色彩

埜根大河/daikon

文字の大きさ
上 下
1 / 1

色彩

しおりを挟む
 世界は色に溢れている。
 悠然と広がる空の青も、夏を象徴する向日葵の黄色も、街を包み込む闇の黒も、全てこの世界を鮮やかに染め上げる色だ。

 そんな世界に、一際異質な存在がいる。
 その色は不明瞭で、不定形で、時に色褪せ、時に色づき、周囲の色に混ざって変わってい
く。
 常に未完成なその色は醜く、だが美しい、愛すべきものだ、と言えるだろう―――。

「うぅん……ムズかしい」

 と、そこまで読んで一色いっしきまことは本を閉じた。

 辺りを見回してみれば、そこは去年まで利用されていた旧校舎。
昼食を一人で済ますべく人気を避けて歩いていていたら、こんな場所にまで来てしまっていたらしい。
 ふと、去年まで愛用していた昼食場所を思い出す。

「確か、四階だったよな……あ、みつけ」

 階段を二段飛ばしで上がり、右手に曲がって突き当り、『美術室』とプレートで示された場所。
 新校舎に移る以前、高校生活二年間の昼休みの大半をこの場で済ました、誠にとっての憩いの場だ。

 四階にまで足を運ぶ生徒は殆どおらず、更に本来施錠されているハズの美術室に立ち寄る物好きなど皆無であった。

(た、だ、し。ちょっと特殊な捻り方をすれば、旧校舎の鍵は大抵……) 

 ―――ガチャリ。

「あれ……?開いてる」

 一昨年、偶然発見してしまった解錠方法。
 当時の感覚を取り戻す様に、ドアノブを捻った誠を想定外の感触が襲った。
 何の抵抗も無く扉は開き、誠を向かい入れる。

 考えられる可能性は二つ。
 一つ、単なる施錠忘れ。
 一つ、誰かが誠と同じ要領で鍵を開け、こっそりと使用している。

 おそらく後者であろうと誠は考える。
 何故なら、部屋を恐る恐る覗いた誠が最初に目にしたのは、長方形の部屋の中央に設置されたイーゼルと周りに散らばるキャンバス。
 誰かが使用していたのであろう形跡の数々、そしてイーゼルに乗せられた描きかけの油絵が、ごく最近の出来事であることを物語っていた。

 現状、部屋には誰もいないことを確認した誠の目は、未完成の油絵へと向かう。青を基調に、濃淡の違う緑や黄色が重ねられたその絵は海を現したものだろうか、何色もの色が重なり合った結果、吸い込まれそうな深みを創り出していた。

 だが、何か決定的に足りない。
 上手く言葉には表せないが、勿体無いと思わせる不完全な作品。
 誠はその絵を目の前に、思う。

(―――あぁ、何て絵なんだろう)

 無意識に口の端から流れ出る涎を拭い、取り憑かれた様に歩みを進める。
 キャンバスの目の前に立つと、一層空腹が刺激され、誠の理性は隅へと追いやられた。

 食べたい、食べてしまいたい。
 ただ、食欲だけがその場を支配していた。

 絵を手に取り、料理の盛り付けや色合いを見るように、高く掲げまじまじと眺める。
 それから、ゆっくりと口を付けた。
 まるでスープを吸うように、絵を傾けると色が口の中に流れ込む。

 色は流れ、キャンパスにはまるで最初から絵など存在していなかったかのように、まっさらな状態へと戻っていく。
 何とも形容しがたい、その旨味に誠は思わず目を細め、頬を緩ませて―――。

