ある平凡な姉の日常

本谷紺

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春、二の月

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 私たちの住む世界から「裏側」へと去ったとされる精霊たち。現代の人類に、彼らと交流する術はない。私たちが精霊落としと呼んでいる現象すら、それが本当に精霊に関連するものである確証などひとつもないのだ。
 当然ながら、精霊の声を聞いたことのある人間などいるはずもない。――正確には時折そういった人間が現れるけれど、これまでその全てが単なるぺてんであったことが明らかになっている。
 だから、いくら先生の言といえど。はいそうですかと受け入れられはしない。
「そんな、まさか。私が錯乱しただけという方がよほど現実味がありますわ」
「あの場に、君を錯乱させる要因は見当たらなかった」
 先生の否定は早い。
「動植物の毒を受けた様子はなかったし、もしもそうであるなら回復が早すぎる。君に心の病があるとは聞いていない。数日の野外調査で心を病むほど繊細な人であるなら、君の意思がどうであろうと、家がこの調査への参加を許すまい。
 無論、魔法の気配もなかった。
 わたしの目が節穴でなければ拾い得る要因はあらかた確認したはずだ。
 残る可能性は、わたしでは感知できないもの。そうしてわたしでも他の誰でもなく、君と所縁のあるもの。……精霊が挙げられる」
 先生の言葉は説得力があり、私では挟む疑問も思い付かない。
 それに何より、私自身が感じていた。
 あの時に私を襲ったあの感覚は、普通ではない。
 どくどくと心臓が強く拍を打つ。
 あれは本当に、精霊だったのだろうか。あの場所に精霊がいたということ。私たちからは見えない「裏側」に。
「……先生は、十年前の精霊落としについても、よくご存じなのでしょう」
「ああ」
 ほんのわずかな間を置いて、言葉が続けられる。
「十年前。有力貴族であるバーウィッチ家の面々が避暑のために別宅で過ごしていたさなか、長女のリンジットと次女のエリアデル、そしてサザラント将軍の長男であるラスティの三人の子供たちが失踪した。
 現場は彼らがよく遊んでいた森でのことで、争った形跡や不審者の目撃情報、獣の痕跡なども一切なし。
 精霊落としによるものとみなされた。
 両親らの必死の捜索は続いたが、手がかりのひとつも見つかることなく。
 しかしおよそひと月後、二度と戻らないかと思われた三人の子供たちは、別邸の玄関前に倒れているところを発見された」
 古い事件にも関わらず、淀みのない説明。これらは、魔導士でなくとも、国民なら誰でも――もしかすると国外にまで、広く知られていることだ。精霊落としからの生還。有史以来初の、そして今のところはただひとつの奇跡。
 けれど先生の立場であればそれだけでなく、もっと多くを知っているはずだ。
 じっと見つめれば、私の意図は伝わったのだろう、先生はまた口を開いた。
「……三人の証言を総合すると、こちらではひと月が経っている間、彼女らは一日程度の時間をさ迷っていたらしい。体力は消耗していたが、衣服の汚れも身体の具合もさほどの時間が経っていないことを示しており、その証言を裏付けた。
 彼女らは、どことも知れない不可思議な空間をさ迷い歩いた後、異形の化け物と出会い、長女リンジットが己の魔力を差し出すことで、こちらの世界へと帰してもらった、と言っている」
 そこでふう、とため息を吐く。
「知っているだろうが、大抵の研究者はこれらの証言に懐疑的だ。前例のないことであり、しかも君たちは揃って幼すぎた。記憶の錯乱や、もしくは意図的な改竄が為されている可能性は大いに残されている」
「ええ、存じております。それに、これもご存じでしょうけれど、私自身はほとんど何も覚えておりませんので」
 十年前、確かに自分の身に降りかかった出来事。
 私が覚えているのは、三人で森へ遊びに出かけたことと、突然落とし穴にでも落ちたかのように、知らない場所へと転げ落ちたこと。その拍子にラスティが頭に怪我を負ったこと。何としても二人を無事に帰すのだと心に強く誓ったこと。
 後のことは何も覚えていない。気が付いたら別邸のベッドの上にいて、生まれ持った魔力の全てを失っていた。
「家族は皆、当時から今でも変わらず、私を気遣ってくれます。けれど私自身はさほどのこととは思っておりません」
「魔力を失ったのだ、よほどのことだろう」
「いえ。本格的に魔法を学び始める前のことですから、それまでできたことができなくなる、という不便はありませんでしたし。家族は優しく、生活には不自由なく、今もこうして己の望む道を歩むことができております。
 なにぶん最中のことはほとんど覚えておりませんので、思い出して恐怖を感じる、ということもありませんわ」
