休めないから、人間がくだらなくなって投げ出したのだが、やり損なってしまっていまはその延長で生きている。
 それ以来どういうわけか不思議と敵の数は減り、ついに誰も僕に関心を寄せなくなって、僕は僕で淡々と光もなければ影もない生活を送っていた。ひとりでいるのは辛くなかったし、むしろ自由で清々しい気持ちだった。そうして誰にも期待をしないということが僕以外の人からすると優しさに映るようで、それは僕にとって都合のいいことだったので、騙すわけでもなく演じるわけでもなく、なにも訂正を加えずにそのように振る舞うことにした。そうして人々からいい印象を持たれるようになるうちに、むしろ僕自身が人間に対してはっきりとした憎悪を抱くようになるのに気がついた。その心は敵意とは違った形をとり、あくまで無関心の形で僕の中に棲みついた。そしてそれを自覚すればするだけ僕は人間に対して優しくすることができた。人間は本質についてなぞ興味なんてなく、刹那的にでもいまの苦悩が忘れられれば満足するのだと気づいたときには、幻滅と慈悲の心が表裏一体となり、幻影(マーヤー)のヴェールに覆われた彼らの盲目さにいじらしささえ感じるのだった。あらゆる苦悩はひとえに人間関係の軋轢が原因であって、いっそ孤独を選択すれば妙な諍いに巻き込まれることもなく慎ましく生きていけると気づくと、人間たちの日々の営みが滑稽に見えてしまうと同時に憐憫の情が生まれて、僕と人間との間が乖離していった。それは一度踏み入れると二度と戻れない土地の地図を手に入れたようなもので、歩き出すにはある程度の覚悟が必要だったが、もともとなにも失うものなどない僕には恐れるに足りなかった。それにその地図を頼りにするしかもう方法はなかったので、多少の躊躇いはあったが半ば投げやりな気持ちで歩んでいくことにした。そこは苦しみの谷を越えて害悪の街へと続いていて、そここそが僕の居場所なのだと自然と受け入れることができた。
 様々な顔を思い浮かべていくうちに、ついに彼女の顔が浮かんできた。天真爛漫な笑顔の裏には憂いの仮面を隠していて、誰にも見られないところでせっせとその仮面を磨いていながら、優しさを恐れて泣いてしまう彼女はあまりに優しすぎた。誰もが傷つかないようにと、自分から身を挺して矢羽根を受け止める彼女。出会って以来、そんな彼女に僕にはなにができるのだろうと考えていた。誰よりも幸せになるべき存在であるはずなのに、僕には幸せにする力なんてなくてときどきたまらなく無力感に襲われて、そんなときにも彼女は笑って言う。大丈夫だからねと。
 フロントガラスには孤独への扉のような空が手招きをしているのが映っている。彼女は押し黙ったままで、僕もなにを喋ればいいのかわからなかった。カーステレオからはあいも変わらず悲劇的な音楽が流れている。僕は頭に浮かんでは通り過ぎていく人たちを払いのけるようにさらにアクセルを踏んだ。
 僕らは国道沿いの公園の駐車場で夜を明かした。車から降りて煙草を吸っていると彼女も起きてきたので、缶コーヒーを買って公園を散歩することにした。
 潤いのある澄んだ空気を吸い込むと、気分はいくらかましになって二言三言彼女に話しかけられるようになっていた。彼女のほうも少しずつ表情の翳りが消えていき、僕らは手をつないで遊歩道を歩いた。
 早朝の公園は、ジョギングをする人も犬の散歩をする人もまだおらず、温かみのある静けさがあるだけだった。それはただそれだけで敬虔な感情を呼び覚まし、胸につかえた昨夜までの焦げ付いた気持ちが消え失せていったような気がした。