「ね、ねぇ……何、してるの」

 至福の時間は唐突に終わりを迎えた。
 既に遅いとは理解していても、咄嗟に絵を背中に隠した誠は、声のした方へと振り返る。

 今しがた誠が開けっ放しにした扉に、信じられないものを見た、という表情をした女生徒が立っていた。

「な、何って……いや、綺麗な絵だなって……それで、その……」

「そう、それはありがと。自信作よ……でも今、絵に口を付けてたよね?どういうこと、そういう趣味の変態?」

 困惑顔で距離を詰める少女。
 その視線は訝しげに誠の背後を見つめる。

「それ、コンクールに出す大事な絵なの。今年で最後だし、大切な絵だから返してくれる?」

 息が詰まった。
 最後まで食べ切っていないとはいえ、絵の半分以上の色は失われてしまっている。

「……え何、これ」

 恐る恐る背中に隠していた絵を差し出した誠から、ひったくる様に奪った少女から漏れた言葉。

「す、すみませんでした!大切な絵だとは知らなくて……」

 頭を下げる誠に少女は何かを考えるように絵を見つめる。
 それから何度か口を開き、何かを言いかけては飲み込み、遂には絶念したのか大きくため息をついた。

「……もう、いいよ。償いはしっかりして貰うのは当然として……これ、どうやって色を削いだの?さっき口を付けてた理由もちゃんと説明して」

 嘘を言おうものなら許さないぞ、と微かに怒りの残る瞳で少女は問う。
 とても適当な嘘で誤魔化せる雰囲気ではない。

「……特殊、体質なんだ」

 ぽつり、と意を決して誠は語り出す。

「色を、食べたんだよ……色を食べて栄養を得ている特殊な体質なんだ」

「……はぁ?ふざけてないでちゃんと説明を!」

「ふ、ふざけてなんかないんだ。ほら……」

 誠は持っていた弁当からから揚げを一つ取口に付けて証明して見せる。
 から揚げの茶色は先端から徐々に失われ、遂には透明になってその場に溶け込むように消えた。

「わっ、なにそれ、すっご……」

 今しがた目の前で起こったことが受け止められなかったのか、放心していた少女は目を見開き、声を漏らす。
 暫くその状態で固まったと思うと、「あ」とだけ声を上げ、ニヤニヤと悪戯な笑みを浮かべた。
 それは傍から見ていても、少女の頭上に浮かび上がったランプが灯るのを幻視できた程。

「ねぇ、名前、教えてよ。話はそれから」

「……一色誠、です」

「私は西織にしおりあや

 さっきまでの怒りはどこに行ったのか、少女は上機嫌でよろしくと言い放つ。
 それからまた同じ笑みを浮かべて。

「それじゃあ誠くん、名前に恥じないように誠実に頼むよ?」

 そう言って彼女は誠に絵のモデル兼話し相手をしてくれないか、と申し出たのだった。
 今思えば少し遠回しな脅迫だった様に思える。


          ※※※


 高校は夏期休暇に入り、殆どの生徒は自宅で勉学に励んでいる、もしくは青春を謳歌しているであろう頃。
 誠は制服を着て、学校に足繁く通っていた。
 校内で行われる学習会に参加する勤勉な生徒に紛れ、教師の監視の目を盗んで旧校舎へと向かう。

「お~い、おっそいぞー誠くん」

 四階まで上がり、美術室の扉を開けた誠を彩の陽気な声が出迎えた。
 まだ八時を回ったばかりだと言うのに、既に彩は絵を描き始めている様だった。 

「それで今日のお役目は?」

 鞄を下ろし、定位置に置かれた椅子に腰を下ろした誠が問う。

「いつも通り、モデル一割、私の話相手九割、かな」

 それが本日、と言うよりここ最近の誠の日課だった。
 夏期休暇の自由時間を返上してのことではあったが、自身の過失が原因なのだから文句は言えない。
 ただ一つだけ、どうしても許容できない不満がある。

「……あつすぎ」

「激しく同意」

 無断で旧美術室を使用している以上、クーラーは使用できず扇風機だけを頼りにしているのが現状だ。

「なぁ、西織、新校舎の美術室も解放されてるんだろ?」

「んー……あそこはもう所狭しと他の部員が使ってるだろうし、基本的に部外者の立ち入りも禁止。それに……」

「それに?」

「いや、うん、まぁ兎に角、私はここを離れるつもりはありません!堪忍して描かれなさい!!」

 どうやら彩の意思は固いようで、誠は快適な環境への移動を諦め椅子に深く座り直した。

「そう言えば色ってさ、味するの?」

 暫く経って、真剣な眼差しをキャンバスに注いだままの彩が、唐突に会話を始める。

「するよ、しなかったら食事とは言えないし……ただ、一つとして同じ味って無いんだ」

 誠の返答に彩は眉をひそめた。

「もっと、分かりやすく」

「うーん……例えばトマト」

 誠は球体を右手に持つジェスチャーをする。

「同じ場所、同じ条件、同じ品種で育ったトマトでも、全く同じ色のものってないよね」

 彩が頷いたのを見て、続ける。

「それと同じで、リンゴとトマトは同じ赤の様で全く違う赤なんだ。だからそのトマトの色は、そのトマトの味がするし、そのリンゴを食べて普通の人が感じる味を僕も感じてるんだ、と思う」

