もう一度、恋をしよう

亨珈

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Be mine.

また、あとで

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 思いがけないことだっただろう。貴仁さんの瞳にあるのは驚愕で、でも彼女の様子を窺うこともなく、ほわりと表情が緩んでいく。
「ありがとう」
 鞄を持っていない方の手で箱を受け取ったとき、彼女の悲鳴じみた声が聞こえた。
「嬉しいよ、これ、あの店のだ」
 ビターチョコに、貴仁さんの好きな洋酒と、さまざまなナッツ類果実の砂糖漬けが入ったトリュフ。昨年の冬に期間限定一日限定五個という稀少さで、手に入れるのが大変だったとお茶をしながらこぼしていた。
 今年はまた違うものを作っていたのを頼み込み、無理を言って再現してもらったのだ。
「本当に嬉しい」
 幸せそうな貴仁さんに、信じられないと金切り声が浴びせられる。
「嘘でしょ、それ受け取るってことは、だって」
「そうだよ。俺は前から別れたい、別れてくれってずっと頼んでただろう。なのに、誰か好きな人か出来るまでは別れないってズルズル引っ張られて」
「でも、その子といるより私の方が貴仁に似合ってる! そうでしょ?」
 どうして? と低く問う声と共に彼女に向けられた表情は、取り繕うこともない冷たいものだった。
「ひとからどう見られるかを基準に恋人を選ぶのか? 本当はね、君がいなくなってから、彼女に惹かれてた。ただ、職場で軋轢を生みたくなくて、君がまだ俺を好きだって言うから、付き合いをやめられなかった。君の言う好きが、ただ自分の外見に対してだけだと気付いていても」
 けど、と私に向き直った貴仁さんのまなざしは優しい。大事そうに箱を抱えたまま微笑むから、私もそれ以上の笑みで応える。
 私の決心が伝わっている。そのことが、体を温めて、心を強くする。
「ずっと俺のことを優先して待ってくれていたんだ。でも、もうこれ以上誤魔化したくない。気持ちが伴わないままに周りに見せるためだけに一緒にいるなんて、もう無理だよ」
 彼女に顔を向ける貴仁さんの横顔を見ていた。だから、彼女がどんな顔をしていたのかも判らない。明日からの職場が針のむしろになるんだとしても、もう私は隠れていることを望まない。
 平和な日常が崩れてなくなるのだとしても、私は、貴仁さんの恋人になりたい。
 しばらく無言で見合った後、「わかったわよ」と震え声で彼女が言った。構内を徐行する車の音にかき消されそうな、小さな声だった。
 コツコツと音を立てて、気配が遠ざかっていく。それでも私は、貴仁さんだけを見つめて立ち尽くしていた。


 ウッドベンチ越しに、頭頂へとキスが落ちる。少し幼く見えるくらいに屈託なく微笑んだ貴仁さんが「あとで行くから、部屋で待ってて」と屈んで耳元で囁いた。
 元の位置に戻る顔を見上げると、瞳から欲情が感じられる。ずくんと下腹が疼き、握りしめた手を胸に当てると、脈拍が速い。
「いいかお」
 ちろり。舌先で唇を湿らせる仕草がエロティックすぎて、休憩室で耳にした「獣のような」という表現を思い出す。忘年会の日以来、そんな態度は示さなかった。今日こそは、その次に進むんだろうか。
 欲しくて、欲しくて。でも同じだけ怖い。
 あのときの痛みを思い出し、それでようやくもうひとりの男性の存在を忘れていたと気付く。
 でも、せっかく貴仁さんが目の前にいるのに、振り返りたくない。貴仁さんが立ち去ったとたんに話しかけてこられたら、今度こそ無視してさっさと去ろう。
 改めて気合いを入れているのが判ったのか、貴仁さんからくすりと笑みが漏れた。
「大丈夫」
 くい、と顎で示し、頷いて、
「ちょっと前にどっか行っちゃった」
 そう背後に視線を遣るから、私は変わらず貴仁さんだけを見ていた。
 自分で確認しないのかと不思議そうにして、それから苦笑して、大事に箱を抱え直す。私が両手で支えた長さも、貴仁さんの片手で丁度良い。うっとりとそれを眺めて、背中を見送ってから帰ろうと待っているのに、貴仁さんは苦笑して私を見つめている。
「両手が塞がってなかったら、抱きしめるのに」
 ほう、と悩ましげに吐息をする姿がセクシーすぎる。その色気を店舗にもっていかないで欲しい。
「職場に近いですし、ね」
 あの夜以来、抱擁もなく過ごしてきた。はやくもっとそばに行きたい。ぎゅってして、また噛みつくみたいにキスして欲しい。息も出来ないくらいあなたを感じさせて欲しい。
 キリがないな、と目で会話して、私から視線を断ち切るように、手を振って見せた。
「また、あとで」
「ああ、あとで、また」
 ふっと息を吐いて、ようやく貴仁さんは建物へと足を向ける。
 小道を抜け、影の中からロータリーを横切りインターロッキングを大きなストライドで颯爽と歩いていく。
 その背中が建物の向こうに消える瞬間わずかに手が上がったのを見て、また笑みがこぼれた。