 バーウィッチの長女として、魔法の使えない出来損ないと他人から詰られることはある。同級生たちから距離を置かれ、不吉なものであるかのように扱われることも続いた。家の継承は妹へ譲り、婚約も破棄された。
 はどうだっていい。
 精霊たちの声を聞いて倒れたことが事実であったとして、それだってどうでもいい。
「もしも私が精霊の影響でああなったのだとしたら、エリアデルやラスティにも同じことが起こるかもしれません。私にはそれだけが耐え難いのです」
 まっすぐに、先生を見つめる。先生は視線を逸らさない。
 私は、先生の判断に気付いている。そうして先生は、私が気付いていることを理解しただろう。
 それでも先生は、私の意思に屈することをしなかった。
「……明日、エリアデル・バーウィッチとサザラントには実験に協力してもらう」
 ああ!
 失意の声を呑み込んだのは、淑女としてのせめてもの矜持だ。
 予想は容易だった。私に起きたことが、精霊落としから生還した身であることに起因するなら、エリィとラスティの二人にも同じことが言える。そしてその二人は今夜、ここへやって来るのだ。私の身を案じて。
 研究者ならば、たった一度起きた出来事から結論を出すことなどしない。何度実験してもしすぎることはない。私以外の二人でも同じことが起きるのか。試さないはずがないのだ。
 耐え難い。
「先生。私はそれを認めるわけには参りません」
「情で行動を決めるのは学者のすることではない」
「人の情を無視してまで、何を究める必要がありましょう」
「……君が情でものを言うならば」
 先生はすっと目を細める。怒っているようには見えなかった。感情を読み取りづらい。けれど、そこにあるのはもしかすると憐憫の色なのかもしれない。
「先の精霊落としで失踪した青年には、婚約者がいた」
 がつんと。頭を殴られたような衝撃だった。
「本当なら、今月、結婚する予定だったそうだ。古くからの馴染みの相手だったらしく、互いの家族にも同意を得て婚約に至った。式はふたつの村人総出で行われ、それは華やかな日になっただろう。……既に、婚礼の日は過ぎている。新郎が消え失せた今、その女性が新婦として祝福を受けることはないだろう。
 分かるな、バーウィッチ。情というのはこういうものだ。君が知るもの、知らぬもの、この世のありとあらゆるものは別の何かへと繋がり、そこにそれぞれの感情が伴う。
 精霊落としの被害者は決して多くない。数年に一度、数人程度。例えその全容が永遠に解明されずとも、この世に暮らすほとんどの人々にとっては縁のない、どうでもいい話だ。
 ならば我々魔導士も、そのようなどうでもいい出来事からは手を引くべきだと、そう主張する者も少なくはない」
 先生はひたと私を見据える。
「君はどう思う、バーウィッチ」
 明言されずとも分かった。これは試験だ。
 オズ先生の研究室に所属するにあたって、試験の類はなかった。言葉ひとつで受け入れてもらった。
 だからこれが、初めての試験だ。
 私が先生に指導されるに値する学問の徒であるか、それとも己の感情のままに生きる子供であるか。試されている。
 二人を護りたい。護らなければならない。その思いは揺るがない。
 けれど私は、――だからこそ――決めたはずだ。
 魔力を失おうと、誰にどれだけ蔑まれようと、自分の力でことを成せる人間になるのだと。
 無理を言って座学ひとつで魔法学院に入学したのは、わがままを言うためではない。
 知らぬ間に強く握りしめていた手を開く。白くなったてのひらを見て、少し頭が冷えた。
「……二人の安全は保障していただけるのですね?」
「必ず、とは言えるはずもないが。ティニリッジ先生と相談の上、能う限りの対策は取る。
 心配するな。いざとなれば生徒の盾となる覚悟くらいはできている」
 当然のように言ってのけられては、それ以上を要求することなどできない。
「分かりました。恐らくですが、あの二人も拒否はしないでしょう。
 ……むしろ私の敵討ちとばかりに血気に逸りそうで困りますわ」
「かもしれんな。ひとまず君は休みなさい。明日どうするかは様子を見て決めよう」
「でしたら先生はどうぞお戻りください。私のせいで調査も途中になっていらっしゃるでしょう?」
「いや、わたしも今日は自分の部屋に詰めることにする。君を抱えて帰ったら、慣れないことをしたせいかひどくくたびれてしまった」
 …………抱えて?
 意識を失う間際の状態を思い出す。朦朧とはしていたけれど、倒れた体勢で抱きかかえられていたことは覚えている。
 あのまま、抱えて? 森からここまで? 先生が?
 顔がどんどん熱くなる。
「あの、ほ、本当なのですかっ?」
「さて」
 先生はそれ以上何も説明せず、さっさと部屋を出て行ってしまった。
 残されたのは茹った私ひとり。
 休めと言われた以上、大人しく休みますけれど。体はまだ怠さが残っていますけれど。
 そう簡単には寝付けそうにない。
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