ある平凡な姉の日常

本谷紺

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幕間 愛の日

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 春の二の月には、愛の日と呼ばれる祭日がある。
 家族や友人、恋人などの親しい相手に、日頃の感謝と愛情を込めた贈り物をする日だ。花だったり、アクセサリーだったり、何を贈るかは様々だけれど、最も一般的なのはお菓子の類だ。
 私も例に漏れず、この日のための準備は前夜までに済ませておいた。
 朝、まずは登校前に家族とラスティ、それから使用人たちに手作りのブラウニーを渡す。
 毎年のことながら、エリィは包みを掲げて膝からその場に崩れ落ちた。
「ああっ! お姉様手製のお菓子をいただけるだなんて! 私は何という幸せ者なのでしょう!
 永久に飾っておきたいくらいですのに、せっかくの美味を味わわないことなどできません! ああっ、私はどうすれば!」
「食べてちょうだいね」
 念のため釘を刺しておく。
 お菓子ひとつでこんなにも喜んでもらえるのは嬉しいには嬉しいけれど、せっかく焼いたのだから食べてもらわなければ。
 そんなに大げさにしなくても、望めばいつでも作るわよと以前言った際には、ラスティに止められた。
『エリィ様やオレをぶくぶくに太らせたいのでなければ、やめておいた方がいいです』
 ……というわけで、私が腕を振るう機会は今のところ、年に一度に制限されている。

 去年までは家の中で配る分がほとんどだったけれど、今年は渡したい相手が増えた。
 授業を終え、向かった先にはティニリッジ先生の研究室だ。
 ドアをノックすると、「どうぞ」と先生の返事。開けると中には先生の他に学生たちがいた。五人、研究室の生徒が全員揃っている。放課後は大抵みんな研究室に集まっていると聞いていたのは本当だった。
「あれ、リンジットさん、どうしたの」
「今日は『愛の日』ですので。皆様にはご迷惑もおかけしましたし、お詫びと言うには簡単なものですけれど」
 人数分の包みの入った袋を差し出せば、五人の学生たちは思いもよらない勢いで身を乗り出してきた。
「えっ、オレたちに?! いいの?!」
「なになに、お菓子?」
「全員分あるの!?」
「お前、押すなっ!」
「あー、君たち、あんまりはしゃぐなみっともない」
 騒がしい室内に、思わず笑みが零れてしまう。
 お詫びの気持ちは本当だけれど、彼らならばきっと喜んでくれるという目算があったことは否めない。
 長く親しくしてきた人たちにしかこの日の贈り物をしたことがなかったから、こうして新しい友人たちの反応を見ると新鮮な感動があった。
「早速お茶にしようか。リンジットさんも一緒にどう?」
「いえ、私は他にも行くところがありますので」
「そっか。じゃあまたの機会に」
 ありがとうの合唱を背に受けて、私は部屋を後にした。

 次の行き先はオズ先生のところ。
 今の私が一番お世話になっていて、最近では一番迷惑をかけた相手だ。当然渡さないはずがない。
「先生、私が焼いたブラウニーです。よければ召し上がってください」
 そう言って差し出すと――先生は険しい顔をした。
 怒っているというよりは、何か……苦いものを噛み潰した時のような。
「ご迷惑でしたでしょうか?」
「…………いいや。ありがたくいただく」
 そうは言うものの、私の手から包みを取る動作にも幾分かの迷いが見える。
「もしかして、ブラウニーはお嫌いでしたか?」
「…………甘いもの全般が」
「まあ」
 確かに、甘いものが苦手な人もいるとは聞く。好みを把握せずに全員に同じお菓子を配るというのは配慮が足りていなかった。
「それでは、無理に受け取っていただかなくとも」
「いや。貰ったものは食べる。それに、これを突き返せば君の妹が黙っているまい」
 それは、そうかもしれない。相手がオズ先生と言えど食って掛かるエリィが目に浮かぶ。
「召し上がっていただけるのは嬉しいですけれど、本当に、無理はなさらないでくださいね」
「ああ」
 ティニリッジ研究室の面々とは対照的に、とても喜んでいるとは言えない反応だ。
 どうせならもっと喜んでもらえるものを渡せばよかった。先生に愛の日の贈り物をするのは、今年が最初で最後なのに。
 後悔を抱えながら、私は次の場所へと向かった。

 ここが最後の目的地。白獅子会の会室の前で、私は一度呼吸を整える。
 順番を最後にしたのは、ここのドアを開けるのが一番緊張するからだ。
 ドアをノックする。「どうぞ」と知らない声が返ってくる。
 ドアを開けると、一斉に注目が集まるのを感じた。
「リンジット!」
 快活に私の名を呼び席から立つのはルーフレッド殿下。この部屋で、親し気に私を呼ぶのは彼一人だ。
「お邪魔してすみません。殿下にこれをお渡ししたくて」
「ありがとう、毎年楽しみにしているんだ」
 殿下には毎年お渡ししている。最初は婚約者から、というのが第一の理由ではあったけれど、婚約が破棄された今となっても親しい友人であることには変わりない。当たり前に殿下の分のブラウニーを用意したし、当たり前に受け取ってもらえた。
 ふと。殿下の肩越しに、ひとりの女子生徒と目が合った。
 小柄な少女だ。この部屋で机に向かっているということは白獅子会の一員のはずだけれど見覚えがない。新学年になってから会員も入れ替わっただろうから、新人なのだろう。一学年かもしれない。
 ぱっちりとした大きな目がこちらを凝視している。無視する理由もないので笑みを向けた。
「よければ召し上がりますか? 多めに作って来ましたの」
「ふぇっ!」
 声をかければ座ったままで飛び上がらんばかりに驚かれた。
「そうだな、ありがたくいただいて、後でみんなで食べようか」
 すかさず殿下が間に入る。ほとんどの生徒から距離を置かれている私と誰かの間を繋ぐことに関しては、殿下の右に出る人はいないだろう。
 では、と鞄に残っていた包みを全て手渡す。これで私の本日最大の仕事は完遂だ。
 部外者がいつまでも邪魔をするわけにはいかないのですぐに部屋を去ろうとするも、ちょっと待ってくれ、と殿下に止められた。
「来てもらったついでで何だけど、君にひとつ頼みたいことがあって」
「あら、私に?」
 珍しいことだ。
 殿下は人に指示を出したり命令を下すことはあれど、ものを頼むことはあまりない。本人が望まずとも、彼の「頼み」は効力が強すぎる。結果、命令という形にした方が都合が良いというのはいつだったかに聞いた本人の談である。
 そんな殿下が頼みたいことがあるというのであれば。いち友人として、無下にできるはずもない。
「私にできることであれば何なりと」
「ありがたい。
 来月、音楽祭があるだろう?」
「そうですわね、もうそんな時期ですわ」
 毎年、春の三の月に学院のホールで開催される音楽祭。
 学院の生徒が美しい音楽に親しむことを目的としている催しだ。一流の楽団を招いて演奏してもらうほか、有志の学生が持ち前の技術を披露するのも目玉のひとつ。楽器の演奏のみではなく、歌唱、過激、舞踏など、様々な舞台が楽しめる。
「それで、その音楽祭に、だね」
 言いにくそうに眉を下げて、殿下は言った。
「君に出てもらいたいんだ」
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