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シノさんはそれから毎日、同じような時間にここを訪れた。私は次第に、彼が来るのを少し楽しみに思い始めた。
彼は来るたびに、いくつかの絵をじっくりと鑑賞していて、私に話しかけることは少なかった。そうして私の作品に向き合ってくれることが、どこか嬉しい。
私は自分の心を言葉にするのが苦手だ。感じることも、考えも全て描くことで表現するしかなかった。その作品を見ているシノさんと、言葉も交わさずに語らっているようにも感じられたのだ。
彼は自分のことを語らず、私のことも聞きはしなかった。そうこうするうちに私の小さく人気の無い個展は最終日を迎えてしまう。
「まだ作品を全て見られていないから残念です」
シノさんはさみしげな表情を浮かべていた。
「タマさん、次の展示会の予定は有りますか? 他の作品も見てみたいのですけれど……」
シノさんに問われて私は考え込む。今回だって、あまり来客の多い展示ではなかった。それに私は無名だし、母も個展を開いたことで満足したろうから、しばらく無茶は言わないだろう。
「正直、わかりません。今回の個展も……私が評価されて開いたものではなくて」
「そうなんですか?」
シノさんは本当に意外そうに首を傾げた。もしかしたら、この人にとって私は素晴らしい絵を描いたのかもしれない。それだけで、この個展を開いた意味は有るように思う。
「はい。お恥ずかしい話ですが、母が勝手に開いてしまったもので……」
私はポツリとそう零してしまった。あまり、人と話すのが好きではないはずなのに。シノさんがあまりに私の作品を大事に見てくれるからだろうか? 少し心を開いてしまっていたのかもしれない。
「お母様が、開催なさったんですか」
「そうなんです。少し過保護なところがありまして……。私の作品を、世の中の人に見てほしいと言い始めて。あとは全て、母が用意してしまったんです。正直に言うと、開催するお金も、宣伝や招待まで全て母が」
だから、次に何か展示会をするのは難しいかもしれないです。私は素直にそう打ち明けていた。シノさんは特にそんな私を軽蔑するでもなく、ただ事実を確認するように「そうなんですね」と頷いた。
「でも、僕にとっては素晴らしい個展でしたよ」
「それは、……ありがとうございます。でも、いい年になって親のお金や力に頼るのは、あんまりよくないと思っていて。親の七光りって言うじゃないですか」
気恥ずかしくて苦笑すると、シノさんは微笑みを浮かべる。
「いいじゃないですか、親の七光りでも。言い方は悪いですが、使えるものを使うことになんの問題も無い、と僕は思いますよ」
「で、でも。私より実力の有る画家にその、バックアップといいますか……。そうしたものが無かったら、私だけ卑怯なことをしている気がして……」
それは私がいつも気にしていることだった。
私の生まれはそれなりに恵まれたもので、母はある時から私をとても甘やかし、私に必要だと思うものは何であれ全て与えるような人だった。短大とはいえ美術系の学校に入学できたのも、アトリエを兼ねた2階建ての家に一人で暮らしているのも、ロクに仕事もせず絵を描いていられるのも。そうして表現したものを展示するのも全て、私の力ではない。母の力なのだ。
それは、同じ環境にない人たちに対して、あまりに不誠実なことではないか。私は常々、そう考えてしまうのだ。
「……これは僕の考えなので、タマさんとは違う意見かもしれないですけど」
シノさんは、私の瞳を真っ直ぐに見つめ口を開いた。
「タマさんの言うとおり、バックアップがあるからこうして個展を開けたのかもしれないです。でも、そうした環境にある人が全て、こんなに作品を展示できるでしょうか? 他にも選択肢はあったのに、タマさんはこうして数々の作品を描き続けたんだと思います。そうした意味では、タマさんも他の画家も変わらないと僕は思うんです」
シノさんは、この小さなギャラリーに飾られた私の絵を見回す。私もつられて、かつて向き合った作品たちを見つめた。
描くのが楽しいと純粋に思った日も、思うように表現できず苦しくて破り捨てたくなった日も、何もかも忘れて筆を走らせた日も有った。何も描きたくなくなって何日も筆を握らない時も少なくはない。それでも、またスケッチブックに向かっていた。
仮に私が、生まれた環境に甘えていたとしても。あの気持ちや、私の勉強する姿勢までは、否定しなくてもいいのだろうか?
