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しおりを挟む川沿いを素直に歩けば、思ったよりも早く山を下ることができた。
「最初から川の方を見つけておけばよかったな。なあ、秋朝」
春明の首にぐるりと巻きついたままの秋朝は、返事代わりに尻尾を揺らした。
もう日は落ちてしまったが、幸い月明かりが夜道をほんのりと照らしている。満月は五日ほど前に過ぎているが、欠け始めたばかりの月はそれでも十分明るかった。
「そうだなあ……ひと月後なら、花も綻んでいる頃だろう。次の満ち月の日にまた行ってみるか」
その頃には寒さも緩んではくるだろうから、夜までいて、月を映した滝壺を描くのもいいなと思い立つ。思い立てばその通りにするのが春明であるから、よしそうしようと即座に決めた。
「それにしても秋朝。さっきは何が気になっていたんだ?」
近場の里までもそれなりの距離がある。もうとっくに夜なのだし今更とことさらゆっくり歩きながら暇つぶしに問うが、秋朝はぱたぱたと尻尾を振るばかり。お前が話せればいいのになあと詮無い言葉を呟きつつ足下の小石を蹴る。
「何かいたのか? 妖とか。いや、でもそんな気配はなかったな。あ、もしかしたら鼠でもいたのか。捕まえたかったのか? ははん、わかったぞ、お前腹が減ってるな?」
つらつらと続く無駄口を秋朝はじっと聞き流していたが、結局騒がしさに耐えられず尻尾で春明の頬を張る。
「あいた! ……なんだよつれないなあ。暇なんだよ。お喋りに付き合ってくれてもいいじゃないか」
付き合う気はない、と秋朝はついに尻尾までしっかりと首に巻き付けた。その姿はもう獣の毛皮の首巻きそのものだった。
「なんだよ、つまらないなあ……」
幼い頃からやかましく、口から生まれたのだと言われてきた春明は、起きてから寝るまでどころか寝ている時さえよく喋る。その口が大人しく閉じているのは大好きな絵を描いている時くらいだ。お前はずっと絵を描いていなさい、と親に叱られたこともあった。
「……あ。そういえば、今月の文を忘れていたな」
常に眉根に皺を寄せている父と些細なことでもよく笑う母のことを思い浮かべ、ふとそう思い立つ。流浪の絵師をしている春明のことを父母と兄らは放任しているが、その代わり月に一度は文を出すように言い置いている。春明はその約束を守り月に一度はとりとめのないことを文にしたため家族の下へと送っている。……まあ、わりと頻繁に忘れるが。
「ちょうどいい。今月の文にはこの絵をつけよう」
荷物から先程の炭絵を取り出し、月明かりにかざしてみた。わずかな光が陰影を作り、凍る冬滝の硬質な様子がなおさら強調されるかのようだ。
「少し寂しいか。……確かあれが……お、あった」
がさごそと荷物を漁り、底の方に沈みこんでいた貝殻の小物入れを取り出す。以前花街の女性の姿絵を頼まれて描いた時、礼品の一つとして渡された口紅だ。今度実家に立ち寄った際に母にでもあげようと思っていたが、ちょうどいいので使うことにする。
「俺の手にかかれば、どんな木にでも花を咲かせてみせようぞ。なんてな」
歩きながら右手の薬指の先にその赤をとり、まさに唇へ紅をさすように絵中の硬い梅の蕾にそっと色を足していく。山水画じみた寒々しい景色に、唯一咲いた鮮やかな赤。厳しい冬を写した絵が一転ぱっと華やぎ、訪れる春を喜ぶものへと変わった。
「うん、よし。いいじゃないか」
春明はその出来に満足し、口角を大きく上げ微笑んだ。
*
ひと月後の深山は、思った通り色付き始めていた。
日陰に残る残雪は柔らかに光っている。土と落ち葉の天井を破り顔をのぞかせているのは節分草と福寿草の群落。花茎が上がりだしたばかりの片栗の花、とろりとした輝きを帯びた蝋梅、膨らみ始めた山桜の蕾。若芽の気配をにじませている木々の合間にはちらほらと色付く紅白の梅もある。昼前の今、肌に感じる空気は生温さを帯びていた。春はもう、訪れていた。
「まるで山が喜んでいるようだ。秋朝も、嬉しそうだな」
冬の終わりとともに首巻きの仕事にひと段落ついた秋朝は、春明の周囲を自由に走り回っている。素朴な花々の間を飛び跳ねる様は、春明の言葉通りはしゃいでいるように見えた。
「まだ春めき始めたばかりだが、これから暖かくなればなるほど一気に芽吹いていくんだろうな。春が遅い分、まとめてやってくるというわけだ」
里ならば、春は順を追ってゆっくりとやってくる。身に感じる温度や目に見える色を通して長い冬の終わりを知るのだ。しかしここではそれが駆け足で近付いてくるのだろう。日ごとに目まぐるしく山の姿が変化していくその過程を想像して、春明の心は浮き立つようであった。
