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しおりを挟む下描きが納得いくものとなったのはそれから五日後のことだった。日が昇ってしばらく後、散乱した紙や筆、その他荷物を軽く片付け小屋を出る。今日はまず墓参りに行くと決めていたので春明にしては珍しく脇目を振らず歩いた。山を迂回していては日が暮れてしまうので、山の中を突っ切るつもりだ。秋朝に先導を頼んでいるので恐らく迷うようなことはないだろう。婚家への挨拶もする気はないから、夜までにはとんぼ返りできるはずだ。
この三日で深山の様子はさらに春めいてきていた。柔らかな産毛の木蓮の蕾が目に入る。地面からは片栗が花茎を伸ばし、蕗の薹が土を盛り上げている。まるで山そのものが目を覚ましたかのようだ。描いていかないのかい、とあちらこちらから誘いをかけられる。けれど今日ばかりはまたあとでと足を止めることはなかった。
旅を根城にするだけあって春明は健脚の持ち主である。標高自体がそう高いわけではないので数時で山の反対側まで下りた。そこから今しばらく歩けばそれなりの規模の宿場町に至る。街道沿いのこの町の外れに立つ名家に、雪花は嫁いだのだった。
この宿場町には数軒の名家がある。街道が整備される前から里のまとめ役だった家や、宿場町として活気が出だした頃に商いで成功した家などだ。雪花が嫁いだ家もその類で、易家という地元の名士で手広く商売をしている。同じ街道筋の商家である春明の実家、曽家とは距離にして十里以上は離れているが、縁あって父親同士が知り合い、ちょうどお互いに年頃の息子と娘がおり、その二人の相性が悪くなかったために縁談が組まれ、そして結婚した。二人は仲睦まじくあったので子はすぐ宿った。生まれれば、ますます幸せになるはずだった。誰もがその未来を疑いもしなかった。
――ただ不運であっただけ、誰が悪いというわけではない。
十月十日、雪花の腹で生きたその子は、この世に生まれる寸前にその命を天へと還してしまった。そしてその子に付き添うように、雪花もまた、早々とあの世へ旅立ってしまったのだ……。
その報を聞き曽家の者たちが駆け付けた頃にはすでに雪花も子も土に埋められた後だった。この土地では死した者はその日の夜の内に土へ埋める風習があった。易家の者はその習いに従ったのだ。けれど、娘と孫の死に顔を目にすることもできなかった父母は怒り狂い、三兄弟もまた同じ気持ちであった。関係は当然ながら悪化した。修復されることは、二度とないだろう。
「十一年も経つから、通りの様子も様変わりしたな。あの頃の面影は、もうないのか……」
春明は久々に訪れた町の様子を見渡してそう呟いた。家族で食べた団子屋も、雪花が贔屓にしていた簪屋も、生まれてくる子にいかがと声をかけてきた玩具売りもいない。ここは宿場町だ。十年以上も過ぎて何も変わらないはずはない。わかってはいても一抹の寂しさに肩を落とせば、町中なので首に巻きついて大人しくしている秋朝が慰めるように尻尾を数度優しく揺らした。
「……ありがとうな。秋朝」
敏く優しい相棒の心遣いは春明の沈み込む心に寄り添ってくれる。それに心から感謝しつつ、雪花の好きだった花茶と子のための玩具、花と線香を見繕って買い、町端にある墓地へ向かった。大小新旧様々な墓石が立ち並ぶ中を抜け、易家の墓の前に立つ。さすが名家の墓で、いつ来ても歴史を感じる佇まいでありながらも手入れの行き届いた立派な墓だ。
「雪花叔母上……久しぶり。全然墓参りに来なくて悪い。皆、ちょっと来にくくなってしまってさ。……俺、今近くの里に滞在していて、それなら墓参りに行ってこいって冬兄に言われて。だから、来てみた。ごめんな、こんなに無沙汰にして。叔母上はいつも何でも許してくれるひとだったけど、さすがに今回は怒ってるかな。……本当にごめん」
花を飾り、持ってきたものを供え、線香に火をつけ手を合わせる。物言わぬ墓石を見つめながら囁いた声はきっと風に乗って届いただろう。しょうがないわね、もう。そうむくれた顔を作ってみせる様が目に浮かぶ。顔は怒ってみせ、でも声は優しく……春明相手にはそんな風にいつだって本当の姉のように振舞ってみせた。対して冬兄には妹らしく甘え、夏兄には双子のようにくっつく、そんなちゃっかりとした愛嬌もあった。雪花のことを考えれば、いつも笑顔ばかりが思い出される。
「叔母上の子も、そこにいるかい? 母様と一緒ならそこも寂しくはないだろう。……お前には玩具を持ってきたから、よければ遊んでくれ」
風車、凧、独楽、竹蜻蛉……かつて春明自身も遊んだ記憶のある玩具は、ほのかな風に揺れている。手入れはされているがただそれだけだった墓は、春明が持ち込んだもので一気に賑やかしくなった。
