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しおりを挟む振り向いてはくれたが視線の合わない青年に、春明は屈託なく話しかけた。
「なあ、兄さんはここで何をやってるんだ? いや、見ればわかる。水浴びをしているんだよな。でも、わざわざこんな夜中にやらずともよくはないか? 水もまだ冷たいだろう。ああ、よく見たら震えてるじゃないか! 火を起こしてやるからもう上がった方がいい」
よく回る口同様、その体も動きはいい。荷物の中から火付けの一式を取り出し早速火を起こそうとしていれば、いらない、と小さな声が上がった。
「いらないって、そんな強がることはないだろうに。それとも何だ、まさか火が苦手だとでも?」
火事となれば恐ろしいが、火は生活に欠かせないものだ。夜は明かりになるし、冬は温もりとなる。特に今夜この場所においては、そのどちらとしても有用である。春明自身も想像したら火が欲しくなったので、周囲に落ちていた乾いた枯れ木を組み、火口代わりの粗紙に火打石を使って火を起こすと慣れた様子で火勢を大きくしていった。ぱち、と枯れ枝の弾ける音が水の音に混じって響いた。
そうして春明が動き回る間、青年は滝壺の只中で固まったように立ち竦んでいた。きゅっと引き結ばれた唇とすっと通った眉は怒っているようにも困っているようにも見えたが、そのどちらでもないようにも思えた。喜怒哀楽の読みにくい表情である。
「ほら、火を起こしたぞ。こっちに来いって」
如何にもひとを拒絶しているその青年に、しかし春明は全く臆すことがない。火が焚かれたと同時さっさとその前を陣取った秋朝はもう我関せずといった様子だ。
「仕方ないな。そんなに嫌なら無理強いはしないさ。ただ、見ているこっちが震えてきそうだから、せめて水の中から出てきてはくれないか? ……ああ、俺のことを警戒しているのか? それもそうだ、こんな真夜中にこんな場所でこんな形で出会うなんて、お互いに予想もしていないものな。ましてや兄さんにとって俺は全く見たこともない相手だ。うん、それは当然警戒もするか」
微動だにせずまるで置物のようになってしまった青年相手に、春明の口は止まらない。
「俺にとっては、兄さんを見るのは二度目なんだ。数日前の望月の夜、兄さん、今と同じように水浴びをしていただろう。実はそれを見てしまってね。ああ! 勘違いしないでくれよ、故意に覗き見したわけではない。ましてや物盗りでもないぞ! 俺は絵描きなんだ。旅の絵描き。この小滝の梅の咲く頃がいい景色だと里で聞いてね。絵に描きにきたのさ」
そう告げると、青年の視線がわずかにこちらの方へ向いた。興味が引けたと思い、荷物を漁って昨日下描きを終えた三枚の絵のうち、青年が描きこまれた一枚を取り出しかざした。
「ほら、これだ。彩色はこれからだが、中々なものだろう。冬の残滓が残る小滝と雫のように降りかかるよう紅梅、月光の揺らぐ水面で水浴びをする月精のような兄さん。とても絵になる。……ああ、勝手に描いてしまったことは謝る。もし何なら、この一枚は完成次第兄さんにあげるよ」
焚火の火の粉に気を付けながらひらひらと紙を揺らせば、青年は横目で春明を見た。体はほとんど反対を向いているが一応目が合ったことに喜び、春明はにっこりと笑った。
「なあ、それでいい? ……だからとりあえず上がってこないか?」
けれど、そう再度の提案をした途端、青年の目は顔ごとまた逸らされてしまった。これは駄目だなと思った春明は肩を竦め、手に持っていた紙を荷物の中に仕舞いこむとよいしょと腰を上げた。
「わかったわかった、俺は去るよ。ああ、火はこのままにしておくから、俺がいなくなったら当たって温まるといい。風邪は万病の元だ、ちゃんと温まるんだぞ、兄さん」
声をかけるまでもなく足下に添った秋朝に一度頷き、潔くその場を後にする。七歩ほど進んだ後ふと振り返れば、青年は今度こそしっかりとこちらを向き直っていた。切れ長な瞳とばっちりと視線が合わさった。
「また来る。今度は俺とお喋りしてもらえたら嬉しいな。ああ、ところで、兄さんの名は? 俺は春明だ。こっちは相棒の秋朝」
青年は目が合ってしまったことに驚いたような雰囲気を醸し、口をわずかに開く。けれど、何を言うこともなくまたきゅっと閉じてしまった。
「……次の時には名を教えてもらえれば、なお嬉しいよ。じゃあ、また」
結局言葉らしい言葉を聞くことのないまま、春明は今度こそその場を去った。次もきっと会える、と何故か確信めいたことを思いながら。
*
