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「ごちそうさまでした!」
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「ごちそうさまでした!」美知香は大きく柏手を打とうとして右手を挙げたまま動きを止めた。左手で頬杖をついて、フォークの先でナポリタンの端っこを突き始める。津久居篤はアイスコーヒーを一口飲み下し、紙ナプキンで丁寧に唇を拭った。それから美知香を見た。美知香は目だけで津久居を見返した。津久居は黙って美知香が食事を終えてくれるのを待っていたのだが、あまりに遅いので声をかけたのだ。
美知香がふくれっ面を崩さないまま、「あぁ?」というように片眉を吊り上げたのは、待たせてすみませんでしたという意味だったようだ。美知香はまだ子供のような顔をしていて背も低いのに、津久居の目にはなぜか大人びて見える瞬間があって戸惑ってしまう。美知香とはもう何年も会っていなかったが、彼女の顔を見て津久居はすぐに分かったほどなのに。この子は変わったな、と感じる。津久居自身も年を取ったものだ。三十半ばを過ぎれば人は変わるらしいと聞くけれど、自分も例外ではなかったらしい。「ちゃんと噛んで食べなさい。身体に悪いぞ」津久居は、テーブルの上に身を乗り出して美知香の手元を覗き込みながら、説教臭いことを言ってしまった。美知香は肩をすくめ、行儀悪くまたナポリタンをひと塊突き刺すと、もぐもぐやり始めた。美知香の皿の上はほとんど空になっていた。
美知香は昔から大飯食らいだったから津久居はよくよく覚えている。中学生の頃から、学校の友達の弁当やパンまでよくねだって平らげていたのだ。その頃、すでに津久居はこの『アヴァロン』のマスターであり、美知香の伯父であったから、彼女が腹をすかしていたら食べ物を与えずにはいられなかった。自分の食べる分が減ることよりも美知香の健やかな成長が優先する、津久居は本気で信じていた。実際、美知香は津久居の手からよく与えられたものを何でも喜んで食べた。まるで雛に餌を与える親鳥になったようで楽しかったし、何より自分の作った料理をおいしそうにパクつく少女の姿を見ているうちに、これはもっとたくさん美味いものを作ってあげたいという意欲が湧いてきたのだ。今思えば単純なことだったが、津久居の意識は、美知香という個人への愛情ではなく、彼女を育てているという保護者としての責任感によって駆動されていたようだった。
津久居がこの店を持つ前はどこに住んでいたのか美知香はあまり話したがらない。聞けば答えるだろうが、あまり関心もない。津久居は今でも代々木上原のマンションに住んでいるはずだ。
美知香が津久居の住まいを訪ねてくることは滅多にない。だが、たまに食事をたかりに来ることがある。そういう時は津久居は腕によりをかけてご馳走を作った。美知香は遠慮せずにガツガツ食べた。そして腹を下した。津久居は怒った。美知香はしょんぼりした。津久居は怒ってるんじゃなくて心配しているのだと説明するのに苦労した。美知香は、津久居が怒っているのではなく自分を憐れんでくれているのだということに気づかず、自分が津久居をイラつかせてしまったと思い込んでしまったからだ。美知香は遺書を書いた。津久居は慌てた。津久居は美知香の自殺を阻止した。
津久居はふっと笑う。
自分が、美知香にご飯を食べさせることが生き甲斐だったのだと気づいたのは、皮肉なことに、美知香がいなくなってからのことだった。津久居は美知香の保護者として、美知香の生活全般にわたって責任を負っていた。美知香の健康や安全を守るために努力した。それは津久居にとって義務であり喜びでもあった。
津久居は、美知香のためになら何時間でも何日でも何年でも待てるつもりだった。しかし、美知香がいなくなった途端、津久居は途方に暮れた。津久居は美知香においしい物を食べさせたかった。そのためにはお金が必要だった。美知香が帰ってきてくれれば津久居はいくらでも待つことができたが、美知香が帰ってきたら津久居はただの居候になってしまう。津久居は生きがいを無くして認知症になった。美知香は津久居の生きがいだ。津久居は美知香をかわいがっていた。それは間違いがない。しかし、それは美知香を庇護の対象としていたということではない。
津久居は、美知香の後見人として、彼女を立派に育て上げなければならないと考えていた。しかし今度は自分が被後見人になった。津久居は自分の面倒を見られない。津久居は老いぼれた。
