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背
私には秘密がある。夫には言えない秘密が。
鼻歌交じりに、流しの前で私は弁当箱を包んでいた。ふと気配を感じて、首だけで振り返る。スーツ姿の夫がぼんやりと見返していた。
だが、夫はあわてて目をそらし、止まっていた手で再びネクタイを結び始めた。エプロンをしたブラウス越しの背中を見つめていたのだろうか。
「あなた、また私に見とれていたでしょ?」
「そんなことないよ。もう行くね」
夫は照れながら玄関へ向かったので、私は弁当箱を持ってあわてて追いかけた。
おだやかな朝。結婚してまだ三年。子供はいない。こんな日々がずっと繰り返されるはずだった。
夫が出かけてから少し経って、チャイムが鳴った。忘れ物でもしたのだろうか。私は警戒することなく、ドアを開けた。
油断していた。不敵な笑みを浮かべて、力也が立っている。そのまま無遠慮に入ってくると、食卓の椅子にどっかりと腰を下ろした。
「お願い、帰って」
「まあ、いいじゃないか」
「一回って言ったじゃない」
「そう言いながら、サユリだって喜んでたじゃないか」
「本当にお願いだから……」
「安心しろ。お前の家庭を壊しやしない」
どうして、受け入れてしまったのだろう。私はうつぶせのまま横たわっていた。帰り支度をした力也が寝室から出る際に振り返った。
「全部消したんだな」
私は目を開けて壁をじっと見つめている。
「だけど、まるで浮かび上がっているようだったぞ。あの般若の面」
私は思わず振り返りそうになったが、かろうじて思いとどまった。
「上っ面だけ消しても、お前の過去も本性も消えやしないぞ」
かつて私の背中には大きな彫り物が存在した。夫はそのことを知らない。知らされても、たぶん何も言わないと思う。夫はそういう人だ。すべてを受け入れてくれる。けれども、私は墓場まで持っていくつもりだ。
十代の終わり、家出を繰り返す私は都心の繁華街でたむろする日々を送っていた。そこで出会ったのが力也だった。社会から逸脱した集団の一員。行き場のない私たちはいつしか一緒に暮らし始めた。粗暴で自己中。般若の面の刺青を強制的に入れさせられたのもそうだ。どんなにひどい仕打ちを受けても、何度別れようと思っても、私にはこの人しかいなかった。あぶれ者同士の絆か。
すさんだ生活は突然、終わりを告げた。力也は人を殺め、長い刑期を言い渡された。一人では生きていけないと絶望した。いや、一人で生きていくしかない。生まれ変わるチャンスでもあった。私は掃きだめから抜け出すために必死に働いた。そして、刺青も痛みに耐えながら、すべてきれいに除去した。過去を消し去るように。
あれから十年以上。いい人と出会い、幸せに満たされた人生を迎えたというのに、出所した力也は私を探し出してきたのだ。
刺青を消去する施術の際、クリニックの担当者からは、決して再び浮かび上がることはないとお墨つきをもらっていた。夫に背中を確認してもらったこともあったが、怪訝な顔をされるだけだった。
杞憂。
それでも不安は募る。そもそも私みたいな人間が人並みの結婚をしてよかったのか。
ある日、買い物帰りに公園の横を通り過ぎた時、一方に視線が行った。力也が水飲み場で水道水をひたすら飲んでいたのだ。さらに顔を洗い、手ぬぐいを濡らして、首周りを拭いていく。着の身着のままの服もよれよれである。
よせばいいのに、私は力也を自宅のマンションに招き入れてしまった。今、風呂上がりの力也は夫のインナーを着て、ダイニングで飢えた狼のようにガツガツと食べている。洗濯を終えた彼の服は乾燥機の中で回っていた。
「これでビールがあればよかったんだけど、ごめんね」
下戸の夫の前では、私も飲めない演技をしている。
「世の中、すっかり変わっちまったな。何をするにしても、ついていけねえことばかりだ」
たしかに、昔ながらのならず者は時代遅れだ。力也が属していた組も今では存在しない。
「俺がいなくなったら、サユリはどうなるかと心配したけど、ちゃんと人生やり直せて安心したよ」
私は小さな封筒をテーブルの上に置き、力也のほうへ押し出した。
「少しで申し訳ないんだけど、生活の足しにでもなればと思って……」
「手切れ金か?」
「そんなんじゃない」
「じゃあ、お情けか? だったら、断る」
力也はいきなり立ち上がると、玄関で半乾きの服を着ながら出ていく支度を始めた。
「もう二度と来ねえよ。邪魔して悪かったな」
「待って!」
「幸せになれよ」
私は追いかけることができず、閉じられたドアの前で立ち尽くした。
それを発見したのは、すぐのことだった。寝室のベッドに横たわり、ぼんやりと天井を眺めていた時だ。
「……?」
一方を見て、違和感を覚えた。立ち上がって、戸棚の上に手を伸ばす。物をどかし、奥
から出てきたのは、隠しカメラだった。再生すると、私と力也の一連の行為が録画されていた。
その晩、帰宅した夫は室内が暗いことを不思議に思ったようだ。電気をつけると、背を向けた私が食卓の椅子に腰かけていたのに気づき、驚く。
「どうしたの?」
振り向かない私に、夫は心配そうに回り込んできた。私はテーブルの上にあった隠しカメラをを押し出した。動揺する夫。それでも無言の私。先に口を開いたのは夫だった。
「ごめん……」
「謝るのは私のほう」
私は立ち上がると、床に置いてあったキャリーバッグを手にし、ドアから出ていこうとした。夫はうつむいたまま立っている。
「止めないのね」
「君は帰ってくる。何があっても、きっと僕のもとに。信じているから」
私は振り返ることなく玄関へ向かった。
行く当てのない私は公園のベンチで一夜を明かそうとした。腰を下ろし空を見上げて、ため息をつく。また根なし草だ。
離れたベンチから、いびきが聞こえた。目を凝らすと、眠りこけてうなだれる力也だった。
これから先、どうなるか分からない。けれど、この選択を後悔しないように生きるのだ。
(了)
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