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アパートに着いたのは六時前だった。ケイコはすでに起きていて、トーストとコーヒーの朝食をとっていた。
「どこに行ってたの」
「わからない」
ケイコはため息をついた。もう死ねよ、毒虫、と呟くのが聞こえた。
「ケイコ」
なに、とぶっきらぼうに返ってきた。
「俺さ、仕事探すよ」
ケイコはカップを置くと、俺の目を射抜くように見据えて言った。
「当たり前でしょ」
それから、臭いから早くシャワー浴びてきて、と言って、食器を片付けはじめた。俺は言われたとおりにした。
熱いシャワーが汗やゲロや酒や煙草の臭いを流してくれる。しばらく目をつむってお湯を浴び続けた。なんだか楽しい夜だったな、とさっきのことを振り返る。今度また行ってみよう、そう思ったが、店の名前がどうしても思い出せなかった。
フロからあがるとケイコは身支度を整えていた。髪をブラシで梳いて、腕時計とピンキーリングをつけて立ち上がった。すれ違いざま、いってらっしゃいと声をかけたが、なにも返ってこないままドアが開き、閉じた。
俺はベッドに倒れこみ、うつ伏せのままスマホで転職サイトを開いた。まずは職業適性診断をやってみることにした。いくつかの質問に答えると、自分に合った職種を紹介してくれるというものらしい。質問に素直に答えていく。
十分くらいで終わり、結果を見てみると、お探しの職種はありませんでした、と出た。つまり、俺に向いている仕事などないというわけだ。そんなことがあり得るのかと、非常に不快な思いがした。それでも求人票から適当にピックアップして、エントリーしてみた。
日がなそうやって探してはいるものの、全て、履歴書を出しただけで終わり、まったく手応えがなかった。ケイコは仕事が忙しいのか、帰りが遅いことが多くなってきた。帰ってきても、なにも話さないまま、先に寝てしまう。
一週間、そんな調子だった。ケイコは休みの日にも出勤していて、それを見ていると、とても仕事を探す気にはなれなかったが、ケイコの無言の圧力を感じて、炎天下の中を歩いてハローワークに行くようにした。
「なにか希望の職種はありますか?」
「いや、特には」
「やりたいことは?」
「別に」
「もう一度、営業をやってみる?」
「それはちょっと」
窓口のお姉さんは俺に遠慮なんてなく、あからさまにため息をついた。
「そこのパソコンから仕事を選んで、プリントアウトしたら持ってきてください」
求職者登録を済ませて、職安求職申込書を受け取ると、俺は言われたとおりにパソコンのあるところへと向かった。数台のパソコンが並んでいて、いくつかのパソコンにはすでに人がいて、みんな必死になって求人票を見ていた。本当にこいつに仕事を任せても大丈夫なのかと思わずにはいられないほど、社会不適合者でござい、といった様相だった。社会からあぶれ、それでもなおしがみついているのが、とても醜いように思えた。あとでケイコにそれを話したら、あんただって同じよ、と言われた。それと、そんな気持ちじゃ一生仕事なんて見つからないよ、とも。
求人情報を眺めていると、営業職が圧倒的に多かった。俺はそんなに稼ぎたいという気持ちもないし、適当に仕事して、そこそこの給料をもらえればそれでよかったから、営業職はリストから外した。
事務職ならやれそうな気がしたが、応募は女性に限られていたので、それも外した。と、残るのは飲食店やビルのメンテナンス・清掃、警備員などといった仕事だった。見るのは給与の欄と福利厚生の欄だけで、社員旅行はかったるいな、とか、月の休みが少ないとか、休みが多いかと思えば、給与が安く、そしてそもそも募集が正社員ではなく、契約社員のところもあった。
やっとの思いで三、四枚求人情報を印刷して受付に持っていくと、会社に連絡をして、俺が履歴書を出す期限が決められる。コンビニで履歴書を買って帰り、家でそれを書いていく。何度も書き損じて、何回か買い直した。
しかし結果は実らず、スマホの前で連絡を待っていても、一向に電話が来る様子もなく、そんなことが一か月も続くと、俺は社会から必要とされていない、存在意義のない人間なんだと感じるようになってきた。日が経つにつれ精神はささくれだって、夕方に飲んでいた酒が昼から飲むようになり、さらにケイコが家を出た瞬間から飲むようになった。
