生きにくい私たちの純愛

なずとず

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第5話

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 まだ十歳だった私は、当時から少し変わった子ではあったかもしれない。

 街の見慣れた景色を眺めてはボンヤリ過ごし、外で遊ぶでもなく家の中で絵を描いていた。家族は私の特性を心配もしていたけれど、矯正しようとはしなかった。私は気ままに日々を過ごしていたのだ。

 絵を描くのが好きで、小学校に提出するコンクールでは何度も展示された。母は私に、絵画教室に行かないかと言った。それは私にとって魅力的な提案だった。そこに行けば、代わりに塾へ行かなくてもいいというのだから。

 学校では内向的な私も、同じ趣味を持つ絵描きの子どもたちとはそれなりに打ち解けたと思う。今は親交も途絶えたけれど、同じ絵描きで親交を深めた友人も少しはできた。ただ、絵画教室は私にとって、それほどよい場所ではなかった。

 先生と呼ばれる大人たちは私に正解を押し付ける。やれここの構図が、この色は彩度が、コントラストがどうのこうのと私の絵に難癖をつける。少なくとも、幼い私にはそう感じられた。

 私は描きたいように描いただけだし、また描きたいように描きたいだけだ。大人たちの指摘は私の画力を上げるかもしれないが、従った時点でそれは私の絵ではなくなってしまう。

 おまけに大人たちは威圧的で時には怒鳴る。そうした理由で、絵画教室のことが次第に嫌になってきた頃、その時が訪れた。

 梅雨の曇天。どこまでも鈍い空が広がっていた。私は絵画教室に向かうバスに乗り、ひとり窓から過ぎゆく景色を眺めていた。

 街角に変わった店を見つけたのはその時だ。私はまだ降りる場所でないにも関わらず、降車ボタンを押してバスから飛び出した。

 かなり道を戻ることになったけれど、無事にそこに辿り着けた。

 アジアというか、エスニックというか。異国の情緒が漂う鮮やかな布が垂れ下がった店の入り口。そこは暗く、中に引きこまれるようだった。なにか魔法の洞窟へと入るような心地で進むと、様々な何かもわからぬものが目に飛び込む。

 色鮮やかなスパイスの詰まった瓶、原色が織りなす衣服。金の装飾が施された食器、魔法のランプ。

 たった一歩、店に入っただけで、遠いおとぎの国にやって来たように思った。

 私はいつの間にか夢中になっていて、過ぎゆく時間を忘れていた。それどころか、ここがどこであるかまで全て忘れたのだ。

 ふと気付くと、絵画教室の時間が迫っている。私は慌てて店を出た。ところが、どちらから来たかわからないのだ。街並みはどこも見覚えが無くて、私は焦った。それがかえって良くないのだろう。冷静になればバス通りのことも思い出せたろうに、闇雲に歩いてしまったのだ。

 ぽたり、と額に水滴が落ちる。暗い空を見上げると、それはパタパタと音を立てて地上に落ちてくる雨だった。私は小さな折りたたみ傘を取り出して、歩き回った。

 絵画教室をサボったなどとバレたら、両親がどう思うか、またあの厳しい先生がなんと言うかわからない。怖くて歩くのに、ここが何処だかはますますわからなくなっていた。どの通りも似たような景色をしていて、バスは四方八方から駆け抜けているからどれが正解かもわからない。

 そんなことを続けているうちに、やがて私は涙ぐみ、ビルの壁に引っ付いて動けなくなってしまった。

 周りは雨の中道を急ぐ、知らない大人ばかり。楽しそうに話しながら歩く人たちも、私のことを笑っているような気がした。

 教室に間に合わない、怒られる。怒られるのは怖い。色々なことが目まぐるしく頭の中を巡って、思考が止まってしまったのだ。

 しばらくグスグスと泣いていた。どうにかしなければと思うけれど、どうしたら何か変わるのかわからない。大人は怖い、私を正しくないと言うから。

 私は確かに間違えた。予定があるのに、バスを降りてはいけなかったのだ。そんなことは、私にだってわかりきっている。わざわざ怒鳴りつけられなくたって、そんなことぐらい、赤子ではないのだからわかる。なのにどうして大人は、私をあれほど大きな声でなじるのだろう。