 僕らはまだ若干湿っている木製のベンチに腰をかけて、目の前の池に目をやった。そこには枯れた蓮が無秩序に浮かんでいてあまり綺麗だとは言えなかったが、横にいる彼女もそして僕も、そんなものではなくて、もっと別のもっと遠いところを見ていた。果たして僕らはいま同じものを見ているのだろうかと彼女のほうを向くと、彼女は目をつむっていて僕はなにか言葉をかけようとしたが、そのまま横顔を見つめていた。彼女は僕の肩に頭を乗せてきて、それからつないでいた手をさらに握り締めた。その手からは彼女がなにかを求めている意志を感じて、僕にはそれがなんなのかがわかっていたし、応えようとも思ったのだが、いざそうしようとすると途端に気持ちが萎えてしまった。それに、僕が心からそれを応えようとしていないことは自分でもわかっていたので、我ながら胡散臭く思えてきて、言葉にすることも行動で表すこともできないまま彼女の手の温もりを感じていた。彼女の手は温かくて、それだけに寂しげな印象を僕に与えて、どうにかして彼女の不安を追い払って、またいつものようなささやかだけどとても幸せな時間を二人で過ごしたかったが、果たしてそれは僕が本当に望んでいることなのかすらも曖昧になってしまった。自分で自分はどうしたいのか、どうすればいいのかが、まるっきりわからなくなってしまった。
 やっぱり僕は彼女と付き合わないほうがよかったのではないかとふいに思えてきて、そう思うといままで彼女と築いてきたいろいろなものが全部ガラクタのように感じて、もはやなんの価値も見いだせなくなってしまった。僕はつないでいた手を離すと、立ち上がってそのままふらふらと歩き出した。
「どうしたの」
 彼女がついてきたが、
「ちょっとひとりにさせて」
 と言って、立ちすくむ彼女を振り返りもせずに公園を歩いた。
 僕は公園が好きで、彼女と付き合う前にもよく一人でふらっと立ち寄ることがあった。こうしてあてもなく歩いていると、いろいろなことが思いめぐらされて、それらひとつひとつが錯綜しているのを解きほぐすようなときには、こうしているときが一番うまくいくのだった。
 もともと僕は一人でいることが好きで、彼女が言っていたように、恋人を作ったり同棲するなんてことは考えていなかった。僕には一人きりでいる時間が必要だと思っていたし、実際そうしているほうが気持ちも落ち着いていた。たまに友人と酒を飲んでいるときに恋愛の話になったりすると、僕は妙な気分になるのだった。なぜこうも皆が皆誰かパートナーを探し求めているのだろう、一人でいることに罪悪感を抱いているのではないかとさえ思えて、僕には全くない感情が彼らにはあって、それだけに気心の知れた仲間でも一線引かれている感じがして、僕と彼らとはまるで違う生き物なのかと思うほどだった。やれ誰と誰が付き合っているだの、やれあいつが好きだのといった話を聞いていると、本当に馬鹿馬鹿しくなってきて、人間に対する嫌悪感は増していくばかりだった。騙して化かして、まるでゲームでもするような感覚で、あいつを口説き落としただの振り向かせただのと言っている彼らを見ていると、人間は狡くて汚くて愚かでどうしようもないほどくだらないと思わずにはいられなかった。彼らの中には恋愛に人生さえも賭して、挙句に身を滅ぼした奴までいて、そうでなくてもほかの誰かが順調だと知ると、あんな奴のどこがいいんだなどとルサンチマンを隠すことすらせず、白痴のように、自分のほうが素晴らしい人間だと言わんばかりに相手をこき下ろす始末で、僕と人間との距離はどんどんと離れていった。
 そうはいっても、生活をする上ではどうしても人間と関わらなければいけなくて、それが僕には苦痛だったので、関わりを必要最小限にして、なるべく距離を取って彼らの生活を見ているようにしていた。すると、彼らのどこにも本当のものがないことに気がついた。なにかを形作る上での核となるものでさえも嘘でできていて、形作られたものも当然のように嘘で出来上がっていた。その自分たちの作品をコソコソ懐に隠しては、君だから見せるのだよなどともったいぶってチラっとだけ見せて、あたかもそれが本当のものであるかのように振舞うのだった。それがわかってしまうと、この世のすべてが作り物で虚構でおもちゃのように見えてきて、その上で成り立っている自分も含めたすべてのものが無駄なように思えた。
 その虚構の中で生きていくには、僕自身も本来の自分とはまた違ったなにかを作り上げなければならず、カルヴェロのようにさえない道化を演じていたのだが、それは相当に神経を使う仕事で、僕は一日が終わるころには憔悴しきってしまっていた。薬を酒で流し込んで、酩酊したまま夜を過ぎて、また朝になるとうまくはたらかない頭で外へと出て行くようになった。