ケイコが帰ってくるころにはへべれけで、便所で吐いて、また飲んだ。ささくれだった気持ちは、酒を飲んでも収まらず、ケイコに当たるようになった。毎日怒鳴って酒を買いに行かせた。ケイコは冷たい目で俺を見て、黙ってウイスキーを買ってきて俺によこした。俺はそれをボトルに口をつけて飲む。吐き気がこみ上げて便所へ駆け込む。次第にゲロに血が混ざるようになった。ケイコは俺が吐こうが飲み続けようが意に介さず、淡々と自分の「生活」を送っていた。俺はそれが気に食わなかった。苛立ちは募るばかりだ。便所から戻って、また酒を飲む。
「もう死ねよ、毒虫」
久しぶりにケイコは休みだった。ケイコは朝から酒をあおっている俺を見据えて言った。なんだと、とボトルを置いてすごむとケイコは小さくうずくまるように身を守った。俺が一歩近づくと、ケイコはひっと叫んで玄関から外へ出ていった。ドアが閉まると、俺は膝から崩れ落ちた。床に突っ伏して頭をかきむしる。畜生、畜生、畜生……呟いていると、だんだんその言葉が身体に焦げ付いていった。もう死ねよ、毒虫。頭でその言葉がこだまして、囲まれて、袋叩きにされている気持ちだった。
俺はウイスキーのボトルに口をつけて、ラッパ飲みした。身体が熱くなり、心にこびりついた嫌な感情を溶かそうとさらに飲んだが、むしろ嫌な感情は募るばかりで、俺は空しくなってぼうっと壁を見るでもなく見ていた。こんな夜はなにをしてもダメだ。きっと明日も明日でダメだろう。来週も、来月も、来年も、そして一生。
ふと、ベッドの横の収納棚が目に入った。たしかここには――。
あった。ケイコが頭痛と肩こりで処方してもらった、デパスがシートで二枚残っていた。俺はそこからシート一枚分出して、ウイスキーで流し込んだ。
十五分もすると気持ちが軽くなって、なんだか楽しい気持ちになった。やけに酒がうまい。最高だ。俺はウォークマンとスピーカーとをBluetoothで繋いで、BAN BAN BLUESを流した。やっぱり彼らは最高だ。曲がいまだに色褪せず、俺の心に響いてくる。煙草をふかして、俺はなにも考えずに聴いていた。
玄関のドアが開く音がして、ケイコが帰ってきたことに気がついた。憔悴しきった顔をしていて、俺の姿を見るその表情は冷たかった。
「なに呑気に音楽なんか聴いてるのよ」
「カッコいいだろ? 昔から好きなんだよ」
「なんか呂律も回ってないし……」と、ケイコはため息をついた。「もう出て行って」
えっ、と俺はケイコを見た。
「もう限界。さっさと出て行って」
言われるがまま、俺は玄関まで歩いた。ケイコには有無を言わさぬ威圧感があった。
「合鍵返して」
素直に鍵を渡した。ケイコは俺のバッグを外に放り投げると、ドアを閉めて鍵までかけた。べったりと張り付くような日差しを背中で受けて、陽が傾いていることに気がついた。俺は呆然としたまま、駅まで歩いた。
暮れなずむ街からは、味噌汁を作っていたりや魚を焼いている、うまそうな匂いがして、空腹感が急にやってきた。財布の中には三千円と少しの小銭があるだけだった。どこかでメシでも食いたかったが、それはためらわれた。
電車に乗ると、壁や中吊りの広告がやけにチカチカと目を射した。終点の新宿まで行くつもりだった。あてはないが、とにかくここから離れたかったし、なんとなく、新宿まで行けばなんとかなりそうな気がした。
新宿に着いたころには空は暗くなっていた。東口を出て、道なりに歩き、喫煙所で煙草を吸った。
すべては夜が明けてからだ。そうは思っても、現状、俺に行き場はない。喫煙所の人々は皆が皆、楽しそうに喋っていたり、電話をしていたり、スマホをいじっていたりと、誰かしらと繋がっている。それは巨大な悪魔を構成する細胞たちのように思えて、俺だけが爪弾きにされた感じがした。ちょうど身体のどこか一部の細胞が壊死(ネクローシス)するように……。
俺はふと、昨日の店へ行こうという気になった。アルタの横から靖国通りへと出て、ドン・キホーテに寄り道をして……人混みを縫うように歩いていく。行くあてができると、いままで茫然としたイメージだった街が実態を帯びて、視界がクリアになった。
しかし、どこをどう歩いても、場所が思い出せず、店が見つからない。ゴールデン街の中だったのか、歌舞伎町の並びだったのか、路地裏のビルの地下だったのか、そもそも、本当に俺はあの店へ行っていたのか、何一つ確信がなかった。時間は掃いて捨てるほどあるしと、あちこち歩き回っているうちに、だんだん自分が居るこの場所がまたぼんやりとしてきて、濃霧の森を歩いているみたいで不安になった。そして迷子さながら、ついに立ち尽くしてしまった。
