霧の森のリゼロン

なずとず

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第六話 昔語り

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 う、と微かな声が聞こえた。ベッドに腰掛けたままちらりと視線だけをやれば、シーツの上でリゼロンが身じろぎしている。どうやら、目が覚めたようだ。それがわかってもレオーネは、そのまま視線を床に落とすばかりだった。

 リゼロンはしばらく静かに横になっていたけれど、やがて状況に気付いたらしい。「レ、レオーネ……」と名を呼びながら上体を起こす。それから、彼は自分が服を着せられていること、それにレオーネも同じであることに気付いたようだ。全てが終わった後なのだと理解して、リゼロンは青褪めている。

「そ、そなた……わ、私から何を聞いた……」

「…………」

「もしや、……す、……全てをか……?」

 そんな風に動揺しているリゼロンを、レオーネは見たことが無い。それほどに明かしたくなかった真実なのだろう。レオーネはその事に一度目を閉ざし、それから小さく首を振った。

「全ては聞けなかった。お前が口を閉ざしたことも……俺が踏み込めなかったことも有る。……まあ、リゼロンが何を隠そうとしていたのか、俺にはわからないが……」

 俺はそれを無理矢理暴いてしまった。もう、流石にお前も水に流すわけにいかないだろう。

 呟いて、深い溜息を吐き出した。

 リゼロンが眠ってから、レオーネはずっと考えていた。リゼロンの長い生、自分との出会い。あの出来事からこちら、リゼロンの過ごした時間と、自分の見てきたこと。すれ違いの果てに、自らが犯してしまった過ちについて。

 リゼロンがいつものように振舞ってくれればいいのに、と思う。けれど、リゼロンは何も言わなかった。寝室は静まり返っていて、外からは鳥の鳴き声が微かに聞こえるだけだ。薄暗い寝室で、窓から差し込む僅かな朝陽ばかりが眩い。

 レオーネはリゼロンの顔を見ることもできず、床ばかりを見つめている。何と言っていいかわからない。考えても考えても答えは出なくて――いや、出ているのかもしれないけれど、何度だって同じことを考え、悩むことを繰り返しているのだ。

「……俺は……選択を、誤ったと思っている……」

 ポツリ、とそう漏らせば、リゼロンが名を呼ぶ。その声に少しの非難も怒りも混ざっていない事に安心するような、むしろもっと責めて欲しいような。

「もっといいやり方は有ったはずだ。リゼロンに説明を求めたいなら……ミカが霧の森への入り方を見つけた時、一緒にお前のところへ出向いて、話せばよかった。お前が何度拒絶したって、何度だって話に行けばよかった。なのにこんなやり方を選んで、無理矢理暴いて、……これでは、……何もかもが、ダメなんだ……」

「レオーネ……」

 リゼロンの手が、そっと自分のそれに重ねられる。その優しい温もりに甘えたくもなったけれど、レオーネにはできなかった。自らその資格を断ち切ってしまったような気がして。

「……こんなことを言ったって許されることでもない。それはわかってる。だけど俺は……俺は……お前を傷つけたかったわけじゃ、なかったんだ……」

 どうしても話が聞きたかった。十二年前のあの日に抱いた気持ちは純粋で、間違いなくそれが真実だ。それが時間をかけて歪み、遂に行動に起こした内容があのようなものになってしまった。

 今ならわかる。こんなことを望んでいたわけではなかった。

 あの懐かしい日々と同じように、リゼロンと過ごしたかっただけだ。恐れるものなど何も無い、優しい花の香りに包まれて、彼がつまらないことに相槌を打ってくれる時間がもう一度取り戻したかった。それはリゼロンの事情を顧みないあまりにも自己中心的な願いだったし、それがもたらした結果がこれだ。

 同じ人間相手なら、最早二人の関係は取り返しのつかないことになっていただろう。

 同じ人間相手なら。

「……そなたは何も悪くない、レオーネ」

 リゼロンが、背中からそっと抱きしめてくれる。まるで慰めるように。傷つけたのはレオーネで、傷つけられたのはリゼロンのほうだというのに。

「そなたはまだ子供だったし、今もまだ若い。少なくとも私よりはな。そういう意味では、私のほうが性質が悪いのだ。幼いそなたと対話もせず、突き放しておいて忘れてくれることを願うような、卑怯なまねをした。長くを生きたのに勇気も無く、そなたを救うこともできなかった……」

「リゼロンが悪いはずがない、お前にはお前の事情が有った、」

「ならばそなたにもそなたの事情が有った、それだけであろう……」

 思わずリゼロンを振り向いた頬に、優しく手が寄せられる。その表情はいつもの余裕に満ちた微笑みではない。悲しげに眉を寄せている。しかしその瞳には、慈愛の色が見てとれた。

「そなたを苦しめたのは紛れもなく私だ。故に、私を責めて済むものならいくらでもすればよいと思うておった。……しかし、……それこそがそなたをより追い詰めると言うのなら、私もそれを断ち切らねばならぬ……」