 薬を飲むと、グルグルと忙しく回る頭の中の歯車の動きが緩やかになって、そのままぼんやりと天井を見つめていると、早く眠りについてそのまま目覚めることがなければいいのにと思った。別に先輩にほかの男がいたからというわけではないし、好きだとか付き合いたいだとか、そういうことではなく、あの人からなにかしらの弁明を聞きたかった。取るに足らない言い訳でもいいし、とにかく僕とあの人との関係を明確にしてほしかった。
 あの人にとって、僕はどんな存在だったのだろうかと考える日は数知れなかった。その度に少なからず心の隅にでも、僕の存在はあったのだと自分を励ましていたが、あの人と体を重ねた日を思い出すと、途端にそのいくばくかの自信は失われるのだった。実際は、寂しさを埋め合わせてくれる人ならば僕でなくてもよかったのではという考えが頭をかすめて、そんなことはないとかぶりを振っても、おそらくはその程度のものだったのだろうと妙に納得できてしまった。だったら僕が、あの人に振り向いてもらおうと必死になって燃やしていた情熱は、一体なんの意味があったのだろうと虚しい思いになり、それを振り払うようになんの根拠もなしに、あの人の笑顔や僕にくれた言葉などを思い出しながら、意味はあったのだと言い聞かせていた。
 あの日以来あの人とは意識的に会うのを避けていたし、会うのは辛すぎたから、そういったささやかな記憶だけを頼りに自分の支配欲を満たそうと努力していた。しかし次第にやはりあの人がいつか言っていたように、僕は宿り木のような存在で、言ってしまえばあの人にとって都合のいい存在でしかなかったのだと思うようになった。そしてあれだけ傾けた僕の情熱は、むしろあの人にとっては迷惑でしかなかったのだと考えた。そう考えるとあの人以外にほかの女性たちのことも、すべてそのように思えてきて、僕はただそれを見守るよりほかはないのだと、そうやって自分を通り過ぎていく人たちを、ときには疲れを癒し、ときには励まして、また送り出してあげるのが僕の役割のようなものなのだと思った。
 この考えにたどり着くと、数学の証明のようにいろいろなものが明確になって、それは定理として今後の人生でも当てはめることができるだろうという確信を抱いた。そう考えると、ますます人間の狡さを感じて、憎悪はさらに増すばかりだった。
 見上げると、空は澄んだ青をしていて、それを見ると少しだけ心が落ち着いたような気がした。しかしだんだんと頭痛がしてきて、結局俯いて歩いていた。鈍く痛む頭はやけに重く感じて、僕は家に帰りたくなり、彼女がいるはずの場所まで引き返した。
 どれだけふらふらと歩いていたのだろうかと考えても、おそらくはそう長くはない時間だろうとしか考えられず、歩きながら思考を巡らせていたので、体感的にはかなり長いことそうしていたような気がして僕は疲れきっていた。
 彼女は俯いて同じ場所に座っており、僕に気がつくと弱々しく微笑を浮かべて立ち上がった。僕らは並んで歩き出し、車のある場所まで向かった。僕は頭痛のせいで苛立っていて、さっきの彼女の笑顔もなんだか癪に障って、なんでそこまでして僕についてくるんだと頬を張りたい気持ちになった。さすがにそれは思いとどまり堪えていると、腹の奥でコールタールのようなものが沸騰している感じがして非常に不快だった。彼女はそれに気がついてか、チラチラと様子を伺うように僕を見やり、僕はその視線が鬱陶しくてますます苛立ってしまった。よくないとは思っていてもどうしようもなく、僕は不快な気持ちを隠すことすらしなかった。
 車に乗って走り出しても頭の痛みは鎮まることはなく、苛立ちは増すばかりだった。助手席の彼女を見ても俯いて黙ったきりだった。
 カーラジオから能天気なお喋りが聞こえてきて、それはあまりにこの場にそぐわず、いっそのこと切ってしまいたかったが、そうすると残るのは僕の頭痛と苛立ちだけだとわかっていたのでそのまま流していた。