山中をあちこち歩くのも一興だが、まずは目当てのあの小滝へ向かうこととする。今日ははじめから川沿いを進み、早春の花々が描いていかないのかと手招くのも泣く泣く無視した。いくら月夜の絵を描こうと当初から決めてはいても、日のあるうちに描きたい景色の詳細まで目に焼き付けておかなければ手元の暗い夜闇の中ではとてもまともに描けないからだ。空想を絵に描く者もいるだろうが、春明は目に映るものを絵という形で残すことの方が多い。
そうして一時弱歩いた先。あの小滝は、すっかりと様変わりしていた。
「これは……いい」
春明はほうと息をついた。感嘆のため息だ。
――氷瀑はもうほとんど元の流れを取り戻していた。飛沫の跳ね上がる岩肌に氷柱が名残のように残り、そのつるりとした氷の棘は春の日差しにきらめいている。音を立てて水が落ち込む滝壺は碧く、水底にはあちこち甌穴のある白い岩盤が沈んでいる。滝に降りかかる梅の枝には赤い花が六割ほど開き、ゆらゆらと風に揺れていた。
「ここは、いいな。すごくいい」
しばらくの間、春明は目を大きく見開いて小滝の姿を眺めていた。水面を叩く水滴の一つ一つ、滝縁に根付く細葉の植物がどうさざめくかまでじっと見つめた。満足するまで観察し続け、それからようやく荷物から画材を取り出した。
まずはこの間同様、簡素な紙数枚と炭の欠片を一握り。そこらにあった座るによさそうな石の上に腰を下ろし、小滝と紙上に視線を上げ下げしながら迷いなく手を動かし素早く描いていく。小滝全体は勿論、川床の甌穴の配置と数、降りかかる梅枝の形、氷柱の長さ、そういったことまで詳細に記録しながら何枚も何枚も紙を埋めていく。時々滝付近を通り過ぎる秋朝の姿まで詳細に描き留めて、描き続けて、気が済んだ頃には日が大きく傾いていた。
「ううん……もう夕方か。ひとまず腹ごしらえだな」
今日は元からここで夜を越すつもりだったので、握り飯と干し果物を持ってきている。いそいそと取り出し食べていれば秋朝がやってきたので分けてやり、一人と一匹でのんびりと腹を満たした。
「さて秋朝、今日はここで夜まで絵を描くから。お前は好きに過ごしていていいからな」
紅掛色になった空を見上げつつそう告げれば秋朝はしばし考えるように春明を見つめ、それからその膝に乗り丸くなった。どうやらどこにも行かないようだ。何だ俺の側にいたいのかと笑いながら周囲に散らばっている紙片を集め見直していく。段々と暗さが増して仔細はわからなくなってきたが、そもそもが走り書きじみた粗さなので大した問題ではない。それに、最も詳細な記録は春明自身の頭の中にあるのだった。
そうして描きたい絵をより鮮明に思い浮かべていれば、いよいよ月が昇り始めた。幸運なことに空に雲の影はなく、満ち月はその穏やかな灯で山を照らす。夜闇の中、木々の影はかすかにざわめいた。月が中点に近付くほどこの小滝の周囲にも光が届くようになり、そしていよいよ月が真上へとなった時、水面にその姿が映り込んだ。ゆらゆらと白く揺らめいて、小さな滝全体が淡く光るかのようであった。
春明は息を殺すようにしてその光景に見入り、かと思えば唐突に猛然と手を動かした。暗い手元をまるで意に介さず粗描きし、幾枚も紙を重ねていく。そうするうちに月は中点からずれ、やがて水面は青黒い静寂を取り戻していった。
ほんのわずかなその時を描き終え、春明はしばし余韻に浸るように目を閉じほうと息をつく。そうして今見たものを忘れないよう記憶に深く刻み込んでいれば、夕刻からずっと膝上で大人しくしていた秋朝がのそりと首を上げる気配がした。それにつられて目を開けた瞬間、春明はひゅっと息を呑んだ。
――滝壺に、人がいた。
いつの間にやら何をしているのかやら一瞬で様々な疑問が湧いたが、それよりも強く感じたのは、浮世離れした、一枚の絵じみた美しさだ。男女はわからないが白い衣を纏った長い髪の人物が、月夜の滝壺で水浴びをしているなど。まるで月精が降臨したかのような光景であった。
「……綺麗だ」
春明はぼうっと見つめ続けた。……どれほどそうしていたか。その白衣の人物が頭まで水に浸かりしばらくしても浮き上がってこないことにはっと気付いて、ようやく慌てて立ち上がり滝壺へと走り寄った。
「あ、あれ……いない。いないぞ」
けれど、滝壺の周りを右から左へと何往復もしながら目を凝らしても、水の中には人間のいた痕跡は欠片もなかった。白衣も、長い黒髪も、何もなかったのだ。
今見たものが現実だったのか、それとも妖か狐狸の類にでも化かされたのか、はたまた夢でも見ていたのか、すっかりわからなくなって、春明は足下で同じように水面を眺めていた秋朝を抱き上げた。
「さっきの……お前も見たよな? 幻ではないよな?」
じっと目と目を合わせて問うが、当然ながら、言葉が返ることはなかった。
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