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東京から金沢へ発つとき、品川のバスターミナルまでケイコは来てくれた。やけに息苦しい、曇の夜だった。出発するまで俺たちは居酒屋で過ごした。こういうときにそばに居てくれるのは、いつだってケイコだった。
「まさかあんたがちゃんと就職するなんてね」
ケイコは少し笑っていた。俺がなんで笑ってんだよ、と言うと、ケイコは別に、とだけ言って、カシスオレンジを飲んだ。
「でも、こっちで見つからなかったの?」
「遠くに行きたかったんだよ。ここじゃないどこかに」
ケイコはため息をついた。相変わらずね。あとで痛い目を見ても知らないよ。
「変わらねえな、お前も」
俺は思わず笑ってしまった。この期に及んでケイコに忠告されるなんて。でも、それがなんとなく居心地が良かった。
店内はやけに騒がしかった。仕事終わりのサラリーマンたちが、一週間の鬱憤をここぞとばかりに晴らしていた。そういえば今日は金曜日か、煙草を吸いながらそんなことを思った。俺もこれからは週末にはこうして会社の人と飲みに行ったりするのだろうか、と想像してみても、それはぼんやりとしたイメージでしかなく、そもそも就職した会社は月曜と火曜が休みなので、果たして、こうしてきちんと土日で休んでいる人はどれだけいるのだろうと不思議に思った。
「いま、なにを考えてたの?」
ケイコが俺に尋ねる。俺は別に、と言ってビールをあおった。ケイコはそれを見て少し笑った。
「就職先ってさ、どんな会社なの?」
俺は訪販だと言った。ホウハン? ケイコが聞き返す。訪問販売だよ、と言うと、
「あんたがやってるとこなんて、想像できないんだけど」
と言った。俺はふっと笑って、それは俺だってそうだよ、と言った。
「なんでそんな大変な仕事にしたの?」
さあね、と俺は言った。大変じゃない仕事なんてないだろ。
「ケイコの、スタイリストの仕事なんか、絶対に俺にはできないもん」
まあねえ、とケイコは酒を舐めるように飲んだ。思えば、ケイコが美容師として働きだして、アシスタントから始まってスタイリストになるまでは、苛烈ともいえるほどの仕事内容だった。聞いていても気は滅入るし、心配になるしと、気が気ではなかったが、当の本人はあっけらかんとしていた。楽しいとさえ言っていた。そして、いまでは俺の心配をしている。
ケイコはエイヒレにマヨネーズをつけて口に入れた。なにか飲む? 俺は店員を呼んで、モスコミュールとビールを注文した。
「あのね」
店員が去っていくと、ケイコは空いたグラスのふちをなぞりながら、ためらいがちに言った。
「わたし、ずっとあんたのことが好きだったの」
新宿行きの電車に乗りながら、そのときのことを思い出していた。ケイコが洗面所から去ったあと、リビングに戻ることができず、俺はなんの考えもなしに家を出て、電車に乗っていた。あのときのことを考えると、くすぐったいような気持ちになる。そして、俺は返事ができないまま、夜行バスへ乗ってしまった。戻ってきたいまも、切り出すべきかどうか、逡巡している。
アナウンスが聞こえる。もう新宿に着く。いまから向かうは大遊戯場歌舞伎町。しかし、あてはない。
地下から昇ってくる生臭い風が、俺を通り過ぎていく。駅から出ると、俺は思わず立ちつくした。退廃的な喧騒があたりいっぱいにひしめいている。それはひとつの巨大な生物が蠢いているようで、俺は飲み込まれるようにして、ゆっくりと足を一歩、踏み出した。
