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第6章 光と闇の地へ

レシ・ウォーキンス

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「よりによって、海賊船に乗り込むなんて!」

 クランは檻の柵を両手で掴み、目一杯揺らし続ける。びくともしないと分かっていても、腹立たしくてたまらなかった。

「でも、あのハサというお兄ちゃんは、悪そうな人じゃなかったよ」
「ミールはお人好しだな。親切にしている人が、みんな良い人とは限らない。ラザーだって……」
「ラザーお兄ちゃんがどうしたの?」
「何でもない」

 クランは押し黙り、俯いた。もうラザーには、一生会うことはないだろう。ミールにラザーの正体について話しても、困惑させるだけだ。

「お兄ちゃん。私ね……狭間の船で、お母さんに会ったの」

 妹の思いも寄らぬ発言に、クランはぴくりと肩を動かしたが、俯いたまま、

「狭間に、母さんがいるわけないだろ?」

 と返したが、ミールも譲らない。

「嘘じゃないよ。船の床が抜けた時、お兄ちゃんはどこに行ってたの?」

 父さんに化けた死神が現れて、悪戦苦闘していたと言えば良いのか。僕と同じように、ミールも母さんに化けた死神を相手にしていたのか。騙されていると忠告した方が良いのだろうか。

「あなた方は狭間に行ったのですか?」

 出し抜けに、牢屋の隅っこから声が聞こえた。声がした方を向くと、薄暗闇に異質な黒い影が浮かんで見えた。小振りの影は、壁に寄り添って座っているように見える。あの人影は、兄弟の会話を一部始終聞いていたのだろうか。

「あなたは?」

 クランの問いに、影はのっそりと立ち上がり、明かりの当たる場所に進み出た。

「おじちゃんはもしかして」

 男は、独特な八の字の髭を鼻の下に蓄え、小太り気味の体型だ。狭間で見た時はそれほど気に留めていなかったが、髪はブロンドである。

「ウェスト・リーヴ号の船長さん!?」

 ミールは素っ頓狂な声を出すや否や、目を輝かせていた。

「私、おじちゃんの話をもっと……」
「ミール!」

 クランは男に駆け寄ろうとしたミールの腕を掴み、睨みつけた。

「どうして私を知っているのです? あなた方とは初めてお会いしますが」

 男は目を丸くし、まるで子どものように大きく首を傾げた。
 そう、二人は実際に船長として活躍していた頃の男には一度も会ってはいない。おそらく海賊に身ぐるみをはがされたのだろう、男は布を張り合わせた粗末なつなぎの服を着ていた。
 狭間で死神が言っていたように、誰かの記憶を垣間見たと話せば信じてもらえるだろうか。客船で強奪の限りを尽くした海賊よりは、信用に足る相手には違いない。

「私は船員、乗客、一人ひとりの顔を覚えています。最後の航海にあなた方はいませんでした」

 男はクランとミールを交互に見ては、腕を組んで唸る。

「狭間で死人の記憶を見たというのなら、私が船でしていたことを言ってください」
「おじちゃんはたくさんの乗客の前で、大陸の話をしていたよ。エルガンヴァーナのワインの話でね、その昔、世界を魔族が支配していて――」

 ミール、お前はアスリー先生を継いで語り部になったらどうだといわんばかりに、妹の話は的確で要領を得ていた。実際に男の目の前で熱心に耳を傾けていたかのように。

「お嬢さん、私の名前は?」
「ウェスト・リーヴ号の船長レシおじちゃんでしょ」
「……いや、もしかしたら海賊の船長に吹き込まれたのかもしれない。あなた方二人は囮(おとり)とも考えられる」
「おじちゃん、違うよ。私もお兄ちゃんも、海賊の仲間じゃないよ!」

 レシは首を横に振り、二人から頑なに目を反らそうとしたところ、

「この二人は漂流者だよ」

 渡りに船かと、第三者が割って入った。

「あんた達は、大切な資源だからね。死なせるわけにはいかないよ」

 檻の外を見れば、肉付きのいい女が盆を手に立っている。盆には、小麦とは違った艶やかな純白の粒が盛られた椀と、しなびた野菜が盛りつけられた皿が二組乗っている。ふっくらと柔らかな香りに鼻をくすぐられて、兄妹の腹がねじくれた音を立てる。ミールは空腹を堪えて、目の前のふくよかな女に尋ねた。

