君を聴かせて

亨珈

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いつから

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 雪子から指示がないので、沈黙したまま慎哉は適当に街を流し始めた。雪子は朝から出勤の日の方が少ないし、自分も明日は非番だ。もう少しゆっくりしても問題はないだろう。
 車窓から外を眺めて物思いに沈んでいた雪子がようやく顔を上げた。
「あの、小野さん。ありがとうございました」
「慎哉でいいよ、ゆっきー」
 軽く応えると、ぷふっと雪子は吹き出した。横目で確認した慎哉の胸が高鳴る。
「小学校の時の渾名みたい」
「そお? だってあいつがユキって呼んでるから一緒は嫌だし。てか俺の方が年下なんで、その喋り方やめてくださーい」
 軽やかにハンドルを回しながらシフトをチェンジしてスピードを上げて行く慎哉の隣で、呆れたように雪子は笑った。
「ええと、じゃあ慎哉くん?」
「おっ、いいねいいね」
「何処行くの?」
「何処行っちゃう? 行きたいトコあるなら行くけど」
 手元に視線を落とし、それからまた雪子は顔を上げた。
「じゃあ、海」
 了解、と答えて流れるように車線変更をする。それを確認して、雪子はそっと目蓋を下ろした。


 禍福はあざなえる縄の如し、という。
 それが本当なのだとしたら、自分は今どちらの状態なのだろうと雪子は思う。
 主観的なものと、客観的なもの。気の持ちようだと、そんなことは解っている。
 どう足掻いたところで、事実は変わらない。
 頑張って、より良くしようとして、もがいて。そうして得られた結果を幸せだと思うのか、不幸だと感じるのかはその人次第。
 過程すら全て楽しめるタイプの人が、幸せなんだろうなと解っていて、ではそうしたらと言われても、それを実行できる人は少ないだろう。
 出会ったとき、運命なのだと思った。
 あの時確かに感じた、恋に落ちる瞬間の衝撃。
 別れてしばらく経つが、今までにそんな風に感じたのはあの男だけだった。
 いいなと思って、アプローチして、徐々に仲良くなって。雪子の恋愛は、あの男以外はそういうパターンばかりだった。
 知人から、友人へ。
 そこから踏み込むのが怖くて。タイミングを見失って、相手が他の女性を選ぶのをずっと見送り続けた。
 それでは駄目なのだと悟ったからこそ、今度はすぐに決めたのに……。
 やはりまた、失った。

「今一番気になってるのはゆきちゃんだから。それじゃダメだって思うなら、女の方と別れる。そしたら付き合ってくれるのか」
 そう言われて、雪子は絶句した。
 これは夢かしらと、受け入れられない。そんな都合の良い展開があるんだろうかと思った。
「もう三年くらい付き合ってるし、一時期同棲もしてた。今でも結婚するなら彼女しかいないって思ってるくらい仲いいよ。それでも、ゆきちゃんが望むなら別れるから」
 脳味噌をかき回されているかというくらいに動揺して、それでもあの時、選んでしまった。
 男は、本当にすぐに彼女と手を切り、ふたりは同棲を始めた。
 解っていた。その時からずっと、雪子に安息の日などなかった。
 いつかきっと、自分にも同じようなことが起こる。罪を清算しなければならないときがくる。
 そんな背徳感を抱えたまま、幸せだと心から感じられるはずがないのに――
 それでも、選んでしまったのだ。


