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しおりを挟む若葉が柔らかな緑に輝き、花々は爛漫と咲き誇っている。非常に清々しい昼下がりだ。なお、昨日無事に一仕事終え、春明の懐が心同様に温かいのも気分がいい理由の一つではある。赤地に枝垂れ桜の模様が入った羽織を着た娘――桜花は、心を開けば快活で愛嬌のある娘だった。おかげで描いている間楽しく過ごせたし、立ち姿と横顔の二種の絵も気に入ってもらえ、謝礼には大分色も付いた。おかげでしばらくのんびりと暮らせそうだ。
十日ぶりの深山には思った通り桜が咲いていた。里では、桜が咲く頃にはもう夜の冷え込みも浅くなる。時折花冷えすることもあるが、今夜はそんなことはなく暖かい。山中はさすがに里よりは冷えるが、それでも先日より格段に暖かくなっていた。これならば、夜に水浴びをしても多少はましだろう。
「……いや、そうでもないか。山の水はいつでも冷たいものだからな」
そういう仕事に就いているならば禊をするのは仕方ないが、誰かが冷水を浴びる姿は他人から見たらただただ寒いばかりである。
「そうだ、今日は熱燗にしてやろう! この間のはあっさりめだったが、今日のは濃いからな。温めればより美味い」
荷物の中には干し柿、干し杏、魚の干物も入っているし、道中で蕗の薹や漉油も採ってきた。鍋は常に持ち歩いているし、味噌もある。山菜の汁物も作ってやろうと決めた。
「秋朝、お前にも酒と干物を分けてやろう。皆で飲もう。ただし、飲みすぎて爪を立てるんじゃないぞ」
鼬の爪は鋭いからなあ、赤ん坊の時は甘えてよく刺してきたが、とにやにや笑えば、揶揄うなとばかり首筋に軽く爪が当たった。
「はは、そう恥ずかしがるなよ。小さかった頃のお前はそれはもう可愛らしかったぞ」
懐かしいなあと生温く見やる視線に耐え切れず、秋朝は首筋に巻きついたまま尾の中に頭を埋めて身を隠してしまった。それを見て春明は声を立てて笑ったのだった。
そうしてのんびりとすでに通い慣れてきた道のりを歩き、じきにいつもの小滝に着いたが、時間はまだ夕暮れ前である。まだいないだろうなとは思ったが、やはり紅梅はいない。梅の花も枯れ始めていて、季節が進むのはあっという間だなあと思う。
「秋朝。紅梅と会えるのは夜だろうから、それまでは好きにしていていいぞ。俺はこれの続きをやる」
これ、といってひらひらさせたのは桜花の姿絵を描くきっかけになった、街の子らを描いた絵である。昼夜対比にしているこの小滝の絵もまだ彩色がすんでいないが、それは腰を据えて描き上げたいので後にして、今日は手なりで好きなように描ける気楽なものを仕上げるのだ。
好きなようにしていいと告げた通りにどこぞへと走っていく秋朝を見送りつつ、さらさらと筆を走らせる。筆先を水に浸してわざと炭をにじませたり、ところどころ目を惹くように淡く色を差してみたり。気の向くまま、筆の動くまま、まるで子どもの落書きのように伸びやかに。本腰を入れて仕上げるのもいいが、こうして息抜きをするのも大事なのだ。
「紅梅にも見せて、好きなものがあったらやろう。花や動物も描くか。何かいいものは……」
花ならば、春夏秋冬に咲き誇る様々な彩りを。動物ならば、冬兄の鷹の風来や母の猫の陽月、勿論春明の鼬である秋朝を描いたものに始まり、旅をする中で出会った生き物たちを。思いつくまま、目に入ったものを、色々と描いてきている。当然全ての紙片を持ち歩いているわけではないので手持ちにあるのはここ数ヶ月ほどの記録だが、その中にもこれはいいなと思える構図やそのまま色をのせても良さそうなものがいくつかはあった。
「よし。この山藤と鵥の二枚に手を入れてみるか」
檜の幹に絡みついた藤の柔らかな紫色。初夏の日差しを浴びた緑葉を背にした白と青の翼の鳥。思い返せば目の裏に浮かんでくるそれを紙の上に表現して……気付けば、いつしか周囲はかなり薄暗くなっていた。秋朝もいつの間にか戻って足元で丸くなっている。
「もうこんな時刻か。火を用意しておいてやらないと」
乾いた枝でも探すかと腰を上げれば、秋朝が身を起こして足に纏わりつく。どうしたと声をかけると少し離れた開けた場所に駆けていく。そこには枝や落ち葉が小さな山となっていた。
「おお、用意しておいてくれたのか。さすが秋朝、頼りになる」
当然だろうとばかり、秋朝は後足で立ち上がり胸を張る。その姿にははっと笑いながら火をおこした。
そうして段々と夜が更け、昼間の温かさが一転、空気が随分と冷え込んできた頃。
「……ああ、紅梅。数日ぶりだな。元気にしていたか?」
ふと滝音とは別の水音がして振り返れば、そこにはまた忽然と白衣に長い黒髪の青年――紅梅が、春明を見据え立ち尽くしていた。
「春深まってきたとはいえ、今日もやっぱり寒々しいぞ。ほら、早くこっちへ来て温まれよ」
ぱちぱちと弾ける焚火は、耳に響く音だけでも温かみを感じるものだ。手をかざせば勿論温かく、いい感じに火にかけていた酒や汁物の匂いも相まって、水に浸かって凍えた紅梅の身を引き寄せる魅力があるはずだ。
こっちこっちと手招きすれば、思った通り紅梅はわずかな躊躇しかせず水から上がり、火を挟んだ春明の真向かいへと腰を下ろした。
「ほら、今日は熱燗だ。うまいし温まる」
まずは酒をすすめる。杯を受け取った紅梅は湯気を立てる杯をしばし凝視し、酒の濃厚な匂いを嗅ぎ、それから恐る恐るというように口をつけた。かと思えば、そのままくっと飲み干してしまう。わずかに目を細め満足そうにふっと息を吐く。
「はは! 気に入ったか。ほら、もう一杯」
手を差し伸べて注いでやれば、それもまたこくりと喉を鳴らして飲み込んだ。度数の高めの酒だけあって、その白い面にすでに赤みが差してきている。一気に飲むと酔うぞ、味わいながら飲め、と三度注げば、その言葉を聞き入れて今度はぺろりと舐めるように口をつけた。春明も手酌で一杯注ぎ空けると、また一杯なみなみと注ぎ脇へ置いた。熱燗は温めが好みなので、しばらく置いておくのだ。
そうしながら今度は椀に汁物を注ぐ。山菜の味噌汁だ。
「蕗の薹と漉油の味噌汁は、春になると母上が作ってくれる一品でな。うちの家族の好物なんだ」
ほら、と差し出せば、これもまたじっと見つめ、嗅ぎ、それから飲む。美味い、と囁くような言葉が返り、よかったと春明は満足げに破顔した。
干し柿、干し杏、魚の干物も手渡す。木の枝に刺して少し炙っても美味いぞと見本を見せてやれば、何ともおぼつかない手で紅梅も真似をする。そして食べればまた、美味いと呟く。
「そうかそうか。ならほら、沢山食べてくれ!」
春明はすっかり嬉しくなり、杯や椀が空けばどんどんとよそい、干し物も目の前に山盛りにしてやった。ちまちまと咀嚼する紅梅はその勢いに押されるようにしばらく黙々と飲食していた。
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