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 水の中にいるとわかると、僕は大いに慌てて手足をばたつかせた。僕は泳げない。死んでしまいたいとは思ったけど、本当に死ぬのは怖かった。

 水を吸って重くまとわりついてくる服がうとましい。

 息が、できない……。




 ごぽごぽと空気が音を立てて抜けていく。耳の中も、肺も温い水で満たされて、僕は沈んでいった。



 死。

 身近でありながら一番縁のない存在だったそれを、僕は痛いほど意識した。ぼんやりと、頭の中が霞んでいくような倦怠感。指の一本さえ動かせないほどの重みに、僕はすべてを投げ出した。

 もう、苦しくない。
 眠るように死ねるのなら、それもいいかもしれない。最期に健一のことを考えながらすべてを終わりにできるなら、それはきっと幸せなことに違いない。

 そう、思っていたのに。
 急な浮遊感に僕は目を開いた。冷たい何かが、僕の体を掬い上げるようにして抱いている。それを確かめる前に、僕の目の前に迫るものがあって、唇にも冷たいものが押し付けられた。

 これは、何だろう。
 咄嗟のことに、僕の体は動かない。何か生き物の目のようなものと視線が合って、ゴムみたいな不思議な感触のものが口の中に割り入ってきたとき、ようやく僕は逃れようと両手を突っ張った。

 でも、それは遅かった。そのときにはもう、僕の体は大きな物に巻き取られていて身動きができる状態になかった。それは藻でもロープでもなく、太さが僕の胴と同じくらいもある、蛇のようなものに見えた。

 頭が考えることを拒否する。これはいったい、どういうことだろう。悪い夢でも見ているんだろうか。本当は、僕は健一に見つかったショックで気絶していた?

 そう考えたかったけど、口の中を這い回る舌が「これは現実なのだ」と言っていた。


 どのくらい経ったのか、それともほんの数秒のことか、僕は身動き取れずに口の中を蹂躙されるがままだった。長い舌は僕の中を隅々まで舐め尽くした。歯の列をなぞり、舌を絡ませ、唇を吸っては甘く噛んだ。わずかに観賞魚の水槽のような生臭さを感じる。

 水中だから涙なんて流れやしない。嫌だ、と吐いた言葉さえ飲み込まれて、僕は……。

 まるで自分の意思でこうしているんじゃないかとすら思えてくる。そんな僕の心を見透かして、目の前の化け物が嗤ったような気がした。


「純! ここにいるんだろう? 出てきてくれ、純!」

 ハッと、泥のようにぬるむまどろみを払う、健一の声が僕の耳に届いた。
 上から差す光が強く僕を照らす。健一が、すぐそこにいる!

 やっぱり、健一は僕を探しに来てくれたんだ。首を振って逃れて、僕は健一に助けを求めようとした。そこへ、別の声がして、僕の体は硬直した。

「いないんじゃないか? こっちへは来なかったのかも」
「いや、こっちだ。もしかして、俺たちの気配を感じてそのへんの木の陰に隠れてるのかも」
「でも、ここは立ち入り禁止だろ? ペンションの人も、近づくなって言ってたじゃん」
「看板は倒れてた。純はきっと気づかなかったに違いない。草を踏み分けた跡があるんだ、ここへ来たはずだ」

 取り巻きたちは口々に、健一の勘違いじゃないかと言う。普通に考えれば、立ち入り禁止で手入れもされていない遊歩道を抜けてまで、何もない湖まで来るなんて、そんなの誰も思わないだろう。僕にはこの人気のなさが都合が良くて、健一だけはここを逃げ場所に選んだ僕の思考に気がついていた。

「純! 純!」
「なぁ、健一、ペンションの人に確かめてみようぜ。案外、トイレにこもってるだけかもよ」
「そうだよ。でもまさか、湖に、なんて……」
「おい、やめろよ!」

 思わず体が震えた。今、彼らに見つかるのは嫌だと思った。
 僕は息を殺して下を向いた。顔を上げずにいれば、彼らが通り過ぎてくれる気がして。

 そしてずいぶん長く時間が経って、僕の願い通り健一たちは湖に背を向けた。

「純……どこにいるんだ……」
 
 こぼすような健一の声が、なぜかハッキリと聞こえた。そこに滲む苦しさのようなものを感じて、僕は咄嗟に手を伸ばしかけた。健一を呼び止めようと、唇を開いたとき、ぬめりを帯びた冷たい手が僕の口を覆った。そう、僕はまだ、水中で囚われたまま抜け出せずにいた……。

「っ!?」
『しーっ。黙って』

 僕の耳許でナニカが囁く。その響きはまるで小さい子どもをあやすようで、僕はなおさら力を入れて抵抗した。

『おおっと。願いを叶えてあげたのに、つれないじゃないか。水中で呼吸もできるようにしてあげたのに』
「え……? あ……」

 からかうように言われて初めて、僕はそれを実感した。水中にいるままなんだから、当然、息が続かなくなっているはずなのに、そんなことにすら自分で気づけないなんて、本当にどうかしてる。

 そして、初めて声の主の顔もハッキリと見えた。人間のようで人間ではない白い顔。滑らかなのにまるで爬虫類のような肌、銀色の長い髪と金色の目。耳は少し硬そうに見える。

 美しい男性だった。
 白い首は長くしっかりとしていて、しなやかな肩と厚い胸板へ繋がっている。裸の上半身には鱗が模様を作っていて、腰から下は完全に大蛇だった。どこまで続いているのかその長い尾は僕を二巻き、三巻きしてもまだ、水底にとぐろを巻いていた。

『ジュン? 可愛い名前だ』

 蛇のような男性は、そう言って僕に笑いかけた。さっきまでこの人とキスをしていたんだと思うと、かあっと頬が熱くなってくる。

 初めてのキスだった……。
 健一としたいと思っていたような、濃い、舌同士の交わりを、僕は無理やりこの人に強いられたのだ。

 いや、彼を人と言っていいんだろうか。まるっきり人間でないようには見えないし、言葉も通じる。けれど明らかに異質で、異常で、異様だ。

 彼はもしかして、この湖の主なのだろうか。僕の願いを叶えたと彼は言った。つまり、僕が「消えたい」と願ったから、僕はここにいるということか。

 ならば、僕が帰りたいと願えば、僕は帰れるのだろうか?

「あの、あなたはその……神様、ですか?」
『くくくっ、神? 私が? 面白いことを言うのだね、ジュン』

 蛇のような男性は手で口許を覆うようにしながら笑った。
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