美知香が津久居のところに帰ってくることはなかった。美知香は死んだ。
津久居は美知香が死んで初めて、美知香を一人の人間として見るようになった。津久居は、美知香が津久居のところへ戻ってきたくても、帰れないことに気づいていなかった。
美知香は、津久居にとっては娘のようなものだった。
美知香は津久居にとって、かけがえのないたった一人の娘だったのだ。津久居は施設の人に無理を言って車椅子で墓参した。美知香の両親と会った時、彼らは津久居に対して、美知香のことを頼むと頭を下げた。津久居は美知香を死なせてしまったことを詫びた。美知佳は何も言わなかった。津久居も何も聞かなかった。
ただ、美知香にお線香をあげて欲しいと言った。美知佳は津久居の願いを叶えてくれた。
津久居は美知佳に礼を言った。美知佳は黙って津久居を見ていた。津久居は美知佳が何か言いたいのではないかと思ったが、結局、美知佳は口を開かず、津久居の車椅子を崖から突き落とした。「これは復讐です」と言った。「あなたが私にしたのと同じ」
津久居は落ちた。「私はね」美知佳は言った。「お父さんとお母さんのことが大好きでした」
津久居は、美知佳が自分に何を言ったのか、理解できなかった。
「だから、あなたが憎いんじゃないんです」
美知佳は笑った。「ただね、私がどんな気持ちだったか、それを思い出して欲しい」
美知佳は津久居に手を差し伸べた。「さあ」
津久居は、その手を取ることができなかった。
3章 俺は、美知香のアパートの玄関先に立っていた。
美知香が亡くなってから半年ほど経った頃だ。美知香の遺品を整理していて、美知香の携帯電話を見つけた。美知香が持っていた携帯には、津久居氏の電話番号が登録されていた。
津久居氏は美知香が殺されたと思っている。美知香を殺した犯人を捜している。美知香が殺されてからというもの、彼はずっと美知香の身を案じて暮らしてきた。美知香を捜すためにできることなら何でもしてきた。美知香の手がかりになるような情報を得るために、彼は手段を選ばなかった。
だが、警察は頼りにならない。津久居氏がそうこぼしたのを聞いたことがある。彼の友人で警察官がいるのだが、その男によれば、警察の中には、津久居氏を疑う者もいるのだという。彼が美知香を虐待していたのではないかという噂もあるそうだ。証拠はないらしいが、そんなことで疑われたら迷惑千万だというふうに、津久居氏は憤慨している様子だった。
美知香がふくれっ面を崩さないまま、「あぁ?」というように片眉を吊り上げたのは、待たせてすみませんでしたという意味だったようだ。美知香はまだ子供のような顔をしていて背も低いのに、津久居の目にはなぜか大人びて見える瞬間があって戸惑ってしまう。美知香とはもう何年も会っていなかったが、彼女の顔を見て津久居はすぐに分かったほどなのに。この子は変わったな、と感じる。津久居自身も年を取ったものだ。三十半ばを過ぎれば人は変わるらしいと聞くけれど、自分も例外ではなかったらしい。「ちゃんと噛んで食べなさい。身体に悪いぞ」津久居は、テーブルの上に身を乗り出して美知香の手元を覗き込みながら、説教臭いことを言ってしまった。美知香は肩をすくめ、行儀悪くまたナポリタンをひと塊突き刺すと、もぐもぐやり始めた。美知香の皿の上はほとんど空になっていた。
美知香は昔から大飯食らいだったから津久居はよくよく覚えている。中学生の頃から、学校の友達の弁当やパンまでよくねだって平らげていたのだ。その頃、すでに津久居はこの『アヴァロン』のマスターであり、美知香の伯父であったから、彼女が腹をすかしていたら食べ物を与えずにはいられなかった。自分の食べる分が減ることよりも美知香の健やかな成長が優先する、津久居は本気で信じていた。実際、美知香は津久居の手からよく与えられたものを何でも喜んで食べた。まるで雛に餌を与える親鳥になったようで楽しかったし、何より自分の作った料理をおいしそうにパクつく少女の姿を見ているうちに、これはもっとたくさん美味いものを作ってあげたいという意欲が湧いてきたのだ。今思えば単純なことだったが、津久居の意識は、美知香という個人への愛情ではなく、彼女を育てているという保護者としての責任感によって駆動されていたようだった。
津久居がこの店を持つ前はどこに住んでいたのか美知香はあまり話したがらない。聞けば答えるだろうが、あまり関心もない。津久居は今でも代々木上原のマンションに住んでいるはずだ。