ぼうっと歩いていると、過ぎていく人々の顔がパチリパチリと、フラッシュのように網膜に焼きついてくる感じがした。歌舞伎町入口の、靖国通りの信号までやってきたが、その感覚はだんだんと強くなり、脳内に情報がどんどん蓄積されていった。信号が青になり、歌舞伎町へ入る。俺は目眩がしてきて、意識が遠のいていく感じがした。キャッチの兄ちゃんの声がどこからか聞こえる。どこかで聞いたことのあるようなダンスミュージックが、遥か向こうから聞こえてくる。酔っ払って豪気になっている男たち、その酒気をさらに混濁へといざなう女たち、無料案内所、クラブ・ザナドゥ、クラウディア、エスポワール、ドン・ファン・クラブ……パチリ、パチリ。膨大な情報が脳内に一気に流れ込んできて、今度は吐き気がしてきた。視界は霞んでいて、ぼんやりとバッティングセンターの看板が見えた。俺は逃げるように路地へ入り、覚束ない足取りで歩き続けた。アパートの裏側、規則的に室外機が取り付けられている。いつ捨てるのかわからない、ゴミが詰め込まれているプラスチックの箱が山積みになっている。やがて路地を抜けると、大通りに出た。見覚えのある道だったが、いまはここがどこなのか思い出せない。ふらふらと道を渡り、再び小さな道へ入ると、今度は歌舞伎町とはまた違った雰囲気の町並みがあった。古く小さな店が立ち並んでいて、過去を切り取って貼り付けたような、ある種の違和感があった。居心地が悪く、また路地へ入ろうとするが、曲がれども曲がれども、店は軒を連ねていて、その間にも人の顔や店の看板、風景などが頭に入ってくる。情報過多で頭痛がしてきた。吐き気と頭痛で、いっそ倒れてしまったら楽だろうな、と思った。
もうダメだ、と思ったそのとき、どこからかすうっと音楽が、耳から入って全身へと伝わった。どこか懐かしく、そして耳に馴染む音だった。その音を追って歩みを進める。やがて一軒の雑居ビルへとたどり着いた。しかし音はその下のほうから聞こえてくる。と、ビルの横に小さな鉄の階段があり、そこから地下へ行けるようだった。落ちないようにゆっくりと、確かめるように降りていく。正面に木のドアがあり、『あすなろ』と書かれた粗末な看板があった。
中へ入ると、まず目に入ったのはガムテープでツギハギされたボロボロのギターだった。視線を少し上げると、それを手にしている、長髪で口の周りは髭で覆われているおっさんが目にとまった。ギターの音色は、見かけとは裏腹に艶やかで、おっさんが弾くギターソロは、どこか淫靡なムードを演出していた。
周りを見渡すと、髭のおっさんの前にはテーブルと小さなソファが三、四セットくらいあり、客は五、六人いて、バラバラに座っていた。席の向こう、ギターのおっさんがいる場所は、両サイドにライトがあるだけの、粗末なステージになっていて、ギターのほかに、ドラム、ベース、、キーボードの編成だった。機材もそうだが、奏者も古ぼけた印象だった。ギターソロが終わると、八小節ほどの気まぐれなドラムソロがあり、そのあとにキーボードのソロが始まった。
奥へと入っていくと、入口のドアの横がバーカウンターになっていて、セーラー服を着た、筋骨隆々のおっさんが腕を組んでステージを見ていた。スツールに腰をかけたが、セーラー服のおっさんは俺に気づいていないようだった。俺は振り返るようにしてステージを見て、小さな粒が弾けていくような、煌びやかなキーボードのソロを聴いていた。
誰もがこのジャムセッションに魅了されているのかと思えば、ソファ席でテーブルに突っ伏して寝ている男がいた。その男の横には年季の入ったギターがテーブルに立てかけてあった。やがてセッションが終わり、まばらではあるが、それでいて熱烈な拍手があがった。
「よう、見ない顔だな」
ギターを持った髭のおっさんが俺のそばまで来た。おっさんは、カティサークの瓶を持っていて、それをラッパ飲みした。
「まあ、ゆっくりしていけよ。俺はここのキングだ。昔はB・Bキングと演奏りあったこともある」
キングはそう言うとニヤっと笑った。おいマディ、お客さんだぞ。
セーラー服のおっさん、キングにマディと呼ばれた男は、俺のところへ来て、なにを飲む? と訊いていた。俺がシーバスリーガルのロックを頼もうとしたとき、錆びたトランペットを抱えた男が俺の隣に座った。
「ここは俺がおごるよ。マディ、カミカゼを二つくれ」
カミカゼ? と俺は呟いた。
「ここのカミカゼは最高だ。まるで吹きすさぶ嵐のように、全てを忘れさせてくれる」
マディは手際よくカクテルを作った。そして俺と錆びたトランペットの男の前に、ロックグラスに輪切りにしたライムと、なみなみと酒を注がれたカミカゼが置かれた。