 僕はもう終わりだなと思った。きっと彼女も、どこか僕の知らないところまで飛び立っていくのだろう。今回はちょっと長く留まっていたが、彼女もまたほかの人間たちと同じように僕を通り過ぎてく人でしかなかったのだなと思った。家に着いたら彼女はジグソーパズルの続きをやることだろうし、僕はそれに構わずベッドで寝るだろう。そしてパズルが終われば、僕の寝ているうちに彼女は部屋からいなくなり、もう二度と戻っては来るまい。引き止める気はなかったし、そういうものだと仕方のないことのようにそれは受け入れられた。僕はそういう存在なんだし、僕以上に彼女を愛せる人はいくらだっていることだろう。僕にとってこの関係すらなんの意味もなかったのだ。

 目を覚ますと彼女はジグソーパズルをしていた。僕は彼女の背中を眺めていた。彼女は黙々とピースをはめていて、僕が起きたことには気づいていないようだった。
 起き上がるとまだ頭痛がした。煙草の箱を取ると空だった。あと一本くらい入っていたような気がしていたが勘違いだったみたいだ。公園から帰るときにコンビニに寄ればよかったなと思った。起き抜けに買いに行くのは億劫だったがため息をついて財布を取ると、彼女に煙草買ってくるとだけ言って返事を待たずに僕は家を出た。
 コンビニは歩いて五分もかからないところにある。僕はさっさと煙草だけ買ったのだがそのまま帰る気にもなれず、ちょっと散歩でもしようと思った。
 頭に鈍い痛みを抱えながら適当に歩いていると、子供のころによく遊んでいた小さな公園に着いた。中へ入ると記憶とは裏腹にあらゆるものが小さくて、狭くて、妙な気持ちになった。広場まで歩いていくと、ここでよくサッカーやらドッヂボールやら、日が暮れるまで遊んでいたなと懐かしい気持ちになった。あのころの僕は――。
 ベンチに座って煙草に火をつけた。もう終わりにしようと、うなだれながら呟いていた。
 ふと、目の前からなにか声のようなものが聞こえてきた。いやに聞き覚えがあり、はっと頭を上げるとそこには僕がいた。格好もそのままで鏡越しに自分を見ているかのようだった。その僕と同じ姿をした男はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて言った。
「これでよかったんじゃないか」
 返事ができなかった。僕が唖然としていると男は続けた。
「君は君の役割を全うしただけだよ。これでいいんだ。彼女は出ていくだろうよ。ここではないどこかへ巣立っていくのさ」
 男はズボンのポケットから煙草を出すと、くわえて火をつけた。馴染み深い紫煙の香りが届いてきた。
「そんな顔をしてどうした、これは君が望んだ結果とも言えるだろう? 『あらゆる人々は自分を通り過ぎていく』。君が出した結論だろう? 今日、ここで、それが改めて証明されたじゃないか! 喜ばしいと思わないか?」
 くくくと男はさも面白げに笑っていた。
「君は宿り木なんだ。宿り木は宿り木らしく、ほら今回のように――いやいつものようにとでも言うべきかな――疲れた小鳥を休ませてあげただけだよ。ご多分に漏れず彼女も疲れた小鳥のうちだったのさ。いいじゃないか、君は実直に役割をこなしている。そのへんのわけのわからない連中とは違って、君は君らしく、なんの見返りも求めず、彼女たちの求めているものをあくせくと与えてきたわけだからね! 無償の愛――いい言葉じゃないか。なんという博愛主義者なんだろう、いや、博愛主義とは違う、君は見返りすら求めていないのだから」
 男は煙草をゆっくりと吸い、煙を吐いた。
「ショーペンハウアーは言った。

『個体化の原理』が取り払われてしまった人は、もはや自分と他人を区別することなく、他の個体の苦しみに彼自身の苦しみと同じくらいの関心を持つ。そしてただ慈悲深いばかりではなく、自分を犠牲にして他の人が救われるのなら、自分自身の生命をすすんで犠牲にする心構えさえある。

 まさに君のような存在のことじゃないか? 誰にだって自己顕示欲とか自己承認欲求とかいったものがあるから、なかなか宿り木のようにはなれない。しかし君は淡々とそれをやってのける。よかったじゃないか、彼女だってきっとそう遠くない未来に他の男と一緒に、君のおかげで幸せに過ごすことになるだろうよ!」