おぼろげな視界の中で、インターネットカフェが目に留まった。この街は、行くべきところの無い者まで受け入れてくれる。それはある種恐怖感もあったが、ほかに選択肢もなし、俺は吸い込まれるように中へ入っていった。
バリバリとした合皮のリクライニングチェアに身をあずけていると、いまになってケイコの優しさが身にしみた。なにも考えずに地元を出て、負けて戻ってきた俺を迎え入れてくれた。自分は甘えきっていたのだと痛感すると、足も伸ばせず頬を冷やすこのイスが、ケイコの怒りを代弁する存在のように思った。明日になったら謝ろう、そして、今度こそめげずに仕事を探そうと歯を食いしばった。そうでもしないと惨めさにやられてしまいそうだった。しかし俺には惨めになる資格などない。俺はなにもしていない、ただの酒浸りだからだ。情けない思いだが、泣くことも俺には許されない。すべて身から出た錆なのだ。
俺はドン・キホーテで買ったジム・ビームの小瓶を出して、一口飲んだ。日が昇れば俺だってまともになれる。だからそれまでは……。
全身が凝り固まっていて、その痛みで目が覚めた。腕と足が痺れていた。ゆっくりと伸ばそうとしたが、狭くてそれも叶わず、もぞもぞと身体を動かして血を巡らせた。立ち上がると目眩がした。おまけに頭痛もひどい。
便所で吐いてから会計を済ませて外へ出た。なんともいえない悪臭が漂っていて、それがなんとも実直で、リアルだった。土埃、排気ガス、生ゴミ、ゲロ、排泄物、汗、香水、使用済みの生理用品、精液、酒……この悪臭は、人の営みの影の臭いだ。夜はそれを隠してくれるが、太陽はそれを容赦なく暴き出す。
日差しに照らされて、俺の心まであけすけにされた感じがしたが、かえって清々しい気持ちだった。やり直すにはうってつけの日だと思った。
玄関を開けたケイコは寝ぼけ眼で、俺を認識するのに少しの時間があった。ようやく俺だと気づくと、黙ってドアを閉めようとした。俺はドアノブを持ってそれを止めた。そして、謝った。
「そんな乞食同然の毒虫みたいな生き方でさ、情けないと思わないの?」
ケイコは吐き捨てるように言った。乞食、毒虫……辛辣な言葉に身をえぐられる思いだった。
「でも、頼れるのはケイコしかいないんだよ」
しばらくお互いに喋らなかった。カラスの啼く声が聞こえた。後ろから陽が差し込んできて、背中が暑かった。もう夏も終わりかな、などと能天気なことを考えたが、すぐに思い直した。
「とりあえず日雇いのバイトをしてさ、それをしながら仕事を見つけるよ。だからそれまでの間、お願いだから置いてくれないか」
ケイコはため息をついて、バカじゃないの、と言った。
「そんな次元の低い話、聞くわけないでしょ。もうどっかいって。金輪際、うちに来ないで」
ケイコがまたドアを閉めようとした。俺は隙間に足を挟んで食い止めた。すると、部屋の奥から誰だよ、と男の声がした。
「誰かいんの?」
「あんたには関係ないでしょ」
「誰だよ」
「だから関係ないでしょ。さっさと消えて」
隙間に挟んだ足を蹴られ、その拍子にドアを閉められた。
「どこに行ってたの」
「わからない」
ケイコはため息をついた。もう死ねよ、毒虫、と呟くのが聞こえた。
「ケイコ」
なに、とぶっきらぼうに返ってきた。
「俺さ、仕事探すよ」
ケイコはカップを置くと、俺の目を射抜くように見据えて言った。
「当たり前でしょ」
それから、臭いから早くシャワー浴びてきて、と言って、食器を片付けはじめた。俺は言われたとおりにした。
熱いシャワーが汗やゲロや酒や煙草の臭いを流してくれる。しばらく目をつむってお湯を浴び続けた。なんだか楽しい夜だったな、とさっきのことを振り返る。今度また行ってみよう、そう思ったが、店の名前がどうしても思い出せなかった。
フロからあがるとケイコは身支度を整えていた。髪をブラシで梳いて、腕時計とピンキーリングをつけて立ち上がった。すれ違いざま、いってらっしゃいと声をかけたが、なにも返ってこないままドアが開き、閉じた。
俺はベッドに倒れこみ、うつ伏せのままスマホで転職サイトを開いた。まずは職業適性診断をやってみることにした。いくつかの質問に答えると、自分に合った職種を紹介してくれるというものらしい。質問に素直に答えていく。
十分くらいで終わり、結果を見てみると、お探しの職種はありませんでした、と出た。つまり、俺に向いている仕事などないというわけだ。そんなことがあり得るのかと、非常に不快な思いがした。それでも求人票から適当にピックアップして、エントリーしてみた。