「俺はここではルイと呼ばれている……キングがそうだったように、俺も昔はルイ・アームストロングやディジー・ガレスピーと一緒に演っていたことがある」
俺は自分の名前を言った。そして、ルイと乾杯をしてカミカゼを飲んだ。鋭い口当たりで、おそらく度数も高いのだろう、一発でノックアウトしてしまいそうなカクテルだった。これなら確かに全てを忘れられそうな気がした。
「酒は最高だ。特にここのカミカゼは」
「もう始まるわよ」
マディは俺たちにそう言った。ステージを見ると、さっきまで寝ていたギターのおっさんが準備をしていた。
「あら、今度はスリーピーが演るのね。坊や、なにがあったかは知らないけれど、ひとまずそれは置いておきなさい。音楽に身をゆだねてみて」
ジャッジャッジャと三回、ストロークして、スリーピーはオーケーだ、と言った。
「坊や、まずは俺のブルーズを聴いてくれ。音楽は最強だ。俺はここではスリーピーと呼ばれている。ビートルズのコード進行は、俺が全部発明した」
スリーピーはそう言うと眠たそうにあくびをして、指で弦を弾きだした。その音色は、なぜだか心地よく、単調ではあるが、引き込まれるものがあった。時折、思い出したように歌う。ギターは優しく、しなやかな音で部屋を満たした。目を閉じて、音だけに集中すると、彼の奏でる音が純粋で、真っ直ぐに俺の心に響いた。
「あら、泣いてるの?」
いつの間にか俺は泣いていたようだった。マディは、これを飲んで落ち着きなさい、とコーヒーを出してくれた。バーボンの匂いがきつく、すぐにアイリッシュコーヒーだと気がついた。一口飲むと少しぬるくて、それがウイスキーの入れすぎだということはすぐにわかった。しかし、このコーヒーはやけに身に沁みた。
スリーピーの演奏が終わった。彼は、ブラッディ・メアリーをくれと叫んだ。酒ができるまで、スリーピーはチューニングをしていた。そして酒が届くと、一気に半分ほど飲んだ。
俺は、無意識のうちに、すげえ、と呟いた。
「スリーピー、あいつは悪魔と契約をした男だ」
いつの間にか隣にキングが座っていた。ウイスキーをラッパ飲みする。
「……悪魔と?」俺は訊き返した。
「ブルーズに取り憑かれたあまり……まあ、ここじゃそんなこと、どうでもいいんだが、とにかく、あいつのギターには悪魔が憑いている」
やけにキツいアイリッシュコーヒーを飲み干すと、身体が火照ってきた。そしてカミカゼを口にする。だんだん生きた心地になってきた。
「坊や」スリーピーは言った。「音楽は最強だ」
そう言ってギターを今度はピックを使って、ハネた拍子でバッキングを始めた。俺は自然と手で太ももを叩いてリズムを取っていたが、スリーピーの弾くギターは、リズムがめちゃくちゃだった。しかし、それでも違和感は無く、反対にリズムを取ること自体が間違いだったような気になった。
カミカゼを飲みながら聴いていると、確かに音楽は最強だという気がしてきた。スリーピーは唸るように歌っている。ギターは、ところどころ不協和音が入っていたが、それがかえって味を感じさせてくれた。俺はカクテルを飲み干して、ブラッディ・メアリーを頼んだ。
演奏が終わり、拍手が響いた。スリーピーは残った酒を一気に飲み干した。「音楽は最強だ」
グラスに刺さっているセロリに、ブラッディ・メアリーをつけて食べた。そして一口飲む。やけに飲みやすく、身体に馴染んでいくのがわかった。スリーピーがステージを降りて、俺の隣に座った。いつの間にかルイとキングは場所を変えていた。
「確かに、最強ですね」
スリーピーはふっと笑って、新しい酒を持ってソファ席へ行った。そしてすぐに突っ伏して寝てしまった。マディが誰か演る人いないの? と大声で言った。キングとさっきのキーボード、ドラム、ベースのおっさんたちがステージへ上がった。五人で笑いながら、なにか打ち合わせをしている。そして各々が持ち場へつくと、演奏が始まった。ベースから始まり、ドラムがしばらくして入り、また間を置いてギターとキーボードが入った。