 男は腹を抱えて笑っていた。その笑い声は妙に頭に響いて、脈打つ度に痛みは増していった。僕が歯を食いしばって耐えていると、男はさらにけたたましく笑い声をあげた。
「どうしたっていうんだ。君はあのときに人間と決別をしたじゃないか。憎しみを慈悲に変えて、君はやってきたじゃないか。そうだろう、そうして『個体化の原理』を取り払ったのは自分だぜ? なにも信用せず、なにも期待せず、なにも求めずやってきたじゃないか。いまさら、なにに腹を立てているんだ?」
 男の声は重くのしかかってくるようでそれに僕の心の深いところまで突き刺さった。言い返そうにも言葉は浮かばず、意識が遠くなっていく感じがして目を開いているのが精一杯だった。
「君はこう結論づけた。『期待をするから裏切られたときに傷つく。一切に期待をしなければ傷つくことはない』と。それは俺も同意見だ。

 生じてきた一切のものは、滅びてさしつかえのないものです。それを考えれば、何も生じてこないほうがましだ。

 メフィストフェレスはこう言った。君はどう思う? 君が先輩に寄せた思いだって、それがあったから君はあそこまで傷ついたんだ。ならば無関心でいたほうが――あとになって君がそうしたように――なにも気に病むことはないじゃないか。君は人間に対して無関心でいることで、かえって人間から信用されるようになった。無関心でいるということは期待をしないことであり、それは実際のところ優しさと同義であるからね。君はどれだけの人間に優しいと言われてきただろう? なあ、そんな顔をしなさんなって、どうしたっていうんだ、これは君の望んだ結末だろう」
 痛む頭を抱えて男が言葉を切るのをひらすら待っていた。男の言うことはとうの昔に自分が見つけたものだったが、なぜか男の下卑た笑みを見ていると穏やかではいられず、なにがなんでも反駁したいと思った。
「お前は」声がかすれているのが自分でもわかった。「お前はなんなんだ」
 男は答えず、だらしなく笑っていて、それは彼に対して無意識的に抱いていた嫌悪感に拍車をかけて、僕の心はこれまでにないほどささくれだっていた。
「なにを苛立っている? さっきから言うように、これが君と――そして俺の――望むベストな形じゃないか。孤独こそが俺たちの生きる道なんだよ。誰にも邪魔されず、誰をも必要とせず、ただ自分だけで歩み続ける。それこそが自由の本来あるべき形なんだよ。そこらへんの連中のように色情に溺れたり友情などという幻想に惑わされたりすることなく、一心不乱に歩み続ける。君はようやく自由を手に入れたんだ。君の彼女だって、君の自由を阻害する因子にほかならないんだから、あんなくだらない女のことなどさっさと忘れて、君は君らしく生きればいいじゃないか!」
「お前に彼女のなにがわかるんだ!」
 僕の怒鳴り声にも彼は怯むことなく、崩した表情をそのままに黙っていた。
「僕は彼女のことが好きなんだ。心から好きだと言える。お前に彼女を侮辱されるいわれはない」
「じゃあ好きってなんだろうね? ――いや、好きなら好きでいいさ、ただ、君はいままでのようになにも求めずに、その好意を相手に送り続けるだけさ。君が彼女を好きであろうと、なかろうと、どっちだって構わない」
「彼女だって――」
 と、僕は目に涙が浮かぶのを感じた。震える声で力いっぱいに叫ぶが男の表情は変わらなかった。
「おや、泣いているのか? なぜ泣くのだ。君は宿り木だ。彼女は巣立っていく、ただそれだけじゃないか」
「黙れ! 彼女だって、彼女だって僕を好きでいてくれているんだ! それくらいは僕にだってわかる。お前がなにを言おうと、それは変わらないんだ」
「好き? なぜそう言える?」
「彼女を、信じているからだ」
「はっ! 信じる!」彼はまた大笑いした。「傷つくのを恐れていながら、よくもまあそんなことが言えたものだ。そうさ、君は怯えているんだよ。しかし身を守るのは悪いことではない。むしろ当然さ。信頼だなんて言葉でごまかされて、みすみす身を滅ぼすなんて愚かだよ。信頼……なんて甘美な響きだろう、それが本当にあるのならば、だがね。人間同士が信頼しあえることなどないのは君だって知っているだろう? あんな小賢しい、狡くて醜い連中を、少なくとも君が信じられるとは到底思えないがね!」
