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しおりを挟む翌日は下描きの彩色に取り掛かった。まず手を付けたのは当然のようにあの青年を描いたそれである。鉱石や土などの様々な色の粉末を膠で溶きながら塗る腕に迷いはない。氷柱は夜の黒をうつし、水面は碧く。わずかに黄色みを帯びた月は白色。枝先から綻ぶ梅は華やかな紅色だ。夜の絵だが、望月が照らす場所は殊の外明るい。けれど、その分影はなお暗く描く。
滝壺に腰まで浸かり水浴びをする青年の横顔は、先日の邂逅の際見やった表情をそのままに。白衣の裾や袂は水に揺蕩っている。長い黒髪は一本一本まで丁寧に描きいれた。最初の印象で月精のごとくと感じたように一見透き通るような風情だが、先日は幽鬼のようだと感じたのでどこかそのような佇まいにも見えてしまった。幽霊画を描きたいわけではないんだけどなあ、と内心苦笑う。少し親しくなったなら今度は日の光の下で描かせてもらおう、とそう思った。……親しくなれるまで何度でも通って話しかけてやろう、どうやら大分人見知りのようだからな、そうわざとらしく親切めかしたことを考えている春明である。
朝からずっと集中し、食べ物どころか飲み物すら半ば忘れながら描き続けていた。あとは細かな場所のみとふと緊張が切れた頃には空はすでに茜色である。屈みこんだ体勢でい続けて腰がすっかり痛くなってしまっていたので、散歩ついでに夕飯を食べに小屋を出た。
斜陽が照らす里中では多くの人間があちらこちらへと行きかっている。仕事を終え家路を急ぐ男たち。遠くから母に呼ばれて返事をする幼子たち。酒楼は開店準備に忙しなく、家々の木窓越しには若い女が煮炊きをする姿が見える。人々が生活する光景はいつだって目に優しいものだ。飯屋に入って夕餉と酒を注文した春明はそれらが出てくるまでの間の手慰みに、歩きながら目に入った景色を懐に入れていた雑紙へと小さな炭片でささっと描きつけた。
「おお、兄さん、うまいもんだね」
「へへっ、そうかい? ありがとうよ」
後ろを通った店員が歩きざまそう褒めてくれたので、春明はにっと笑って礼を返した。するとその声を聞いた近くの客が手元をのぞきこんできて、こりゃ大したもんだと感心した声を上げる。
「子どもらがまるで生きてるみてえだなあ。兄さんあんた、ここの者じゃないよな。旅の絵描きか何かかい?」
そうだと頷けば商人風の男はしたり顔で数度頷き、うちに娘がいるんだがと話し出す。
「そろそろ嫁の貰い手を探さにゃならん年頃でな。見合い用に一枚描いてもらおうかなあ」
そんな類の依頼も受けたことはある春明は、俺でよければと返事をする。
「俺は流れでね、とにかく絵が好きなんだ。そういう男だから、もし描いた絵が気に入らなければお代もいらないよ」
「いや、それは駄目だ。ただより高いもんはないってな。とはいえ気に入らないってことはあるかもしれん。ひとまずは娘に会って、軽く一枚描いてみてくれるかい? それで良ければちゃんと頼もう」
「はいよ、わかった」
さくさくと決まった話に春明はふくふくと笑う。この男は身なりもきちんとしているし、いかにも裕福そうだ。こういう場所でこういう縁は実は案外多くある。妻を描いてほしいとか娘を描いてほしいとか、子を描いてほしいとか老いた父母を描いてほしいとか。立派な鈴をつけた毛並みのよい白猫を頼まれて描いたこともある。
――絵とは、写し取り、残るものだ。何かを残したいというその気持ちは絵を描いている春明自身にこそ、よく理解できる。残したいから、描いているのだから。
「そうと決まれば善は急げだ! 兄さん、明日早速どうだい?」
「明日か……明日はちょっと先約があってね。明後日なら空いているが、どうかな?」
「明後日か、明後日ならば大丈夫だ。うちから遣いを出そう。兄さんは今どこに泊まってるんだ?」
そう聞かれたので借りている小屋の場所を教えれば、じゃあまた明後日にと男は慌ただしく店を出ていった。それを待ち構えていたように注文していた料理と酒が届いた。
「あれはこの里の中で一、二を争う金持ちだぜ、お客さん。いい相手と縁があったなあ」
偶然入った飯屋で、偶然春明の絵を気に入ってくれたのが、この里で一、二に金持ちな男だった……確かにいい縁である。春明は酒を杯に注ぎながら微笑み答えた。
「そりゃ素晴らしい良縁だ。きっと日頃の行いがいいんだな」
腹を満たし喉も潤い、さて寝るかといきたいところだが、明後日を指定したのには訳がある。青年を描いたあの一枚を完成させて、早速明日には持っていこうと思っていたのだ。
宵深い時刻だが、蝋燭の揺らぐ灯のもとで筆を取る。日光とは違う淡黄色がかった光の温かさは月光を表現した絵をほんのりと照らす。神々しくも寒々しい気配が薄れたようで、ちょうどいいやとその雰囲気のまま細かな色を乗せていく。