 左手にもう一つ球体を乗せた誠は、そう結論付けた。

「へぇ……」

 そう呟いたっきり彩は押し黙り、部屋の隅に立てかけられた絵に視線を合わせていた。
 数分、絵を描くことすらやめ注視していた彼女は、何かを決心した目で誠へと向き直る。

「じゃあさ、私の絵、どんな味したの」

「えっ……あっ、うーんと、先ず、すごく美味しかったです」

 予想もしない質問に最初は面食らっていた誠も、彩の真剣な表情に姿勢を正した。

「何て言えばいいのかな、すごく手の込んだ料理と言うか、絵や色に作り手の真剣さや葛藤とか、そういう気持ちが籠ってて…普段絵具なんて食べても苦いだけなのに、あの時は感情が色に乗って甘かったり、しょっぱかったり……とにかく」

「も、もういいよ!ストップ、ストップ!!」

 至福のひと時を思い出すかの様に語っていた誠に、彩の待ったが掛かった。
 言葉を選び間違えたかと焦るも、どうやら両手を突き出して顔を見せないように被せる彼女は照れている様にも見える。

「……え、あ……」

 そこまで冷静に分析してやっと、誠は自分が随分小っ恥ずかしい物言いをしていたことに気付く。
 何とも言えない、気まずい沈黙が流れる。

「……ふっ、あはは」

「……?」

 状況を掴み損ねた誠をよそに、彼女は一頻り笑い、「あー、笑える」と区切りを付けた。

「……ほんとはさ、あの絵、自信作なんかじゃ無いんだ」

 少し俯きながら話すのは自信の無さの表れか、咄嗟に見栄を張った不甲斐無さからだろうか。

「後輩の絵がすごくてさー、先輩として頑張らなきゃって躍起になって描いた絵…でも不完全だ、足りないなって、そう感じてた」

 それは誠が胸中に抱いたものと同じ感想。

「だからあの時、君が絵を食べちゃって、少し、心の底で安心してた。逃げる理由が見つかったって」 

「……あれは」

「でも」

 誠の言葉を遮って、彩が顔を上げる。

「絵を美味しい、なんて褒められたことないけど、それだけ絶賛されたらもう、自信、持たざるを得ないしね」

 迷いなど、とうに消えていた。

「だからもう、絵を描くことから逃げない。この夏休みで最高の作品を描き上げて見せるんだ」

 面白い題材も見つかったし、と付け加えて彩は晴れ晴れとした顔で笑った。
 誠にはそんな彼女がひどく鮮やかに、眩しく見えた。


         ※※※


 進路指導室。
 夏休みの日課とは別に、高校に呼び出された誠はこの場所にいた。クーラーには『故障中』と黒い大きなフォントで書かれたコピー用紙が張られ、忙しなく首を振る扇風機の羽の音だけが嫌に響いていた。

 この夏、クーラー下の部屋で過ごした記憶がない。

「……なぁ、一色。お前、結局何になりたいんだ」

 殆どの質問に「分かりません」としか答えず、押し黙った誠に痺れを切らしたのか、進路指導の新田にったはそう切り出した。
 それは、もうこの夏だけで何十回も繰り返された問答だ。

「自分は……」

 沈黙。

「まぁ、具体的に、とも、すぐにとも言わん。自分の好きなことや得意なこと、憧れ、大切にしてるもの、何でもいい、その中から“何になりたいか”を考えて来い」

 それが俺からの夏期課題だ、と言葉を残して新田は進路指導室から立ち去った。
 このまま自分は何にもなれないんじゃないか、なんて暗い考えだけが巡って誠は暫くその場を動けないでいた。

