暗香抄

むぎ

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 その夜はすっかり興奮してしまい、眠気は全く訪れなかった。すっかり朝になってから改めて滝と滝壺、周囲の岩の影などを入念に調べてみたが、人がいた痕跡はなく、結局あれが夢か現実か判断はつかなかった。

「なあ秋朝、あれは何だったんだと思う?」

 問うも、勿論秋朝からの返事はない。だが、秋朝が威嚇して飛びかからなかったのであれは悪いものではないということはわかっていた。この鼬はこんな小さい体躯ながら勇猛果敢な性格で、どんな相手だろうと、春明と秋朝、そして彼らの家族に害を及ぼすような輩には容赦をしないのだ。それもあって、春明は夜の山の中でものほほんと絵など描いていられるようなものである。

「まあ、あれが何だったかはわからないが……とにかく綺麗だった。また見たいなあ」

 危険なものではない、ということだけは確信しているので、春明は安易にそんなことを言う。すると滅多なことを言うなとばかり秋朝がその爪をちくりと春明の足へと刺した。

「いてっ! ……わかったわかった、もう言わない!」

 諫められた春明は慌てて足を引き、両手と首を横に振ってみせた。そう告げた通り、その後は気を取り直して話題を変えた。



 ――しかし春明の瞼の裏には、月光に浮かび上がるあの人物の姿がもうしっかりと焼き付いてしまって、全く消えそうになかった。







 ひとまずはひと月ほど、深山から一番近い里の外れにある小屋を借りている。小屋の持ち主には旅の絵描きだと説明し、描いた絵を数枚譲ることを条件に快く貸してもらった。
 その小屋に着いた早々、粗描きしてきた幾枚もの絵を組み合わせるようにして本格的な下描きを始める。構図は、滝と滝壺、そこに枝垂れかかる紅梅という形だ。日中と月夜の景色それぞれを同じ構図で描くこととした。
 筆を持ち紙に向き合う春明は肩過ぎまで伸びた髪の上半分をざっくりと結い上げ、服の袖を邪魔にならないようたすき掛けしている。表情は真剣そのもので、もしこの場に他に誰かいたとしても声をかけるような愚か者はいないであろうという様子だ。
 本描き用の紙は上等なもので、幾本かある筆も中々な上物である。これは絵ばかり描いている春明に家族が呆れつつも用意してくれたもので、有難いなあと思いつつ使っている。幸い好きなだけではなくそれなりに金になるものを描けるので、よい絵が描けた時には真っ先に家族へ送るようにしている。飾ってもいいし売ってもいい。それで少しは恩を返せていると思う。
 今回は昼夜で対となる一枚だ。温もりに喜ぶ昼の景色と、打って変わって静謐な夜の景色、その対比を描き上げたい。二時ほどで昼の下描きを終えついで夜の方に取り掛かる。月の揺らぐ水面を描き込みながら思い浮かべるのはやはりあの白衣の人物のことだ。

(綺麗だった)

 あの人物が、ということではない。そもそも暗くて白い衣と長い髪くらいしかはっきり見えなかった。あの人物も含めた光景そのものが、とても美しかったのだ。

(描きたいな……うん、描こう)

 そうと決めたらもう一枚描くしかない。同じ構図の三枚目の紙には月夜の滝で沐浴をする人物を描き込んだ。
 そうして三枚下描きを終える頃にはもう空が夕焼け色に染まっていて、今日はここまでにしようと筆を置いた春明は秋朝に留守番を任せ腹ごしらえをしに小屋を出た。小さな里だが飯屋は数軒ある。そのうちの一つに寄り込んでつまみをいくつかと酒を一杯頼んだ。出された酒に何回か口をつける頃には眠気がさしてきて欠伸が漏れる。そういえば昨夜は寝られなかったのだと思い出し、そうすると余計に眠くなってきて、早く寝ようと残ったつまみと酒を早々に干し勘定を机に置いて飯屋を出た。
 ふわあと大あくびをしながら歩く道は月明かりと道脇の店や家の窓から漏れる灯りに照らされている。こういう、何でもないような和やかな光景も好きだ。あの三枚を描き終わったらこの里の風景も描いてみようと思う。昼間にはきっと里の子らがそこら中を楽しそうに走り回ったり、女たちが井戸端で話しながら洗濯をしたり、男たちが大工仕事や農作に精を出す姿が見られるはずだ。

