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バスが減速していくのを感じて俺はまた目を開いた。カーテンの隙間から差し込む常夜灯の光やバスの車線変更のたびにまどろみから醒め、すぐに浅い眠りが訪れる。どれくらいそれを繰り返していたのかはわからない。やがてバスが停止した。もたれていた身体を起こしてカーテンを少し開けると、バスやトラックがそこかしこに並んでいた。サービスエリアに着いたようだった。運転手が十五分の休憩だと乗客に伝えた。彼の声には力がなく、疲労を隠すことすらしていなかった。
乗客の何人かが外へ出ていった。俺も続いて降り口へ向かった。正面のデジタル時計には午前二時十五分と表示されていた。思わずため息が漏れる。先は長い。
残された乗客は、バスが停車したことにすら気づいていないようだった。ステップから一歩外へ出ると七月の頭だというのに、やけにひんやりとした空気が俺を包んだ。バスの側面にある東京・品川行の表示を見ると、情けない思いでいっぱいになった。大学を卒業して、生まれ育った埼玉を捨てた気持ちで金沢にある訪問販売の営業会社へ就職したが、なにも結果を残せないまま試用期間で契約を切られた。
両親とは大学生のころに関係が縺れて、二年ほど口をきいておらず、わざわざ金沢の会社を選んだ理由の大きな要因でもあった。
若気の至りといえばそうなのかもしれないが、とても頭を下げる気には、この期に及んでもなかった。実家のある浦和になんて、とてもではないが帰れるわけがなかった。
舌打ちをする。自販機でコーヒーを買って、煙草に火をつけた。あたりは店じまいをした食堂や売店が並んでいて、よけいに寒々しく感じた。缶コーヒーは甘ったるくてろくに味なんてしなかったが、この張り詰めた空気にはちょうど良く、身にしみた。
冷え切ったベンチに腰を下ろして煙草の煙を吐いた。霧消していく紫煙を見ていると、まるで俺のいままでの三ヶ月間のようで、あっけなかったなと思う。そして、なにも残らない。
煙草を一本吸って、缶コーヒーを飲み干した。いつも思うのだが、缶コーヒーの量は一服するのにちょうどいい。あたかも煙草を吸いながら飲むことを前提として作られているように思える。ホスピタリティという言葉が思い浮かぶ。会社の研修で教わった言葉だった。バカのひとつ覚えかと心で自嘲する。
バスへ戻ると車内は相変わらず仕舞われたおもちゃ箱のような静けさで、俺は必要以上に気を遣ってリクライニングをほんの少し倒した。そして腰を沈めて膝を折り、せめてほんの少しでも安眠できるようにと体勢をつくると、イヤホンをつけて目を閉じた。
イヤホンからはBAN BAN BLUESの曲が流れている。俺が中学生のころにブレイクしたバンドで、何度かライブにも行ったことがある。その後数年して解散したのだが、未だに彼らは伝説となっている。ソリッドなギターのカッティングにうなるベース、畳み掛けるようなドラム、そして狂ったようなヴォーカル。それらは俺を慰めもしないし励ましもしなかったが、バスに揺られながら聴いていると安心できた。「お前がそう思うんならそれでいいんじゃないの」といわれているような感じがする。それは昔から、いつだってそうだった。
かすかに身体が揺れて俺は目を開いた。バスは淡々と東京へと向かっているが、いまここがどこなのかはまったくわからなかった。カーテンをずらして外を見ても、常夜灯が規則的に通り過ぎていくだけで、果たして本当にこのバスは東京へ向かっているのか、それすら疑わしくさえあった。