里に戻った頃には夜が明け始めていて、一日中歩きどおしだった足は健脚を誇る春明でもさすがに棒のようになっていた。移動しながら簡単なものは口に入れていたものの腹も減っている。何か食べてから寝るか、寝てから食べるか、天秤にかけてひとまずは寝ることにした。借りている小屋の中、いつも通りに雑魚寝である。
目を覚ませば今度は夕刻前で、ぐうぐうと切ない音を立てる腹に急いで食べ物を入れるべく身支度もそこそこ食事処に駆け込んだ。酒も頼まず腹にたまるものばかり数品注文してかきこむように食べていれば、隣の席で酒をひっかけていた男がそんなに腹が減ってたんかあんたと目を丸くして話しかけてきた。
「ああ。昨日は歩きどおしで、ここに着いたのは明け方でね。疲れてたんで寝て起きたら腹が猛烈に空いていたってわけだ」
それで今急いで詰め込んでると笑えば、そりゃ大変だったなと男は猪口に酒を注ぎ一杯分けてくれる。
「いいのか? ありがとう! ……いやあ、うまい酒だ!」
杯を掲げて一口に飲み干した春明に、男はいい飲みっぷりだと赤ら顔を笑みに緩めた。
「それにしても兄さん、見ねえ顔だな。どこから来たんだ?」
問う男に合間合間口に食べ物を含みつつ、旅の絵描きで、噂に聞いて深山の小滝を描きにきたのだと答えた。すると男は顎に手をやりそんな滝があるのかと聞いてくる。
「ああ、あった。確かに小さな滝だが、俺は気に入ったよ」
「へえ、どこにあるんだい?」
「深山の川沿いを遡っていけばいい。滝壺の側に梅の木が一本きり生えているのが目印だ」
今度山に入ったら行ってみるかねえ、と言うので猟師かと問えば違うと首を振る。山菜や茸狩りに入ることがある程度らしい。ただ、と男が心持ち声を潜めて続ける。
「そもそも、この里にはあの山を猟場にしている猟師はいねえ。この里の里主が猟師なんだがよ、何でも数代前の時にあの山で猟をして恐ろしいものを見たとかで、以来あの山での猟を禁じてるんだ」
へえ、と春明は相槌を打ち、話を続ける。
「その恐ろしいものって何なんだい?」
「いやあ、それが、今の里主も知らねえんだと。ただ、猟師ってのはそういうの、律儀に守るだろう? だから、あの山には誰も正体を知らねえ恐ろしいものがいるってことで、もう何十年も誰も猟に入ってねえ」
逆に兄さんはどんなものがいるんだと思う? とにやにやしながら聞かれたので、春明もにやにやしながら適当に答えた。
「ううん、そうだなあ……ひとを食らう妖でもいるんじゃないか? それで、食ったその人間に化けるんだ!」
おおそりゃ怖い! そう身震いした男は怖いと言いつつ笑っていた。こういう酒飲みでの話なんて話題が盛り上がりさえすればいいのだ。どこまでが本当でどこからが冗談か、嘘か誠かなどどうでもいい。そんなものだ。
腹の虫の落ち着いた春明は自分も酒を頼み、男と色々と会話を交わしながら飲み進めた。そうして宵っ張りもいいところの店仕舞いの時刻までずるずると居座り、店主に追い立てられるように店を後にした。
夜は随分と深い。月は雲に陰り足下は暗いが、春の夜の空気は澄んだ暖かさで暗闇の薄気味悪さも減じている。むしろ酔い体に心地よいほどだ。
戻る方向が途中まで同じ男と春明は店を出てからもまだ何某か適当に話し続けていたが、じゃあ俺はこっちだからといざ別れる段となり、そうだと思いついて口にした。
「そういえば、小滝にそのうち行ってみようかって話をしてたよな。行くなら昼のうちに行くことだ。夜は足場が悪い」
足場が悪いとは方便で、春明の脳裏にはあの青年の姿が思い浮かんでいた。見るからに訳ありで人嫌いそうだったあの青年が春明のせいでこの男と会うことになったら気の毒だし、そもそも、会わせたくないとも思った。――あの青年と会うのは、自分だけでいい、と。
「あ、ああ、いやそりゃ、昼に行くさ。夜の山なんて恐ろしい! さっきの話じゃねえけど、たとえ妖には会わずとも、熊も狼もいるからな。食われて死ぬのはごめんだよ」
そんなことわざわざ言うなんて、兄さんあんた夜に行ったのかい? そう聞かれて藪蛇だったと内心舌を出す。
「まさか、そんなわけないだろう! ただ、俺は絵描きだから、夜の景色を絵に描くこともあるからな。ここは夜どういう風になるかなって行く場所行く場所で考えてるのさ」
自ら突いた蛇をそつなく追い返し得意げに見えるよう微笑めば、ほうと男は感心して言った。
「絵描きってのも大変だなあ。……俺はてっきり、夜の小滝で噂の恐ろしいものでも見たのかと」
冗談交じりのその言葉に、春明は満面の笑みで答えた。
「鋭いなあ。……そう、とびきり綺麗な妖が水浴びしてたのを見たんだ!」
春明の返しに男ははっはと腹から笑い、そんな綺麗な妖なら俺も見てみたいもんだ! そう大声でのたまったのだった。
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