 あの夜に送ってもらったのは玄関前まで。それ以降は、以前と同じように現地か最寄り駅で別れている私たちだったから、実はまだ貴仁さんの家を知らない。
 彼女が言っていたように、別れたいと意志を告げた後にもふたりは抱き合っていたのだろうか。
 ホテルで、自宅で。
 それを想像すれば、今後もし誘われたとしても、あの人の家に行くのは怖い。
 ワンルームのアパートだと聞いている。そのあらゆる場所に、彼女の存在を示すものがあり、それを感じたときに心が黒く染まるのが怖い。
 気持ちを切り替えて、コートと鞄を片付けて手洗いうがいをしてから、晩ご飯の支度に取りかかった。
 作り置きしてある昆布だしを小鍋に入れ、沸騰してから鰹節を入れ香りが立ったらさっさと掬いとる。短冊切りにした大根と人参を入れて全体の温度が上がってきたら蓋をして一旦火を止める。
 塩麹に漬けて密封していた鰆の切り身を緩くホイルで包んでグリルに入れて弱火にすると、さてどうしようと手が止まった。
 自分ひとりならこれで十分なんだけど、流石に貴仁さんには足りないだろう。
 味噌汁に入れるから揚げ出し豆腐というわけにもいかないし、うんうん唸っていると収納庫にジャガイモが残っているのを思い出した。シチューの残りでひとつだけあるから、ベーコンとタマネギでジャーマンポテトが出来る。冷凍庫に笹掻きした牛蒡があるのも思い出し、こちらは人参ときんぴらにすれば、残った分を弁当に使える。
 ひとりで頷いてから、ダスターを持って狭い部屋の中ぜんぶ拭き清める勢いで掃除を始めた。
 しかし困った。
 私の妄想で一度もなかったとは言わないけれど、そういえばここに招くという予想をしていなかった。何しろこの簀の子ベッドである。折り畳んでコンパクトにしまえますよー布団干しにもなりますよーが特長の商品だからして、見た目はフローリングに布団を敷いているのと変わらない。ちっともお洒落じゃない上、もしかしたら二人分の体重は支えられないかもしれない。重大な問題だ。
 ベランダに出すのもなぁ。
 クローゼットを開けてどうにか隙間を作ると、折り畳んでそこに押し込む。布団一式も普段は出しっぱなしなんだけど、衣装ケースの上に載せてどうにか収納。
 振り返ってみると、部屋がひろびろ。おお、八畳って結構広かったんだなんて感心してしまった。
 ベッドを退かした後に少し埃が残っているのを見つけて除去。
 よし、これなら大丈夫。
 ――大丈夫、だよね。
 コンロから魚の匂いが漂ってきて、慌ててグリルの火を消す。包んでいるから大丈夫とはいえ、うっかり記憶の彼方になってしまってた。危なかった。後は、貴仁さんが来てから焦げ目をつけるだけ。
 後は何をしたらいいんだろう。何しろ男性を呼んだことがないから、何をしておけば困らないのか判らない。
 取り敢えず、いつも通りに浴槽を洗っていつでも湯を溜められるようにしておく。
 あ、そうか。お酒とかいるのか。
 でも確か、忘年会で貴仁さんは乾杯以外は水割りを呑んでいた。それしか飲むものがなかったのか、それが好きなのか判らない。それに、私は実家で父のブランデーを舐めたり菓子作りに拝借したりするだけで、好んで飲んでいなかったから、銘柄とか判らない。
 今から買いに行ったとして、あの人が嫌いな銘柄だったら目も当てられない。
 本人に訊いて、次回までに準備しよう。今日はもうしかたないや。
 つまみにしたって、自分用のサキイカしかない。水割りには合わない気がする。これも訊いた方が確実かな。
 ぐるぐると悩みながらダスターを洗って干してから手を洗っていると、チャイムが鳴った。
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