「僕には、ここの絵がとても真摯に作られたものだと感じられるんです。タマさんは決して、遊びや暇つぶしで絵を描いているんじゃない。僕はそう思います。それにね、バックアップが有れば全ての人が一流の表現者になれるわけじゃないでしょう。同じように、無いからといって全ての人がなれないわけじゃない。そう考えると、自分は卑怯なことをしているという感覚自体が、他の人に対して失礼なこととも言える気がして」
「失礼、ですか」
私は意外な言葉に目を丸めた。シノさんは「言葉が強かったですね、ごめんなさい」と一度謝ったうえで続ける。
「生まれって、良くも悪くも選べないでしょう。その後の環境も全て。人はどう足掻いても、同じにはなれない。ひとりとして、同じ環境の人はいないんです。そうするとね、自分が恵まれているということを自覚するのはともかく、他の人がそうではないと意識しすぎるのは、根本的に自分が優位な場所から他者を評価していることになるかもしれない」
「優位な場所……」
「なんというか……貧しいのに頑張ったね、みたいな感じに。もちろん逆も有ります。お金持ちだから、という感覚。それが他人との健全な関わり方なのか、僕には少しわからないんですよ」
シノさんは時折言葉を選ぶように考えながら、話し続ける。それは少々耳の痛い言葉の連続ではあった。なのに、私には何故だか、シノさんを跳ねのけることはできなかった。
それは彼が私の作品に向き合ってくれたからかもしれないし、彼が今、真剣に話してくれているからかもしれない。いずれにしろ、その時の私も、シノさんの語ることに、向き合おうとしていた。
それがなんであれ、私にとって良きものか、悪いものかもさておき。自分の感じたままを受け取る。その上で私の感想を持つ。それが、向き合うということだ。
「タマさんはタマさんの環境で、自分のできることをしたらそれでいいんじゃないかと、僕は思います。そこになんの恥も卑怯もないと。まあ、人によって意見は違うと思いますけどね。それに、お金のある人が経済を回さないと世の中はどんどん貧しくなるだけですし。使えるものは使うって姿勢に、なんの悪いところもないと思うんですよ」
「なるほど……」
「それに、本当に実力や表現力の無い人は、結局評価されなかったりもするでしょう?
スタートラインが違うだけなんだと、僕は思ってます」
「シノさんは、そう思っているんですね」
私はあえて、肯定も否定もせずシノさんにそう言った。彼のほうも「はい」と頷いて答える。
「僕はそう思っています。タマさんはこの個展を恥じる必要は無いし、僕はこの個展がとても好きだったから、また作品を見たいと」
「…………」
私はなんと返していいかわからず、少しの間黙ってしまった。するとシノさんが「長々と勝手な意見を、すいません」と謝罪したから慌てて「いえ、大丈夫です」と首を振る。
「貴重なご意見を、ありがとうございます」
それは舌に貼りついた言葉ではあったけれど、私の人生で一番、正しく意味の乗った文言になった。こうして私に真っ向から意見を言ってくれる人など、人生において殆どいなかったのだ。母でさえ、私を腫れもののように扱うところがあったのだから。
私はポケットに手を突っ込み、革のケースから名刺を一枚取り出すと、彼に差し出した。思えば、こうしたことは初めて会った日にするべきだったろう。
「ここ、私のアトリエなんです。電話番号も書いてあるので……よかったら、遊びに来てください。いつも一人で絵を描いているので」
そんなこと、社交辞令でも言ったことは無かった。私の方もすっかり、彼にもう一度会いたくなっていたのだ。
「ああ、ありがとうございます。是非お伺いさせてもらいますね」
シノさんは名刺を受け取ると、丁寧にそれをビジネス鞄へとしまった。ただシノさんのほうから名刺を渡してくることは無くて、その代わり彼は名乗った。
「僕はシノといいます。これからよろしくお願いしますね」
シノさんは微笑んで、握手の為に手を差し出してきた。その手を握り返す。温もりを感じながら、私は「シノさん」と彼の名を呼んでいた。
それが、私たちの奇妙な関係の始まりだ。
