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しおりを挟む翌朝、日が昇ってもまだ転がったまま眠っていた春明は、木戸をどんどんと叩く音でようやく目を覚ました。
「ごめんください。ごめんください、絵師の旦那、起きてらっしゃいますか」
「ああ……はいはい、ちょっと待って」
呼びかける声には聞き覚えがある。昨日迎えに来たあの商人のところの者だ。欠伸をこぼしつつ戸を開けば、それなりの身なりの男が手持ち無沙汰に立っている。
「ああよかった、何度かお呼びしたんだが返事がないから、てっきり留守かと思いましたよ」
「それは申し訳なかった。今の今までずっと寝ていたんだ」
左様ですか、と答える男の目が少々痛い。こんな時間まで寝ているとはいい御身分ですね、とその目が如実に語っている。
「ははは……昨日は遅かったもので。それで、用件は何かな?」
言外にだらしないと判断さればつの悪さに目と話題を逸らす。男はいささか冷たい眼差しを残したまま、旦那様がお召しですと告げる。
「昨日の今日で大丈夫なのか?」
娘さんが、と言外に問えば、男はわずかに頭を下げ、
「昨日はお嬢様のお具合が悪かったようで失礼いたしました。今日は体調もよろしいようですので、改めてお願いいたしたいと、お嬢様ご自身が」
「……そうか。なら、行こう」
描かれる本人が言っているならば、気持ちに何某かの折り合いがついたということなのだろう。そう判断し、とにかくついていくことにした。どっちにしろ、描くか描かないか決めるのは先方だ。
男の先導で昨日と同じ部屋に案内された。出てきた茶をすすりながら待っていれば、今日も昨日同様供を一人だけ連れて娘が部屋へと入ってくる。昨日と違うのは、明らかに高価な、紅色の地に華やかな牡丹柄の羽織を纏っていることだ。
「絵描きさん、昨日は失礼をいたしましたわ。さ、描いてちょうだい」
髪も複雑に結い上げ、金と玉で作られた簪を刺している。目元と唇も艶やかに赤い。どう見ても気合の入ったその様子を見て、春明は思わずははっと声を上げ笑ってしまった。
「なんだなんだ、昨日も綺麗だったが、今日はまるでそのまま見合いができそうな装いだな。……お父上とは話せたのか?」
呼び出した上にこの気合の入りようである、心が決まったことはすぐわかったが、昨日さわりだけではあるが悩みを聞いた者の礼儀としてそう聞けば、ええ、とすっきりとした頷きが返った。
「父と話した上で、こう決めましたの。これだけ力を入れてめかしこんだのだから、是非ともそれに見合うものを描いてちょうだいな」
期待してるわよと挑戦的な笑みを向けられ、お手柔らかに、と苦笑いする。
「まあとにかく、今日はさっと軽く描かせてくれ。それをお父上に見てもらって無事気に入られたら、その時には力の限りで頑張らせてもらうよ」
いつもの粗紙と炭片を手に早速描き始めれば、娘はあらそういうお話になってたの、と拍子抜けしたように言った。
「じゃあ今日はこんなに気合を入れなくてもよかったのね……」
見るからに残念そうな娘に、そうでもない、と朗らかに笑う。
「それだけ本気で描かれる気になってくれたってことだろう? なら俺も本気で描こうという気持ちになった。お互いに気合が入ったのだから、よかっただろう」
「……あなた、面白いひとね」
春明の言い分に娘は裾で口元を隠しながらくすりと笑った。
「絵描きさん、あなたお名前は?」
手を動かしつつ俺は春明だと答えれば春生まれなのねと返ってきたので、一番目の兄は冬生まれ、二番目の兄は夏生まれなんだと続けて答える。娘は柔らかく笑い、やっぱり名前に季節が入っているの? と聞いてくる。
「そうだ。ちなみに、秋に拾った鼬と、冬に生まれた叔母も、季節の名だ。わかりやすくていいだろう?」
そう言えば、奇遇ね、私もそういう名前なのよ、と娘はころころと笑った。
「ふむ。当ててみようか。……きみの名前は、牡丹かな?」
微笑んだ娘は纏っている羽織に見劣りしない華やかさがあった。安直に推測してみせれば、残念ながら違うわ、といたずらげに目元を細め、
「私の名前は、桜花。あなたと同じ、春に生まれたの」
どうぞ、今後は桜花と呼んでちょうだいな。そう言った。
「そうか。なら、俺のことも、春明と。……俺の力の及ぶ限りで、精一杯描かせてもらうよ、桜花」
気を許し名を告げた娘に、春明もまたそう言い、昨日とは打って変わって真剣な様子で紙に向き合った。
集中して描き上げた十数枚にも及ぶ粗描きに揃って目を通した桜花とその父親は、両名の合意で正式に春明への本描きを依頼した。先程の会話で思ったのか、桜の羽織があるから柄はそれにしてほしい、という娘の意見を取り入れ、明日その羽織を着つけた姿で再度描くことを約束し、また迎えをやるという父親に頷き屋敷を後にした頃には、この間同様、夕暮れ時である。
足早に家路を急ぐ者たち。もう帰っておいでと子を呼ぶ母親の声。煮炊きをする音や匂い。店先の提灯に灯りを入れる店員の背中。春の温い夜風の中、生活を営む気配があちらこちらに溢れている。依頼も決まり、いい気分でそんな街中を歩くのは実に清々しい。
「そうだ。秋朝に肉を買ってやろう。俺は酒だな」
ぶらぶらと歩きつつ、気分任せで目についたものをあれこれ買っていく。肉、酒、果物。それと……。
「……紅梅は、こういうものは着けるだろうか」
梅の花のような、紅い髪紐。それらを見て、あの艶やかに長い黒髪を思い出し、気付けば金を出していた。
「依頼を終えるまで、さすがに山に行く時間はないな。次行った時には梅花はもう落ちているだろう」
そしてきっと、桜が咲いている。今度は桜の絵でも見せてやったら、またああして熱心に見つめてくれるだろうか。その次は藤を、その次は躑躅を。美しく花開いた枝を一本選んで、絵とともにあげたら、喜んでくれるだろうか……。
感情の発露に乏しい白い面を脳裏に思い浮かべながら、春明は微笑んだ。
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