俺は酔いも手伝って、とても心地よかった。ブラッディ・メアリーを一口飲む。やけに飲みやすい。
次第に、これは夢か幻かという気持ちになった。錯綜していた脳内はとっくに解きほぐされていた。ルイがまた俺の席の隣に座った。
「ここでは、外で起きた出来事なんて関係ないんだ。なにもかも忘れちまうんだ。辛いことも、嫌だったことも、嬉しかったこと、楽しかったこと――なにもかもを。アンタも寂しい夜にはここへ来な。たどり着ければの話だがね」
ルイは静かに笑った。その笑顔がぼやけて見える。マズイな、と思った瞬間、俺はスツールから落ちた。かなり強く打ったはずなのに、痛みはなかった。しかし立ち上がるのに苦労した。足が覚束なく、やっとのことで立つことができた。俺はカウンター越しに、並んでいる酒を見た。目が霞んでよく見えなかったが、ウオッカのボトルはスピリタスだけだった。つまり、いままで飲んでいたカクテルは、全てスピリタスがベースになっていることになる。
急に吐き気がこみ上げてきて、まずい、と思い便所へ駆け込んで吐いた。さっき食べた牛丼がそっくり出てきた。そのあとは残渣物のない、アルコール臭いゲロを吐いた。それからしばらく、げえげえやっていたが、もうなにも出るものはなかった。
「ちょっと、大丈夫なの?」
マディが便所のそばまで来ていた。
「すみません、帰ります」
いつの間にか演奏は終わっていて、俺はみんなに礼を言ってドアを開けた。外へ出ると、青い空が小さく切り取られていて、そのスクリーンには雲がひとつもなかった。
階段を昇って地上へ出ると、人はまばらで、やけに静かだった。カラスの啼く声が聞こえる。
目の前は入り組んだ路地になっていて、適当に歩き出した。そして振り返ると、あすなろは周りの景色に溶けて消えてしまって、もう、場所を思い出すことができなかった。歩き出すとすぐにゴールデン街に出て、そのままふらふらと駅へ向かう。腕時計を見ると、朝の五時を過ぎたころだった。俺はとにかく、熱いフロに入りたかった。
『寂しい夜にはここへ来な。たどり着ければの話だがね』
「まさかあんたがちゃんと就職するなんてね」
ケイコは少し笑っていた。俺がなんで笑ってんだよ、と言うと、ケイコは別に、とだけ言って、カシスオレンジを飲んだ。
「でも、こっちで見つからなかったの?」
「遠くに行きたかったんだよ。ここじゃないどこかに」
ケイコはため息をついた。相変わらずね。あとで痛い目を見ても知らないよ。
「変わらねえな、お前も」
俺は思わず笑ってしまった。この期に及んでケイコに忠告されるなんて。でも、それがなんとなく居心地が良かった。
店内はやけに騒がしかった。仕事終わりのサラリーマンたちが、一週間の鬱憤をここぞとばかりに晴らしていた。そういえば今日は金曜日か、煙草を吸いながらそんなことを思った。俺もこれからは週末にはこうして会社の人と飲みに行ったりするのだろうか、と想像してみても、それはぼんやりとしたイメージでしかなく、そもそも就職した会社は月曜と火曜が休みなので、果たして、こうしてきちんと土日で休んでいる人はどれだけいるのだろうと不思議に思った。
「いま、なにを考えてたの?」
ケイコが俺に尋ねる。俺は別に、と言ってビールをあおった。ケイコはそれを見て少し笑った。
「就職先ってさ、どんな会社なの?」
俺は訪販だと言った。ホウハン? ケイコが聞き返す。訪問販売だよ、と言うと、
「あんたがやってるとこなんて、想像できないんだけど」
と言った。俺はふっと笑って、それは俺だってそうだよ、と言った。
「なんでそんな大変な仕事にしたの?」
さあね、と俺は言った。大変じゃない仕事なんてないだろ。
「ケイコの、スタイリストの仕事なんか、絶対に俺にはできないもん」
まあねえ、とケイコは酒を舐めるように飲んだ。思えば、ケイコが美容師として働きだして、アシスタントから始まってスタイリストになるまでは、苛烈ともいえるほどの仕事内容だった。聞いていても気は滅入るし、心配になるしと、気が気ではなかったが、当の本人はあっけらかんとしていた。楽しいとさえ言っていた。そして、いまでは俺の心配をしている。
