ある平凡な姉の日常

本谷紺

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春、一の月

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 四学年は授業の数が少なくなる。早々に一日の授業を終え、教室を出たところで声をかけられた。
「リンジット様」
「あら、イアン。どうなさったの?」
 よく知った顔。けれど、彼が私に声をかけてくることは滅多にない。
 周囲に聞き取られないよう抑えた声で彼は続けた。
「この後ご予定がなければ、ぜひ会室へ」
「……ええ、分かりました」
 完璧に整えられた笑みを残して、彼はその場を立ち去る。
 何のために、などと尋ねる必要もない。彼が私に関わるとすれば、それは彼の主人に関する時だけだ。

 会室――白獅子会のために与えられた一室は、学院の奥まったところにある。
 学院内の自治や行事の計画や実行を担う学生組織、白獅子会。その会長は名実共に学院の顔である。従者イアンの主人であり、今期の会長を務めるその人は、ドアを開けた先で私を待っていた。
「よく来てくれたね」
「ご機嫌よう、殿下」
 第三王子、ルーフレッド殿下。つい先日まで私の婚約者だった人だ。
「ええと、その……変わりないかな?」
 所在なさげに視線をさ迷わせる、その様子がまさに先日のお父様を想起させて、思わず笑みが零れてしまう。
「ええ、ありがとうございます。何も問題ございませんわ」
「そうか」
「ですから、どうぞ殿下もこれまで通りに」
 困ったように、それでも彼は微笑んでくれる。
「敵わないな、君には」
 着席を勧められ、私たちはソファに向かい合って腰を下ろす。白獅子会の人たちの姿が他に見えないのは、今日は活動のない日なのか、殿下が人払いをしたからか。或いはその両方か。私たちが学院内で人目を気にせず会話できるのはこの場所くらいだろう。
「すまない、君とはすぐにも話をするべきだと思っていたのだけれど」
「殿下はお忙しいでしょう。公務もございますし」
「公務なんて。白獅子会の仕事と比べれば、退屈なくらいさ」
「まぁ」
 殿下と私が婚約者となったのは、私たちが生まれて間もない頃のことだった。初めて言葉を交わした日のことは幼すぎて覚えていない。
「念のために言っておきたいのだが、女性としても一人の人間としても、君に不満があったわけでは決してない。君は素晴らしい人だ。叶うなら、これからも良き友であってほしい」
「勿体ないお言葉です」
 素敵な人だ。聡明で行動力も決断力もあり、武芸にも優れ、社交性も高い。国王陛下の凛々しさと、王妃様の優美さを併せ持つ整ったかんばせ。例え彼が王子でなかったとしても、変わらず国中の女性たちから熱い視線を集めただろう。
 この人が私の夫になるのだという実感もないままだったけれど、今度はこの人が私の義弟になるのだ。それもまた不思議な心地である。
「こちらこそ、エリアデルをよろしくお願いいたします」
「ああ、もちろん。彼女も素敵な女性だ。……少しばかり激情家ではあるけれど」
「少しばかり激情家なのですよね……」
 私のこととなると見境を失くす愛妹を想い、揃って遠い目をしてしまう。
 それから、話題は学生生活のことへと移って行った。家のことはわざわざ二人だけで話し合う必要もない。どちらかと言えば、同い年の学生同士としての意見交換にこそ関心があった。何せ私たちはもう四学年なのだ。
「殿下はもう、担当教員がお決まりですか?」
「ああ。予想通りだろうが、アルスター先生のお世話になることになった」
 学院を卒業するには、卒業研究を提出しなければならない。四学年になると、各々自分の研究に適した先生を選んで担当教員になってもらう必要がある。そうして一年をかけて、学院性に相応しい研究をひとつ完成させるのだ。
「殿下はやはり治癒魔法の研究をなさるのですね」
「そのつもりだ。内容についてはこれから精査しなければならないが」
 魔力も知識も豊富な殿下は様々な魔法を行使できるけれど、中でも得意としているのが治癒魔法だ。厳密には分野が異なるとはいえ、現任の教員の中で最も医療に精通したアルスター先生に師事するのは納得できる。
「君は?」
 尋ねた分、当然ながら同じ質問が返ってきた。
「これからお話に行くところですが、オズ先生にお願いしようと思っています」
「えっ、オズ先生に?!」
 正直に答えると、殿下は目を見開いた。
「オズ先生に……いや、しかし……確かに……けれど……大丈夫なのかい?」
 ぶつぶつと逡巡してから、心配そうに窺ってくる。
 昨夜のエリィとおおよそ同じ反応だ。

『えっ、オズ先生に?!』
 相談相手が妹だったのは、彼女は私よりもオズ先生のことをよく知っているからだ。
 生徒指導のオズ先生。背が高く、常に鋭く眉間を寄せた、生徒たちから最も恐れられている教員だ。
 受け持っている授業が少ないため、一般の生徒は接する機会が少ない。彼のお世話になるのは主に、問題行動を起こして説教される時。エリィとラスティがまさにそれだ。
 私より一年遅れて入学した二人は、私に攻撃的な言動をしていた生徒を片端から殴り倒していった。正確には、殴り倒したり蹴り倒したり氷漬けにしたりした。そのたびにオズ先生に呼び出されていたのだ。ほどなく落ち着いたのだけれど、タンリック・チェスターの一件でまた呼び出されていたようだ。
『オズ先生は魔道具の授業をしていたでしょう? 私は魔法が使えないから、魔法理論の活かせる研究をしたいの』
『それなら確かに……いえ、でも……お姉様が……』
『先生は悪い方ではないでしょう』
『そうですけど』
 どんな名家の令息令嬢であっても一切の譲歩をしない厳しさで恐れられている先生だ。私のように色眼鏡で見られやすい人間には、むしろその方がありがたい。
 同じように、相手が教員であっても一切の忖度をしないエリィが悪い人でないと言うなら信頼できる。

「……そうか、エリアデルもそう言うなら。けれど、辛いことがあったらすぐにも相談してくれ。僕たちは友人なのだから」
「ええ、そうさせていただきますわ。エリィが先走る前に」
「エリアデルが先走る前にね」
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