君を聴かせて

亨珈

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白と赤に彩られて

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 車に乗ってから、慎哉はいつも世話になっている派出所に行き、事情を知っている巡査に同行を願うと一人残っているから大丈夫とカブで付き添ってくれた。
 現場のアパートに到着すると、他の警官が何やら隣の住人と話し込んでいて、巡査もこれはといよいよ表情を引き締めた。
 隣に住む女性は、子供たちにおやつを食べさせて寝かしつけようとしている時に、争う声を聞いたらしい。すぐに収まったけれど以前に雪子から話も聞いていたので、気になって玄関ドアに付いているレンズからそっと覗いてみると、ドアの内側に人影が消えるところだった。
 おかしいな、雪子はこれから出勤の筈なのに。忘れ物でもしたのかしらと暫く耳を澄ませていたが、いくら待っても玄関が開く気配はない。
 心配になって警察に電話して、必死になって事情を説明したところ、少し時間は掛かりますが一人向かわせますからと言われて、ようやくその一人がやって来て事情を説明したところらしかった。
 確かに、隣人の訴えだけなら民事不介入で警察には手も足も出せないだろう。精々、チャイムを押して声掛けをするくらいが関の山だ。
 それが判っていたから、慎哉たち三人は少しずつ周りを固めてきた。まだ相談でしかない段階だから、実際に四六時中警戒するのは無理だとしても、この辺りを通る際には不審者に気をつけてもらう様にと頼んでもみた。
 だが、それすらも、足りなかったのだろう。
 いきなり警官が見えてしまうと相手も本性を見せないだろうと、二人には死角に回ってもらい慎哉がチャイムを押した。声だけ伝えることの出来るタイプのインターフォンだ。
 室内で響くのに耳を澄ませ、数秒空けてからまた押す。数回繰り返すも、応答がない。
 隣人の話の通りならば、室内には必ず誰かが居る筈なのだ。慎哉は鉄製のドアをドンドンと拳で叩いて、声を上げた。
「水上さん、大丈夫ですか! 無断欠勤で大変なことになってるんですけど!」
 どう取ればよいのか微妙な声掛けで、その後も大声を上げているとプツンとインターフォンが反応した。
『うるせえよ、間男。ユキなら熱出して寝てんだよ。静かにしやがれ』
 あの男が中に居る。
 それが確定して、慎哉の拳が震えた。
「今まで連絡なしで休んだことはないんですよ。居るなら声を聞かせてくれませんか。それとも無理なんですか」
 わざと大きな声で言いながら、ポケットから取り出した合鍵で、そっと一つ目の鍵を開けた。
 開錠の際にはどんなに静かに回しても、ロックの外れる音がする。今ならダイニングにある受話器を持っている筈だから音が聞こえ難いと判断して、会話を続かせようとまた声を掛けた。
「どうなんです? 出られないくらい酷いなら救急車呼びましょうか」
『ああ、出られないくらい酷いんだよ。起きらんねえんだから当分休むって伝えといてくれよ。ずっと俺がついてるからさあ!』
 得意げに言い放つ男の声が癇に障る。
 しかし、その間に無事にもう一つの鍵を開け、そっとドアレバーを引いた。
 男はチェーンまでは気が回らなかったようでホッと安心する。
 慎哉は少し離れて立っていた巡査に目配せすると、ぐいとドアを引いて土足のまま中に駆け込んだ。ダイニングキッチンへと続く短い通路に立っていた男が、驚愕の表情を貼り付けて慎哉を凝視した。
「な、なんだよてめえ! 不法侵入だろうっ」
「不法侵入はお前の方だろう。俺はちゃんと水上さん自身から合鍵を預かってる。そっちは新しい鍵も持ってないくせに、どうしてここにいる!」
 寝室にしている洋間のドアはピタリと閉じている。男の立っている向こうの和室は、襖を取っ払って開放されていた。
「ユキが自分から入れてくれたに決まってんだろう。恋人なんだからなあ」
 この期に及んでも白を切るつもりなのかと、笑顔に戻った男の顔を凝視する。
「なんなんだよお前。図々しいにも程があんだろ。ユキはずっと前から俺の女だ。これから俺の子を産む大事な体なんだから、そっとしといてくれよ」
 怒りで目の前が真っ赤になった。
 じり、と足を踏み出し、それでも男より先にまず寝室を確認しようと手を伸ばすと、慌てた男がすぐ傍の流し台から包丁を抜き取った。
「それ以上動くなよ。さっさと出て行け」
 すっかり日が落ちた室内で、ダイニングの蛍光灯の光を万能包丁の刃がキラリと反射する。
 一瞬竦んでしまった体を叱咤して、
「やれるもんならやってみろよ」
 と、慎哉は半身になって男に対峙した。
「脅しじゃねえぞ、ホントにやるぞ」
 意外にも、男の声は据わっている。開け放した玄関ドアの向こうに警官が二人いるだなんて思ってもいないんだろう。
 心強い味方ではあるが、安堵してはいけない。急所は避けられるように慎重に立ち位置を調整しながら、そっとドアレバーを押し下げた。
 本当に切り込んできた。片手で持っているから体重こそ掛かっていないが、ヒュッと横薙ぎに払われて、顔をカバーしながらいなそうとしていた腕を切られた。ウールのジャケットの下から血が滲み出してきたが、構わずそのまま男の手首を取り後ろ手に捻り上げると、足払いを掛けて床に膝を突かせる。
 そこでようやく巡査たちが入って来た。
 慎哉を詰ろうと口を開きかけていた男がポカンとして「はい現行犯」と身柄を巡査に託される。
 もう少し遅ければ殴ってやろうと思っていた慎哉は、それでもすんなり引き渡して、今更のように靴を脱いでから改めて寝室のドアを開けた。
 途端に、性行為につきものの、あの生臭い臭いがむわりと鼻を衝き、慎哉は眉根を寄せる。臭いに心臓を鷲掴みにされている。
「ゆっこ?」
 遮光カーテンが引かれた室内は真っ暗で、手探りで蛍光灯のスイッチを押した。一瞬遅れて明かりが瞬き、火の気のない室内でこんもりと山になっている羽毛布団が目に付いた。
 本当に熱で寝ているだなんて楽観視はしていない。けれど、ここにきてようやく心の中に湧いてきた黒い不安に押し潰されそうになり、慎哉の足は鈍った。
 頼む、返事をしてくれ。そうすれば……。
「ゆっこ、雪子さん」
 捕縛の済んだ男を任せたのか、巡査がそっと慎哉の背を押した。それに励まされるように、微動だにしない布団に歩み寄ると、そこからはみ出している白い手が血に染まっているのに竦んだ。
「あ……」
 ガクガクと震え出した慎哉の代わりに、真剣な顔で巡査が掛け布団をはいでいく。
 焦点を失い見開かれたままの目と、腫れた頬、血に濡れた唇は乾いてぱさついている。鬱血痕と滲む血に彩られた胸から下腹が現れ、我慢できずに慎哉はその体を隠そうと覆い被さっていた。
「み、見ないで……くれ」
「小野さん」
 震えながら雪子の肢体を掻き抱く慎哉を痛ましげに見ながら、巡査は肩を擦った。
「解りました。見ませんから、救急車呼びますから何かでくるんであげておいてください」
 ドアは開けたまま部屋を後にし、背後で電話を掛ける声がする。
 僅かな息遣いに安堵するも、慎哉は今自分が何をすべきなのかも思い出せず、ただただ白と赤に彩られている雪子の体を抱き締めていた。
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