身体を起こして、正面の座席のポケットからチョコレートを取ってひとつ口に入れた。少し柔らかくなっていて、口の中ですぐに甘さが広がった。チョコレートが口の中に無くなっても舌を動かして余韻に浸っていた。唾液を飲み込むと、その余韻もやがて無くなり、俺は無性に煙草が吸いたくなった。姿勢を戻してフロントガラスの向こうを見ると、吸い込まれそうなほど真っ直ぐに道が伸びていた。
ため息が漏れる。俺は、なにもできなかった。どんどんと情けない気持ちに引きずられていきそうで、俺はバッグからI・W・ハーパーの小瓶を出すと、それを思い切りあおった。喉から胃にかけて熱くなっていく。いまの感情を焼き消してくれるような、そんな気がしてもう一口飲んだ。
俺は昨日の、引越し業者に荷物を運んでもらったあとの、がらんどうの部屋を思い出していた。雨が降っていて陽も沈み始めていて、やけに寒かった。暖房もつけられず、俺はハーゲンダッツのラムレーズン味を食べながらウイスキーを飲んでいた。ラッパ飲みしているうちに涙が出てきて、そのまま床に突っ伏して泣いた。泣きながらウイスキーを飲んだ。部屋を引き渡すときに便所で吐いた。三分の一くらい残ったウイスキーを飲みながら、傘もささずに鍵を返しに不動産屋へ向かった。次第に雨は強くなり、着くころには土砂降りになっていた。鍵を返すと出るときに傘をくれた。俺は残りのウイスキーを飲み干して瓶を植え込みに投げ捨てた。あたりは霞んで見えて、真っ直ぐ立っていられなかった。傘をさして歩き出すと膝が崩れそうになった。それをこらえながらフラフラと駅へ向かって歩いた。何度か植え込みにゲロを吐いた。吐くたびに体内のエネルギーも奪われたような感じがして、六回目にはそのまま植え込みに頭から倒れた。痛みは感じず、もがくようにしてどうにか立ち上がった。傘は真二つに折れてしまった。俺はそれをその場に捨てて、また覚束ない足取りで駅へと向かった。
駅に着くと目の前に大仰なモニュメントがあって、何度も見ていたのに、なぜかそのときは無性に気に入らなくて吐き気がこみあげてきた。しかし胃の中は空っぽでもう出るものがなかった。なにも出ないままげえげえやっていた。
四、五歩進むと膝が折れるような状態でどうにか駅の反対口までたどり着いた。とうに夜の帳はおりていた。俺は夜行バスの時間まで、最後の記念というか、思い出作りというか、そういった感傷に浸ろうと、地元で有名なカレー屋に入った。仕事で先輩に同行していたときにオゴってくれたときに初めて食べて、店は地域のあちこちにあったので、それ以来自分でもよく行くようになった。胃液が逆流してくる感じをどうにか抑えながらカレーを待った。やがて目の前に置かれると、その匂いで急に空腹感に襲われた。千切りのキャベツと混ぜて食べるのがここでの俺の流儀だった。カレーを口に運んでいると、同行した先輩の言葉が蘇ってきた。
「お前はいくら稼ぎたいんだ」
営業なので契約を取れば取っただけマージンが入るので、要はやればやるだけ稼ぐことができる。それはわかっていたが、自分がこれだけ稼ぎたいということは考えたこともなかった。
「同期の奴らに負けたくないのか」
答えに窮しているとさらに先輩は訊ねた。が、それも俺にはいまひとつ理解ができず、答えることはできなかった。
「よく……わからないですね」
蚊の鳴くような声で呟くようにそう言うと、先輩はため息をついた。そんなんだからダメなんだよ。
カレーの味はろくにせず、ただ心の苦さが口の中にまで広がっているようで、俺はほとんど残して店を出た。あのとき、どう答えればよかったのだろうか。月に五十万稼ぎます、社内でトップを目指します、言いようはいくらでもあったのだろうが、どれも本音ではなかった。本音は、わからないが、どこか別のところにあるような気がした。
毎朝、その日の契約件数の目標を発表していくのだが、俺だけ妙に見当違いで、皆が思っていることとも違っていて、なにより、自分が思っていることと違っていて、結局のところ自分がなにをしたいのかがわからなかった。
