ただΩというだけで。

さほり

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失踪

9.

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「お帰りになりました」

  中居にそう告げられ、乾は目を瞠った。
  息を切らして「つば喜」の暖簾をくぐったのが午後1時20分。会食の予約は12時半だったから、まだ1時間もたっていない。
  たとえ河野と津田の両方が時間より早く着席し、スタートが早かったとしても、昼懐石の会食が1時間足らずで終わるとは思えなかった。

「そんなはずは…… お食事は終わったのでしょうか?」

「お席を担当した者がおりませんので、詳しいことは分かりかねます」

  年配の中居は、「担当した者」に取り次ぐ気もない様子であった。そして、店の入り口で茫然と立ちすくむ乾に「失礼いたします」と頭を下げ、奥に引っ込んでしまった。
  事情は分からないが、津田と河野がもう店にいないことは確かなようだ。

  まさか、口論になってどちらかが席を立ったのだろうか。
「怒らせるようなことは言わない」と津田は言ったが、彼は見た目より感情の起伏が激しいことを知っている。
  もしくは、「新しいASV」の構想を褒めちぎらない津田に、河野が腹を立てた可能性もある。

  一緒に食事をする予定だったとはいえ、ここの予約は河野の名前でいれている。乾が関係者であることは料亭側には分からないから、ここで詳しいことを聞こうとしても無駄だろう。客の、しかも上客である河野の事情を、仲居が漏らすとは思えない。
  乾は見送るもののいない料亭を後にした。

  津田の連絡先も、河野の携帯の電話番号も知らない。社に電話しても、津田はまだ戻っていないだろう。
  何かがあったに違いない。とにかく、津田に会って事情を聞かなくては。
  乾は今来たばかりの駅までの道を、急ぎ足で戻った。

  津田の口から話を聞くことができないなんて、このときには想像もしていなかった。
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