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1・逃亡_2
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「――こういうとこ、来たことあるの?」
「いや、初めてだけど」
普通のホテルではフロントの人間とどうしても顔を合わせることになる。ラブホテルでは最初から最後まで誰の顔も見ることなく過ごすことができる――という知識だけはあった。
受付がわりに部屋の写真とその下にボタンがついているパネルが入口に鎮座していた。空室はボタンが点灯しているらしい。時間のせいなのか、それとも今日が金曜日だからなのか、空いている部屋はひとつしかなかった。
「ここでいいか?」
「そこしか空いてないじゃん」
選択の余地がないのは事実だったが、勝手に決めることもしたくはなかった。点灯しているボタンを押す。パネルの右下から吐き出される受付時間と部屋番号が印字されたレシートを受け取り、幻想的な照明のエレベーターに乗って、その部屋を目指した。部屋の前のライトが点滅して客を誘っている。まさかこんな目的で使うことになるとは思わなかった――そう思いながら恭一がドアを開けると、普通のホテルでは考えられないほどに赤で彩られた空間が眼前に広がった。赤は興奮を煽る色だ。本来の目的を考えれば合理的なのだろう。
「……ていうかお金持ってんの?」
「出かけたそのままの格好で出てきたから、財布は持ってる。でも金下ろしたら足がつくか……でも一週間は何とかなるくらいはある」
「そう」
「とりあえず体洗って来いよ」
服はもうどうにもならないにしても、体についた血は洗い流した方がいい。天花は家の風呂よりもはるかに広いバスルームに向かいながら、顔だけ振り向いて笑みを浮かべた。
「本当に初めてなんだね」
「何だよ急に」
「部屋入るなり体洗えとか、恋人にやったらムードがないって怒られるやつだよ」
「この状況にムードも何もないだろ」
そう言う天花は経験があるのか、とは聞けなかった。恋人がいたような気配はないけれど、初めて来たにしては落ち着いている。まさか初めてではないのだろうか。けれど尋ねてしまったら藪蛇になるかもしれない。別に恋人のようなことがしたくてここに来たわけではないのだ。あくまで、ここなら誰とも顔を合わせなくて済むからだ。
バスルームからシャワーの音が聞こえ始める。一人取り残された恭一は、赤いシーツが張られたキングサイズのベッドに横たわった。落ち着かない色だが、睡眠のためのベッドではないから仕方ないのだろうと溜息を吐く。
冷静になってこの数時間に起きたことを思い返す。たまたま用事があって出掛けているときに事は起きた。家に帰った恭一の目に飛び込んできたのは、包丁を持って血まみれで立ち尽くす天花と、血の海に沈んだ父親だった死体と、燃え盛る炎だった。父親は母が死んだあとから酒に溺れ、時折暴力を振るうこともあった。殺したくなる理由はいくらでもあった。天花がやらなければいつか自分が同じことをしたかもしれない。そのくらいには苦痛だった。きっかけはあっただろうが、少しのことで引き金が引かれてしまうような状態だった。
理由はどうあれ、見つかれば天花は捕まってしまう。それなら逃げ続けるしかない。金と潜伏先を一刻も早く確保しなければ早晩に詰む。宛てがないなどとは言っていられない状況だった。
暫く考えを巡らせていると、バスルームから天花が出てきた。アメニティのバスローブを着ている。備え付けのボディーソープの薔薇の香りが微かに漂ってきた。
「お風呂の中に空気で膨らますベッドまであったんだけど」
本来はそういうことのために使う場所だ。至れり尽くせりだが、今の状況では何の役にも立たない。天花は恭一が腰掛けているベッドに横たわり、何か言いたげな目で恭一を見上げている。
「――聞かないの?」
「何をだよ」
「私が、何であいつを殺したのかって」
恭一は溜息を吐く。確かに気にはなるが、そもそも殺したい理由なら山ほどあっただろう。何故殺したのかという疑問は浮かんで来ない。天花が話したいなら話せばいいし、話したくないならそれでいい。
「殺される理由の方が多かったくらいだろ」
「まあ……そうかもね」
ずっと、いっそ急性アルコール中毒にでもなって早く死んでほしいとさえ思っていた。さっさと家を出てしまいたいとも思っていたけれど、それでも留まっていたのは、天花を父親のところに残しておくわけにはいかなかったからだ。こんなことになるのなら自分が殺しておけばよかったのかもしれないとさえ恭一は思っていた。