「おばちゃん、資源ってどういうこと?」
「そこの死に損ないも含めて、あんた達三人は北の帝国の奴隷商に売られるんだよ。特に子どもは矯正のしがいがあるからって、高く売れるんだよ」
「帝国の奴隷?」
「詳しいことは知らないけど、闘技場で死ぬまで戦わせられたり、使用人にされるらしい。あんたは闘技場行きで、嬢ちゃんは使用人かもね」

 兄妹二人よりも、何故かレシが小刻みに震えている。

「そこの死に損ないはどうだろうね」

 と口にしたところで、女は苦々しい表情を浮かべた。

「……なぜ憐れみの目で私を見るのです?」
「何でもないよ。そこの二人、冷めないうちに早く食べな」

 レシは相手の機微を見逃さなかった。しかし追及する前に、またもや腹の虫がしゃしゃり出てきた。
 女が柵に設けられた子扉を開け、盆ごと中に入れるや否や、クランは女の手首をむんずと掴んだ。

「鍵を寄こせ。僕達をここから出すんだ」

 相手が女だからと容赦はしない。クランは凄みを利かせて、女を睨みつける。

「お兄ちゃん?」
「あんた達は、死の海域を彷徨っていたんだってね。この先、生きるにしても、食べないと身が保たないよ」
 先程までの威勢の良さとは異なり、女には同情が込められていた。

「嫌だ、帝国の奴隷になんてならない。空腹なんか怖くない!」

 クランは空いた方の手で盆をひっくり返そうとしたが、予想外に女の力が勝り、阻まれた。僅かに動いた皿から、つんと鼻を突くきつい臭いが漂う。

「食べないというのかい? あんた達がどこから来たか分からないけど、長い航海だからね。体中から血が吹き出しても、あたしゃ知らないよ」

 レシさんが言うには、長期間の航海の際には生野菜の保存ができないため、野菜から取れる栄養が不足するのだという。栄養不足になると、身体の均衡が崩れてしまうのだと。そのため、生野菜を保存するために、彼らは酢漬けにして持ち歩いているのだそうだ。

「仮に逃げるにしても、空腹は命取りだよ」

 なぜ女は、逃げるという単語を取り立てて言ったのだろう。

「私はトメ、ここの料理長さ。李本銀一の私が漬けた酢漬け、有り難く頂くんだね」

 李本銀?
 前にもこの言葉を聞いた。そういえば、狭間で遭遇した海賊も言っていた。李本銀がいかなる場所かとクランが尋ねようとした時には、既にトメはいなかった。

「私はあなた方を疑っていました。どうか許してください、取って食べないでください」

 先程のクランの凄みに気圧けおされたのだろうか、レシは土下座をして謝っている。

「おじちゃん、気にしないで。お兄ちゃんはお兄ちゃんで必死なんだから。でも、ちょっとびっくりしたけど」

 ミールの助け船に安堵した男は居直り、

「申し遅れました。私の名前は、レシ・ウォーキンスといいます」

 と、丁寧にお辞儀した。

「僕はクラン、こっちは妹のミール・ブ――」
「おじちゃん、私はミールだよ」

 ミールはクランの前にわざと立ち、レシを直視しながら自己紹介する。

「クランさんに、ミールちゃんですか。よろしくお願いします」

 かしこまって、再びお辞儀をした。

「おじちゃん、ここは牢屋の中だよ。私達はここに捕まっている仲間なんだから、気軽に話してもいいよ」
「仲間ですか、恐れ多いです」
「おじちゃんも一緒に食事しようよ」

 ミールは湯気が上る椀を掲げ持ち、ふっくらとした白い粒を興味深げに見つめる。

「わぁ、これがお米なんだね。粒々を砕かないで、そのまま食べるなんて、不思議だなぁ」
「小麦と同じように、米にも色々な食べ方があります。炊いた米を練って餅にしたり、薄く伸ばして焼いた物を煎餅と呼びます――」

 レシとミールの語り部コンビは、談義に花を咲かせながら、腹を満たす。
 単品で食べると酸っぱい酢漬けも、めしと一緒に頂けば、酸味が緩和されてまろやかな味わいになる。どうやら毒は入っていないようだったが、

「……何だか眠くなってきた」

 クランとミールは、不意に襲ってきた睡魔に堪えきれず、床に突っ伏してしまった。に思いながらも、程なくしてレシも壁にもたれて眠りに落ちたのだった。
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