君を聴かせて

亨珈

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微妙な距離感

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 あの日。テラスまでやって来た後、アパートに帰ると部屋の前で待っていた男の焦燥した顔を思い出す。
 別れると言い出したのはあちらなのに、雪子の二DKに置いていた自分の持ち物は車に積み込み、それでも合鍵は返してもらえなかった。
 実家住まいの男に何度か手紙で催促したら、家の電話に男の姉から電話があり、人の弟を弄ぶ売女と罵られて、もう連絡は諦めて電話帳からも削除して鍵は付け替えた。
 もしも鍵を変えていなければ、あの日もきっと勝手に中に入っていたのだろう。
 入れろと言い募られて、断ると髪を掴まれて壁に打ちつけられてそのまま引き摺られた。
 物音に気付いた隣の奥さんが顔を出さなければ、勝手に鞄から鍵を取り上げられていたかもしれないと思うと戦慄した。
 玄関同士が向かい合う共用階段で、隣から漏れる明かりがこれほどに頼りになったことはなかった。相手が拘束を解いた瞬間に急いで鍵を開けて中に逃げ込みしっかりとチェーンまで掛けたが、その後も気が気ではなくとても眠れやしなかった。
 気が付くと、帰宅時の服のまま、ベッドに膝を抱えて座って朝を迎えていた。
 騒がせたことを隣に詫びると、何かあれば声を掛けてと心配そうに言われた。けれど真に受けてはいけない。あんなのはただの社交辞令だ。幼い子供が二人と優しい夫のいるごくごく一般的な家庭に揉め事を持ち込んではいけないのだ。
 そんなことがあったから、今まで挨拶以上に声を掛けてきたことがないのに突然慎哉に呼び止められて驚いた。
 私服だったし、その時間に警備が帰宅することは有り得ないから、明らかに自分を待っていたのだろうと思った。
 けれど、どうして。
 テラスでのことを知っているのは慎哉だけだ。同僚に話したかもしれないが、直接知っているのは慎哉だけ。口調はナンパのようではあったけれど、瞳が笑っていなかった。
 だから、素直にその厚意に甘えた。
 厚意だろうと思う。好意ではないだろう。
 それなりに男性経験のある雪子は、自分に欲望を抱いているかどうか位は判断できる。
 誠也からはただ、優しさと気遣いだけが伝わって来る。
 そして今もそうなのだと思う。
 けれど、慎哉とは本当に接点がない。
 あの場に居合わせ、たまたま顔を知ってしまった。ただそれだけで、ここまで付き合ってくれるだろうか。
 これが性欲込みの行動ならばまだ理解できるし、普通はそうだろうと思う。
 風が冷たくて、肩を震わせた。
 気付いた慎哉が体全体で覆ってくれた。
 こういうとき、抱き締めるのが普通だ。キスを強要されたとしても、足のない雪子は断れない。車に乗せてホテルに連れ込まれてしまえば、逃げようがない。所詮は男女の体格と腕力の違いだ。
 そういう展開もあるかもと覚悟はしていた。
 慎哉の提案に、誘いに乗ったときに、もう心は決まっていたのだ。どうしても嫌な相手ならば、車になんて乗らなかった。
 それなのに、今のこの状況が判らない。
 事情を訊くでもなく、ただ雪子に付き合ってくれている。
 沙良と同じなのかもしれない。ただ、彼女の場合はやはり気になることはきちんと言葉にして尋ねるし、納得できないことはそうだと伝えてくる。
 微妙な距離感。
 厚意だけ、というのがまだ理解できない。
 同年代の異性で、果たしてそんなことが有り得るのだろうか。


 物思いに耽る雪子の項から、優しい匂いが鼻先をくすぐる。
 そのまま鼻を埋めて、白い首筋に唇を当てたらどんな反応をするだろうと慎哉は思った。
 流されて身を任せる雪子は想像できなかった。いつもの、拒絶を表す背中を思い出す。
 平手で叩く位はされそうだな、と思った。
 ここでもしも喧嘩になって置いて帰られても、雪子は平然とタクシーを呼ぶか朝まで待って近くのバス停から始発で帰宅するのだろう。
 正直、それは勿体無いなと感じている。
 挨拶だけの関係から、一歩くらいは傍に寄れただろうか。
 誠也が言っていた〈情熱的〉という形容が気になっている。慎哉と誠也は就職してからの付き合いだが、研修や毎日の勤務の中で、そしてたまに連れ立って出掛けるプライベートで、かなりの部分信頼し合っていると言える。
 慎哉は、誠也の観察眼は確かだと思っていた。誠也が嫌な奴だと感じれば、どれだけ装っていてもいつかその人物はボロを出す。逆に、慎哉が首を傾げるような人物でも、誠也が笑顔で接していればいつの間にか仲良く出来ていたりする。
 不思議なのだけれど。
 慎哉の見る限り、雪子は寧ろ誠也の好みドストライクだと思っていた。ちやほやしてくる大勢の女性スタッフとは違う接し方をしていた。
 それだから余計に、雪子は慎哉の恋愛対象とは認識されてこなかったのだ。
 一応好みは可愛い系だけれど、それなりの容姿があればいけるときにはいくし、抱けるものならタイミングは外さない。そういう自信がもてる程度には慎哉も女性経験が豊富だったから、今がそのタイミングだということは重々承知していた。
 けれど何故だろう。
 そういう一時的なもので済ませたくはないと、不意に思ってしまったのだ。


 雪子が、慎哉の手にそっと自分のものを重ねた。
 そろそろ……そう言葉を濁すから、組んでいた指を解いて雪子を解放して、腰を上げた。
 本当なら腰に手を回して抱き上げたかった。
 けれど、続けてゆっくりと立ち上がった雪子がジーンズに付いた砂を叩き落とすのを見ながら、自分もパタパタと払い、二人並んで車に戻った。
「慎哉くん、珈琲でいいのかな」
 駐車場の向こう側にある自動販売機からは、煌々と黄色や赤の灯りが漏れて周囲を明るく照らしている。まるで小さなコンビニのようだ。
 民家も店もない自然の中にあるのはトイレと水場くらいで、そこだけが不似合いなくらいに煌びやかな色で誘っている。
「あ、俺が」
 尻ポケットの財布に手を遣りながら言うと、「駄目~」と笑いながら素早くコインを入れてしまう。ホットのミルクティーと珈琲をさっさと押して、あちちと言いながら一本差し出した。
「あのね、色々本当にありがとう。こんなんじゃ御礼にもならないけど」
「何言ってんの。ゆっこの笑顔が報酬ですよ」
 かしっとプルタブに爪先を入れて曲げると、雪子は目を見開いて呆れたように笑った。
「呼び方、また変わってる! でもそれ確かに子供の頃呼ばれてた」
 着眼点はそこですかい。どうやら笑顔云々の寒い台詞はスルーされてしまったらしい。
 それでも、雪子を笑わせるというミッションはクリアした。何度でも見たい。そのためなら、他の女性相手のように安易にホテルに誘わないくらいの我慢なんて軽いものだ。
 缶に口を付けながら車に戻って、キーだけ差し込んで二人座ってそれぞれに味わった。
 あったかいね、と雪子が囁いたから、あったかいね、とそのまま返した。
 その言葉に含まれていたのは、缶の温もりだけじゃないのだと気付いていないと装って。
 目の端に映る雪子の瞳が濡れて光っていたのも、気付かないフリで黙って前方の遥か遠くに見える島影を眺めながら飲み干した。
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