You're the only

亨珈

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cherish

それでも、顔が見たい

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 もう少しいるから休憩しておいでと言われて、小銭がポケットにあるのを確認してから二階の共用スペースである休憩室に向かった。
 そこには惣菜パンや菓子パンの自動販売機があり、夜中でも軽食を取ることが出来る。もうじき夜間スタッフがやってくるから、大田の手前ゼリーしか喉を通らないなんて言えなくて、ポーズだけでもと柔らかそうな蒸しパンを選んで押した。
 ぽとんと落ちたパンを取るためにしゃがんでもう一度立ち上がると、目の前が真っ暗になりよろめきながら自販機に手を突いた。

 立ちくらみなんて、女の人みたいだ……。

 初体験というわけではなかったが、まばらに弁当などを食べている従業員の居るこの場所で起こるなんて。
 頭を下げていれば治まるのは判っていたから、ずるずるともう一度しゃがんで俯いた。大抵の人は雑誌を見るかテレビを観るかしているから、気付かれませんようにと願う。
 だが、あっさりとその願いは破られた。

「大丈夫ですか」

 これが大丈夫に見えるならあんたの目は節穴だと言いたい。けれど声でもう判ってしまったから、絶対に顔は上げられない。
 ただ、一刻も早くここから立ち去って欲しいと祈った。

「すぐに治まるんで、放っておいてください」

 泣きたい。そんなわけにはいかなくて、震えながらも懸命にそれだけ言って、俯いてしゃがんだまま自分の膝に顔を埋めた。
 背後に誠也の気配を感じる。

 まだだ。まだ振り向いちゃ駄目だ。ぎゅっと目を瞑って、それからそろりと開けた時に眩暈が治まっていたのにまだ数分そのまま座り込み、ようやく顔を上げた時には、手を突いた際に潰れてしまった蒸しパンが床の上でぺちゃんこになっていた。
 袋の口は開いてしまっていたけれど中身が汚れたわけじゃないからと、そのまま手の中に握りこんで、今度はそろりそろりとゆっくり腰を上げる。
 誠也の気配は消えていて、振り返ると他の従業員の姿も掻き消えて、点けっぱなしのテレビの音を掻き消すかのように閉店前の音楽が流れ始めた。



 夕方になっても暑いと感じる日が増えていた。
 一年中温度調整されている屋内に居るから半袖しか制服がない自分の職場のようなところもあれば、逆に長袖しかない職場もある。
 どちらにしても真冬の外回りには一枚くらい上着を着たとしても寒さが凌げるわけではなく、これからもっと気温が上がっていく初夏ともなれば、常に厚地の長袖着用の警備員は辛いだろうなと思っていたら、風除室を出たところで植田と出会った。
 未だ地平線間際でじりじりと空気を焼き続けている光が眩しく、色だけ見れば夕暮れではなく昼間だった。
 カート整理の老齢男性と談笑していた植田は、「あっ、市村さん」と笑顔で手を振ってくる。

「今日も暑いですね」
「そちらこそ、肩とかの飾りの分余計に暑くないですか? 八月とか地獄でしょう」

 自分と同じようにありきたりの作業着を着ている男性にも会釈してから話し掛けると、そうなんですよーとわざとらしく首を傾げて下唇を突き出す。

「格好いいのは確かですけど、ホントに無用の長物ですよね、これ」

 何処かの軍隊のように階級を示すためではなく、本当に只の飾りなのだから、その通りだ。
 ただ、格好良いのも本当で、私服の時は勿論だけれど、着用しているだけで更に男前女前度が上がっていると思う。
 これは祐次の主観の問題だけでは無さそうだ。警備スタッフ全員に固定のファンがいることも知っている。
 何か続けようとした植田の表情が引き締まり、耳に掛けているインカムに指を当てた。緊急コールが入ったらしい。

「──はい、フードコート脇のテラスですね。二分で」

 復唱する植田の目が、祐次に向けられた。踵を返してインターロックを駆け出す彼女を、反射的に祐次は追い掛けていた。胸騒ぎがする。

「市村さんは戻って下さい! 刃物を持った暴漢です。スタッフに言付けて、しばらくは付近に近寄らないように!」

 え、と息を呑み足が止まる。言うだけ言って、植田は猛スピードで駆け去っていってしまった。


 大急ぎで巡回コースを回り、テラスで灰皿の交換をする予定になっていた水上に次第を告げてそこは飛ばすように言い含めた。
 浮浪者などが問題を起こすことはたまにあったけれど、流石に刃物沙汰は初めてだったから、水上の顔色が変わり無言で頷いた。
 いくら気丈に振舞っていても、通常の女性なら、いや男性でも刃物には恐怖心を覚える。それなのに躊躇無く駆け出した植田には感嘆するなと思ったら、指を組んだ水上の手が震えているのに気付いた。

「どうか、無事で……」
 仲の良い植田の無事を願った言葉が、祐次の胸を熱くした。


 小さくサイレンの音が聞こえて、バックヤードに戻ろうとしていた祐次は肩を震わせた。
 敷地内に入ったのか、ぴたりと音が消えて、代わりにスイングドアの向こう側がばたばたと騒がしい。
 誰か怪我でも負ったのかも知れず、そんなときに狭い通路を通って邪魔をしてはいけないと、もう一度店内に戻って二階へと階段を上がった。
 休憩室で少し時間を潰してから控え室に戻ろうと考え直し、ふとテラスの様子が気になりフードコート脇のドアから外に出る。
 パラソルの刺さった鉄製のテーブルセットがあちこちでひっくり返り、ウッドデッキの所々に鮮血が散っている。間違いなく傷害事件だった。
 一般的に男性の方が血に対する耐性が低いと揶揄されるように、また立ちくらみを起こしそうになり祐次はよろめいた。それを支えるように、誰かが横に立つ。