 様々な記憶と考えが、頭の中を搔き乱し、私は一歩も歩けないでいた。

 そんなふうに、どれぐらい過ごしていただろう。

「どうしたの、坊や」

 大人の男性の声が、すぐそばから聞こえて。私はチラリと顔を向けた。そばに、傘をさした警察官がしゃがみこんでいた。私と目が合うと、彼はニコリと微笑んだ、気がする。もう、顔もあまり覚えていない。まだ若い彼は、雨の降りしきる中、壁際でじっとしている私を心配したようだった。

「私は、井土と言います。井土リョクジ。変わった名前でしょ? 君の名前は?」

「……飯田、タヅマ……」

「タヅマ君か、君も少し珍しい名前だね。誰か、おとなの人と一緒かな?」

 私は黙って首を横に振った。こうして優しく声をかけてくる大人だって、怒らせたら怖いことには違いない。警察官だって、よくドラマでは怒鳴り散らしている大人の一種だ。私は彼のことを……井土さんのことを、最初よく思っていなかった。

「どうしてここに立っているのかな?」

「ごめんなさい……」

「大丈夫、謝らなくていいんだよ。お巡りさんは、タヅマ君が心配なんだ。誰か待っているの? それとも、道がわからなくなっちゃった?」

 井土さんに話しかけられている間、道行く人も興味ありげに私たちを見てくる。その視線が嫌で、私は再び壁に向かいながら、小さく答えた。

「バス停、わからなくなって」

「バス停か。おまわりさんが案内してあげられるよ。どこに行きたいの?」

 私は井土さんをもう一度見る。彼は優しい瞳でまっすぐに私を見ていた。気恥ずかしくなって目を逸らしたけれど、素直に目的の停留所を呟く。

「ちょっと待ってね」

 井土さんは傘を頭と肩の間で挟んで、手帳を取り出す。その手首に、銀色の腕時計が光っていた。手帳をしばらく見た後、

「お巡りさんに着いてきてくれるかな」

 と手を差し伸べた。

 私には、他に選択肢が無い。このままでは、家に帰る方法もわからないのだから。おずおずと彼の手を握る。その手は、温かかった。

 井土さんは仕事だからだろうか、それとも人柄なのだろうか、とても穏やかで優しい人だった。私の不安を和らげようとしてくれていたのか、バス停までの道すがら、色んな話をしてくれた。

「バスに乗ってどこへ行くの?」

 問われて絵画教室のことを話すと、

「すごいね、でもきっと大変だろうなあ」と呟いた。見ず知らずの人が褒めちぎるのではなく、心情を察してくれたことに、私は少々嬉しくなり、心を開いた。

 私にとって絵は、描きたいから描いているものであり、そこにはなんのすごさも無いのだ。少なくとも、私にとっては。それよりは、がんばってなどと無責任な応援もせず、ただ大変さに共感してもらえるほうが、当時の私にはよほど嬉しかった。

 私は井土さんの手を握って、バス停まで案内してもらった。

 その頃には雨が本降りになっていた。ザアザアと地面に叩きつけられる雨音、傘が雫を弾く音、それに車道を行き交う車の音が混じって、私の耳にも井土さんの声が届かなくなり始めた。

 やがて私は気付いた。いつものバス通りだ。心が明るくなるのを感じる。これでまたバスに乗れるし、絵画教室にも行ける。怒られるのは怖いが、行かないよりはきっとマシだろう。それに、家に帰ることもできるのだから。

「ここ、知ってます」

「知ってる? よかった。もう少し、ほらあそこの信号の向こうにバス停が有るよ」

 井土さんが前を見ている。雨足の強さと、傘の多さで見えにくいが、確かにバス停が有るようだ。雨のせいか、そこにはいつもより多くの人が集まっているようだった。

「すごい人だ。タヅマ君もすぐバスに乗れるといいね」

 私はこくりと頷いた。待つのは苦手ではない。すぐに乗れればそれに越したことはないけれど、乗れなければ乗れるまで待つだけだ。

 バス停のすぐそば、横断歩道まで来る。信号は赤から青に変わるところだった。私はようやく元の場所まで戻って来られたことへ安堵し、ここまで連れて来てくれた井土さんへ感謝をしようと彼の顔を見上げる。すると彼のほうも私に気付いたようで、目を合わせて微笑んでくれた。

 そして。

「――っ、危ないっ!」

 彼が大きな声を上げて、傘を放り出す。彼の腕が、私を突き飛ばした。

 周りの人も驚いて振り返る。後ろ向きに倒れ込む私には、それがひどくゆっくりに見えたのを覚えている。

 ややして私が見たのは、さきほどまで私がいたところに飛び込んでくる、赤い車の姿だった――。
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