「彼女は……彼女はきちんと僕を見てくれている」
「ふん」
 彼は煙草を落とすと、かかとで踏みつけた。
「惑わされているな。女なんて元来、恣意的で利己的で、本能的に狡猾な生き物だ。君の彼女は、君を騙せただけ、さらに一枚上手なだけさ。君は学習しなかったのか? あの先輩だってそうだったじゃないか。それ以外にも君を通り過ぎていった全ての人間に同じことが言える。『タダでくれるならもらうけど、あげられるものはなにもないよ』、これが人間ってやつさ。そんな奴らに唾を吐きかけられ、踏みにじられた屈辱を、もう忘れたのか? 生きるに値しないようなくだらない連中に、見下されていたあの屈辱を? それじゃ白痴だ! 君は白痴だ!」
 男はそう言うと、憎々しげに唾を吐いた。
「もう後戻りはできないぜ」
 その言葉は僕の身を震わせた。
「君がこれまでに失ったものの数を数えてみろ。いや、逆だ、いまあるものを数えたほうが早い。いくつある? ないだろう? 君にはもう、なにも残されていないんだよ! それが君の選んだ道なんだよ。いまさら後戻りはできないぜ。

 そしてこの自然界の何一つ、
彼は祝福しようとは思わなかった。

 プーシキンの詩にこんなものがある。この彼ってのは、人間と決別したあのときの君と同じじゃないか。そうさ、この彼ってのは、君であると同時に俺でもあるのさ。俺は君の、人間に対する憎悪を食って生きている。そしてそれと引き換えに、君には常に真実を見せてきた。――人と人とは決して分かり合えない! という真実を、ね。君だってその目で見てきただろう、人間の本質が嘘でできていることを。すべては作り物で、虚構なんだよ。太宰治は『人間失格』の中で、最後の求愛として道化を演じたと書いたが、そもそも彼に限らず、あまねく人間が道化を演じているのさ。ありのままの自分など探したって見つかりっこないよ。そんなものは母親の腹に置いてきちまったんだからね! くだらない! あまりにくだらないよ!」
 悪魔だ、と僕は思った。こいつは悪魔だ! 僕は知らぬうちにこんなものを自分の中にすまわせていたのだ。そう思うとぞっとした。なんてことをしていたのだろう、僕はいままでなにを見てきたと言うんだ! 彼の言葉は鈍器のように僕の頭を打ち付け、僕の頭痛はひどくなり参ってしまいそうだった。しかし僕の心の片隅に、小さくゆらめく火が灯っているのを感じた。それはどこか懐かしく、馴染み深くて、どうにか正気を保たせてくれていたが、それを吹き消すかのように男の言葉は容赦なく、火はいまにも消えそうだった。
 僕の身体は震え、歯が噛み合わずガチガチと音を立てていた。もうダメかもしれないと思った。
「確かに、君の言う通りだ」
 僕はぼうっとする頭でそう呟いた。彼が口の端を上げて笑うのを見ると全身に悪寒が走って、立っていることもしんどくなってきた。意識がどこか違うところにあるような気がして、頭の中がだんだん空虚になっていった。目をつむって、このまま倒れ込んでしまおうかと身体の力を抜こうとしたときに、遠くのほうから僕の名前を呼ぶ声がした。もうどうにでもなれと思っていたが、その声を聞いていると心の灯火がきらめくのを感じて、僕は目を開いた。
「人と人とは決して分かり合えない。期待をしなければ傷つくことはない。孤独に生きていれば自由でいられる。そうだ、その通りだよ。だけど、それならばどうして人間たちはそうせずに、孤独を恐れ、分かり合おうとして、傷ついているのだろう?」
「愚かだからさ」