日がなそうやって探してはいるものの、全て、履歴書を出しただけで終わり、まったく手応えがなかった。ケイコは仕事が忙しいのか、帰りが遅いことが多くなってきた。帰ってきても、なにも話さないまま、先に寝てしまう。
一週間、そんな調子だった。ケイコは休みの日にも出勤していて、それを見ていると、とても仕事を探す気にはなれなかったが、ケイコの無言の圧力を感じて、炎天下の中を歩いてハローワークに行くようにした。
「なにか希望の職種はありますか?」
「いや、特には」
「やりたいことは?」
「別に」
「もう一度、営業をやってみる?」
「それはちょっと」
窓口のお姉さんは俺に遠慮なんてなく、あからさまにため息をついた。
「そこのパソコンから仕事を選んで、プリントアウトしたら持ってきてください」
求職者登録を済ませて、職安求職申込書を受け取ると、俺は言われたとおりにパソコンのあるところへと向かった。数台のパソコンが並んでいて、いくつかのパソコンにはすでに人がいて、みんな必死になって求人票を見ていた。本当にこいつに仕事を任せても大丈夫なのかと思わずにはいられないほど、社会不適合者でござい、といった様相だった。社会からあぶれ、それでもなおしがみついているのが、とても醜いように思えた。あとでケイコにそれを話したら、あんただって同じよ、と言われた。それと、そんな気持ちじゃ一生仕事なんて見つからないよ、とも。
求人情報を眺めていると、営業職が圧倒的に多かった。俺はそんなに稼ぎたいという気持ちもないし、適当に仕事して、そこそこの給料をもらえればそれでよかったから、営業職はリストから外した。
事務職ならやれそうな気がしたが、応募は女性に限られていたので、それも外した。と、残るのは飲食店やビルのメンテナンス・清掃、警備員などといった仕事だった。見るのは給与の欄と福利厚生の欄だけで、社員旅行はかったるいな、とか、月の休みが少ないとか、休みが多いかと思えば、給与が安く、そしてそもそも募集が正社員ではなく、契約社員のところもあった。
やっとの思いで三、四枚求人情報を印刷して受付に持っていくと、会社に連絡をして、俺が履歴書を出す期限が決められる。コンビニで履歴書を買って帰り、家でそれを書いていく。何度も書き損じて、何回か買い直した。
しかし結果は実らず、スマホの前で連絡を待っていても、一向に電話が来る様子もなく、そんなことが一か月も続くと、俺は社会から必要とされていない、存在意義のない人間なんだと感じるようになってきた。日が経つにつれ精神はささくれだって、夕方に飲んでいた酒が昼から飲むようになり、さらにケイコが家を出た瞬間から飲むようになった。
ケイコが帰ってくるころにはへべれけで、便所で吐いて、また飲んだ。ささくれだった気持ちは、酒を飲んでも収まらず、ケイコに当たるようになった。毎日怒鳴って酒を買いに行かせた。ケイコは冷たい目で俺を見て、黙ってウイスキーを買ってきて俺によこした。俺はそれをボトルに口をつけて飲む。吐き気がこみ上げて便所へ駆け込む。次第にゲロに血が混ざるようになった。ケイコは俺が吐こうが飲み続けようが意に介さず、淡々と自分の「生活」を送っていた。俺はそれが気に食わなかった。苛立ちは募るばかりだ。便所から戻って、また酒を飲む。
「もう死ねよ、毒虫」
久しぶりにケイコは休みだった。ケイコは朝から酒をあおっている俺を見据えて言った。なんだと、とボトルを置いてすごむとケイコは小さくうずくまるように身を守った。俺が一歩近づくと、ケイコはひっと叫んで玄関から外へ出ていった。ドアが閉まると、俺は膝から崩れ落ちた。床に突っ伏して頭をかきむしる。畜生、畜生、畜生……呟いていると、だんだんその言葉が身体に焦げ付いていった。もう死ねよ、毒虫。頭でその言葉がこだまして、囲まれて、袋叩きにされている気持ちだった。
俺はウイスキーのボトルに口をつけて、ラッパ飲みした。身体が熱くなり、心にこびりついた嫌な感情を溶かそうとさらに飲んだが、むしろ嫌な感情は募るばかりで、俺は空しくなってぼうっと壁を見るでもなく見ていた。こんな夜はなにをしてもダメだ。きっと明日も明日でダメだろう。来週も、来月も、来年も、そして一生。
ふと、ベッドの横の収納棚が目に入った。たしかここには――。