「あれっ、誠くん来てたんだ!ならほら、モデルに……どしたの?」

 進路指導室から出た誠を見とめ、手を振りながら近づいてきた彩は俯いたままの誠に違和感を覚えたのか、腰を折って顔を覗き込みながら訊ねる。

「んー、ちょっと進路が定まらなくってさ……だからごめん、今日のモデルはできそうにないや」

 顔を上げた誠は作り笑いをして見せた。

「そっかぁ……じゃあ今日は私がモデルになってあげよっか!」

「……え?」

 返事も聞かずにその場を立ち去ろうとした誠を、そんな突拍子もない言葉が呼び止めた。
 振り返る誠を、彩の屈託のない笑みが迎える。

「人を分析して絵を描くのって意外と冷静になれるんだ、それに誠くんの思わぬ才能が発掘されて……なーんてことも、無いとは限らないじゃん?」

 それだけ言って彩はお返しとばかりに返答も聞かず、両腕で逃がすまいと誠の右腕をホールド。
 そのまま強引に旧校舎へと引っ張っていく。

「あっでも私より上手かったら、それはそれで嫌かなぁ……」

 そう言って苦笑いする彩を見て、誠は思わず目を細める。
 きっともう気付き始めていた。

 特殊体質を理由に逃げてきた人との関わりが、今になってその事実を自覚させる。

 何故自分は色を食べるのか。
 口に触れ、食べようと思ったものから色を吸い取るあの行為。

(あれは……色を糧にしてなんて目を逸らしてきたけど本当はーーー)

「ね、ねぇ誠くん、そろそろ自分で歩いてくれない?」

 彩の疲弊した声が誠の思考を遮った。
 どうやら旧校舎の階段前まで運んで貰っていたらしい。

「ご、ごめん……じゃあ、うん、モデルお願いするよ。俺、絵下手だけどいい?」

「もちろん!それじゃあ、お願いしますよ、誠画伯?」

 美術室に着くや否や手渡された道具一式と、小さめの画用紙を手に背筋を伸ばして椅子に座る彩を見据えた。
 描き慣れていても、描かれ慣れてはいないのか、珍しく緊張している彩を前に誠は鉛筆を走らせる。

 西織彩。
 美術部のエースであり、誰にでも優しく、明るい性格から男女共に人気がある上、整った容姿。
 彼女が告白された、という話題でクラスの女子が盛り上がっていた所も度々見かけた。

 茶髪の髪に、少し薄い黒色の目。
 後は制服の白色と紺、彩を外側から見た色はこの程度。
 誠が感じる彼女の『色』は、やはり内的な性格、雰囲気、言動から滲み出るものなのだろう。