「愚か! この悪魔が! 僕は……僕は、いまお前と決別する! やっとわかったよ、僕はこの心に宿る火が、これこそが僕の守るべきものなんだ。守るべきは自分自身じゃない。確かに、僕はお前の言う『個体化の原理』とやらを取り払った。それは憎悪からだったけど、いまはそうじゃない。ただ、純粋に、彼女が好きだからだ。彼女だけじゃない、ほかの人たちだってそうだ、僕は彼ら、彼女らが好きだ。見誤っていたんだ、憎しむことで自分を守って、殻に閉じこもって、軽蔑の目で彼らを見ていた。軽蔑されるべきは僕なのに! それでも彼らは笑って挨拶をしてくれる、楽しそうに話をしてくれる、僕に居場所を与えてくれる。僕はそれを見て見ぬふりをして、ただ傷つくことを恐れていた。感謝さえせず、むしろくだらないと吐き捨てて! いまやっと目が覚めたよ。幻影マーヤーのヴェールはお前のほうだ! 分かり合えないから、人は分かろうと努力する。『人間は考える葦である』、考えてこそ、人間のあるべき姿なんだ。お互いにお互いを考える姿こそが愛の形だ。傷ついて、悩んで、苦労してこそ人生だ。それを分かり合えないと諦めて、考えるのをやめたお前は人間ではない。悪魔だ! 愛も夢も全て幻だとお前は言うだろう、不可能に挑戦することを愚かだと笑うだろう、だけど、無理を承知で立ち向かってこそ人間なんだ、そうして人間は進歩してきた、そして、僕は彼女を愛してるんだ!」
「いっぱしの口の利きかたをしやがって、お前なんぞに人間が愛せるか! 通り過ぎていく人をただ見送ることだけしか能のないお前に! さらに言えばあの女はお前のことなどなんとも思っちゃいないさ。ただ一人でいるのが嫌なだけでお前のことなどどうでもいいんだよ。思うのはいつも自分のことばかりだ。それが真実だよ。そして真実は常に醜い形で現れるものだ、だからたいていの人間は見て見ぬふりをして――ちょうどいまのお前のように――愛だ夢だ希望だと、空想に身を任せるんだ! それこそが思考停止じゃないか! きちんと真っ直ぐに、真実だけを見ろ! お前の求めてるものなど手に入りっこないんだからな!」
 僕は大声でそれを笑い飛ばした。彼の言葉は、もう僕になんの影響も与えなかった。もう大丈夫、彼女がいつもそう言ってくれたように、僕の心に灯る火は燃えさかった。
「空想を追わずにどうして人間であると言える? 人生に意味なんてないんだ! だったら、自分で意味を創り出せばいい! 意味を創りだすことにこそ、情熱を傾けるべきなんだ。幻想だの虚構だのとお前が鼻で笑うそのものこそ、人間が生きてきた証であって歴史そのものなんだ。なにもかもが作り物だというのが絶望する理由にはならない。空想することは考えることで、それはときには真実さえ変えてしまう! お前の言う真実など、途中経過に過ぎない! 人間は、これからだってもっともっと、真実を変えてみせる! ラプラスの悪魔にだって想像し得ない、素晴らしいものに!」
「無駄骨だ」
「いや、そうでもないよ」
 彼はまた地面に唾を吐いた。
「どうしてそう言える? お前にはなにもないじゃないか。いまから創りだすとでも言うつもりか? はっ、くだらない! あまりにくだらない!」
「なにもないわけじゃない。ここに、ある」
 僕は人差し指で自分の頭をさした。
「女ひとりろくに満足させられないクズが、人間を語るんじゃねえ。これだから人間は嫌なんだ! 悪臭で吐き気がしそうだぜ! お前みたいな出来損ないの人間は、大人しく、なるべく世間様に迷惑をかけないように謝りながら日陰に生きていればいいんだよ! 太陽の代わりに憎しみを与えてやるから、それで生きていればいいんだよ!」
「確かに僕は出来損ないだ。だけどそんな僕を受け止めてくれる人がいるんだ。僕はその人たちに、謝る代わりに感謝をして生きていく。迷惑をかけるかもしれないけど、笑って許してくれるんだ。そんな人を、どうして憎めるっていうんだ」
「狡い! 汚い! 醜い! ああ、嫌だ嫌だ! 本当に吐きそうだ! しかし君もずいぶんと詭弁が上手くなったなあ! 騙されて、いいように使われて、用済みになったら捨てられて、にも拘らず感謝をする? できっこないさ、謝意が殺意に変わる前にやめておけ、馬鹿を見るのはお前だぞ」
「僕のためにわざわざ馬鹿を見てくれている人も中にはいるもんでね、その人を思えば、一部の悪意ある人間も許せるよ。さあ、もうどこかへ行ってしまえ! 二度と僕の目の前に現れるな!」
「そうか、そうですか。ははっ、君は結局なにもわかっていない。

 かんぬきや錠を開けるのじゃない。どこまでも寂しさに追い回されるんだ。あなたにはわかっていますか、寂しさ、孤独というものが?