随分と久々に来てみれば懐かしいこが色々口をついて、しばしそこに佇み何でもないようなことを語りかけた。春の日差しは和やかだ。暑すぎず、寒くもなく、当てもなくふらりとしている春明は話題に事欠かず、普段から応えのない鼬の相棒と旅をしているから、いつまでも一人で話し続けることは苦でなかった。けれどさすがに太陽が午後の終わりの気配を漂わせ始める頃には話題も尽き、また来るよ、と約束してその場を後にした。
今から帰れば途中で夜になってしまう。この町で一泊していくか迷ったが、結局は山を越えることにした。というのも、ふとこの間の夜のことが頭を過ったからだ。
――あれは何だったのだろう。妖だろうか? 幻だろうか? わからないが気にかかる。もしかすると、また見られるかもしれない。今度見たならばその時は声をかけてみよう。そう思った。幻でさえなければ、相手が妖でも狐狸でもきっと話すことができるはずだ。何をしているのか。女なのか男なのか。どのような顔で、どのような声なのか。思いついてしまえば気になることばかりで、じっとしてなどいられなかった。
どこか呆れ顔の秋朝に頼み込んで再度先導してもらい、迷うことなく最適な道筋をついていく。どうしても少し沈んでいた気分も歩いているうちに上向き、小滝への川沿いを進む頃には鼻歌混じりの足取りである。ごつごつと大きい石が目立つせせらぎの脇を月明かりを頼りに歩くのは、春明の心をいたく弾ませた。
そうして小滝が見えてくる。数日前六分咲きであった紅梅はすでにほぼ満開で、月夜に馥郁たる香りを漂わせている。爽やかに甘いその匂いが気になるのか木の根本へ近付いた秋朝は鼻先をひくひくと動かし、やがてその幹をするすると上り始めた。
「おお、秋朝、いいじゃないか。よし、描いてやろう」
月夜の滝に梅と鼬とはいい画である。春明はいつもの雑紙と炭片を取り出しさっとその様を描きつけた。以前にも使った紅を使い、炭の濃淡のみで描いた絵にそっと赤みを乗せる。水面に垂れかかる梅花に顔を寄せ手を伸ばす秋朝、そんな活き活きとした絵ができた。
「ほうら、見てみろ、よく描けているだろう。これも送ろうか。母上が喜びそうだ」
春明の家族は皆動物と近しいが、母は特に好んでおり、秋朝も母のお気に入りだ。春明の送った絵で動物を描いたものは全て母が飾っているのだそうだ。
それから見る角度を変え、描く対象を変え、数枚の粗描きを描き続けた。そうこうするうちに月は高く上り、今日もまた水面にゆらりと映り込む。前回あの人物を見た時刻に近付いていた。必ず出会えると確たるものなどないが、見られるだろう、という謎の自信はあった。春明の勘はそこそこ当たる。そしてそこそこ外れる。
(まあ、会えなければまた今度だ。幻でなくて、縁があれば、いつかは会えるさ)
万事が楽観的なたちのこのような考えを、春明は自身の長所であると自負していた。
空には掠れたような雲が出ている。中点にさしかかろうという月はちょうどその雲の中に隠れ、くぐもった光を放っている。息を殺しながら、春明は小滝の方を食い入るように見つめた。白い衣の人物が突然現れたとしても見逃すことのないよう、しっかりと目を見開いて。そうしてじばらく見つめ続けたが拍子抜けなことに誰も現れない。今日は出ない日であったか、それともやはり幻か何かだったのかと気を抜きかけたその時、傍らで大人しく身を伏せていた秋朝が突然体を起こした。一瞬視線をそちらへ向けた春明は秋朝が小滝の方を凝視しているのに気付き即座に視線を戻した。
――水面に、漂う白。
あっと思う間に、その白は水飛沫を上げ立ち上がった。黒い長い髪がびしょ濡れの白衣に流れている。今宵もまるで顕現した月精が水浴びをするかのような光景であった。
「……ああ! ええと……やあ、こんばんは!」
幻ではなかった! そう思った春明は勢い込んで声をかけた。びくりと目に見えて肩を震わせた相手に逃がしはしないという思いでずかずかと近付き、再度声をかける。
「やあ、どうも、こんばんは」
白衣の人物は振り向かない。おそらくは、こんな夜中にこんな場所で話しかけられるなんて初めてなのだろう。背中に緊張がみなぎっていた。
「突然話しかけて悪いが、どうしても気になってね。……あんた、人間か? それとも妖?もしくは狐狸か何かなのか?」
そんな背などお構いなしと無遠慮に問う春明の声といったら。場違いなくらいに弾んでいて、好奇心に満ちている。
「まあ、あんたが何者でも構わないんだ。ただ、話してみたいと思ってさ。なあ、こちらを向いてくれないか?」
少々強引に縁を繋ごうとする春明は、そう言ったきりじっと相手の動きを待った。長い黒髪が垂れる細い背をどれほどの時間か、見つめていれば、やがて、その人物はゆっくりと振り向いた。
――涼やかな目をして、唇は薄い。月光を帯びた白肌は日を受けたことがないかのようで、いっそ青白い。肌に張り付いた白衣の胸元は平らである。妖や狐狸の類というよりもむしろ幽鬼に近い風貌の、それは青年であった。
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