枢軸特急トルマリン=ソジャーナー 異世界逗留者のインクライン

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興凱湖(はんかこ)

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 ――若くて健康なうちに信仰をはじめなさい。年老いて病気になったり、「人生に悔いがある」と毎日、嘆く前に。
 旧約聖書 伝道者の書 第12章1節より

 ■ 興凱湖はんかこ
 ハンカ湖は中国の黒竜江省とロシア沿海州にまたがる淡水湖である。湖の北寄りに直線状の国境線が引かれており、広大な水面の南半分はロシアの自然保護区に属している。
 ハバロフスクを発ったTWX1369はシベリア鉄道のスパッスク=ダリニー駅を通過し、ウラジオストクめざしてひた走る。車窓の外にはなだらかな丘が連なっている。地形の起伏に反して乗務員たちの胸中は穏やかでない。
 当然ながら新造なった枢軸特急にも食堂車ダイナープレアデスが接続されている。そこに乗員乗客の人いきれが息づいているが、華やいだ雰囲気はなく、黒い色どりだけがあった。車両の中央には白い棺が置かれており、喪服姿の異世界逗留者達が囲んでいる。留萌は同僚の最期をどうしても受け入れることができず、衛生兵に連れられて一足先に帰国した。
「ブレース機関士を故郷に葬ってあげられなくてかわいそう」
 荒井吹雪が残念そうに白木の箱をみやる。そっと触れようとしたところ、ハウゼルの手に振り払われた。
「グリーバスの自然治癒力は他の異世界ほど高くありません。異世界逗留者の亡骸が世界雑音ワールドノイズを引き起こすのです。それに彼女を熱力学第二法則の向こうから取り戻す手段がないとも限りません」
 ハウゼルはコンソール画面を操作して棺桶の周囲に強化テクタイトの壁を張り巡らせた。たちまち内側に霜がついて不透明になる。極限冷却装置がブレーズだった肉塊を絶対零度近くで保温する。
 車外に広がる丘は緑ふかく、蛇行した川は昨夜の激戦が巻き起こした気象変動のため泥の色に染まっている。吹雪は無言でテーブルに戻り、コーヒーに視線を落とした。通夜の食事は簡素で物寂しい。ガクンとカップが揺れた。
 物思いに耽る間もなく列車はチホヴォノドエの駅からドミドリエフカ川沿いの臨時引込線にはいった。針葉樹林を抜けると線路は湿地帯を横断する。湾曲した湖岸の向こうに原生林が見える以外は見渡す限り水たまりと緑のモザイクだ。ところどこりにポツンとヤナギの樹がはえている。鉄道連隊の仕事ぶりはすばらしく、ぐんぐん加速して、十分ほどでハンカ湖畔のプロトカ湖駅に着いた。列車を降りた異世界逗留者が悲嘆にくれる余裕はない。沼田コヨリがハンカ湖に落とした残留思念に対する処置が残っている。めいめいが機器を携えて砂浜を歩く。打ち寄せる波は重たくてとても内陸の湖とは思えない迫力がある。砂丘が何かをひきずったようにえぐれており、遠くにポツンと鈍色のシルエットが見える。
 ジルバーフォーゲルだ。
 ハッチが開いて望萌が降りてきた。かなりやつれた様子だ。遠目にもハッキリとわかる。合流する人々の間に言葉はない。
 荒井の喪服がフワッと湿った風にあおられる。三枚重ねのスカートからアンダースコートごしに網タイツが透けている。
 沈鬱した空気を払拭しようとハウゼルが口をひらいた。
「ちゃんと、シベリア拘留者を弔ってあげなきゃ」
「そうね。ロシア兵と比べて、わが祖国は……」
 望萌がシベリア拘留を遠回しに批判した。
「ロンメル将軍の話は知っています。ジュネーブ条約をちゃんと守ったんでしょう。それでもアドルフ・ヒトラーの行為は正当化できませんよ」
 荒井吹雪はコード1986の日本人だ。ドイッチェラント人どもの自己正当化が我慢できなかった。

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