ケイコはエイヒレにマヨネーズをつけて口に入れた。なにか飲む? 俺は店員を呼んで、モスコミュールとビールを注文した。
「あのね」
店員が去っていくと、ケイコは空いたグラスのふちをなぞりながら、ためらいがちに言った。
「わたし、ずっとあんたのことが好きだったの」
新宿行きの電車に乗りながら、そのときのことを思い出していた。ケイコが洗面所から去ったあと、リビングに戻ることができず、俺はなんの考えもなしに家を出て、電車に乗っていた。あのときのことを考えると、くすぐったいような気持ちになる。そして、俺は返事ができないまま、夜行バスへ乗ってしまった。戻ってきたいまも、切り出すべきかどうか、逡巡している。
アナウンスが聞こえる。もう新宿に着く。いまから向かうは大遊戯場歌舞伎町。しかし、あてはない。
地下から昇ってくる生臭い風が、俺を通り過ぎていく。駅から出ると、俺は思わず立ちつくした。退廃的な喧騒があたりいっぱいにひしめいている。それはひとつの巨大な生物が蠢いているようで、俺は飲み込まれるようにして、ゆっくりと足を一歩、踏み出した。
ぼうっと歩いていると、過ぎていく人々の顔がパチリパチリと、フラッシュのように網膜に焼きついてくる感じがした。歌舞伎町入口の、靖国通りの信号までやってきたが、その感覚はだんだんと強くなり、脳内に情報がどんどん蓄積されていった。信号が青になり、歌舞伎町へ入る。俺は目眩がしてきて、意識が遠のいていく感じがした。キャッチの兄ちゃんの声がどこからか聞こえる。どこかで聞いたことのあるようなダンスミュージックが、遥か向こうから聞こえてくる。酔っ払って豪気になっている男たち、その酒気をさらに混濁へといざなう女たち、無料案内所、クラブ・ザナドゥ、クラウディア、エスポワール、ドン・ファン・クラブ……パチリ、パチリ。膨大な情報が脳内に一気に流れ込んできて、今度は吐き気がしてきた。視界は霞んでいて、ぼんやりとバッティングセンターの看板が見えた。俺は逃げるように路地へ入り、覚束ない足取りで歩き続けた。アパートの裏側、規則的に室外機が取り付けられている。いつ捨てるのかわからない、ゴミが詰め込まれているプラスチックの箱が山積みになっている。やがて路地を抜けると、大通りに出た。見覚えのある道だったが、いまはここがどこなのか思い出せない。ふらふらと道を渡り、再び小さな道へ入ると、今度は歌舞伎町とはまた違った雰囲気の町並みがあった。古く小さな店が立ち並んでいて、過去を切り取って貼り付けたような、ある種の違和感があった。居心地が悪く、また路地へ入ろうとするが、曲がれども曲がれども、店は軒を連ねていて、その間にも人の顔や店の看板、風景などが頭に入ってくる。情報過多で頭痛がしてきた。吐き気と頭痛で、いっそ倒れてしまったら楽だろうな、と思った。
もうダメだ、と思ったそのとき、どこからかすうっと音楽が、耳から入って全身へと伝わった。どこか懐かしく、そして耳に馴染む音だった。その音を追って歩みを進める。やがて一軒の雑居ビルへとたどり着いた。しかし音はその下のほうから聞こえてくる。と、ビルの横に小さな鉄の階段があり、そこから地下へ行けるようだった。落ちないようにゆっくりと、確かめるように降りていく。正面に木のドアがあり、『あすなろ』と書かれた粗末な看板があった。
中へ入ると、まず目に入ったのはガムテープでツギハギされたボロボロのギターだった。視線を少し上げると、それを手にしている、長髪で口の周りは髭で覆われているおっさんが目にとまった。ギターの音色は、見かけとは裏腹に艶やかで、おっさんが弾くギターソロは、どこか淫靡なムードを演出していた。
周りを見渡すと、髭のおっさんの前にはテーブルと小さなソファが三、四セットくらいあり、客は五、六人いて、バラバラに座っていた。席の向こう、ギターのおっさんがいる場所は、両サイドにライトがあるだけの、粗末なステージになっていて、ギターのほかに、ドラム、ベース、、キーボードの編成だった。機材もそうだが、奏者も古ぼけた印象だった。ギターソロが終わると、八小節ほどの気まぐれなドラムソロがあり、そのあとにキーボードのソロが始まった。