「市村さん、しっかり」

 植田が毅然と立っていて、ハッと姿勢を持ち直した祐次は、彼女の全身へと視線を彷徨わせた。

「ご無事でしたか」

 ええ、と硬い表情のまま植田が頷く。
 それでは、この血はお客様のものなのか。明らかに時間が経過しておらず、新しい血液なのは明白だった。
 問い掛けるような眼差しを受けて、植田の視線が揺らいだ。

「ここは、もう少し後で清掃してください」
「でも、染み込んだら取れなくなりますけど」

 元々清掃のために駆けつけたわけではなかったが、俄かに現実感を帯びてきた様子で祐次は首を傾げた。
 今ならまだすぐに吸い取って水拭きすれば、殆ど跡が残らないだろうと思う。店内の床ならともかく、天然の木だから、いくら防水加工をしてあっても完全には汚れが取れない。

「市村さん、あの」

 ふるふると首を振り、植田は言い淀んでいる。
 何事があってもきびきびした動作しか見た事がない。ましてや今は業務中だ。この植田の様子はいくらなんでもおかしいと、ようやく祐次は悟った。

「これって、この血って、一体誰の」

 まさかと思いながら、震える手で植田の手首を掴んだ。その後ろから、吸殻回収の道具を載せたカートを押して水上が現れた。キュッと唇を引き結び、植田の背中に手の平を当てて首を振る。

「大丈夫ですよ」
「何がですか、誰がですか」

 落ち着いて、と言っても難しいですよね。水上が目を伏せ、ごめんなさい、と植田が呟いた。
「間に合わなかったんです。精一杯走ったけど」

 呼吸を整えて、それでも眉間に皺を寄せて。
 ああ、そんな顔をしたら美人が台無しですよと言いたかったけれど、現実逃避したい自分を引き戻すかのように、水上が後を引き継いだ。

「木村さんが、襲われた女子高生を庇ったんです。三角関係のトラブルだとか、近くに居合わせたクルーたちが話しているのを聞きました」

 束の間、時が止まった。微動だにしない三人の周囲には人気がない。ここだけが別空間になったようだった。
 庇うなんて誠也らしくて笑える。きっとその場に居たのが、もうどうでもいい存在の自分だったとしても反射的に身を投げ出していただろうと思うと、ふっと笑い声が漏れた。

「市村さん……?」

 声に釣られて視線を戻した水上と植田が、同時に息を呑んだ。
 目を開けたまま、祐次はハラハラと涙を零していた。口元は笑みの形を作っていても、噛み締めている頬や皺の寄った眉間や何より切なそうな瞳の色を見れば、楽しんでいるのではないことは一目瞭然で。

 もしも、あの時。
 祐次が追い掛けて植田の邪魔をしなければ。黙って植田を見送っていれば、間に合っていたのかもしれない。
 振り上げたのか突き刺したのか、どんな風にその凶器を持ち出したのだろう。あちこち牽制しながら近付いて、自分より色男に庇われて逆上したのかもしれない。
 誰も何も言っていないのに、臨場感を伴った憶測の映像が脳内を占有している。
 悔やんでも悔やみきれなくて、ただ黙って涙を落とし続ける祐次に、水上がそっとハンカチを差し出した。遠慮する間もなく頬に押し当てられて、大き目のタオルハンカチだったから広げて顔を隠すようにして泣いた。


 胸ポケットで、簡易携帯電話が振動した。
 長く戻らないから、待ちかねた青木が呼び戻したがっているのだろう。
 ハンカチは洗って返しますからと断ると、祐次の方を気にしながらも散乱したゴミと吸殻の片付けをしていた水上が頷いた。同じく植田はテーブルなどを設置しなおしている。結構な力仕事だ。
 通話ボタンを押して耳に当てると、案の定控え室からだった。事件の顛末は明日の全体朝礼で知らされるようだから、取り敢えずこのまま帰るから後はよろしくと。

 そんな言い分を聞きながらも歩き続けたのに、数分後に控え室に着いたときにはもう青木はいなくなっていた。本当に肩書きだけは立派で頼りにならない人である。
 一応まだ平日だし、先程の騒ぎで慌てて帰ってしまった客も多く、店内は割と空いていた。
 専門店側を水上が、そしてスーパー側をバイトの子が回っているから、取り敢えず閉店まではここに居れば良い。

 祐次は事務机の回転椅子に腰掛け、自分の携帯電話を取り出した。
 誠也の番号を表示したものの、病院で治療中なら繋がる筈もない。それに、それこそ迷惑にしかならないのにと、無事かどうかの確認と謝罪だけしたい気持ちがあるのに、冷たくされるのが怖くて、とても通話ボタンなんて押せない。
 震える指先で表示を変えると、メール作成画面を呼び出した。

 ごめんなさい。顔が見たいです。

 無事ですかなんて、あの流血を見ているのに、無事じゃないのは知っているのに、白々しくて打てなかった。ただ、顔を見て安心したい。それから謝りたい。それだけ気持ちを込めて、送信ボタンを押した。
 送信が完了して、ふうと深呼吸しながら背凭れに体を預けた。その途端に携帯電話が振動して、飛び上がりそうなくらいに驚く。
 メールではない振動の仕方に怯えるように持ち直すと、誠也の名前が出ている。驚くよりも先に通話ボタンを押してしまっていた。
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