「リゼロン……」

「だが、この期に及んでまだ、私には勇気が無い……」

 ぎゅ、とリゼロンの手が、レオーネの手を握る。そうして求められること自体が以前には無かったことだ。動揺するレオーネに、リゼロンが囁く。

「……私の過去を知って……私に幻滅しておらぬか……? あるいは、これ以上知って私を見限らぬだろうか……」

「…………」

「これ以上そなたを傷付けたくはない、というのは建前だ。私は……こうなってまで、そなたに軽蔑されたくないと心より思う、故に怖いのだ。全てを語るのが……」

 その理由を、レオーネはもう知っている。その上で、レオーネはリゼロンの手を握り返した。

「……何を知っても、幻滅も軽蔑もしない。約束しよう。……俺が言えた立場ではないかもしれないが……」

 少なくとも、俺の浅ましさを知って尚、リゼロンは俺を愛しい子羊として扱ってくれたから。
 リゼロンはその言葉に一度息を呑んで、それから困ったように微笑んだ。

「ありがとう、レオーネ。しかし、とは言ったものの……正直、私もよくは覚えておらぬことがあってな……」

 リゼロンはそう呟いてから、重い口を開いた。彼が頑なに隠そうとして来た真実について。
 



 思い出す限り、リゼロンは何処かの森で暮らしていたそうだ。

 森の近くの人間達とは良好に付き合い、その頃は穏やかな暮らしを送っていた。エルフと人の時間間隔は異なるから、どれほどの時間を過ごしていたのかはわからない。それがある日一変した。

 恐らくエルフ奴隷の商人に捕まったのだろう。その頃から記憶は曖昧で、何処かの屋敷に囚われていたことは覚えている。そこでは主人の命じるままに、彼の望みに応えるしかなかった。

 痛みをあまり感じないはずのエルフが、激痛に耐え。恥辱を味わい。おぞましく、恐怖に満ちた日々を送ったのだと思う。あまりの辛苦に耐えかねたのか、リゼロンの記憶は鮮明ではない。ダヴィードに助けられてからのことはよく覚えているのに。

 それでも時折、悪夢にうなされるのだ。あの頃、自分に起きた悲劇についてきっとどこかでは覚えている。けれど、思い出せない。だからその事について、レオーネに詳しく語ることはできないという。

 もしかしたら、薬が効いている間に深く問い続ければ答えたのかもしれない。しかし、そうしてリゼロンが封じるほどの記憶ならばそっとしておいてよかったとも思う。

 ともかく、リゼロンはずっと「思い出せないなにか」の記憶から逃げて来た。ダヴィードに助けられてからも、自分の名を隠し、この別荘に隠れ住んでいたという。くしくも、今いるこの部屋で。長い時間を安らかに過ごした。ここは安全なのだ、という思いがリゼロンの傷を癒したという。

 当然、自分を救ってくれたダヴィードに想いを寄せたこともある。けれど、彼はそうした傷を負っているリゼロンにどこまでも優しく、故に両者の関係が一線を越えることはついに無かった。

 ダヴィードの死が近付くにつれ、リゼロンは不安が強くなった。これまでは彼の庇護下にあったから幸せだったのだ。ダヴィードの死後は、自分の身は己で守らなければならない。リゼロンは記憶に無い脅威から逃れる為、霧の森へ籠ることを決めた。

 外界から自らを切り離してから太陽と月が幾度巡り、いくつの星が落ち生まれたのかもわからない。未だ脅威は存在するのか否かさえわからないまま、草木に囲まれ動物を友とし、思い出で孤独を慰め続けた。

 不老不死のエルフの人生は長い。他の者より感情が強く表れるリゼロンに、それは一種の苦痛でもあった。いつ終わるとも知れない脅威からの逃避と、一人きりの暮らし。

 そんなある日、その霧を裂いて一人の子供が、リゼロンのもとへと駆けて来たのだ。

 リゼロンがレオーネを大切にしない理由が無かった。子供は無力故に無害なのだ。長い年月の孤独を癒すには充分過ぎた。愛しい子羊と呼んだことに偽りは無く、また交わした約束にも嘘は無かった。

 ただ、事情が変わっただけだ。

 レオーネの指輪を奪わんと襲った野盗。リゼロンはそれを偶然と考えようとした。そうでなければ、不安で生きていけないから。しかし、現実は無慈悲だった。霧の森に、何者かが足を踏み入れようとしたのだ。レオーネから奪った指輪を握って。その気配を感じ、リゼロンは全身が冷え切った。

 脅威は、未だ在るのだ。そしてそれはレオーネをも脅かそうとしている。

 リゼロンに考える時間は無かった。今すぐに、この愛しい人の子を逃がし、森に何者も入れないようさらに霧を強めなければ。別れは辛い、それでもやらなくては。自分自身に――なにより、何も知らないレオーネに害が及ぶかもしれないのだから――。

 リゼロンはそこから先のことについて語らなかった。

 レオーネもわかっていて、続きを聞こうとはしない。それはもう、昨晩リゼロンの口から聞いた。薬と快楽に酔い、レオーネの背中に縋りつきながら彼は愛を語った。

 レオーネと別れてから、リゼロンは泣いた。泣き濡れた。長い孤独はリゼロンの心を弱くさせ、別れに胸を軋ませる。もう来ないとわかっていて、レオーネの為にあつらえた部屋が片付けられない。月日を数えることも忘れているのに、時折思い出すのだ。

 レオーネは今いったいいくつになったろう。自分のことなど忘れて、母親と幸せに暮らしているだろうか。エルフの男などと交わした口付けも覚えていなければいい。優しくて温かな子だ、きっと似合いの妻と子に恵まれて、幸せに生きていけることだろう。

 そう思い、願うことに偽りは無い。なのに、何故か涙が止まらず、胸が痛むのだ。その正体に気付くまで、リゼロンは長い時間を要した。

 実に、レオーネに再会し抱かれてしまうまで。己が何を想っていたのか、わかっていなかったのだ。

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