暗香抄

むぎ

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 深山の春は遠い。里ではすでに若葉の季節だというのに、春朧濃い地ではようやく花が綻び始めた頃である。
 人里離れたこの山には、知る者ぞ知る名家がある。妖魔蔓延る世にそれらを滅する術士は数多いれど、彼らの用いる符を描くための筆作りを専門とする家は少ない。両手の指で足りるその中でも特に名高い三家があり、うち一家がこの山の奥深くに住んでいる。その姓は錫李という。
 錫李筆といえばそれ自体が魔除けの品だ。高名な術家であれば必ず一本は所有しており、その筆を用いて書かれた符は高い効果を発揮する。錫李家の歴史は数百年と長いがその年数のうちで作られた筆の本数は百に満たず、是非我が家のためにと頼みこむ者は少なくない。十年かかろうと、五十年かかろうと欲しい。そういう一品である。

 ――錫李の一門には謎が多い。

 筆の材質は勿論のこと、どのようにして高い魔除けの効果を付与しているのかもわからず、表に出るのは当主を含め数人のみでどのような一族構成なのかすらわからない。全ては白く霞んだ山の中、鬱蒼とした森の中、厳重に覆い隠されているのだ。





 寒さ抜けない山の深きを、一人の青年がそぞろ歩いている。
 色濃く残る白雪と数えられるほどの数輪開いたばかりの梅の花。この山の春は遅いが、その分一気に訪れる。もう数週間もすれば、梅に続いて桃、そして桜が。残雪の合間からは福寿草や蕗の薹、菫が。競うように姿を現し景色を春色に染め上げることだろう。しかし今はまだ冬支度も解けない寒山である。猟師でもない年若い青年が一人でいるにはそぐわない場であった。
 青年の装いはいたって簡素である。恰好にしろ荷物にしろ冬山に入るには少々心もとないものだが、その動作は実に軽々として寒さなど全く堪えていないようだ。特に印もない山の中、目指す場所でもあるように闊達に歩を進めている。

「川沿いに奥へ進めと言われたけれど……さて、まず川はどこかな?」

 独り言に応える声はないが、青年は白い息を空へと上らせながら時折呟いている。

「真っ白なばかりの雪景も良いけれど、そこに一輪だけ花があったらなおいいよな」
「一輪の花もいいけれど、陽だまりに咲き誇る花畑も美しい」
「春はいい。どこもかしこも花だらけで、どこを描いても綺麗だ。俺は春が好きだなあ」

 独り言が多い者は独りの時間が長いのだというが、青年の場合はそれだけが理由ではなく、旅の連れが人語を解さないせいでもある。彼の首元を一周するのは命無き毛皮ではなく、温さを保った生きた鼬だ。青年と鼬……一人と一匹、彼らは旅の仲間であった。
 この山に時折踏み入る里の者曰く、深山のさらに奥、川沿いに進んだ先に小さな滝があり、その滝壺のほとりには水面に枝を張り出す紅梅が一本きり生えているのだという。花の頃には残雪と氷柱の白に赤が映え、それは見事な光景となるらしい。そんな話を耳にした青年はいい話を聞いたと喜び、まだ花の季節には早いが下見をしようとこんな森の奥深くまで早速やってきたわけだ。

 ――青年の名は春明。行く当てもなく旅をする、しがない絵描きである。

 春明はちょっと裕福な家の気楽な三男坊で、幼い頃からさほど苦労をせず育ってきた。今年で二十三を数えとっくに嫁を迎えていてもおかしくない年ではあるが、独り身の気安さを好んで各地を放浪している。こっちに名所があると聞けば向かい、あっちに美人がいると聞けば出向く。風景も人物も、気に入ればそこらの野良猫でも河原の石でも絵に描く。それが中々の出来で、好き者にそれなりの値で売れたりもする。その日暮らしではあるがそう貧しいわけでもない、まさしく趣味に生き、趣味で生きる、そんな生活をしている。
 そういう男であるから、この寒々しい景色も春明にとっては魅力的である。ついついあちらこちらへと気移りしながら歩くものだから、すでに元来た道を戻ることすら危うい。それでもあまり危機感がないのは元来の性分というやつで、仮に日中に人里へ戻れなくてもまあ何とかなるだろう、とそう思っている。
 あれこれと話しかける春明を発熱する首巻きと化し黙してやり過ごしていた鼬は、太陽も中点を過ぎたがさていよいよ川はどこだろう、もう随分と奥深くまで来てしまった、という状態になってようやくその首を億劫げにもたげた。

「秋朝、どうした?」

 秋の朝に見つけたから秋朝という単純な名付けをされたこの鼬は、とても賢い雄の鼬である。考えなしで迂闊で落ち着きのない連れが向かうべき先を、その遠くまでよく聞こえる耳でとっくに探し当てていた。丸まっていた体を解きひょいと地面に降り立つと、残雪の上に小さな足跡を残し進み始める。

「お、そっちか。さすが、秋朝は頼りになるな」

 感心する春明をちらりと見上げる秋朝の顔は心なしかうんざりしていて、鼬が溜息をつく生き物であればさぞかし盛大なそれを吐いていただろう様子だ。そんな鼬らしからぬ表情を正確に読み取った春明はもう慣れたもので、悪びれもせず、