「まあとりあえずは、ひとまず、寝よう……」

 何度も欠伸を繰り返しながら小屋へと戻る。秋朝は小屋に残した荷物と描きかけの絵の番をしっかりと務めてくれており、それを労ってから春明は小屋の隅へと向かった。がらんと空いた床の上にごろんと横になると、おやすみと声をかけ目を閉じる。そうするとすぐに眠気に引っ張られるようにすっと意識は落ちていった。






 こん、と戸の外で小さな物音がして目が覚めた。寝転がったまま木窓の向こうを見れば日が昇り少し経った頃という明るさだ。もう少し寝ていたかったのにと自堕落なことを思いながら起き上がる。両腕を上にぐっと上げて伸びをしつつ戸の方を見やれば、そこにはすでに秋朝がちょこんと行儀よく座って春明が戸を開けるのを待っていた。

「おはよう、秋朝。……風来か?」

 話しかけつつ狭い小屋内を横切り戸を開ければ予想通りの姿がそこにあった。

「やっぱり風来か。冬兄からの文を持ってきてくれたんだな、受け取るよ」

 戸の隙間からするりと出て行った秋朝が挨拶するように懐くその相手は、茶色の被毛と鋭い嘴と目をした猛禽――鷹である。長兄の冬弦が使っている鷹で、名は風来だ。秋朝同様に賢く強く、春明の下へはこうして時折兄からの文を届けにやってくる。

「ええと……ああ、そうか、もうそんなに経つのか」

 手に取ったその場で文を開き三枚重ねの三枚目から目を通し――どうせ一枚目、二枚目は放蕩三男への文句の類だ――春明はぽつりと呟いた。その声音に何か感じ取ったか敏い相棒がどうかしたのかと丸い目で見上げてくるので、大丈夫とその背を撫でてやる。

「この間の文にしばらくこの付近に逗留すると書いただろう。それならば雪花叔母上の墓参りに行けと言われた。……ここは叔母上の婚家に近い場所だったんだな。気付かなかった」

 近いと言ってもその婚家がある里はこの里から見て深山を挟んでちょうど反対側ではあるが、どちらも同じ山の裾である。全く意識もしていなかったので、思いがけず話に出されて少々感傷じみたものを感じてしまった。



 ――雪花は春明の叔母である。父の妹ではあるが父とは異母兄妹で、父は先妻の子、雪花は後妻の子であり、年も随分と離れている。祖父が先妻との間に子を設けたのは二十一の時、その三年後に先妻は若くして亡くなってしまった。それから十六年間、祖父は男手一つで父を育てたのだが、齢四十にして後妻を得た。そして二年後、雪花が生まれたのだ。
 対して父は十八で結婚し、十九で長男、二十一で次男、二十五で三男と男児が三人続いた。父の次男である慶夏と祖父の長女である雪花は、つまりは同い年である。そんなわけで、雪花は三兄弟からするとおばという関係にありながら、まるで四人兄弟姉妹のように育った。男ばかりの兄弟の中、ただ一人女の雪花は皆から可愛がられた。器量も気立もよい、よく笑う娘だった。けれど、雪花は十八という若さで亡くなってしまった……。



「十一年か、叔母上が亡くなってから。そうか。もう、そんなに経ったんだな……」

 とても不幸な亡くなり方で、今でも思い返すたびに胸が痛む。誰が悪いということはないのだがそのせいで雪花の婚家との折り合いも悪くなってしまい、七回忌を最後にほぼ関係は絶たれてしまっていた。けれど来年の冬で十三回忌である。偶然ではあるが今この時ここにいるならば、墓参りくらい行ってこいと言われるのも自然なことだろう。

「下描きが終わったら、一度山を越えて墓参りに行こう。秋朝、付き合ってくれるよな?」

 当然一緒に来てくれることはわかっていたがあえて甘えるように問いかければ、春明のそういう気持ちを察した秋朝は静かにその身を擦り寄せてくれた。ありがとなという思いを込めて再度その背を優しく撫で、それから大人しく様子をうかがっている風来のことも撫でてやる。顔つきの厳つさに反して触れられるのが好きな鷹が、心なしか表情を緩めたように見えた。

「風来、もう少し待っててくれるか? 冬兄への返事を書くから」

 そう話しかければ小さく鳴き、近場の薪割台の上に飛んで移動する。その隣にまた寄っていく秋朝を横目に小屋の中へ戻り、昨日出しっぱなしにしていた紙と筆を手に取って兄への返信を簡潔にしたためた。


 ――墓参りに行ってくる。来年は皆で行こうな、と。
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