「俺がこの目で見て肌で感じた空気は、確かにぴんと張った糸みたいだったが……このままじゃまるで幽霊画だ。こんなの貰っても嬉しくないよな、なあ秋朝?」
話しかけられた秋朝は少し離れた場所からちらりとこちらを見て、好きにしろとばかり丸まってしまう。興味なさげな態度につれないなあと肩を竦めた。
しばらくして細部まで描きこみ終えた春明は、うん、と満足げに頷いて筆を置いた。
「……いい出来だ」
自画自賛、ほう、とため息をつく。
――冬の気配の残る早春の望月に、凍えるような夜滝で水浴びをする月精もかくやというさまの白衣の青年。その長い艶やかな黒髪に飾りのように降りかかる紅梅の花が、この絵の中では唯一の鮮やかさである。
「気に入ってくれると思うか?」
春明本人としては大満足の一枚だが、さて他から見たらどうだろうと凝りもせず秋朝に意見を求める。秋朝は億劫そうにのっそりと身を起こして側に寄りじっと完成した絵を眺め、それからその尾をするりと春明の腕に絡ませた。いいんじゃないか、とでもいうように。
「そうか、そうか。秋朝がそういうなら、大丈夫だな」
この鼬の相棒の意見に信を置いている春明は、そう自信を固めた。そしてとっくに夜半を過ぎていることに思い至って大きな欠伸をこぼした。
「とにかくひと眠りして、あとはそれからにするか……」
寝て起きて腹を満たして、昼過ぎにでもゆっくりと出ればいいのだ。あの青年と会えるのは、どうせまた夜になるのだろうから。
*
深山の麓に着いた頃には日が陰り始めていた。川沿いを歩き小滝が見えた時にはすでに夜である。春明はまず初めに火を焚いた。今日もきっとあの青年は現れる。おそらくは、全身ずぶ濡れで。
そもそも何故突然滝壺の中に現れるのか。青年が本当に月精であるとか幽鬼であるというならばともかく、実体のある人間ならば、そんなことは普通不可能だ。ならばおそらく、川を伝ってどこからかやってきているのだろう。
この推測が当たっていれば、青年はいつでもずぶ濡れだ。そしてきっと震えている。そう考えただけで、春明はとても見ていられないと思った。だから火を焚いている。一昨日はきちんと温まってくれたのだろうか? 風邪を引いてはいないか。気になりだすとそわそわしてしまう。
ついでに食べ物と飲み物――里で買ってきた干し肉と酒――も用意した。あの様子だと一度や二度の出会いでは同じ席に着いてくれそうもないが、少しずつ近付き、少しずつ慣れてくれれば、そのうち親しんでくれるだろうと思う。経験上、好意を示し仲良くなりたいなら酒と肴が一番だ。次点で土産だ。どんなものを喜ぶか、今日の会話で聞き出せるだろうか。一昨日は「いらない」以外の言葉を聞けていない。今日は少しは話せたらいいなあと内心で願う。
――そうして月が真上にのぼる頃。今日もまた、ふと目を離した瞬間に、青年は滝壺へ立っていた。
「やあ」
話しかける前から青年の目は、春明を真っ直ぐと見ていた。表情のない白い面の中、その目のみが焚火の色を宿しほんのりと揺れている。
「今日もいい月夜だな。その紅梅もすっかりと見頃だ。どうだ、一緒に花見酒というのは」
頭からぐっしょり水を被り額や頬に長い髪を張り付かせ、睥睨するようにじっと見つめてくるその姿は、肝の小さい者が見たら恐怖で腰を抜かしてしまうかもしれない様子だ。しかしそんなことはまるで意に介さない春明は朗らかに笑いかける。当然のように、青年は唇を動かしもしない。けれど目を逸らすこともなかった。
これは中々悪くない反応だと感じた春明は焚火のそばに片膝を立ててくつろいだまま、先日同様荷物の中から絵を引っ張り出し、出来上がったから持ってきた、とひらりひらりとかざす。
「我ながらよく描けていると思う。どうだ。その水から上がって、この絵を見てやってくれないか?」
嫌ならここに置いていくから後で見てくれ、と付け足し様子をうかがう。しばらく待っても青年は動かない。これは今日も駄目そうかと腰を上げようとすれば、その腕がゆらりと揺れた。
「……見る」
そして、その口から小さな声。少し高めの、囁きのように細い声だ。
「……そうか! なら、上がってこいよ。酒も飲もう。干し肉もあるから炙ってやる」
色よい返事に喜色満面、いそいそと動き出した春明は、そうしていても中々こちらへ近付こうとしない青年に気付くと小首を傾げて問うた。
「何してるんだ? ほら、こっちにこいよ」
そう言われて、青年はようやく足を一歩踏み出した。恐る恐る、まるでその一歩がひどく勇気のいうもののように。
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