それでも先輩たちは、こんな俺にもアドバイスをくれ、叱咤激励をしてくれ、ときにはロールプレイングに付き合ってくれることもあった。こんな出来損ないにも、見放さず、厳しくはあるが、とても親身になってくれた。
同行の期間が過ぎ、外回りの仕事をひとりでやるようになると、多少は気持ちが楽になった。しかし結果には繋がらず、次の日の朝礼で成績を発表するときは、誰もなにも言わないが、それがかえって精神的にこたえた。お荷物という言葉が頭をよぎり、自分は能無しのクズだと思った。
夜、帰ってきてからビールを浴びるほど飲み、そのまま寝て出社するようになった。無論、そんな状態で仕事になるはずはなく、日に日に酒の量は増し、ビールからウイスキーへと変わり、飲んでいると仕事も出来ないくせに、お前は酒浸りのクズだと、自分を苛むようになった。そうするとさらに酒の量が増して、気がつくと朝で、便所へ行ってゲロを吐いてから仕事へ行くようになった。そうして三ヶ月が経ち、試用期間が終わり、そこで契約を切られた。
カレー屋を出たが、バスの発車まではまだ小一時間あった。リードに繋がれた子犬のような足取りで線路沿いを歩いた。ほんの少しの距離のはずなのに、感覚としては何時間も歩いているような感じがした。吐き気とともに今度は頭痛までしてきた。歩くたびに脳みそを内側から握られるような、そんな痛みだった。
俺はバーに入った。いままでも何度か通っている店で、マスターは寡黙で喋ったところを見たことは一度もない。おしぼりを受け取り、ジントニックを注文した。出された灰皿に煙草の灰を落として、マスターが酒を作るところを見ていた。客はいなかった。
出てきたジントニックを飲むと、やけにジンがキツかった。しかしそれを差し引くと、最高の気分にさせてくれた。紫煙をくゆらせて、酒を飲む。いままで脳みそが鉛になったかのような感じがしていたが、ここのジントニックはそれをだんだんと正常に戻してくれた。意識がクリアになっていくのがわかる。
煙草を三本吸っているうちに飲み終わったので、ブラッディ・シーザーを頼んだ。マスターは頷き、カクテルを作り始めた。俺はもう一本、煙草に火をつけた。
出てきたブラッディ・シーザーも、ウオッカが強かった。しかしスパイシーなトマトジュースの味とのバランスが絶妙で、決して嫌な強さではなかった。むしろ、これでないとブラッディ・シーザーではない、といったような、ある種の説得力さえあった。
飲んでいるうちに頭痛や吐き気はなりをひそめたが、意識がクリアになるにつれ、真正面からリアルがやってきて、負け犬、負け犬、と言われているような感じがした。煙草を吸っても味はなく、大きなため息をついたが、マスターはアイスピックを使って黙々と氷を砕いていた。
ギムレットには遅すぎた。俺は店を出ると隣のマンションの定礎のところにジントニックとブラッディ・シーザーとギムレットを全部吐いた。トマトとライムの臭いが鼻をつんざいた。このまま倒れ込んで雨に流されてしまいたい思いだった。しかしどうにか気を持ち直して、発車場まで歩いた。歩くテンポに合わせて頭に鈍痛が響いた。バスに着くと運転手に名前を告げて中へ入った――。
I・W・ハーパーの小瓶をしまった。バスはサービスエリアへと入っていくところだった。ガソリンスタンドと便所くらいしかない、小さなところだった。停車すると、運転手はさっきと同じトーンで休憩を告げた。外へ出て喫煙所まで歩いた。何台か車が停まっていて、ナンバープレートに載っている地名が宇都宮だったり前橋や熊谷だったりして、それを見ると夜明けのこの空のような、おぼろげな高揚感が、そっとカーテンを開けるようにして心に入ってくるのだった。