彼は来るたびに、いくつかの絵をじっくりと鑑賞していて、私に話しかけることは少なかった。そうして私の作品に向き合ってくれることが、どこか嬉しい。
私は自分の心を言葉にするのが苦手だ。感じることも、考えも全て描くことで表現するしかなかった。その作品を見ているシノさんと、言葉も交わさずに語らっているようにも感じられたのだ。
彼は自分のことを語らず、私のことも聞きはしなかった。そうこうするうちに私の小さく人気の無い個展は最終日を迎えてしまう。
「まだ作品を全て見られていないから残念です」
シノさんはさみしげな表情を浮かべていた。
「タマさん、次の展示会の予定は有りますか? 他の作品も見てみたいのですけれど……」
シノさんに問われて私は考え込む。今回だって、あまり来客の多い展示ではなかった。それに私は無名だし、母も個展を開いたことで満足したろうから、しばらく無茶は言わないだろう。
「正直、わかりません。今回の個展も……私が評価されて開いたものではなくて」
「そうなんですか?」
シノさんは本当に意外そうに首を傾げた。もしかしたら、この人にとって私は素晴らしい絵を描いたのかもしれない。それだけで、この個展を開いた意味は有るように思う。
「はい。お恥ずかしい話ですが、母が勝手に開いてしまったもので……」
私はポツリとそう零してしまった。あまり、人と話すのが好きではないはずなのに。シノさんがあまりに私の作品を大事に見てくれるからだろうか? 少し心を開いてしまっていたのかもしれない。
「お母様が、開催なさったんですか」
「そうなんです。少し過保護なところがありまして……。私の作品を、世の中の人に見てほしいと言い始めて。あとは全て、母が用意してしまったんです。正直に言うと、開催するお金も、宣伝や招待まで全て母が」
だから、次に何か展示会をするのは難しいかもしれないです。私は素直にそう打ち明けていた。シノさんは特にそんな私を軽蔑するでもなく、ただ事実を確認するように「そうなんですね」と頷いた。
「でも、僕にとっては素晴らしい個展でしたよ」
「それは、……ありがとうございます。でも、いい年になって親のお金や力に頼るのは、あんまりよくないと思っていて。親の七光りって言うじゃないですか」
気恥ずかしくて苦笑すると、シノさんは微笑みを浮かべる。
「いいじゃないですか、親の七光りでも。言い方は悪いですが、使えるものを使うことになんの問題も無い、と僕は思いますよ」
「で、でも。私より実力の有る画家にその、バックアップといいますか……。そうしたものが無かったら、私だけ卑怯なことをしている気がして……」
それは私がいつも気にしていることだった。
私の生まれはそれなりに恵まれたもので、母はある時から私をとても甘やかし、私に必要だと思うものは何であれ全て与えるような人だった。短大とはいえ美術系の学校に入学できたのも、アトリエを兼ねた2階建ての家に一人で暮らしているのも、ロクに仕事もせず絵を描いていられるのも。そうして表現したものを展示するのも全て、私の力ではない。母の力なのだ。
それは、同じ環境にない人たちに対して、あまりに不誠実なことではないか。私は常々、そう考えてしまうのだ。
「……これは僕の考えなので、タマさんとは違う意見かもしれないですけど」
シノさんは、私の瞳を真っ直ぐに見つめ口を開いた。
「タマさんの言うとおり、バックアップがあるからこうして個展を開けたのかもしれないです。でも、そうした環境にある人が全て、こんなに作品を展示できるでしょうか? 他にも選択肢はあったのに、タマさんはこうして数々の作品を描き続けたんだと思います。そうした意味では、タマさんも他の画家も変わらないと僕は思うんです」
シノさんは、この小さなギャラリーに飾られた私の絵を見回す。私もつられて、かつて向き合った作品たちを見つめた。
描くのが楽しいと純粋に思った日も、思うように表現できず苦しくて破り捨てたくなった日も、何もかも忘れて筆を走らせた日も有った。何も描きたくなくなって何日も筆を握らない時も少なくはない。それでも、またスケッチブックに向かっていた。
仮に私が、生まれた環境に甘えていたとしても。あの気持ちや、私の勉強する姿勢までは、否定しなくてもいいのだろうか?
