魔王と聖女と世界

亨珈

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終焉 そして

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 これは、一方的に告げられてきたなにものかからのことばに、こちらの意思を伝えることができる用紙。私は、そう認識している。
 このホールに現れた私を死に至らしめることは、如何なる人間にもできない。最初に神官たちにより、そのように言祝がれた。
 その制約には抜け道が多く、だからこそ私は王太子により何度も傷付けられた。
 刃物は室内に置いてくれなかったし、窓には鉄格子があったから、自死するとしても舌を噛むとか首を吊るとかの方法しか思いつかず、私はそれらを試してみた。
 結果、どんなに力を入れようとしても歯が舌に当たるとすぐに体が硬直し、もう諦めようと考えるまで動かなかった。そのあとしばらくは体中が弛緩し、ぐったりと寝込む羽目になる。
 朽ち果てた落ち葉のように床に横たわり、朝を迎えることが続いた。
 首を吊るのも同様で、とにかく私が死を意識する動作を取ろうとすると、体がいうことを聞かなくなるのだ。
 旅の途中で、崖など高い場所から落ちようと画策したこともある。それも同じ結果だった。
 では、飢えて衰弱すれば良いのではと思えば、それに気付いた魔術師に強引に食事を詰め込まれた。何度か吐いて抵抗してみたが、民たちが飢えを我慢し融通してくれている貴重な食材を無碍にするなと諭され、罪悪感で吐けなくなった。
 もしも、魔術師が婚姻相手であったとしたら。
 またせんないことを考えそうになり、ぐっと下腹にちからを入れる。
 迷わない。この世界は私のいるべき世界ではない。私を拒絶してきた世界など要らない。
 垂れることなくインクを留めているペン先を紙に置き、母国語で丁寧に綴っていく。
 旅に出る前旅の途中で習ったように、体内に巡る血液を意識して、心臓から指先へと辿らせた聖なるちからとやらを込めて、母国語で。
 最後まで書ききると、文字がふわりと浮かび上がった。
 差し込んでいる陽光がそれを包み金色に輝きながら頭上高く上がっていく。首が痛くなるほどに見上げていると、ごおんと鐘が鳴った。
 ――契約は受理された。
 どこからともなく、厳かな声が降り注ぐ。
 それは他の者たちにも聞こえるのか、おおと感嘆の声が挙がった。
 ごおん、ごおん、ごおん。鐘が鳴り響く。
 くすんでいた世界が鮮やかに色を取り戻し、それから剥がれ始める。
 文字が輝き霧散する様子を眺めていた者たちが視線を落とし、私に集まるのが分かった。
 眉を上げ、だらしなく口を開けたままこちらへと手を伸ばしている様子を見て、今度こそ微笑みを隠せなくなる。
 見てなさい。
 どんどん軽くなるからだを意識して、両手を掲げる。目の前で、指先がかすんでいくのが判る。契約の文字のように天に昇るのではなく、そして世界に散らばるのでもない。
 私の前で魔王がそうであったように、なにかに吸い出されるように、存在が粒子になり消えていく。気配がどんどん減っていく感覚に、たまらず私は声を出して笑った。
 王太子の声が、背後で挙がった。もうどうでもいい。最後になにか言ってやろうかとも考えたけれど、どうでもよくなった。
 好きの反対は憎しみではないということばを実感する。もう、王太子も王も神官たちも、そして諸悪の根源であるこの世界の神とやらも、すべてがどうでもいい。
 消えて無くなれ、世界。
 私を拒絶する世界など要らない。
 誰からも必要とされない私なんて要らない。
 消えてしまえ、消えてしまえ。

 鼻先をくすぐる懐かしい匂いに、意識を揺さぶられる。少し汗を掻いているの。懐かしいと感じることが悲しくて、瞼の裏が熱くなる。じわりと滲み出した熱がこぼれ出たとたんに頬が冷えて、耳の穴に不快感。
 それでも目を開けたくない。開けてしまえば、絶望が待っているんじゃないかって。
 濡れた頬を拭う動きで俯せてみれば、こちらも懐かしい感触。
 これは、パイル地だ。
 手で触れて確認しようとして初めて、自分以外の体温に包まれていることに気付いた。
 一瞬の疑念ののち、これも懐かしいものであると思い出す。この節くれだった長い指と私を包み込む掌には、剣を持つ者の硬さはない。
 最後の確認のため、ゆっくりと目を開いていく。
 いつか見たよりも、やつれた顔が、床にくずおれるように、ベッドに縋りつくように、私の至近距離にある。
 伏せられた瞼のほど近くにある黒子をみとめて、笑みがこぼれた。
 ねえ、あのときの返事の続きを言ってもいい?
 堪えきれずに呼びかけるも、掠れた吐息のようなものしか漏れない。
 それでも、愛しいひとの瞼がぴくぴくと動き、その下から黒と焦げ茶の瞳が現れる。
 頭をもたげることなく、私と同じ向きになるよう位置を変え、目も口も微笑みの形になるのを見つめていた。
 こくりと唾を飲み、唇を湿らせてもう一度声を出してみる。
「ただいま」
「うん、おかえり」
 へにゃりと崩れたあなたの笑顔が嬉しくて、握られた手の反対の手で、そうっと彼の眦を拭った。
「ねえ、話したいことがあるの。たくさん、たくさん」
「うん、俺もだよ」
 ふたりで答え合わせをしましょうか。あの世界のこと。
 それからじっくり話し合いましょう。この世界の私とあなたのこれからについて。
 

                  了
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