自嘲的な笑みが溢れるのを、ため息をつくことで誤魔化した。もうあと一時間もすれば東京駅に着くだろう。だが、本当に到着することを、自分は本当に望んでいるのだろうか。できることなら、永遠にバスに乗っていたい気持ちもあった。スマホを見ても誰からも連絡は来ていなかった。当たり前といえばそうだ。俺には友達なんていない。昔からつるむのが苦手だった。いつもひとりでヘッドフォンをして音楽を聴いていた。就職が決まったときも、ケイコにしか言わなかった。ほかに言うべき人なんていなかった。しかし、そのケイコからすらも連絡は来ていなかった。東京に戻ることはクビになったときに伝えた。彼女は待ってると言ってくれたのだが、その言葉に期待をしていただけに、少しばかり裏切られた気分だった。
休憩時間が終わり、バスはまた走り出した。運転手が各地の到着時刻をぼそぼそと、なんのゆかりもない会社の貸借対照表を上から読み上げていくように告げた。東京駅には六時四十分を予定していると言った。俺はメールでケイコにそれを伝えた。
心なしか車内にちょっとした緊張感が生まれたような気がした。様々な思いをのせて走るバス。いよいよだ。言葉にはしないが、これからそれぞれの旅路を行く俺たちの、流星のような夜が終わろうとしているのを各々が自覚したような雰囲気だった。
バスの動きが緩慢になったのに気づき、目を開けて窓の外を見ると、すでに陽は昇っていてバスは一般道を走っていた。ケイコから八重洲口で待ってると連絡が来ていた。改めて外を見るといくつものペンキをぶちまけたような、極彩色の光景が広がっていた。それは一種の奇跡のようにも思えたし、また猟奇的でさえあった。眺めていると、久しぶりの東京にノスタルジーを感じることはなく、反対に漠然とした不安感に襲われた。
俺はウイスキーの小瓶を手にとったが、思い直してバッグの奥にしまった。チョコレートを食べる気にもなれず、それもしまった。バスが旋回し、ターミナルへと入っていった。目も眩むようなメトロポリスの瀟洒な佇まいに思わずに見入っていた。バスは停車して、乗客がそれぞれ大望を抱きながら散り散りに去っていく。俺もそれについて降り立った東京駅の生ぬるい空気は、あらゆる予感に満ちていた。帰ってきたんだ。そのことになんの感慨もなかったし、敗走のランナーにゴールテープなどあるはずもなく、ただただ一抹の安堵に身を委ねるばかりだった。今日くらいはそれも許されるだろう。バッグを握り直して、ケイコの待つ八重洲口へと歩き出した。
乗客の何人かが外へ出ていった。俺も続いて降り口へ向かった。正面のデジタル時計には午前二時十五分と表示されていた。思わずため息が漏れる。先は長い。
残された乗客は、バスが停車したことにすら気づいていないようだった。ステップから一歩外へ出ると七月の頭だというのに、やけにひんやりとした空気が俺を包んだ。バスの側面にある東京・品川行の表示を見ると、情けない思いでいっぱいになった。大学を卒業して、生まれ育った埼玉を捨てた気持ちで金沢にある訪問販売の営業会社へ就職したが、なにも結果を残せないまま試用期間で契約を切られた。
両親とは大学生のころに関係が縺れて、二年ほど口をきいておらず、わざわざ金沢の会社を選んだ理由の大きな要因でもあった。
若気の至りといえばそうなのかもしれないが、とても頭を下げる気には、この期に及んでもなかった。実家のある浦和になんて、とてもではないが帰れるわけがなかった。
舌打ちをする。自販機でコーヒーを買って、煙草に火をつけた。あたりは店じまいをした食堂や売店が並んでいて、よけいに寒々しく感じた。缶コーヒーは甘ったるくてろくに味なんてしなかったが、この張り詰めた空気にはちょうど良く、身にしみた。
