暗香抄

むぎ

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 日が昇ってしばらく後、迎えに来た者に付いていき大きな商店の裏口から住居へと入った。なるほど稼いでいるらしく、佇まいも調度も立派であった。
 案内された先、客間の一つであろう部屋の中で先日の男とその娘に対面した。男は仕事があるとすぐにその場を後にし、春明と娘、娘の側人が一人残る。では早速と春明はいつもの粗描きを始めた。
 つんとしたすまし顔を見せる娘の顔立ちは気の強さがにじみ出てはいるが綺麗な部類である。けれど、俺は紅梅の方が好みの顔だな、と内心で思う。決して女性的なわけではないし百人が百人美しいと褒めるほどに整っているわけでもないけれど、色も感情も薄い面が春明の言動でうっすらと変化するのは見ていて気分が良かった。

(それに、髪の長さと艶やかさだけでいえばそこらの女なんて目でないほどだ)

 膝近くまで伸びたよく手入れをされた髪は、しっとりと濡れた上に月光を浴びて、毛先まで光り輝くようであった。

(祓い屋の類は髪に霊力が溜まるといって伸ばすことが多いから、きっとそういうことなんだろうな)

 絵を描く時くくれる程度ざんばらに伸ばしているに過ぎない春明とは、髪に対する思いが全く異なるのだろう。飴色に変わった柘植櫛で日々大切に櫛梳る、その姿が想像できた。

「……ちょっと、手が止まっているわよ。あなた本当に描く気があるの?」

 と、そんなことを考えていたらいつの間にか手が止まっていたらしい。ああすまない、と謝罪をし娘に向き直る。春明を見つめる娘の眼差しはいささか強すぎるきらいで、睨んでいる、と言ってもいいほどである。気もそぞろだったため気分を害したというのは確かだろうが、そもそもそれだけでないのだろう。

「きみも、描かれる気があるのか? 俺とこうして向き合ってから、きみは一度も笑わない」

 そう、娘は一度も笑顔を見せていないのだ。それどころか、やぶ睨みのすまし顔というおおよそ絵に描かれるには不似合いな表情でずっといるのである。

「私が笑顔でなくても、笑い顔を想像して描くことはできるでしょ。絵描きなんだから、そういうのはお得意でしょ?」
「ううん……俺はそういうのは得意ではないなあ……」
「……そうなの?」

 不機嫌そうな娘は、春明の返しにきょとんと目を丸くした。いかにも意外な言葉だったというように。

「そういうのが得意な者も当然いる。頭の中だけで考えて、考えた通りのものを描く。または、何かを見て、ここがこうだったら、ああだったらもっといいと思い、そういうものを描き足す。それはそれで素晴らしい。ただ、俺はあまり得意ではないんだ。見た通りに描く方がいい」

 そっちの方が得意だし、好きだ。だからこの娘が笑わないならば笑顔なんて描けないし、睨んでくるならば睨み顔しか描けない。少々想像からの手心を加えたとしても、精々が真顔になるくらいである。娘の父親が望む見合い絵としては到底使えそうもない。
 目を丸くする娘は、年相応に可愛らしい。表情が硬いとか人見知りだとかそういうわけではなく、おそらく娘自身は絵を描いてほしくないのだろう。このまま描いても満足いく出来の一枚は描けそうもないと思い、春明は一度炭片を置いた。

「きみは、俺に描いてほしくないのかな。どうしても嫌だというなら、お父上にそう告げて描くのをやめてもいい」

 娘はその言葉に迷うように視線を下げる。紅を差した目元と唇をきゅっと引き、上等な花模様の衣の膝辺りを強く握っている。

「……嫌というわけではないわ。ただ……少し、拗ねているだけよ」
「拗ねる?」
「だって」

 お父様は私を嫁がせることしか考えていないのよ。一度として、跡取りとしてみてくださったことがないのだもの。
 これは中々に難しい話だな、とどう答えようか迷う。一人娘だと聞いている。男子がいないならば、それは当然婿を取ろうと考えるだろう。けれど、この娘は自分こそが父親の跡を継ぎたいらしい。このような内輪の話に迂闊な返答はできるわけがなかった。しばし言葉を探してから、春明は答えた。

「……俺からは何も言えないことだな。ただ、いい男と出会い、結婚し、子を得て幸せになってほしいというのは、親から娘への思いとしてはいたって普通だと思う、とだけ」

 家族の中で唯一の若い女子であった雪花に対して、誰もがそう願った。
 しかし、好きあって結婚し子を宿したとしても、それで必ず幸せになれるとは限らないと、春明は身を持って知っている。――不幸への落とし穴は、どこに開いているのかわからないのだ。

「……そんなこと、勿論、わかっているわ。わかっているのよ」

 娘はついに憂い顔で俯いてしまう。なのでこれはもう絵を描くどころではないなと静かに席を立った。

「今日は娘さんが気乗りしないようだと、お父上に言ってお暇しよう。もし気が向けば、また後日描かせてくれ」

 そう告げて部屋を辞する。扉を閉じる瞬間そっと見やったが、娘は悩み深く溜息をついていた。







 春光爽やかな昼下がり、屋台で適当に摘まめるものと酒を買うとそのまま小屋へ戻った。留守番していた秋朝は春明の顔を見るとしゅるりと近寄ってくる。依頼がすんなりいかなかったことを早々に察したようだった。

「秋朝、聞いてくれよ」

 なので遠慮なくその細長い体を抱き上げ愚痴を吐く。

「俺は絵を描いてほしいと頼まれただけなのに、肝心の娘さんにはその気がないどころか睨みつけられてしまった。ひどいと思わないか?」

 頭から尻尾まで数回撫で、膝の上に乗せたまま串物にかぶりつき酒を飲んだ。何でも描く春明だが、描いてほしくない者を描くことほど無駄な時間はないと思っている。当然のことだろうが、描かれる者にその気がないといい絵はできないのである。

「食べたら気晴らしをしよう。秋朝、お前のこともたまにはしっかり描きたいし、里の子らを描くのも楽しそうだ。……うん、そうしよう」

 そうと決めたら早いもので、春明はぱくりと一口で串焼きを食べきっていつもの炭欠を手に取った。膝から床へと秋朝を下ろし、ちょっとそのままでな、と時折酒を含みつつもさらさらと線を走らせる。拾ったその日から何度も何度も描いてきた相手だ、わりとつぶらな瞳も、茶色い被毛の毛流れも、よくよく観察せずとももう描ける。

「……紅梅は、鼬は好きかな。鷹とか、犬とか、猫とかはどうだろう。動物の絵は喜んでくれると思うか? それとも花の方がいいか。どう思う?」

 描きながら思い起こすのは春明の絵を熱心に見ていたその姿。あれほど見つめてくれるなら、他の絵も色々贈りたくなる。動物や植物の絵、今まで行った風光明媚な土地の絵。茜空を写した棚田の景色や、白波の寄る夏の海辺の景色。絵に見せて、言葉で語ったら、もっと喜んでくれるだろうか。
 そう考えれば筆が止まらず、粗描きした里の光景や早春の花々の姿を次から次へと描き起こしていた。線を引き、色を乗せ、春明が見て感じたものを知ってもらいたいとばかりに。
 そうこうするうちに夜が更けて。気付けば春明は、遊び疲れた子どものように、いつしか眠りに落ちていた。
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