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第5章 幽霊船

死神

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「……いたた」

 痺れる腕を頭上に掲げると、遙か頭上に穴が見えた。床が抜けて穴ができた箇所は、手の平にすっぽりと収まる程小さい。
 抜け落ちた床板の木片が体のあちこちに触れて痛痒いたがゆい。

 この船底は、いったいどのくらいの深さがあるのだろう。

「ミール、無事か?」

 クランは、腰を結んである縄を引き寄せてみる。妹が隣にいれば引っ張った反動で縄はピンと張り詰めるはずたが、張り詰めるどころか、いとも簡単に手繰り寄せることができた。
 体をよじらせて縄を見ると、ぷっつりと途絶え、ミールはどこにもいなかった。

「……これは」

 縄は鋭利な刃物で切られ、断面がきれいに整っている。落ちる時に誰かが切ったのだろうか。もしも床板の木片でちぎれたならば、断面がでこぼこしているはずだからだ。
 そういえばフェリア様は、死神が僕とミールを引き離そうとしていると言っていた。
 ミールはどこにいるのだろう。もしかしたら、先に霊界に連れていかれたのかもしれない。

「そこにいるのは、クランか?」

 ふわっと、一筋の風が吹いた。
 船底は先程通ってきた船室よりもはるかに暗い。部屋の隅は暗くて視界が定まらず、船底の広さを把握するのは難しい。

「――父さん」

 正面に広がる暗闇から、すっと人影が伸び、正体を現した。懐かしいと思うのは、幼い時に見た父親の姿と男性が一致していたからだ。

「お前を迎えに来た」

 落下の衝撃で、体の節々が痛んで起き上がれない。クランをいたわってだろうか。ハルはしゃがんで片膝を床に付け、左手を差し出した。

「……どうして?」
「お前の力が必要だからだ」
「誰かに命令されて来たの? もしかして死神に?」
「良いか、クラン。死神を恐れてはいけない。命ある者には必ず死が訪れる。生まれながらにして、死を知っている者はいない。魂が霊界に帰るには、導き手に死神がいることを忘れてはいけない」
「父さんは、死神を信用するんだね? 勝手に僕達をここに連れてきて、幻覚を見せて、僕とミールを引き離した死神に肩を持つんだね?」

 ピタリと、ハルの両手がクランの両頬を包み込んだ。
 父との再会を喜びたかった。だが、その指先から伝わってくるものは温もりではなく、内側から込み上げてくる底知れぬ恐怖だった。

「違う」
「霊界には行かない。死にたくないんだ」

 クランは首を振って、ハルの両腕を振りほどいた。

「父さん、死神はどこにいるの? 死神に会って、狭間から肉界に戻してもらいたいんだ」

 クランの言葉を聞いて、ハルは静かに立ち上がった。

「どうやら、力ずくでお前を連れていかねばならないようだな」

 腰から剣を抜くと、クランの額に突き付ける。

「……父さん?」

 少年は両目を目頭まで引き寄せて、額に触れる切っ先を凝視しようとする。

「俺と戦うのだ、クラン」
「嫌だ、戦いたくない!」

 体を辛うじて支えていた木片が、バキリと音を立てて折れた。触れ合っていた切っ先と額に僅かな隙間が出来、身を翻して父親から逃げることが可能になる。

「剣を抜け」

 ハルの声色は変わっていた。剣を振いながら、逃げるクランの後を追う。剣は床に何度も突き刺さり、壁に沿って積み重ねられた木箱を容赦なく破壊する。

「どうした、逃げるだけか?」

 足元には大破した木箱と脱穀されていない小麦が所狭しと散乱し、小麦の海には、小豆や大豆が入り交じっている。もはや足の踏み場もない。

「もう逃げられないぞ。お前は武道会で逃げることしか学んでいないのか?」

 クランは俯いたまま黙っている。

「俺のように動けないのか」
「……あんたは」

 クランは口を開くと同時に素早く剣を抜き、正面からハルに突進していった。

「父さんじゃない。十年も離れていたのに、突然切り出してくるなんておかしいし、自分のことを俺とは言ったりしない。第一、僕の知っている父さんは、あんたのようにはきはき喋ったりしない。もっと不器用で、母さんや僕の前でもじもじしていたんだ!」

