暗香抄

むぎ

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 青年は熱心に絵を眺めた。濡れた体に触れて紙を濡らさないように気を付けつつ、それはもう熱心に穴が空くのではと疑うほどに凝視した。酒と肴を勧めようとした春明がそのよく動く口を思わず閉じてしまうほどの様子だった。

「……どこか気に入らないところがあるか? それとも、すごく気に入ってくれた?」

 青年の視線が紙面から外れるのを待っていたがいつまでも見つめ続けているので、春明はやがてそっと声をかけた。今までこれほど真剣に眺めてくれた者はいないので、どちらの反応かが非常に気にかかる。青年は答えない。ただ、ほんのりとあるかなしか微笑みを浮かべているようには見えた。

「……気に入ってくれた、ってことでいいのか? うん、まあ、そう思っておくな。よかったよかった!」

 なので春明は横で秋朝が呆れた空気を醸していても気にせず、良い方に解釈した。そして、なおも凝視し続けている青年に、絵を渡す時の決まり文句を告げた。

「約束通り、それは兄さんにやろう。どう扱おうと好きにしてくれたらいいが、できれば大切にしてもらえれば絵描き冥利に尽きる」

 過去には、気に入らないと目の前で破かれたこともあるし、大事にされず染みと埃にまみれているのを見てしまったこともある。どう扱おうと買った者の自由だし春明に文句を言う筋合いはないが、そういう時は物悲しくなってしまうものだ。この青年はおそらくそんなことをしないだろうことはわかっていたが、一応そう言い置くのは、春明の願いのようなものだ。

「……大切にする」

 するとか細い声ながらもはっきりそう告げられ、そうかそうかと破顔した。宝物を手に入れた子のように大事に手に取ってもらえ、まさに心が満ちる心地であった。

「よし兄さん、ほら、飲もう。肴もあるから食べてくれ」

 その思いのまま酒を勧める。こんな時間にこんな場所で水浴びをしている青年がごく普通の生活を営む人間のはずはないが、相手が教えようと思わない限り特に詮索するつもりはない。今春明は、ごく単純に、この青年と話してみたいと思っていた。温かな火を囲みながら、酒を交わし、会話をしたいと、そう感じていた。
 持参した猪口に酒を注ぎ青年の眼前に差し出せば、青年はようやく視線を絵から外し、目の前の猪口を見る。数秒見て、それからふるりと首を横に振る。

「うん? 何だ、飲まないのか? ああ、先に腹ごしらえをしておくたちか? なら干し肉を……このへんがいい具合だな。ほら」

 酒を断られたので肴をとよい炙り具合のを差し出すも、こちらも断られる。ならば木の実か何かはと荷物を漁ろうとすれば、これもまた首を横に振った。そして小さな声で言うのだ。何もいらない、と。

「何もいらない? ええと……その絵だけで胸がいっぱいになったとかそういうことか? いや、そう言ってくれるならば嬉しいが、それとこれとは別だ。兄さん、酒というのはな、親睦を深めるための大事な飲み物なんだ。俺との出会いを少しでも喜んでくれるなら、この杯を受けてくれ」

 さあ、と押し付けるように猪口を突きつければ青年は渋々受け取った。しかし口を寄せることはなくまたじっとその水面を見つめ始める。表情はあまり変わらないが、露骨に困った様子だ。

「もしや兄さん、下戸か? そういう理由でどうしても飲めないというなら、やはり干し肉か木の実を」
「いらない」

 飲めないなら食べるかと聞けばこちらにははっきりと拒否だ。春明もまた困り顔となる。

「……まあ、無理強いはしない。何か理由があって駄目なのだというのならば、その一杯は飲んだつもりで秋朝にでもやってくれ。ああ、秋朝というのは俺の相棒のこの鼬のことだ。酔うと爪を立てるから滅多にやらないが、こいつは酒好きでな」

 あげれば喜ぶと笑えば、今度は秋朝を凝視した。じっと見つめられ秋朝は居心地悪そうに尾に顔を埋めている。

「……酒とやらを飲んだことがない」

 しばらくしてぽつりとそう零され、春明は絶句した。……この年頃で、酒を飲んだことがない男がいようとは!