冷え切ったベンチに腰を下ろして煙草の煙を吐いた。霧消していく紫煙を見ていると、まるで俺のいままでの三ヶ月間のようで、あっけなかったなと思う。そして、なにも残らない。
煙草を一本吸って、缶コーヒーを飲み干した。いつも思うのだが、缶コーヒーの量は一服するのにちょうどいい。あたかも煙草を吸いながら飲むことを前提として作られているように思える。ホスピタリティという言葉が思い浮かぶ。会社の研修で教わった言葉だった。バカのひとつ覚えかと心で自嘲する。
バスへ戻ると車内は相変わらず仕舞われたおもちゃ箱のような静けさで、俺は必要以上に気を遣ってリクライニングをほんの少し倒した。そして腰を沈めて膝を折り、せめてほんの少しでも安眠できるようにと体勢をつくると、イヤホンをつけて目を閉じた。
イヤホンからはBAN BAN BLUESの曲が流れている。俺が中学生のころにブレイクしたバンドで、何度かライブにも行ったことがある。その後数年して解散したのだが、未だに彼らは伝説となっている。ソリッドなギターのカッティングにうなるベース、畳み掛けるようなドラム、そして狂ったようなヴォーカル。それらは俺を慰めもしないし励ましもしなかったが、バスに揺られながら聴いていると安心できた。「お前がそう思うんならそれでいいんじゃないの」といわれているような感じがする。それは昔から、いつだってそうだった。
かすかに身体が揺れて俺は目を開いた。バスは淡々と東京へと向かっているが、いまここがどこなのかはまったくわからなかった。カーテンをずらして外を見ても、常夜灯が規則的に通り過ぎていくだけで、果たして本当にこのバスは東京へ向かっているのか、それすら疑わしくさえあった。
身体を起こして、正面の座席のポケットからチョコレートを取ってひとつ口に入れた。少し柔らかくなっていて、口の中ですぐに甘さが広がった。チョコレートが口の中に無くなっても舌を動かして余韻に浸っていた。唾液を飲み込むと、その余韻もやがて無くなり、俺は無性に煙草が吸いたくなった。姿勢を戻してフロントガラスの向こうを見ると、吸い込まれそうなほど真っ直ぐに道が伸びていた。
ため息が漏れる。俺は、なにもできなかった。どんどんと情けない気持ちに引きずられていきそうで、俺はバッグからI・W・ハーパーの小瓶を出すと、それを思い切りあおった。喉から胃にかけて熱くなっていく。いまの感情を焼き消してくれるような、そんな気がしてもう一口飲んだ。
俺は昨日の、引越し業者に荷物を運んでもらったあとの、がらんどうの部屋を思い出していた。雨が降っていて陽も沈み始めていて、やけに寒かった。暖房もつけられず、俺はハーゲンダッツのラムレーズン味を食べながらウイスキーを飲んでいた。ラッパ飲みしているうちに涙が出てきて、そのまま床に突っ伏して泣いた。泣きながらウイスキーを飲んだ。部屋を引き渡すときに便所で吐いた。三分の一くらい残ったウイスキーを飲みながら、傘もささずに鍵を返しに不動産屋へ向かった。次第に雨は強くなり、着くころには土砂降りになっていた。鍵を返すと出るときに傘をくれた。俺は残りのウイスキーを飲み干して瓶を植え込みに投げ捨てた。あたりは霞んで見えて、真っ直ぐ立っていられなかった。傘をさして歩き出すと膝が崩れそうになった。それをこらえながらフラフラと駅へ向かって歩いた。何度か植え込みにゲロを吐いた。吐くたびに体内のエネルギーも奪われたような感じがして、六回目にはそのまま植え込みに頭から倒れた。痛みは感じず、もがくようにしてどうにか立ち上がった。傘は真二つに折れてしまった。俺はそれをその場に捨てて、また覚束ない足取りで駅へと向かった。
駅に着くと目の前に大仰なモニュメントがあって、何度も見ていたのに、なぜかそのときは無性に気に入らなくて吐き気がこみあげてきた。しかし胃の中は空っぽでもう出るものがなかった。なにも出ないままげえげえやっていた。