美知香が津久居の住まいを訪ねてくることは滅多にない。だが、たまに食事をたかりに来ることがある。そういう時は津久居は腕によりをかけてご馳走を作った。美知香は遠慮せずにガツガツ食べた。そして腹を下した。津久居は怒った。美知香はしょんぼりした。津久居は怒ってるんじゃなくて心配しているのだと説明するのに苦労した。美知香は、津久居が怒っているのではなく自分を憐れんでくれているのだということに気づかず、自分が津久居をイラつかせてしまったと思い込んでしまったからだ。美知香は遺書を書いた。津久居は慌てた。津久居は美知香の自殺を阻止した。
津久居はふっと笑う。
自分が、美知香にご飯を食べさせることが生き甲斐だったのだと気づいたのは、皮肉なことに、美知香がいなくなってからのことだった。津久居は美知香の保護者として、美知香の生活全般にわたって責任を負っていた。美知香の健康や安全を守るために努力した。それは津久居にとって義務であり喜びでもあった。
津久居は、美知香のためになら何時間でも何日でも何年でも待てるつもりだった。しかし、美知香がいなくなった途端、津久居は途方に暮れた。津久居は美知香においしい物を食べさせたかった。そのためにはお金が必要だった。美知香が帰ってきてくれれば津久居はいくらでも待つことができたが、美知香が帰ってきたら津久居はただの居候になってしまう。津久居は生きがいを無くして認知症になった。美知香は津久居の生きがいだ。津久居は美知香をかわいがっていた。それは間違いがない。しかし、それは美知香を庇護の対象としていたということではない。
津久居は、美知香の後見人として、彼女を立派に育て上げなければならないと考えていた。しかし今度は自分が被後見人になった。津久居は自分の面倒を見られない。津久居は老いぼれた。
美知香が津久居のところに帰ってくることはなかった。美知香は死んだ。
津久居は美知香が死んで初めて、美知香を一人の人間として見るようになった。津久居は、美知香が津久居のところへ戻ってきたくても、帰れないことに気づいていなかった。
美知香は、津久居にとっては娘のようなものだった。
美知香は津久居にとって、かけがえのないたった一人の娘だったのだ。津久居は施設の人に無理を言って車椅子で墓参した。美知香の両親と会った時、彼らは津久居に対して、美知香のことを頼むと頭を下げた。津久居は美知香を死なせてしまったことを詫びた。美知佳は何も言わなかった。津久居も何も聞かなかった。
ただ、美知香にお線香をあげて欲しいと言った。美知佳は津久居の願いを叶えてくれた。
津久居は美知佳に礼を言った。美知佳は黙って津久居を見ていた。津久居は美知佳が何か言いたいのではないかと思ったが、結局、美知佳は口を開かず、津久居の車椅子を崖から突き落とした。「これは復讐です」と言った。「あなたが私にしたのと同じ」
津久居は落ちた。「私はね」美知佳は言った。「お父さんとお母さんのことが大好きでした」
津久居は、美知佳が自分に何を言ったのか、理解できなかった。
「だから、あなたが憎いんじゃないんです」
美知佳は笑った。「ただね、私がどんな気持ちだったか、それを思い出して欲しい」
美知佳は津久居に手を差し伸べた。「さあ」
津久居は、その手を取ることができなかった。
3章 俺は、美知香のアパートの玄関先に立っていた。
美知香が亡くなってから半年ほど経った頃だ。美知香の遺品を整理していて、美知香の携帯電話を見つけた。美知香が持っていた携帯には、津久居氏の電話番号が登録されていた。
津久居氏は美知香が殺されたと思っている。美知香を殺した犯人を捜している。美知香が殺されてからというもの、彼はずっと美知香の身を案じて暮らしてきた。美知香を捜すためにできることなら何でもしてきた。美知香の手がかりになるような情報を得るために、彼は手段を選ばなかった。
だが、警察は頼りにならない。津久居氏がそうこぼしたのを聞いたことがある。彼の友人で警察官がいるのだが、その男によれば、警察の中には、津久居氏を疑う者もいるのだという。彼が美知香を虐待していたのではないかという噂もあるそうだ。証拠はないらしいが、そんなことで疑われたら迷惑千万だというふうに、津久居氏は憤慨している様子だった。
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