「兄さん、あんた……俺の見立てでは二十歳近くだと思ったが、実はまだ幼子であるとか? それとも、家訓か何かで酒を禁止でもされてるのか?」

 冗談混じりの言葉に青年は無言で答える。図星かもしれない、と春明は驚愕した。

「まさか本当に、酒を禁止されてるのか? もしかして、肉も?! ……じゃあ兄さん、あんた何を食べて育ってきたんだ! 酒も肉も駄目だなんて、人生の半分は損してるぞ!」

 普段何を食べているんだ、断食でもしているのか、水と光だけなんてことはないよな、と矢継ぎ早に問いかける春明は、当然ながら酒と肉が若い時分から大好物である。

「あ、わかったぞ、兄さん、祓い屋か何かなんだな? 穀や肉を絶つ流派があるというのを聞いたことがある。そんな感じなんだな? そうか、だからこんな夜にこんな場所で、水浴びなんてしてるのか。潔斎しているんだな。……なあ、それなら酒は飲んでも大丈夫だと思うぞ。なんたって、酒は邪を払う。飲んだことがないって言ったな? 俺が決めつけてしまっただけで、本当は禁止されてるわけではないんじゃないか? 試す機会がなかっただけだろう? なあ違うか?」

 よく回る口に、青年はさらに黙り込む。圧倒されて答える言葉が出てこない、という状態に思えたが、春明は畳みかけるつもりで口を止めようとしない。……酒を飲んだことがない者に口八丁手八丁で飲ませてみたいといういたずら心ゆえに。

「一口飲んでみろよ。酒は美味いぞ」



 ――そんな春明の言葉に押され、ついに青年は猪口に口を付けた。唇を湿らせる程度、恐る恐るといったように。



「なあ、どうだ。美味いか?」

 にこにこと話しかける春明に、青年はしばし味を確かめるように目を伏せ、それからもう一度猪口に口を付けた。さほど量のない液体を、くっと喉を反らし一口にあおる。

「お、中々いける口だな。……どうだ?」

 そして、再度の問いかけに小さく答えた。ーー美味い、と。






 結局、何だかんだと言いくるめられて青年は干し肉も木の実も口にした。そしてそのどれにも美味いと返す。潔斎の邪魔をしたことは悪いと思うが、飲食をし火に当たり少し顔色の良くなった青年に春明はご満悦である。幽鬼のようだった雰囲気が、不健康で病弱そう、程度にまで改善していた。

「いやあ、兄さんが喜んでくれてよかった。酒が気に入ったなら今度は別の銘柄を買ってこよう。肴も、今度は別のを用意する。果物もいいな。ああ、山菜も採ってこようか」

 春明は浮かれていた。差し出すもの何でも美味いと口にしてくれれば、浮かれもするというものだ。
 そうして楽しく過ごしていれば時間の経過も早く、月はすでに中点を過ぎ沈み始めている。明日、正確には今日は約束事を抱えている。さすがに里に戻り小屋で仮眠を取るべきだと思い、ほとんど一人で話していた会話を話の切れ目で切り上げた。

「さて、俺はそろそろ帰るかな。……ああ、そういえば兄さん。結局、名は教えてくれないのか?」

 帰り際、そう聞く。酒と食事を共にして気を許してくれたかなと思ったが、どうやら名を教えるほどではないらしく、つと目を逸らされる。

「そうか。でも、いつまでも『兄さん』では何だから……そうだな」

 何某か呼び名をと目を彷徨わせれば、ふと視界に紅梅の枝が揺れる。そういえば、ここにいる間中ずっと、ほのかに甘く爽やかな梅の花の香が夜闇の中に漂っていた。この香りと華やかな紅色は、眼前の青年によく似合うように思え、試しに小枝をぽきりと折り青年の耳元にさしてみれば、それは誂えたようによく映えた。

「……紅梅。紅梅と呼ぼう」

 その髪飾り、よく似合うよ。そう褒めれば、青年――紅梅はそっと枝先に触れながら、何か言おうと口を開きかけ、けれど何を言うでもなく引き結び、そっと目を閉じた。
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