四、五歩進むと膝が折れるような状態でどうにか駅の反対口までたどり着いた。とうに夜の帳はおりていた。俺は夜行バスの時間まで、最後の記念というか、思い出作りというか、そういった感傷に浸ろうと、地元で有名なカレー屋に入った。仕事で先輩に同行していたときにオゴってくれたときに初めて食べて、店は地域のあちこちにあったので、それ以来自分でもよく行くようになった。胃液が逆流してくる感じをどうにか抑えながらカレーを待った。やがて目の前に置かれると、その匂いで急に空腹感に襲われた。千切りのキャベツと混ぜて食べるのがここでの俺の流儀だった。カレーを口に運んでいると、同行した先輩の言葉が蘇ってきた。
「お前はいくら稼ぎたいんだ」
営業なので契約を取れば取っただけマージンが入るので、要はやればやるだけ稼ぐことができる。それはわかっていたが、自分がこれだけ稼ぎたいということは考えたこともなかった。
「同期の奴らに負けたくないのか」
答えに窮しているとさらに先輩は訊ねた。が、それも俺にはいまひとつ理解ができず、答えることはできなかった。
「よく……わからないですね」
蚊の鳴くような声で呟くようにそう言うと、先輩はため息をついた。そんなんだからダメなんだよ。
カレーの味はろくにせず、ただ心の苦さが口の中にまで広がっているようで、俺はほとんど残して店を出た。あのとき、どう答えればよかったのだろうか。月に五十万稼ぎます、社内でトップを目指します、言いようはいくらでもあったのだろうが、どれも本音ではなかった。本音は、わからないが、どこか別のところにあるような気がした。
毎朝、その日の契約件数の目標を発表していくのだが、俺だけ妙に見当違いで、皆が思っていることとも違っていて、なにより、自分が思っていることと違っていて、結局のところ自分がなにをしたいのかがわからなかった。
それでも先輩たちは、こんな俺にもアドバイスをくれ、叱咤激励をしてくれ、ときにはロールプレイングに付き合ってくれることもあった。こんな出来損ないにも、見放さず、厳しくはあるが、とても親身になってくれた。
同行の期間が過ぎ、外回りの仕事をひとりでやるようになると、多少は気持ちが楽になった。しかし結果には繋がらず、次の日の朝礼で成績を発表するときは、誰もなにも言わないが、それがかえって精神的にこたえた。お荷物という言葉が頭をよぎり、自分は能無しのクズだと思った。
夜、帰ってきてからビールを浴びるほど飲み、そのまま寝て出社するようになった。無論、そんな状態で仕事になるはずはなく、日に日に酒の量は増し、ビールからウイスキーへと変わり、飲んでいると仕事も出来ないくせに、お前は酒浸りのクズだと、自分を苛むようになった。そうするとさらに酒の量が増して、気がつくと朝で、便所へ行ってゲロを吐いてから仕事へ行くようになった。そうして三ヶ月が経ち、試用期間が終わり、そこで契約を切られた。
カレー屋を出たが、バスの発車まではまだ小一時間あった。リードに繋がれた子犬のような足取りで線路沿いを歩いた。ほんの少しの距離のはずなのに、感覚としては何時間も歩いているような感じがした。吐き気とともに今度は頭痛までしてきた。歩くたびに脳みそを内側から握られるような、そんな痛みだった。
俺はバーに入った。いままでも何度か通っている店で、マスターは寡黙で喋ったところを見たことは一度もない。おしぼりを受け取り、ジントニックを注文した。出された灰皿に煙草の灰を落として、マスターが酒を作るところを見ていた。客はいなかった。
出てきたジントニックを飲むと、やけにジンがキツかった。しかしそれを差し引くと、最高の気分にさせてくれた。紫煙をくゆらせて、酒を飲む。いままで脳みそが鉛になったかのような感じがしていたが、ここのジントニックはそれをだんだんと正常に戻してくれた。意識がクリアになっていくのがわかる。
