暗香抄

むぎ

文字の大きさ
10 / 12

10

しおりを挟む

 若葉が柔らかな緑に輝き、花々は爛漫と咲き誇っている。非常に清々しい昼下がりだ。なお、昨日無事に一仕事終え、春明の懐が心同様に温かいのも気分がいい理由の一つではある。赤地に枝垂れ桜の模様が入った羽織を着た娘――桜花は、心を開けば快活で愛嬌のある娘だった。おかげで描いている間楽しく過ごせたし、立ち姿と横顔の二種の絵も気に入ってもらえ、謝礼には大分色も付いた。おかげでしばらくのんびりと暮らせそうだ。
 十日ぶりの深山には思った通り桜が咲いていた。里では、桜が咲く頃にはもう夜の冷え込みも浅くなる。時折花冷えすることもあるが、今夜はそんなことはなく暖かい。山中はさすがに里よりは冷えるが、それでも先日より格段に暖かくなっていた。これならば、夜に水浴びをしても多少はましだろう。

「……いや、そうでもないか。山の水はいつでも冷たいものだからな」

 そういう仕事に就いているならば禊をするのは仕方ないが、誰かが冷水を浴びる姿は他人から見たらただただ寒いばかりである。

「そうだ、今日は熱燗にしてやろう! この間のはあっさりめだったが、今日のは濃いからな。温めればより美味い」

 荷物の中には干し柿、干し杏、魚の干物も入っているし、道中で蕗の薹や漉油も採ってきた。鍋は常に持ち歩いているし、味噌もある。山菜の汁物も作ってやろうと決めた。

「秋朝、お前にも酒と干物を分けてやろう。皆で飲もう。ただし、飲みすぎて爪を立てるんじゃないぞ」

 鼬の爪は鋭いからなあ、赤ん坊の時は甘えてよく刺してきたが、とにやにや笑えば、揶揄うなとばかり首筋に軽く爪が当たった。

「はは、そう恥ずかしがるなよ。小さかった頃のお前はそれはもう可愛らしかったぞ」

 懐かしいなあと生温く見やる視線に耐え切れず、秋朝は首筋に巻きついたまま尾の中に頭を埋めて身を隠してしまった。それを見て春明は声を立てて笑ったのだった。
 そうしてのんびりとすでに通い慣れてきた道のりを歩き、じきにいつもの小滝に着いたが、時間はまだ夕暮れ前である。まだいないだろうなとは思ったが、やはり紅梅はいない。梅の花も枯れ始めていて、季節が進むのはあっという間だなあと思う。

「秋朝。紅梅と会えるのは夜だろうから、それまでは好きにしていていいぞ。俺はこれの続きをやる」

 これ、といってひらひらさせたのは桜花の姿絵を描くきっかけになった、街の子らを描いた絵である。昼夜対比にしているこの小滝の絵もまだ彩色がすんでいないが、それは腰を据えて描き上げたいので後にして、今日は手なりで好きなように描ける気楽なものを仕上げるのだ。
 好きなようにしていいと告げた通りにどこぞへと走っていく秋朝を見送りつつ、さらさらと筆を走らせる。筆先を水に浸してわざと炭をにじませたり、ところどころ目を惹くように淡く色を差してみたり。気の向くまま、筆の動くまま、まるで子どもの落書きのように伸びやかに。本腰を入れて仕上げるのもいいが、こうして息抜きをするのも大事なのだ。

「紅梅にも見せて、好きなものがあったらやろう。花や動物も描くか。何かいいものは……」

 花ならば、春夏秋冬に咲き誇る様々な彩りを。動物ならば、冬兄の鷹の風来や母の猫の陽月、勿論春明の鼬である秋朝を描いたものに始まり、旅をする中で出会った生き物たちを。思いつくまま、目に入ったものを、色々と描いてきている。当然全ての紙片を持ち歩いているわけではないので手持ちにあるのはここ数ヶ月ほどの記録だが、その中にもこれはいいなと思える構図やそのまま色をのせても良さそうなものがいくつかはあった。

「よし。この山藤と鵥の二枚に手を入れてみるか」

 檜の幹に絡みついた藤の柔らかな紫色。初夏の日差しを浴びた緑葉を背にした白と青の翼の鳥。思い返せば目の裏に浮かんでくるそれを紙の上に表現して……気付けば、いつしか周囲はかなり薄暗くなっていた。秋朝もいつの間にか戻って足元で丸くなっている。

「もうこんな時刻か。火を用意しておいてやらないと」

 乾いた枝でも探すかと腰を上げれば、秋朝が身を起こして足に纏わりつく。どうしたと声をかけると少し離れた開けた場所に駆けていく。そこには枝や落ち葉が小さな山となっていた。

「おお、用意しておいてくれたのか。さすが秋朝、頼りになる」

 当然だろうとばかり、秋朝は後足で立ち上がり胸を張る。その姿にははっと笑いながら火をおこした。
 そうして段々と夜が更け、昼間の温かさが一転、空気が随分と冷え込んできた頃。