 鬱積していたものを吐き出すように、クランの動きは勢いを増していく。拳を繰り出すように剣を振るい、ハルを圧倒した。不意を衝かれた男は仰向けに倒され、喉元に切っ先を突き付けられた。

「あんたの正体は誰なんだ! 父さんに化けた死神なんだろう。どうして幻覚を見せるんだ?」

 切っ先をとおして、クランの全身の震えが伝わってくる。鋭利な切っ先はハルの喉仏を突いているのに、血は一滴も滲まなかった。

 ――そこまでだ、バリコン。

 厳かな声とともに、辺りの空気が張り詰める。ピリピリと緊迫した空気が全身に張りつき、クランの動きを封じた。
 この声をどこかで聞いたことがある。
 クランは、まなじりが裂けんばかりに、眼球を精一杯動かして辺りの様子を窺う。声は近くで聞こえたはずだ。しばらくすると、倉庫の端っこに重ねられた、木箱の影から声の主が現れた。

「あれが……」

 相手は黒光りする巨大な鎌を持ち、すらりと伸びた体には漆黒の衣を纏っている。
 足は生えていない。薄っぺらい衣と床には僅かな隙間があり、体が動いても、散らばった小麦や小豆を微動だにさせない。二足歩行をするときの上下の揺れや足音は聞こえず、水平に動く感じだ。

 ――バリコンが手荒な真似をしたのを詫びる。

 黒き者は、音もなくクランに忍び寄ってくる。

 ――私はスーヌイ。

 フードの中から垣間見える異様に白い顔。あの白く骨張った頭蓋骨から、どのようにして重厚感のある低い声が出ているのだろう。
 ローブの裂け目から窺える相手の体は骨だけで構成され、肉や皮は一切張りついていない。

 ――クラン、お前を探していた。

 少年は総毛立った。
 頭蓋骨の正面に開いた二つの穴に眼球は見あたらないが、冷やかな視線を感じる。
 どうして、相手は僕の名前を知っているのか。相手が危険な存在だと分かっているのに、恐怖で声が出ない。

「死神さん、お兄ちゃんに何するの!?」

 呼び声と同時に、右側の暗闇からミールが飛び出し、クランの前に立った。
 クランは目をしばたたかせてミールを見つめると、腰の縄はぷっつりと途絶えていた。
 妹は勇んで杖を構えているが、頭から足の爪先まで恐怖で打ち震えている。しどろもどろになりながら、呪文を唱えてバリアを張り、死神と呼んだ者の侵入を防ごうとした。

 ――用があるのは、クランだけだ。

 か細い手がバリアに触れると、表面に見る見る亀裂が入り、軋みながら砕け散った。何事もなかったかのように、スーヌイは通せん坊をするミールの体を通過して、前進し続ける。体を通過されたミールはクランと同様に、動きを封じられた。

「ミールは関係ないだろっ!!」

 クランは怒号し、全身に力を込めた。すると、動かなかった体は呪縛から解き放たれて、自由になった。

 ――さすがは神に選ばれし者だ。私の呪縛を想いで断ち切るとは。だがその想いを向ける相手がいなければ、お前はどうなる?

 スーヌイは、伸ばした手で神の剣の剣身をひっ掴んだ。クランは刄を翻して抵抗しようとするが、剣はでにかわでくっつけられたかのように、動じない。

 ――やはり剣の力は弱っているな。

 何を言っているのだろう。片手に持った大鎌で薙ぎ払われるかと思いきや、スーヌイは手を離して、一歩退いた。
 クランは剣を死神の手から引き剥がそうと躍起になっていたため、反動で後ろに転倒した。

「どういうことだ……いったい何をしたいんだ?」

 起き上がろうとしても、体に力が入らない。また死神に呪縛をかけられたのだろうか。

 ――お前は剣をぎょしていない。それでは剣が可愛そうだ。
「何が言いたいんだ?」
 ――お前は、この剣がいかにして創造されたか知っているか?

 クランを見据える頭蓋骨は、カラカラと乾いた音を立てる。

 ――お前は今まで何を見、何を感じた?