奥へと入っていくと、入口のドアの横がバーカウンターになっていて、セーラー服を着た、筋骨隆々のおっさんが腕を組んでステージを見ていた。スツールに腰をかけたが、セーラー服のおっさんは俺に気づいていないようだった。俺は振り返るようにしてステージを見て、小さな粒が弾けていくような、煌びやかなキーボードのソロを聴いていた。
誰もがこのジャムセッションに魅了されているのかと思えば、ソファ席でテーブルに突っ伏して寝ている男がいた。その男の横には年季の入ったギターがテーブルに立てかけてあった。やがてセッションが終わり、まばらではあるが、それでいて熱烈な拍手があがった。
「よう、見ない顔だな」
ギターを持った髭のおっさんが俺のそばまで来た。おっさんは、カティサークの瓶を持っていて、それをラッパ飲みした。
「まあ、ゆっくりしていけよ。俺はここのキングだ。昔はB・Bキングと演奏りあったこともある」
キングはそう言うとニヤっと笑った。おいマディ、お客さんだぞ。
セーラー服のおっさん、キングにマディと呼ばれた男は、俺のところへ来て、なにを飲む? と訊いていた。俺がシーバスリーガルのロックを頼もうとしたとき、錆びたトランペットを抱えた男が俺の隣に座った。
「ここは俺がおごるよ。マディ、カミカゼを二つくれ」
カミカゼ? と俺は呟いた。
「ここのカミカゼは最高だ。まるで吹きすさぶ嵐のように、全てを忘れさせてくれる」
マディは手際よくカクテルを作った。そして俺と錆びたトランペットの男の前に、ロックグラスに輪切りにしたライムと、なみなみと酒を注がれたカミカゼが置かれた。
「俺はここではルイと呼ばれている……キングがそうだったように、俺も昔はルイ・アームストロングやディジー・ガレスピーと一緒に演っていたことがある」
俺は自分の名前を言った。そして、ルイと乾杯をしてカミカゼを飲んだ。鋭い口当たりで、おそらく度数も高いのだろう、一発でノックアウトしてしまいそうなカクテルだった。これなら確かに全てを忘れられそうな気がした。
「酒は最高だ。特にここのカミカゼは」
「もう始まるわよ」
マディは俺たちにそう言った。ステージを見ると、さっきまで寝ていたギターのおっさんが準備をしていた。
「あら、今度はスリーピーが演るのね。坊や、なにがあったかは知らないけれど、ひとまずそれは置いておきなさい。音楽に身をゆだねてみて」
ジャッジャッジャと三回、ストロークして、スリーピーはオーケーだ、と言った。
「坊や、まずは俺のブルーズを聴いてくれ。音楽は最強だ。俺はここではスリーピーと呼ばれている。ビートルズのコード進行は、俺が全部発明した」
スリーピーはそう言うと眠たそうにあくびをして、指で弦を弾きだした。その音色は、なぜだか心地よく、単調ではあるが、引き込まれるものがあった。時折、思い出したように歌う。ギターは優しく、しなやかな音で部屋を満たした。目を閉じて、音だけに集中すると、彼の奏でる音が純粋で、真っ直ぐに俺の心に響いた。
「あら、泣いてるの?」
いつの間にか俺は泣いていたようだった。マディは、これを飲んで落ち着きなさい、とコーヒーを出してくれた。バーボンの匂いがきつく、すぐにアイリッシュコーヒーだと気がついた。一口飲むと少しぬるくて、それがウイスキーの入れすぎだということはすぐにわかった。しかし、このコーヒーはやけに身に沁みた。
スリーピーの演奏が終わった。彼は、ブラッディ・メアリーをくれと叫んだ。酒ができるまで、スリーピーはチューニングをしていた。そして酒が届くと、一気に半分ほど飲んだ。
俺は、無意識のうちに、すげえ、と呟いた。
「スリーピー、あいつは悪魔と契約をした男だ」
いつの間にか隣にキングが座っていた。ウイスキーをラッパ飲みする。
「……悪魔と?」俺は訊き返した。
「ブルーズに取り憑かれたあまり……まあ、ここじゃそんなこと、どうでもいいんだが、とにかく、あいつのギターには悪魔が憑いている」