 そこまで考えて誠は手の中の線画に目を落とす。
 ブレブレの線に、左右非対称の体、正に素人の絵と呼ぶに相応しい。だからと言って途中で投げ出す訳にはいかない。

 その為この絵に今から色を付ける訳だが、そこで先程の思考に回帰する。
 内側から滲み出るその色は。

「やっぱり、オレンジかな」

 結論に至った誠の呟きが、静かな室内で思いの外大きな音となって響いてしまった。

「それって、私の色?」

 彩が誠の呟きを聞き取り、反応する。

「あぁ、うん。彩はやっぱり明るい人だから……俺にはそう見えたかな」

「そ、そうなんだ、ふーん……じゃあ完成楽しみにしてます!」

 そう言った彩は心なしか嬉しそうに見えた。

 また暫くの間、美術室を沈黙が支配する。
 オレンジを中心に、黄色や青、緑を加えていく。

 本来、人間からは見いだせない色の数々だが、誠が見る彩の色を表すには必要だ。
 羨ましい、と誠は思う。

 他者から見ても多色な彩はきっともっと様々な色を内包している。
 ただそれが妬ましくすらあった。

「あっ、そうだ」

 彩が何かを思いついたようにこちらを向く。
 嫌な、予感がした。
 それを言われてしまったら、自覚させられてしまう。

 止めなければ。

「ねぇ、あ―――「君って、どんな色?」」

 視界が、脳が揺れた気がした。
 この質問には答えられない、答えちゃいけない。 

 それでも口が開く。
 喉が震える、その答えをもう己の内側に留めることは限界だった。

 鮮やかな色彩に触れ、相対的に気付いていた真実を。
 もう、逃げられない。

「無色」

「えっ……」

「あっ……」

 漏れた声をかき集め、無かったことにしたいと誠は口を両手で塞ぐ。

「……」

「いや、誠くんは……」

 気付けば誠は逃げるように美術室を飛び出していた。

「えっ、誠くん!?」

 階段を駆け降り、旧校舎から飛び出る。
 人目など気にせずに走った。校門を抜け、そのまま人にぶつかりながら進む。

 胸が、痛い。
 息が切れ、膝に手をつく誠を横目に大勢の人が流れていく。

 気付けばそこは駅前の繁華街、日は傾き辺りは少し薄暗くなっていた。
 そんな中、辺りを見渡せば、自分の存在がひどく希薄に感じてしまう。

 街を歩く騒がしい学生集団が、腕時計を気にして早足で歩くサラリーマンが、大声と作り笑いで客を呼び込む店員も、誰もが『何か』を大切に生きていた。
 比べてしまう、どうしようもなく無色な自分と。

 町にある何もかもが、美味しそうに見えて。

【お前、結局何になりたいんだ】

【君って、どんな色?】

 頭の中で声が巡った。
 自分は無色で、透明で、何の色にもなれないから。

 それでも何色かになりたい。
 そう願い、色を食べ、この身に取り込むことを求めた結果が、こんな体質を作り上げたのだと。

 あぁ、それでも、これだけ色に囲まれ、食べても、食べても、食べても、自分は何色でも無いのだと自覚してしまった。
 自覚してしまったから、もう食事に意味を見出せなくなった。

 希薄な自分が、透明な自分が溶けて、紛れて、薄れて消えていく。
 そうして誠は、ただの無色な少年は、色彩の世界から逃げ出した。


         ※※※


 できる限り色を排除した暗い部屋に、無色な少年が独り。
 ひどい空腹が少年を苛むが、もうそれに意味は無いと、何も得られないと無視する。

 ずっと考え続けていた。
 ずっと言葉が反芻して、脳内に響き続けていた。

【「お前は結局、何になりたいんだ」】

 巡る言葉に合わせ、唇を動かす。

【「君って、どんな色?」】

 首筋を掻き毟る手が止まらない。
 健常さを失った青白い指が、皮膚を削り取り、遂には肉を抉り始める。

 痛みなど感じない、それどころか自身から流れ出る血にさえ、色を見とめられないでいた。

「俺は何色……無色―――違うッ!!」

 虚ろな目で呟いていた少年が、それだけは違うと声を張り上げ、否定する。
 理解はしていても、納得などできるハズがない。

「うっ……」

 空腹の状態で大声を上げたからか、吐き気が襲う。
 何とか辿り着いた洗面器に、空っぽの胃から透明な胃液だけが吐き出された。

「また、無色か、よ……」

 思考は飢餓で狂っていく。

「俺は、何色……?」

 全てが美味しそうに見えたのは、その全ての色を自分が持っていないから。
 空腹が痛い。

「俺の色……」

 嫌な汗が頬を伝う。
 体が熱い、耳が聞こえない、視界が端からじわじわと白く染まっていく。

 『色』『無色』『透明』『無個性』
 何者でも無くて、何者にも成れない。

「俺の……」

 自分の色が欲しい、あるのならば知りたい。

「俺は……」

 あの酷く眩しい少女の様に。
 あんな風に鮮やかで居たいと、なりたいと思ってしまったから。

「俺の……」

 色が知りたい。
 もう無色は嫌だ、独りも。何かになりたい。

 色が欲しい。
 自分だけの色が、色を、色に、何色かに。

「俺を……を?」

 あぁ、そうだ。
 ―――食べればいいんだ。



          ※※※



「―――や?」

「……」

「彩ー?」

「わっ、夏ちゃんどうしたの?」

 名前を呼ばれ、顔を上げた彩を友人の夏美が心配そうに覗き込んでいた。

「どうしたも何も……彩、最近ぼーっとしてること多いけど、大丈夫?」

「あー……うん、大丈夫。ちょっと部活が忙しくって……」

 夏休みが明け、コンクールが近づいた今、もっとしっかりしなければならないのに。
 大切で、大きな『何か』を唐突に失ってしまった様に、胸にぽっかりと穴が開いた錯覚が、喪失感として彩の行動を阻害していた。