 首に掛けられた大きな金色の鎖が体の骨と擦れ合う。

 ――お前には、まだ霊界への道は開かれていない。

 何も答えられないクランに、スーヌイはしたたかに言い放った。

「……」

 刃で直接体を突かれていないのに、いきなり胸に重いものがのしかかった。その得体の知れない重たいものは、ズズズと体の奥に入り込み、胸の中をえぐっていくようだった。

 ――バリコン、いつまで伸びている。行くぞ。

 先程までハルが横たわっていた場所には、スーヌイと同じく全身骸骨の者がいた。

「スーヌイ、お前だけずるいぞ」

 苛立たしげに舌打ちすると、バリコンは、頭蓋骨に生えた一房の紫色の毛を揺らしながら立ち上がり、スーヌイの横に並んだ。

「……くそ、あんたは」

 クランは歯を食い縛って、スーヌイを睨みつける。
 死神スーヌイ、その名前を忘れない。

「お前、こんな所で腰を抜かしていても良いのか? この船はもうすぐ沈むぜ」

 敵か味方か。バリコンはクランに忠告する。彼の言葉どおり、床や壁からは海水が噴き出している。よく見てみれば、所々の板の割れ目は先程の戦いでハルが剣で突いた所だった。

「お前、スーヌイの言葉にへこんでいるのか? 要するに、お前にはまだ時間が残されているんだよ!」

 時間がある、それは生きるということだろうか。

 ――来た時と同じように帰れば良い。

 くるりと背を向けて、スーヌイはもと来た暗闇に消え入ろうとする。先を行くスーヌイを、バリコンは踵を返して追いかける。

 ――良い妹を持ったな。

 二つの黒き影は、尾を引きながら視界から消えた。

「お兄ちゃん、早く」

 つい先程まで動けなかった妹は、いつの間にかクランの傍に立っている。
 妹の手を借りて起き上がるとは、とほほと言いたかったが、時間がない。ここは妹に感謝して逃げるしかない。
 所々小さな穴の開いた壁からは、海水が勢い良く噴き出している。壁は水圧に押されて亀裂が入り、穴を更に押し広げようとしている。
 早く甲板に出なければ。海水は既に膝下まで押し寄せている。水嵩が増すにつれて足を掬われ、体力を奪われる。
 船底から甲板までどのくらいの高さがあるのだろう。各階ばらばらに設置された階段を探しながら上り、甲板を目指す。

「そういえば、ミールは今までどこに行っていたんだ?」

 船底に落ちた時、確かにミールはいなかった。死神と対面した時に突如として暗闇から現れた。まるでどこか違う所に行っていたようだ。

「う~んとね、それはね……お兄ちゃん、今はそんな場合じゃないよ!」

 ミールはクランの腕を強く引っ張る。

「そうだった。早く脱出しないと!」

 背後から海水が濁流となって押し寄せてくる。何とか海水に押し出されるようにして、甲板に出た。
 ところが、先程まで波一つ立てなかった海面とは裏腹に、海は荒れていた。そう、まるで狭間に迷い込んだ時のように。

「何も起こらない……」

 横殴りの雨が顔に叩きつけ、前を見るのが困難だ。押し迫る波に揉まれて、船体は左右に傾く。ギシギシと木材が音を立てて割れ、裂け目からは海水が怒涛の如くあふれ出す。

「フェリア様が言っていたよね? 船底が狭間の深い所なら、ここは狭間の浅い所だって。もしかしたら、もっと上に行ったら、狭間から出られるんじゃない?」

 と言って、ミールが仰いだのは甲板の真ん中に建っているマストだった。

「……よし、行こう」

 今度こそ離れないようにと、クランはミールとの途絶えた縄をきつく結んで瘤を作った。瘤の部分を強く引っ張って解けないのを確認すると、クランは見張り台に続く縄梯子に手を掛けた。

「波がこんな所まで……」

 海水は甲板をすっかり覆い、すぐ足下にまで迫っている。
 下を見ている暇はない。ただ上に行くことだけを考えて、黙々と段に足を掛けて上っていく。クランは、少々遅れて上ってくるミールを抱え上げ、二人同時に見張り台に立った。

「お兄ちゃん……前」

 ミールが最後まで言い終らないうちに、耳をつんざかんばかりの轟音が声をかき消した。

「大波!?」

 あの時と同じだった。
 否、狭間の大波は、小舟を飲み込んだ波よりもはるかに大きかった。
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