「では道案内を頼むよ、相棒」

 そうからりと笑った。





 秋朝の先導で辿り着いたのは確かに小さな滝であった。横幅は一丈ほど、落差も三丈に足らぬほどで、そんな小ささなので滝の流れは半ば凍りついていた。氷柱を伝いちろちろと流れ落ちる水によって、滝壺に幾重もの波紋ができている。その滝壺も水滴が注ぐ場所以外はうっすらと氷を張り、周囲には色濃く雪が残っている。この辺りの春はまだまだ遠そうで、木々の新芽もまだ硬いようだ。肌を刺す冬の空気に春明はぶるりと身を震わせた。

「ここはまだ冬だな……ああ、あの木がそうか」

 抱き上げた秋朝を肩口に下ろしながら視線を動かせば、滝の上方から滝壺に被さるように枝を伸ばし生えている木がある。その幹は梅特有のひび割れたような肌をしていた。春明はふむと顎に手をやる。

「小さくまとまった風情だが……うん、かえってこういう感じの方が秘密めいていいな」

 今の、まだ冬の終わらぬ凍った光景もこれはこれでいい。けれど確かにこの様子なら、花開く頃にはまるで暗がりにぽっかりと陽が射し込んだかのように、季節の狭間の幽玄な心地を味わえることだろう。滝壺のすぐそばまで近付くと昨秋の名残の枯葉が薄氷の上に数枚落ちているのを見つけ、秋の頃もいい景色が描けそうだなと思う。夏ならば涼みながら釣りなども楽しめるのではないだろうか。

「なあ秋朝、ここは中々な穴場のようだな」

 春明はすっかり気に入って、満足げに笑みを浮かべた。これから一年の間、四季の移ろいに合わせてここには頻繁にやってくることになるだろう。いや、なる。ここの四季を描くと、今、決めた。春明の旅は気の向くまま足の行くままだ。此度の四季一巡りはこの場所を中心とすることにした。

「ひとまずは軽く筆を慣らして、今日は夜が来る前に里まで戻ろう。秋朝、少しその辺で遊んでくるか?」

 荷物から簡素な紙と炭の欠片を取り出しながら、春明は秋朝にそう声をかける。この雑紙と炭片はざっくりと素早く描く時などに用いるものだ。まだ冬も過ぎ去らぬこの山でろくな準備もなく一夜を越すのはさすがの春明もするつもりはなかった。
 秋朝はその問いに答えるように定位置である春明の首から腕へと伝いつつ地に下りると、周囲を探るように鼻先をひくひくさせながら歩き回る。あまり遠くまで行くなよ、と言いながらも春明の手は早速目に映る景色を素早く描き起こしていた。しばらくの間、しゃっしゃと炭が紙の上を滑る音がその場に響く。よく動く口も絵を描いている時はきゅっと閉じられ、滝壺の周囲はしばらく程よい静けさに包まれていた。
 日が夕方の気配を滲ませ始めた頃、うん、と頷きながら春明は腕の動きを止めた。

「冬の景色は炭一つでも中々味があるもんだな」

 漉きの粗い紙と炭の欠片。そんな画材でも、腕が良ければ良い絵となる。自画自賛ではあるが、描いたばかりの炭画はなるほど中々な出来であった。寂寞とした氷瀑の様子が荒い筆致と合わさり、指や服の裾が擦れてしまった跡さえ味となっていた。

「とりあえず、そろそろ里へ戻らないとな。ここの夜はよく冷えそうだ」

 ひとしきり描いて満足した春明は親指の爪ほどの大きさになってしまった炭をそこらにぽいと捨て、絵を描いた紙は無造作に荷物に突っ込んだ。よいしょと腰を上げると、おおい秋朝、と姿の見えない相棒を呼んだ。

「山を下りるぞ。どこにいるんだ?」

 おおい、と数度声を上げながら見渡せば、秋朝は滝上からひょいと顔を出した。そこにいたのか、もう行こう、と腕を差し出すが鼬の相棒は動かない。

「どうした、何かあったか?」

 秋朝が動かないので春明の方が近寄れば、秋朝は滝上から落ちてしまいそうなほど身を乗り出して下を見やる。

「おいおい、落ちたらさすがに凍えるぞ。どうしたんだ一体」

 滝壺の脇からその長い胴が伸びる様を見守っていれば、秋朝は焦れたように氷を叩く。凍った滝がどうしたというのか。何かを伝えたいのだろうがよくわからない。再度どうしたと問えば、秋朝は伝えるのを諦めたようだ。伸ばした体を戻し人間臭い仕草で項垂れてみせ、それからととっと走り寄ってくると春明の肩へと飛び乗り、そのまま首に巻きつき尻尾で頭を隠してしまった。

「……そんなふてくされることないだろう? 全く」

 伝わらなくてふて寝してしまった秋朝に苦笑しつつ、春明は今度こそ川沿いに歩き出した。そうしながらちらりと滝へと視線をやるが、凍りついたそれは薄白い壁のようで、秋朝が何を伝えたかったのかはやはりわからなかった。

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