「じゃあ、今日も居残り?」

 頷いた彩を見て、夏美は他の友人達も彩と帰りたがっていたと伝え、放課後の教室から立ち去った。
 独りだ。

 友人に恵まれ、家族に愛され、後輩からも慕われている、およそ十二分に満たされている日常の中で、彩は漠然と思う。

「絵を描くときはいつも一人でしょ……」

 何を言っているんだ、と不可解な感覚を頭の隅に追いやる。

「描かなきゃ……」

 半分の使命感と、半分の見栄を原動力に、彩はたどたどしい足取りで美術室へと向かった。



          ※※※



 ―――気付けば、旧校舎の美術室にいた。
 室内に入ると、まず目に付くのはイーゼルと、その周りに乱雑に置かれた描きかけのキャンバス。

 そして、それらを挟む形で置かれた椅子が何故か二つ。
 その疑問が心の穴を広げていく錯覚を覚えた。

「もう、いいや」

 そう言って無理やり喪失感を閉じ込めて、彩はリュックを下ろす。
 底にしまった画材を取り出そうと、探っていた彩の腕が止まった。

 指先に当たった感覚を頼りに、バックの暗闇の中から何かを引き上げる。
 彩が取り出したのは、大切そうに折り畳まれた一枚の画用紙。

「何だろう、これ……」

 紙を開き、彩は目を見開いた。
 それはひどく稚拙で、線や全体のバランスは考えられておらず、使える色を全て使って無理やり何か
を表そうとした素人の絵。

 だがそこに描かれている人物は。

「わた、し?」

【彩はやっぱり明るい人だから】

 照れ隠しか、絵に自信がないのか、そう言って顔を背ける誰か。
 だが肝心の顔が、ノイズが走ったようにぼやけていて見えない。

「オレンジ……私の、色」

「」

「だれ…?」

 心の穴が疼く。
 きっと今の自分は泣き出しそうな顔をしていた。
 それでも。

「描かなきゃ」

「」

「あの人の……いや、君に伝えなきゃ」

 顔の見えない、でも覚えている『君』の為に、他の誰でもない私が描かなくてはならない、と。

「君の色を、伝えなきゃ!」

 画材をリュックから引っ張り出し、彩は真っ白なキャンバスをイーゼルに乗せた。
 彩より少し高めの伸長。

 酷い、出会い方だったと思う。

 ―――鉛筆が輪郭を作り出す。

 自分に自信が無いようで、何かを思い悩んでいて。

 ―――灰色で影を付ける。

 でも、私の弱さなんて気にならなくなってしまう程に明るい言葉をくれて。 

 ―――黄色を塗る。

 毎日毎日、嫌な顔もせず付き合ってくれて。

 ―――緑を、加える。

 優しくて、脆くて、不安定で、でも周りの色をよく見ていて。

 ―――青を、肌色を、黒を、君の色を伝える。

「君は……誠はッ!!」

「ッ」

「無個性なんかじゃ、無色なんかじゃない!優しくて、不器用で、臆病だけど、でも人に温かい言葉をかけられる、鮮やかな人間だって!!」

 ―――絵を、描き上げた。

「……それが、俺の色?」

 後ろから、声が聞こえた。

「そうだよ」

 振りむかなくても、そこにいると確信して彩は答える。
 伝わったのだと。

「こ、こんなに……?」

「そうだよ、こんなに」

 縋る様に問う声は、今にも泣き出しそうな程に震えていた。

「信じられないなら、何度だって言ってあげる。君は、無色なんかじゃないよ」

 無色だった少年は。
 いや、無数にあった自分の色に気付けないでいた誠は。

 鮮やかな色彩を、確かに、自身に見とめていた。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...