「……ああ、紅梅。数日ぶりだな。元気にしていたか?」

 ふと滝音とは別の水音がして振り返れば、そこにはまた忽然と白衣に長い黒髪の青年――紅梅が、春明を見据え立ち尽くしていた。

「春深まってきたとはいえ、今日もやっぱり寒々しいぞ。ほら、早くこっちへ来て温まれよ」

 ぱちぱちと弾ける焚火は、耳に響く音だけでも温かみを感じるものだ。手をかざせば勿論温かく、いい感じに火にかけていた酒や汁物の匂いも相まって、水に浸かって凍えた紅梅の身を引き寄せる魅力があるはずだ。
 こっちこっちと手招きすれば、思った通り紅梅はわずかな躊躇しかせず水から上がり、火を挟んだ春明の真向かいへと腰を下ろした。

「ほら、今日は熱燗だ。うまいし温まる」

 まずは酒をすすめる。杯を受け取った紅梅は湯気を立てる杯をしばし凝視し、酒の濃厚な匂いを嗅ぎ、それから恐る恐るというように口をつけた。かと思えば、そのままくっと飲み干してしまう。わずかに目を細め満足そうにふっと息を吐く。

「はは! 気に入ったか。ほら、もう一杯」

 手を差し伸べて注いでやれば、それもまたこくりと喉を鳴らして飲み込んだ。度数の高めの酒だけあって、その白い面にすでに赤みが差してきている。一気に飲むと酔うぞ、味わいながら飲め、と三度注げば、その言葉を聞き入れて今度はぺろりと舐めるように口をつけた。春明も手酌で一杯注ぎ空けると、また一杯なみなみと注ぎ脇へ置いた。熱燗は温めが好みなので、しばらく置いておくのだ。
 そうしながら今度は椀に汁物を注ぐ。山菜の味噌汁だ。

「蕗の薹と漉油の味噌汁は、春になると母上が作ってくれる一品でな。うちの家族の好物なんだ」

 ほら、と差し出せば、これもまたじっと見つめ、嗅ぎ、それから飲む。美味い、と囁くような言葉が返り、よかったと春明は満足げに破顔した。
 干し柿、干し杏、魚の干物も手渡す。木の枝に刺して少し炙っても美味いぞと見本を見せてやれば、何ともおぼつかない手で紅梅も真似をする。そして食べればまた、美味いと呟く。

「そうかそうか。ならほら、沢山食べてくれ!」

 春明はすっかり嬉しくなり、杯や椀が空けばどんどんとよそい、干し物も目の前に山盛りにしてやった。ちまちまと咀嚼する紅梅はその勢いに押されるようにしばらく黙々と飲食していた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

「オレの番は、いちばん近くて、いちばん遠いアルファだった」

星井 悠里
BL
大好きだった幼なじみのアルファは、皆の憧れだった。 ベータのオレは、王都に誘ってくれたその手を取れなかった。 番にはなれない未来が、ただ怖かった。隣に立ち続ける自信がなかった。 あれから二年。幼馴染の婚約の噂を聞いて胸が痛むことはあるけれど、 平凡だけどちゃんと働いて、それなりに楽しく生きていた。 そんなオレの体に、ふとした異変が起きはじめた。 ――何でいまさら。オメガだった、なんて。 オメガだったら、これからますます頑張ろうとしていた仕事も出来なくなる。 2年前のあの時だったら。あの手を取れたかもしれないのに。 どうして、いまさら。 すれ違った運命に、急展開で振り回される、Ωのお話。 ハピエン確定です。(全10話) 2025年 07月12日 ~2025年 07月21日 なろうさんで完結してます。

番に見つからない街で、子供を育てている

はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。 異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。 現世の記憶は失われているが、 この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。 街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、 ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。 だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。 再会は望まない。 今はただ、この子との生活を守りたい。 これは、番から逃げたオメガが、 選び直すまでの物語。 *本編完結しました

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

六年目の恋、もう一度手をつなぐ

高穂もか
BL
幼なじみで恋人のつむぎと渉は互いにオメガ・アルファの親公認のカップルだ。 順調な交際も六年目――最近の渉はデートもしないし、手もつながなくなった。 「もう、おればっかりが好きなんやろか?」 馴ればっかりの関係に、寂しさを覚えるつむぎ。 そのうえ、渉は二人の通う高校にやってきた美貌の転校生・沙也にかまってばかりで。他のオメガには、優しく甘く接する恋人にもやもやしてしまう。 嫉妬をしても、「友達なんやから面倒なこというなって」と笑われ、遂にはお泊りまでしたと聞き…… 「そっちがその気なら、もういい!」 堪忍袋の緒が切れたつむぎは、別れを切り出す。すると、渉は意外な反応を……? 倦怠期を乗り越えて、もう一度恋をする。幼なじみオメガバースBLです♡

彼は罰ゲームでおれと付き合った

和泉奏
BL
「全部嘘だったなんて、知りたくなかった」

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

処理中です...