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1-5 鬼
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「おや……まだここに住人がいたのでしょうか?」
彼はゆっくりと首を傾げながら、穏やかな口調でそう呟いた。ゆらりと立ち上り、俺のほうへと一歩、また一歩近付いてくる。落ち着いた表情で、不思議そうに首を傾げたまま。まるで夢に揺蕩いながら歩いているかのようだった。
逃げた方がいい、そんな気はしていた。状況から考えても、この僧がここに住んでいた者達を殺し、挙句に血を喰らっていたとしか思えないのだ。そうするだけの力を、目の前にの存在が持っている。であれば、逃げた方がいいに違いない。
しかし、俺の脚は、体は不思議なことに動かなかった。
まるで魅せられたように、彼から目を離せないのだ。優美な仕草で唇に手を当て、俺を見つめるその様は、血に濡れているのにどこか妖艶で、麗しい。その足の歩み、指先の動きひとつさえ、どうしようもなく色香を帯びていて。
どうにも、どうにも俺には、彼から逃げるような気も、まして彼と戦うような気も起きなかったのだった。
「……わたくしを見ても、怖がりもせず、逃げもしませんか……」
僧のほうも奇妙に思ったらしく、襲ってはこなかった。ただただ、優美な舞のようにゆっくりと歩み寄り……ついに俺たちは、手を伸ばせば触れ合えるほどの距離にまでなっていた。
きつい血の匂いに混ざって、この場に相応しくないほど優しい香りを感じる。きっと、僧が読経の時に焚くという香だ。それも相まって、凄惨な現実は夢幻のような美しさを伴うようだった。
「ああ、あなた。その瞳……」
その時、彼は俺の頬へと手を伸ばしてきた。一瞬怯んだけれど、どうしてだかその手に悪意が無いように思えて、動きを止める。すると彼は、優しく俺の頬を撫でた。
温かい。それに滑らかだ。その指で労わるように肌をなぞられると、どうにも胸が、全身が温かく、いや熱くさえなる。どうしてなのかもわからないでいると、ふいに彼が微笑んだ。
「あなたが家主の言っていた、「鬼」なのですね?」
彼の手が、慈しむようにゆっくりと俺の額を撫でる。触れられた場所が、ずきりと鈍く痛んだ。
そう。俺の額には、二つの小さな何かが隆起しているのだった。角、とは言い難い、ほんの少しの突出ではある。しかし「鬼には角が生えている」ということぐらいは俺も知っている。だから自分は鬼と呼ばれるものなんだろう。
しかし、だ。
「俺がなんなのか、本当のところはわからない。俺はずっと、……閉じ込められていたから……」
「おや……。それはそれは、おかわいそうに……」
彼は心の底からそう思っているような、いたわしげな表情を浮かべている。その唇の動きひとつからさえ、目が離せなかった。
「あなたは人を喰らったのですか?」
「それもわからない。気付いた時には、ここの庭の岩の中だった。」
「まあ、いったいどれほどの年月?」
俺は首を横に振って答えた。
「何もわからない。だが、とても長い間だとは思う」
そう問答する間も、彼は労わるように俺の顔を撫でていた。まるで心の底から憐れむように。
「ああ、かわいそうなあなた……。俗世はこれですから、救われようがないのです。あなたのような、害無き鬼を閉じ込めておいて、自らは豊かに暮らすなど。罪深きことです……」
そう呟いた後に、彼は柔らかく微笑んで言った。
「けれど、ご安心くださいな。この心光が罪人たちを仏の御許へ送り、必ずや善き人として浄土へと導きましょう」
彼はゆっくりと首を傾げながら、穏やかな口調でそう呟いた。ゆらりと立ち上り、俺のほうへと一歩、また一歩近付いてくる。落ち着いた表情で、不思議そうに首を傾げたまま。まるで夢に揺蕩いながら歩いているかのようだった。
逃げた方がいい、そんな気はしていた。状況から考えても、この僧がここに住んでいた者達を殺し、挙句に血を喰らっていたとしか思えないのだ。そうするだけの力を、目の前にの存在が持っている。であれば、逃げた方がいいに違いない。
しかし、俺の脚は、体は不思議なことに動かなかった。
まるで魅せられたように、彼から目を離せないのだ。優美な仕草で唇に手を当て、俺を見つめるその様は、血に濡れているのにどこか妖艶で、麗しい。その足の歩み、指先の動きひとつさえ、どうしようもなく色香を帯びていて。
どうにも、どうにも俺には、彼から逃げるような気も、まして彼と戦うような気も起きなかったのだった。
「……わたくしを見ても、怖がりもせず、逃げもしませんか……」
僧のほうも奇妙に思ったらしく、襲ってはこなかった。ただただ、優美な舞のようにゆっくりと歩み寄り……ついに俺たちは、手を伸ばせば触れ合えるほどの距離にまでなっていた。
きつい血の匂いに混ざって、この場に相応しくないほど優しい香りを感じる。きっと、僧が読経の時に焚くという香だ。それも相まって、凄惨な現実は夢幻のような美しさを伴うようだった。
「ああ、あなた。その瞳……」
その時、彼は俺の頬へと手を伸ばしてきた。一瞬怯んだけれど、どうしてだかその手に悪意が無いように思えて、動きを止める。すると彼は、優しく俺の頬を撫でた。
温かい。それに滑らかだ。その指で労わるように肌をなぞられると、どうにも胸が、全身が温かく、いや熱くさえなる。どうしてなのかもわからないでいると、ふいに彼が微笑んだ。
「あなたが家主の言っていた、「鬼」なのですね?」
彼の手が、慈しむようにゆっくりと俺の額を撫でる。触れられた場所が、ずきりと鈍く痛んだ。
そう。俺の額には、二つの小さな何かが隆起しているのだった。角、とは言い難い、ほんの少しの突出ではある。しかし「鬼には角が生えている」ということぐらいは俺も知っている。だから自分は鬼と呼ばれるものなんだろう。
しかし、だ。
「俺がなんなのか、本当のところはわからない。俺はずっと、……閉じ込められていたから……」
「おや……。それはそれは、おかわいそうに……」
彼は心の底からそう思っているような、いたわしげな表情を浮かべている。その唇の動きひとつからさえ、目が離せなかった。
「あなたは人を喰らったのですか?」
「それもわからない。気付いた時には、ここの庭の岩の中だった。」
「まあ、いったいどれほどの年月?」
俺は首を横に振って答えた。
「何もわからない。だが、とても長い間だとは思う」
そう問答する間も、彼は労わるように俺の顔を撫でていた。まるで心の底から憐れむように。
「ああ、かわいそうなあなた……。俗世はこれですから、救われようがないのです。あなたのような、害無き鬼を閉じ込めておいて、自らは豊かに暮らすなど。罪深きことです……」
そう呟いた後に、彼は柔らかく微笑んで言った。
「けれど、ご安心くださいな。この心光が罪人たちを仏の御許へ送り、必ずや善き人として浄土へと導きましょう」
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