「僕には、ここの絵がとても真摯に作られたものだと感じられるんです。タマさんは決して、遊びや暇つぶしで絵を描いているんじゃない。僕はそう思います。それにね、バックアップが有れば全ての人が一流の表現者になれるわけじゃないでしょう。同じように、無いからといって全ての人がなれないわけじゃない。そう考えると、自分は卑怯なことをしているという感覚自体が、他の人に対して失礼なこととも言える気がして」
「失礼、ですか」
私は意外な言葉に目を丸めた。シノさんは「言葉が強かったですね、ごめんなさい」と一度謝ったうえで続ける。
「生まれって、良くも悪くも選べないでしょう。その後の環境も全て。人はどう足掻いても、同じにはなれない。ひとりとして、同じ環境の人はいないんです。そうするとね、自分が恵まれているということを自覚するのはともかく、他の人がそうではないと意識しすぎるのは、根本的に自分が優位な場所から他者を評価していることになるかもしれない」
「優位な場所……」
「なんというか……貧しいのに頑張ったね、みたいな感じに。もちろん逆も有ります。お金持ちだから、という感覚。それが他人との健全な関わり方なのか、僕には少しわからないんですよ」
シノさんは時折言葉を選ぶように考えながら、話し続ける。それは少々耳の痛い言葉の連続ではあった。なのに、私には何故だか、シノさんを跳ねのけることはできなかった。
それは彼が私の作品に向き合ってくれたからかもしれないし、彼が今、真剣に話してくれているからかもしれない。いずれにしろ、その時の私も、シノさんの語ることに、向き合おうとしていた。
それがなんであれ、私にとって良きものか、悪いものかもさておき。自分の感じたままを受け取る。その上で私の感想を持つ。それが、向き合うということだ。
「タマさんはタマさんの環境で、自分のできることをしたらそれでいいんじゃないかと、僕は思います。そこになんの恥も卑怯もないと。まあ、人によって意見は違うと思いますけどね。それに、お金のある人が経済を回さないと世の中はどんどん貧しくなるだけですし。使えるものは使うって姿勢に、なんの悪いところもないと思うんですよ」
「なるほど……」
「それに、本当に実力や表現力の無い人は、結局評価されなかったりもするでしょう?
スタートラインが違うだけなんだと、僕は思ってます」
「シノさんは、そう思っているんですね」
私はあえて、肯定も否定もせずシノさんにそう言った。彼のほうも「はい」と頷いて答える。
「僕はそう思っています。タマさんはこの個展を恥じる必要は無いし、僕はこの個展がとても好きだったから、また作品を見たいと」
「…………」
私はなんと返していいかわからず、少しの間黙ってしまった。するとシノさんが「長々と勝手な意見を、すいません」と謝罪したから慌てて「いえ、大丈夫です」と首を振る。
「貴重なご意見を、ありがとうございます」
それは舌に貼りついた言葉ではあったけれど、私の人生で一番、正しく意味の乗った文言になった。こうして私に真っ向から意見を言ってくれる人など、人生において殆どいなかったのだ。母でさえ、私を腫れもののように扱うところがあったのだから。
私はポケットに手を突っ込み、革のケースから名刺を一枚取り出すと、彼に差し出した。思えば、こうしたことは初めて会った日にするべきだったろう。
「ここ、私のアトリエなんです。電話番号も書いてあるので……よかったら、遊びに来てください。いつも一人で絵を描いているので」
そんなこと、社交辞令でも言ったことは無かった。私の方もすっかり、彼にもう一度会いたくなっていたのだ。
「ああ、ありがとうございます。是非お伺いさせてもらいますね」
シノさんは名刺を受け取ると、丁寧にそれをビジネス鞄へとしまった。ただシノさんのほうから名刺を渡してくることは無くて、その代わり彼は名乗った。
「僕はシノといいます。これからよろしくお願いしますね」
シノさんは微笑んで、握手の為に手を差し出してきた。その手を握り返す。温もりを感じながら、私は「シノさん」と彼の名を呼んでいた。
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