煙草を三本吸っているうちに飲み終わったので、ブラッディ・シーザーを頼んだ。マスターは頷き、カクテルを作り始めた。俺はもう一本、煙草に火をつけた。
出てきたブラッディ・シーザーも、ウオッカが強かった。しかしスパイシーなトマトジュースの味とのバランスが絶妙で、決して嫌な強さではなかった。むしろ、これでないとブラッディ・シーザーではない、といったような、ある種の説得力さえあった。
飲んでいるうちに頭痛や吐き気はなりをひそめたが、意識がクリアになるにつれ、真正面からリアルがやってきて、負け犬、負け犬、と言われているような感じがした。煙草を吸っても味はなく、大きなため息をついたが、マスターはアイスピックを使って黙々と氷を砕いていた。
ギムレットには遅すぎた。俺は店を出ると隣のマンションの定礎のところにジントニックとブラッディ・シーザーとギムレットを全部吐いた。トマトとライムの臭いが鼻をつんざいた。このまま倒れ込んで雨に流されてしまいたい思いだった。しかしどうにか気を持ち直して、発車場まで歩いた。歩くテンポに合わせて頭に鈍痛が響いた。バスに着くと運転手に名前を告げて中へ入った――。
I・W・ハーパーの小瓶をしまった。バスはサービスエリアへと入っていくところだった。ガソリンスタンドと便所くらいしかない、小さなところだった。停車すると、運転手はさっきと同じトーンで休憩を告げた。外へ出て喫煙所まで歩いた。何台か車が停まっていて、ナンバープレートに載っている地名が宇都宮だったり前橋や熊谷だったりして、それを見ると夜明けのこの空のような、おぼろげな高揚感が、そっとカーテンを開けるようにして心に入ってくるのだった。
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休憩時間が終わり、バスはまた走り出した。運転手が各地の到着時刻をぼそぼそと、なんのゆかりもない会社の貸借対照表を上から読み上げていくように告げた。東京駅には六時四十分を予定していると言った。俺はメールでケイコにそれを伝えた。
心なしか車内にちょっとした緊張感が生まれたような気がした。様々な思いをのせて走るバス。いよいよだ。言葉にはしないが、これからそれぞれの旅路を行く俺たちの、流星のような夜が終わろうとしているのを各々が自覚したような雰囲気だった。
バスの動きが緩慢になったのに気づき、目を開けて窓の外を見ると、すでに陽は昇っていてバスは一般道を走っていた。ケイコから八重洲口で待ってると連絡が来ていた。改めて外を見るといくつものペンキをぶちまけたような、極彩色の光景が広がっていた。それは一種の奇跡のようにも思えたし、また猟奇的でさえあった。眺めていると、久しぶりの東京にノスタルジーを感じることはなく、反対に漠然とした不安感に襲われた。
俺はウイスキーの小瓶を手にとったが、思い直してバッグの奥にしまった。チョコレートを食べる気にもなれず、それもしまった。バスが旋回し、ターミナルへと入っていった。目も眩むようなメトロポリスの瀟洒な佇まいに思わずに見入っていた。バスは停車して、乗客がそれぞれ大望を抱きながら散り散りに去っていく。俺もそれについて降り立った東京駅の生ぬるい空気は、あらゆる予感に満ちていた。帰ってきたんだ。そのことになんの感慨もなかったし、敗走のランナーにゴールテープなどあるはずもなく、ただただ一抹の安堵に身を委ねるばかりだった。今日くらいはそれも許されるだろう。バッグを握り直して、ケイコの待つ八重洲口へと歩き出した。
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