 メフィストフェレスはこう言った。君は孤独を理解していない。だから弱い! 脆い! 一時の安寧のためにいままで耐えて、勝ち得てきたものを投げ捨てようなんて!」
「それは勝ち得たものじゃない。孤独に打ち克ってこそ人を愛せるんだ。一人きりでいることが強いんじゃない、守るべきものを守り抜いてこそ強くなれるんだ!」
「なら勝手にやってくれ! お前にはほとほと呆れたよ! お前自身もお前が見下していた愚かな人間だったというわけか。そうやって夢を見るように生きて、現実など省みずに、見ざる聞かざるってところか! ふん、それならば用済みになった俺は、通り過ぎて消えていくよ!」
 彼はそう言って僕の横を過ぎていった。僕はそのまま歩き出し、彼のほうを向くことなく、歩き出した。
 家へ向かう道中、洋菓子店を見かけた。僕は彼女になにか買っていってあげようと思いつき、中へ入った。
 ショーウインドウにはケーキやマカロンやクッキーなど、色とりどりのお菓子が並んでいた。僕はひとしきりそれらを眺めて、店員に指でさした。
「このクッキー、いい形だね。ハートとは気が利いてる。どんな人が作ったんだろう」
「きっとロマンチックな人だよ」
「二つもらえるかな」
 僕は足早に家へ向かった。小学生の通学班とすれ違った。もうそんな時間になるのかと驚いた。子どもたちは大声で叫び合っては笑い合っている。自分も昔はこうだったのかと思うと、自然と顔がほころんだ。
 なににも怯えず、無条件で信じられる強さが子どもにはある。それが大人になるにつれいろいろと見知っていくうちに、自分を守るようになって、次第に自分も誰かを騙すようになる。しかし、だからといって大人がなにかを失ったわけではない。大人は、子どものころの無邪気さを代償に力を得るのだから。そして、その力をどのように使うのか、その知恵も学んでいく。
 絶望などというものは思考停止に他ならず、考えて、考え抜いて、生きていかなければならない。どうすれば愛する人の笑顔を守れるか、どうすればお互いに楽しくやっていけるか。僕は一言でいえば彼女に甘えていたのだ。世界の全てを知ったような顔をして、彼女のくれる優しさに気づかぬふりをして。
 僕はなにをしていたのだろう。彼女のジグソーパズルをしている小さい背中が目に浮かんだ。ひとつひとつ、ピースをはめて、鮮やかな絵を作っていく。バラバラの欠片がひとつの作品になっていくのは、そばで見ていても楽しいものだった。
 そういえば、風車と海のパズルはもう出来上がったのだろうか。ドアノブに手をかけて開くと、紅茶の甘い香りがした。
「ただいま」
 僕がそう言うと、彼女は駆け寄って胸に飛び込んできた。僕はそれを受け止めて、力いっぱいに抱きしめた。彼女は待っていてくれたのだ。僕を通り過ぎることなく、待っていてくれた。
「ごめん」
 彼女の髪に顔を埋めると、柔らかな香りがした。
「僕は……弱い人間だ」
 彼女は胸の中で小さく頷いた。
「知ってる」
 僕は思わず笑ってしまった。
「でも――」
「でも?」
「誰よりも君を愛してる」
 顔を離して、彼女の目をしっかりと見つめた。泣き出しそうな表情の彼女を、さらにもう一度抱きしめた。
「やっと言ってくれたね」
 彼女の声はくぐもっていて聞き取れなかった。僕が聞き返すと、なんでもないと言われてしまった。
「パズルはもうできたの?」
「あと一箇所だけ。あなたが帰ってきてから完成させたくて」
 なんだか彼女らしいなと、僕はまた笑った。
「じゃあ、完成させよう」
 彼女は頷いて歩き出した。僕もそのあとに続く。彼女は勢いよく歩き出したものだから、狭い部屋で勢いにまかせてパズルを蹴り飛ばしてしまった。絵はバラバラになり、彼女は立ちすくんでしまった。
「やり直そう」
 僕は彼女の頭を撫でて言った。
「僕も手伝うからさ」
 テーブルに買ってきたクッキーを置いて、ピースを集めた。実際に触ってみると、ひとつひとつが本当に小さくて、これをひとつにするのは途方のない作業のように思えた。
 それでもいい。二人で一緒にやれば、わけはない。
「ありがとう」
 彼女は呟くように言って、ピースを集めだした。



 最近よく寝言を言うらしい。
 僕が起きるといつも彼女は上機嫌で、なにかあったのと訊いてみても別にと笑うだけでなにも教えてはくれなかった。
 一体どんな夢を見ているのと言われるが、僕には夢を見た記憶などなくて薬が効いていることもあってかぐっすりと朝まで眠っている。しかし彼女は納得がいかないようで、それでも嬉しそうに僕を見て笑うのだった。
 

(完)
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