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しおりを挟む何回目か椀に汁を注ごうとすれば、もういいというように紅梅はふるりと首を振った。
「もういいのか?」
こくり、と頷きが返る。汁物と酒は数回飲んだが山盛りにした干し物は一角がわずかに崩れた程度で、大人の男の食べる量としてはいささか少ない。遠慮していないかと見つめれば、無意識にか紅梅は己の腹をさすっていた。どうやら胃が小さい性質らしい。ならば無理強いしてもよくないと春明は笑った。
「そうか。なら、その干し物は日持ちするからやろう。少しずつ食べるといい」
手持ちの袋に干し物を詰め直して渡してやれば、両手でそっと受け取った紅梅は、うん、と小さく頷く。土産を貰った幼子のようなあどけない仕草だった。
「それにしても紅梅は、何をやっても美味いと言うな。好き嫌いはないのか?」
何だか可愛いなあと内心でも顔面でもにこにこしつつ問えば、好き嫌い、と呟きが返る。
「そうだ。酒は好きそうだな。肉も魚も山菜も果物も、何でも好きか? ほら、こうして土産を持ってくるにしても、嫌いなものはなるべく避けたい」
何かあるかと問えば、紅梅は視線を地面へと落とす。考えているのだろうと待ったが視線を上げる様子がなく、どうかしたのか? そう聞く。すると紅梅はほんのわずかに顔を上げて、わからない、と小さく答えた。
「ん? ……何がだ?」
何に対する「わからない」かがわからず、春明は困惑する。拳二つ分ほど下にある細面をのぞきこむように身を乗り出せば、紅梅は唇をかすかに動かしながら、知らない、と言い換えた。それではっと思い至り、けれどそんなことがあるのかと同時に疑いつつ、確認のために聞いた。
「自分の好き嫌いが……わからない?」
紅梅は、項垂れるように頷いた。
「……ああ、いや、まあ、そういうこともある。そういうこともあるさ! 落ち込むことはない。な、紅梅!」
春明は慌ててそう慰めた。――心の内にどっと広がる憐憫の情に、顔を歪めながら。
(なんてことだ。自分の好き嫌いがわからない……知らないだなんて。どういうことだ? まさか、物心つく前からずっとここで、こんな修行を続けてきたというのか?)
祓いを生業とする家の子は、確かにそれなりに窮屈な生き方を強いられたりするものだ。好きなものを食べられず、好きなことをすることができず、時には名や身分を偽らなければならないこともある。それでも、こんな山の奥で、夜毎冷たい水を浴びて、自分の好き嫌いさえわからないまま、こんな年まで。どんな家なのかは知らないが、やりすぎだろうと憤りすら感じた。
「何、わからないなら、これから知っていけばいいだけの話だ。……俺が色々と経験させてやる。好きなもの、嫌いなもの。したいこと、したくないこと。少しずつ知っていけばいい。そうしたら、毎日がうんと楽しくなるぞ」
様々なことを経験した後にはもう今のままではいられなくなるだろうが、それでもこのまま世間から目と耳を閉ざしたように生きていくのよりははるかにましだろうと春明は強く思った。
「そうだなあ。とりあえずは……なあ紅梅、お前まさか、太陽の上っている時間に出歩ったことがないってことは、まさかさすがに……あるのか!」
さすがにと思いつつ問うた質問への反応に顔を引きつらせつつ、頭の中で考えを巡らせる。これはもう本当に夜中の水浴びくらいしかしたことがないと思った方がよさそうだ。となると、教えてやりたいことはそれこそ山の数ほどある。
「わかった。知らないことを前提に考えればいいな。それなら、夜が明けたら一緒にこの周囲を見て回ろう。手始めに。春は花の季節だ、色々咲いているから名を教えてやる。食べられるものがあったら摘んで、昼にはまた味噌汁を作ってやるな。夜には一旦帰るが……土産を持ってまた数日以内に来るから。今度は、昼間にまたここで待ち合わせよう。なあ、いいだろう?」
――慣れてきたら、里にも行ってみよう。色々なものを見て、触って、食べよう。夏には祭りがあるから、一緒に回ろう。約束だぞ、な。
半ば無理矢理にそう迫れば、きょとんと驚いた顔をして、それから少し逡巡する。頷いていいものかと悩む様子だ。けれど、な? と再度押せば、おずおずとだが首を縦に振った。
「よし! ……覚悟しろよ、紅梅。この世は楽しいことがいっぱいだ。知ったらもう戻れなくなるからな」
悪戯めかしてそう笑う春明を真っ直ぐに見つめて。
「……そうか」
紅梅は、ほのかに微笑んだ。
ぱちりと弾ける火を囲んで話し込み、気付けばうとうととした雑魚寝状態で夜が明けていた。周囲が見通せるほど明るくなった頃どちらともなく目を覚ます。おはようと声をかければ、紅梅は数拍の後おはようとぎこちなく返してくる。その視線はきょろきょろと辺りを見回していた。
少し朝霧が出ていた。うっすらと白めいた視界の中、緩く揺らめく水面や露を纏った草葉が日の光に瞬いている。ここにいるとずっと聞こえている滝飛沫の音が活動を始めた鳥の声と混ざり、実に清々しい朝である。
「今日もいい一日になりそうだ」
ううんと背筋を伸ばしつつ立ち上がり残り火の始末をする。秋朝は近くにはいなかった。きっと朝のひと狩りにでも出かけているのだろう。じきに戻ってくるはずだ。
「さて、紅梅。行くか」
ほらほらと立つように促せば、眩し気に目を細めながら物珍しいのか周囲を見ていたその視線が、つと春明を見上げる。どこに、と目で如実に語りかけられ、昨日言っただろうとからり笑う。
「朝の散歩と、山菜摘みだ。春の朝の山は実に爽やかで美しいぞ」
さあ、と手を差し出す。紅梅は大分長い時間、その手をじっと見つめて座り込んでいた……が、意を決したようにそっと手を重ねた。
「よし! 行くぞ!」
白く細い、けれど以外と男らしく筋張ったその手をぐいと掴み上げた春明はにっと歯を見せて笑い、緊張した野生動物のようなようにぎこちない紅梅を日射しの下へと連れ出したのだった。
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