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1 旅立ちは婚約破棄から

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 目の前の扉に、小さな看板がかかっていた。

「就職相談室」

 私、エレッテ・エル・カーセは、貧乏とはいえ貴族の末端に名を連ねるものだ。こんな場所に縁があるとは、今朝まで思ってもいなかった。
 貴族令嬢は普通はここを利用しない。ここは、コネのない平民たちが来る場所のはずだった。それもこれも、あのくそ(失礼)婚約者のせいだ。元婚約者。元を五個くらいつけてやりたいあの男。

 私はほほを流れる雨を拭った。
 今朝まであの男と結婚すると信じて疑わなかった私がバカだった。

「婚約を破棄してくれ」と彼は私に言った。
 何を言われているのか、飲み込めなかった。いきなり魔道具の細かい設計書を読めと突き付けられたようなものだ。
「どうして、そんなことを言うの? どうして? 何か、私が悪いことをした?」私は聞いた。
「エレッテ……君は悪くない」
 彼は婚約破棄を切り出されて呆然とする私にそう言葉を重ねた。
「その、君は……子供を産む体ではないだろう」
「私は大丈夫なの。お医者様は、小さいけれど十分成熟していると、そう太鼓判を押してくださったの。確かに出産には問題が起こりやすいけれど、魔法を使えば……」
「そういうことじゃない。その、……燃えないんだ。君ではだめなんだ」彼の視線は胸元に向けられていた。「君が、悪いわけじゃないんだ。その、君が子供っぽいから……」

 はっきりと言ったらどう? 胸がないって……
 背も小さくて、子供にしか見えないって。
 あの男は何か言っていたけれど、怒りに支配された私の頭は一切の言葉を弾き飛ばした。

 ようするに、私が大人の体型でないから気に食わないっていうのでしょ。
 あの男の好きな、こう、メリハリのある体じゃないから。 

 卒業して、結婚式を挙げて、彼の商家を手伝って……そういった未来の計画が吹き飛んだ。もっと早く言ってくれればよかったのに。明日、卒業式という日にそんなことを言われるなんて。

  あんなに待ち遠しかった卒業式だったのに。 明日のことを想像すると、卒倒しそうな屈辱を感じる。
 婚約者と手に手を取って現れる令嬢たちの中で、一人だけで出席するなんて、ありえない。

  代役を用意するには遅すぎた。弟は遠い帝都の学校にいて、父は腰を痛めて、兄は新婚でうきうきと旅行に行ってしまった。
 私の頭の中には、元婚約者以外浮かばなかった。 

 貞節な令嬢という評判は役に立たない。これが小説の中なら、陰から見守ってくれていた素晴らしい男性が現れるのが定番だ。でも、所詮、小説は小説だ。口惜しいけれど、誰も思いつくことができなかった。 

 婚約を破棄……それも背が低くて、子供にしか見えない体型だから? 

 ひどすぎる。 
 周りの同級生たちに知られたら、どんなことになるか…… ただでさえ、田舎の貧乏貴族と影口をたたかれていたのだ。
 成績だけはよいけれど、平民に限りなく近い没落貴族と言われてきた。没落というのは言いすぎだと思うけれど、我が家に金がないことは当たっている。 それに、婚約破棄された女という称号までが付いてくるなんて。 

 絶対に、いや。
  私は身震いをした。 

 ここから逃げるのよ、エレッタ。

 私の頭の中には逃亡という言葉しか思い浮かばなかった。幸いにも、学位は卒業式に出席しなくても授与される。

 そして、今なら、まだ、今年度の就職先が残っているかもしれない。 運が良ければ。

「就職相談室」と書かれた地味な扉を開けたら、その先に暇そうな女性職員が座っていた。

 こんな時期だ。誰もここを訪ねてくる者はいないのだろう。 扉が開いたのに気がついて、目を上げた職員が目を横に滑らせて、目を落として私を見た。 

「あら、お嬢ちゃん。ここは……」

  あなたの来る場所じゃないわよといわれる前に、言葉を遮る。

「私はエレッタ・エル・カーセと申します。今年卒業する予定の学部生です。ここは就職相談室ですよね。就職の相談をしていただきたく、ここに参りました」 

「学生さんでしたか? てっきり、お小さいので家族の、妹さんかと……これは失礼しました」
 私の怒りを感じ取ったのか、慌てて女は訂正した。
「よ、よくあることなのです。家族の就職先を探してほしいという依頼も。その、平民の生徒は、いろいろな事情を……し、失礼しました。えっと、エル・カーセ? 貴族籍の方ですか? その、来年卒業される?」 

「いえ、今年卒業します。今からでも、すぐに雇っていただける職を紹介していただきたいのですが」
 私は学籍カードを女性の前にたたきつけるように置いた。 
「もう、明日からでも構いません。どこか遠くで、へき地で構いません。いえ、へき地がいいわ。できるだけ、田舎で」 

「は、はぁ」
 私の追い詰められた表情に圧倒されたのか、事務員は私の学籍表を手に取ってタブレットにかざして、何かを入力した。
 「あ、あの、明日からといっても……ああ、教員の資格も持っていらっしゃる……成績も申し分ない」
女性は顔を上げた。
「今からですか? もう、よい就職先はみな埋まっていますよ。来年度でしたら条件の良い就職先が見つかるかと……貴方ほどの資格があれば帝都の学校にでも推薦が……」

「いえ、今からお願いします」
と私は断固として繰り返した。
「今すぐ就職しないといけないのです」 

そして逃亡する。あの忌々しい男や彼の家族のいないところへ。
噂もほとんど立たないほどの田舎へ。

 女性は目をそらすようにタブレットを操り始めた。こちらからではどんな情報が流れているのか見えない。 

「ほとんど……ないですね。男性向けの職場ならいくつかまだあるのですが、女性の場合、特に貴族であることが求められます。ああ、これです」
と女性は一瞬顔を上げかけたが、すぐに眉をしかめた。 
「駄目です。ここは……」 

「どこですか? いいところがあったのですか?」と私はかすかな希望に縋った。 

「ええ、いえ、その、条件は非常にいいのです。男女を問わず、教職で初等の座学を教える科目や魔法の等級にはこだわりません。給料は低いですが」
と女性が口にした金額は確かにこのあたりでは少ない額だった。しかし、田舎なら十分に暮らしていけそうだった。

 「田舎でそれですか? 素晴らしい。それで、そこは住み込み可ですか?」

 「ええ。寮があり、賄いも付いています。現地の神殿が運営する学校の教員募集ですね。ただ……」
 と女性は口を濁した。

 「ただ? 何か問題があるのですか?」 

「場所が……その、黒の大地です」 

「黒の大地? 辺境の?」 

「ええ。そこの神殿からの募集なのです」

 「それはすばらしい」
思わず口走ってしまった。事務員があんぐりと口を開けた。 
「素晴らしいですね。全能なる方のお導きですよ。あの黒の大地ですよね」 

 沈んでいた気分が高揚してきた。

 思ってもいない場所だった。あそこならば、あの人外の土地なら不名誉なうわさなど届くことはないだろう。
 婚約者もその家族も二度と顔も見ることはない。
 永遠にさようならだ。 今の私には望みもしなかった好条件の就職先ではないか。 

「ぜひ、そこに応募したいです。今すぐにでも連絡は取れますか?明日からでも働けますか?」

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