やけにキツいアイリッシュコーヒーを飲み干すと、身体が火照ってきた。そしてカミカゼを口にする。だんだん生きた心地になってきた。
「坊や」スリーピーは言った。「音楽は最強だ」
そう言ってギターを今度はピックを使って、ハネた拍子でバッキングを始めた。俺は自然と手で太ももを叩いてリズムを取っていたが、スリーピーの弾くギターは、リズムがめちゃくちゃだった。しかし、それでも違和感は無く、反対にリズムを取ること自体が間違いだったような気になった。
カミカゼを飲みながら聴いていると、確かに音楽は最強だという気がしてきた。スリーピーは唸るように歌っている。ギターは、ところどころ不協和音が入っていたが、それがかえって味を感じさせてくれた。俺はカクテルを飲み干して、ブラッディ・メアリーを頼んだ。
演奏が終わり、拍手が響いた。スリーピーは残った酒を一気に飲み干した。「音楽は最強だ」
グラスに刺さっているセロリに、ブラッディ・メアリーをつけて食べた。そして一口飲む。やけに飲みやすく、身体に馴染んでいくのがわかった。スリーピーがステージを降りて、俺の隣に座った。いつの間にかルイとキングは場所を変えていた。
「確かに、最強ですね」
スリーピーはふっと笑って、新しい酒を持ってソファ席へ行った。そしてすぐに突っ伏して寝てしまった。マディが誰か演る人いないの? と大声で言った。キングとさっきのキーボード、ドラム、ベースのおっさんたちがステージへ上がった。五人で笑いながら、なにか打ち合わせをしている。そして各々が持ち場へつくと、演奏が始まった。ベースから始まり、ドラムがしばらくして入り、また間を置いてギターとキーボードが入った。
俺は酔いも手伝って、とても心地よかった。ブラッディ・メアリーを一口飲む。やけに飲みやすい。
次第に、これは夢か幻かという気持ちになった。錯綜していた脳内はとっくに解きほぐされていた。ルイがまた俺の席の隣に座った。
「ここでは、外で起きた出来事なんて関係ないんだ。なにもかも忘れちまうんだ。辛いことも、嫌だったことも、嬉しかったこと、楽しかったこと――なにもかもを。アンタも寂しい夜にはここへ来な。たどり着ければの話だがね」
ルイは静かに笑った。その笑顔がぼやけて見える。マズイな、と思った瞬間、俺はスツールから落ちた。かなり強く打ったはずなのに、痛みはなかった。しかし立ち上がるのに苦労した。足が覚束なく、やっとのことで立つことができた。俺はカウンター越しに、並んでいる酒を見た。目が霞んでよく見えなかったが、ウオッカのボトルはスピリタスだけだった。つまり、いままで飲んでいたカクテルは、全てスピリタスがベースになっていることになる。
急に吐き気がこみ上げてきて、まずい、と思い便所へ駆け込んで吐いた。さっき食べた牛丼がそっくり出てきた。そのあとは残渣物のない、アルコール臭いゲロを吐いた。それからしばらく、げえげえやっていたが、もうなにも出るものはなかった。
「ちょっと、大丈夫なの?」
マディが便所のそばまで来ていた。
「すみません、帰ります」
いつの間にか演奏は終わっていて、俺はみんなに礼を言ってドアを開けた。外へ出ると、青い空が小さく切り取られていて、そのスクリーンには雲がひとつもなかった。
階段を昇って地上へ出ると、人はまばらで、やけに静かだった。カラスの啼く声が聞こえる。
目の前は入り組んだ路地になっていて、適当に歩き出した。そして振り返ると、あすなろは周りの景色に溶けて消えてしまって、もう、場所を思い出すことができなかった。歩き出すとすぐにゴールデン街に出て、そのままふらふらと駅へ向かう。腕時計を見ると、朝の五時を過ぎたころだった。俺はとにかく、熱いフロに入りたかった。
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突然“社長役”を任された由紀と、自由に動ける立場を手に入れた高橋。
ふたりの秘密の入れ替わり作戦は、どの様な結末になるのか?
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