 寝ているのかと思ったが、減速したのを感じたのか、駐車場に着くと雪子は目蓋を上げた。お疲れ様、と言いながら降りる雪子と一緒に、舗装された駐車場から植え込みの間を抜けて慎哉も砂浜へと下りて行く。
 丸っきり無人ということもなかったが、それぞれが自分たちの世界に入っている上、かなり遠くに点々と散らばっている。
 二人は夏場には遊泳区域になっている場所を、冷たい砂を踏みしめてゆっくりと歩いた。
 声の届く範囲には誰も居ないのを確認して、雪子は足を止めて膝を抱えるようにしてしゃがんだ。
 傍に落ちていた木切れを拾うと、砂の上に「慎」と書いてから、隣に「誠」と書く。
 思わず「ん?」と声を漏らせば、くすくすと俯いたまま笑い始めた。
「しんやとせいや、何かのユニットみたい」
「いやいや、ただの偶然だから」
 勘弁してよ~と言いながら、体が触れない距離で慎哉もしゃがんだ。
「誠也って、見た目にも性格にも合っているのに」
「のにって! うわ今絶対酷いこと考えてるっしょ。慎むなんて似合わねーとか思ってるんだろ」
 おどけたりわざとしょげて見せたりする慎哉の隣で、くすくすと雪子は笑い続けた。初めて見せる、休憩室での様な笑顔。今まで慎哉には向けられなかったものが間近にあり、それだけで慎哉の胸にぼんやりとした明かりが灯る。ほんのりと暖かい。
 ふるりと雪子の肩が震えるのを目の端に捉えて、慎哉は砂の上に腰を下ろした。
「ゆっきー、ここ来て」
 膝を立てた足を広げてその間の砂地をぱふんと叩くと、雪子は目をパチクリとさせた。
「海見てていいからさ、ここ座って?」
 なんだったら触らないから。
 そう屈託なく笑う慎哉に困ったように首を傾げて見せ、それでもおずおずと間に体を入れた。
 ふわりと、空気が動く。触れなくても二人の間に留まる空気が熱を孕み、確かに今傍に居るのだと実感させてくれる。
 立てた膝の上に載せていた手を、慎哉は雪子の体の前で組んだ。囲い込むようにしながらも、抱き締めるでもなく、触れたりもしない。
 たまに強く吹き抜ける風からは、潮の香が漂ってくる。
 遠くぽつぽつと二つずつ寄り添っている人影たちは、今一体どんな言葉で愛を紡いでいるのだろう。
 二人には、今は言葉は要らないのだと思った。分け合う熱も。


 きっと抱き締められたら縋り付いて泣いていただろうと、単調に寄せては返していく波の音に包まれながら、雪子は静まる鼓動を感じていた。
 どうして、と思う。
 誠也が自分に構うのは沙良と祐次のせいかと思った。立ち上げのときからモール内のあちこちで顔を合わせ、挨拶からすぐにそれ以上の会話をするようになった沙良と雪子はかなり親しい間柄だ。そして上司である祐次と仲が良いから、特別に気にしてくれているのだろうと。誠也と祐次が仲が良いのも知っているから、なんとなくそう考えていた。
 友達として近付いてくる男なら大勢居た。そこから恋人へと発展させたいのは、態度から明らかで。飲み屋などで声を掛けてくるのは判り易くて良いとすら思う。
 以前の勤め先にも、こうして気遣いを示してくれる人なら居た。けれども、それは業務内のことだけだ。休み時間にちょっとしたお悩み相談、そんな程度で、終業後は自分の用事のためにそそくさと散って行く。或いは、それは全員が年上で妻帯者でもあったからかもしれないが。それくらいが気楽で良いと思うタイプだった。
 だから、雪子は職場に恋愛を持ち込むことを良しとはしていない。何より、恋愛関係には、いつか終わりが来る。それなのに、毎日長い時間過ごさねばならない場所に持ち込めば、上手くいかなくなったその時に必ず困ったことになる。
 慎哉もそれを弁えているのだろうと思った。公認ファンクラブのようなものがあり、大勢の女性に囲まれているのを目にすることも多い。けれど特定の誰かと親しいという噂も耳にしない。
 雪子が祐次に恋愛感情を持たなかったのも、そういった理性が働いていたからだ。けれど、祐次のことはとても大切だし、出来れば何か助けにはなりたいとずっと思って来た。
 だから、彼氏よりも仕事を優先したし、彼氏の方も束縛するタイプではなかったから、雪子が居なければ自分で勝手に過ごしてそれに対して苦情も言ってこなかった。
 どうしてこんな風になってしまったんだろう。いつからこうなってしまったんだろう。
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