あった。ケイコが頭痛と肩こりで処方してもらった、デパスがシートで二枚残っていた。俺はそこからシート一枚分出して、ウイスキーで流し込んだ。
十五分もすると気持ちが軽くなって、なんだか楽しい気持ちになった。やけに酒がうまい。最高だ。俺はウォークマンとスピーカーとをBluetoothで繋いで、BAN BAN BLUESを流した。やっぱり彼らは最高だ。曲がいまだに色褪せず、俺の心に響いてくる。煙草をふかして、俺はなにも考えずに聴いていた。
玄関のドアが開く音がして、ケイコが帰ってきたことに気がついた。憔悴しきった顔をしていて、俺の姿を見るその表情は冷たかった。
「なに呑気に音楽なんか聴いてるのよ」
「カッコいいだろ? 昔から好きなんだよ」
「なんか呂律も回ってないし……」と、ケイコはため息をついた。「もう出て行って」
えっ、と俺はケイコを見た。
「もう限界。さっさと出て行って」
言われるがまま、俺は玄関まで歩いた。ケイコには有無を言わさぬ威圧感があった。
「合鍵返して」
素直に鍵を渡した。ケイコは俺のバッグを外に放り投げると、ドアを閉めて鍵までかけた。べったりと張り付くような日差しを背中で受けて、陽が傾いていることに気がついた。俺は呆然としたまま、駅まで歩いた。
暮れなずむ街からは、味噌汁を作っていたりや魚を焼いている、うまそうな匂いがして、空腹感が急にやってきた。財布の中には三千円と少しの小銭があるだけだった。どこかでメシでも食いたかったが、それはためらわれた。
電車に乗ると、壁や中吊りの広告がやけにチカチカと目を射した。終点の新宿まで行くつもりだった。あてはないが、とにかくここから離れたかったし、なんとなく、新宿まで行けばなんとかなりそうな気がした。
新宿に着いたころには空は暗くなっていた。東口を出て、道なりに歩き、喫煙所で煙草を吸った。
すべては夜が明けてからだ。そうは思っても、現状、俺に行き場はない。喫煙所の人々は皆が皆、楽しそうに喋っていたり、電話をしていたり、スマホをいじっていたりと、誰かしらと繋がっている。それは巨大な悪魔を構成する細胞たちのように思えて、俺だけが爪弾きにされた感じがした。ちょうど身体のどこか一部の細胞が壊死(ネクローシス)するように……。
俺はふと、昨日の店へ行こうという気になった。アルタの横から靖国通りへと出て、ドン・キホーテに寄り道をして……人混みを縫うように歩いていく。行くあてができると、いままで茫然としたイメージだった街が実態を帯びて、視界がクリアになった。
しかし、どこをどう歩いても、場所が思い出せず、店が見つからない。ゴールデン街の中だったのか、歌舞伎町の並びだったのか、路地裏のビルの地下だったのか、そもそも、本当に俺はあの店へ行っていたのか、何一つ確信がなかった。時間は掃いて捨てるほどあるしと、あちこち歩き回っているうちに、だんだん自分が居るこの場所がまたぼんやりとしてきて、濃霧の森を歩いているみたいで不安になった。そして迷子さながら、ついに立ち尽くしてしまった。
おぼろげな視界の中で、インターネットカフェが目に留まった。この街は、行くべきところの無い者まで受け入れてくれる。それはある種恐怖感もあったが、ほかに選択肢もなし、俺は吸い込まれるように中へ入っていった。
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全身が凝り固まっていて、その痛みで目が覚めた。腕と足が痺れていた。ゆっくりと伸ばそうとしたが、狭くてそれも叶わず、もぞもぞと身体を動かして血を巡らせた。立ち上がると目眩がした。おまけに頭痛もひどい。
便所で吐いてから会計を済ませて外へ出た。なんともいえない悪臭が漂っていて、それがなんとも実直で、リアルだった。土埃、排気ガス、生ゴミ、ゲロ、排泄物、汗、香水、使用済みの生理用品、精液、酒……この悪臭は、人の営みの影の臭いだ。夜はそれを隠してくれるが、太陽はそれを容赦なく暴き出す。
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ケイコはため息をついて、バカじゃないの、と言った。
「そんな次元の低い話、聞くわけないでしょ。もうどっかいって。金輪際、うちに来ないで」
ケイコがまたドアを閉めようとした。俺は隙間に足を挟んで食い止めた。すると、部屋の奥から誰だよ、と男の声がした。
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