「……自分でも、何でこんなことになったのかわからない」
「天花……」
「捕まったら、どうなるんだろう」
殺されても仕方がないと思えるような男だった。けれど人を殺したことには変わりない。父親の死体を詳しく確認したわけではないけれど、何度も刺されたような痕があったのは見た。少なくとも明確な殺意があったことは否定できない。どれだけの罪になるのだろうか。何よりも、この世界は道を踏み外した人間には冷たい。そこにどんな理由があろうとも、一度ついた汚れは死ぬまで、いや死んでも尚まとわりついてくる。前に進んでも後ろに進んでも、どちらにしろもう、普通の方法では陽の光の下で生きられはしないだろう。
「捕まらないために逃げてきたんだよ」
あんな男のせいで、未来永劫罪を背負って生きるくらいなら、全てを捨ててしまった方がいい。
「どこか、俺たちのことなんて誰も知らない場所でなら、やり直せるかもしれない」
罪を犯した人間が何とか逃げおおせて、名前を変えて全く新しい生活を送っている、なんてこともこの世にはあるらしい。人を殺したという罪に一生付き纏われるくらいなら、あんな男のために一生を棒に振るくらいなら、逃げてしまった方がよほどいい。
「でも、兄さんまで私に付き合う必要はないよ。あいつを殺したのも、家に火をつけたのも私なんだから」
「ここにいる時点で、俺も殺人犯を匿ってる犯罪者だよ」
恭一の言葉を聞いた天花が起き上がる。気がつけばその顔が思っていたよりも近くにあった。
「共犯者になってくれるってこと?」
伸ばされた手が頬に触れる。いい加減な答えは許さないと言うような鋭い視線。けれど恭一もまた適当な気持ちでここにいるわけではなかった。
たとえこの道の先に破滅しかなくても、だ。
「裏切ったら許さないから」
天花のその言葉が甘く響いたのは、この異常な状況がそうさせていたのだろうか。唇に柔らかなものが触れる。それが天花の唇だと気が付いたときには、柔らかく暖かい舌に絡め取られていた。
「……どこで覚えたんだ」
笑みを浮かべる天花に、恭一は思わずそう溢していた。妹の生活に深く干渉するつもりはない。恋人がいたことがあるのならそれはそれで構わない。けれど己の身体を簡単に武器として使ってしまうその姿は、これまで見てきた妹の姿とは大きく違っていた。
「どこだと思う?」
煽るような言葉は、答える気がないということを如実に語っていた。恭一は少しの苛立ちをもって天花の肩を押した。ベッドの上とはいえ頭を打たないようにしながら押し倒してみると、天花は一度だけ瞬きをした。
天花の肢体を目の前にした恭一は、自分が靭葛に誘われる小さな生き物になってしまったかのように感じた。理性は警鐘を鳴らしているのに、甘い香りに誘われて堕ちていく。それに近付いてはならないとわかっているのに抗うことができない。
「――こういうとこ、来たことあるの?」
「いや、初めてだけど」
普通のホテルではフロントの人間とどうしても顔を合わせることになる。ラブホテルでは最初から最後まで誰の顔も見ることなく過ごすことができる――という知識だけはあった。
受付がわりに部屋の写真とその下にボタンがついているパネルが入口に鎮座していた。空室はボタンが点灯しているらしい。時間のせいなのか、それとも今日が金曜日だからなのか、空いている部屋はひとつしかなかった。
「ここでいいか?」
「そこしか空いてないじゃん」
選択の余地がないのは事実だったが、勝手に決めることもしたくはなかった。点灯しているボタンを押す。パネルの右下から吐き出される受付時間と部屋番号が印字されたレシートを受け取り、幻想的な照明のエレベーターに乗って、その部屋を目指した。部屋の前のライトが点滅して客を誘っている。まさかこんな目的で使うことになるとは思わなかった――そう思いながら恭一がドアを開けると、普通のホテルでは考えられないほどに赤で彩られた空間が眼前に広がった。赤は興奮を煽る色だ。本来の目的を考えれば合理的なのだろう。
「……ていうかお金持ってんの?」
「出かけたそのままの格好で出てきたから、財布は持ってる。でも金下ろしたら足がつくか……でも一週間は何とかなるくらいはある」
「そう」
「とりあえず体洗って来いよ」
服はもうどうにもならないにしても、体についた血は洗い流した方がいい。天花は家の風呂よりもはるかに広いバスルームに向かいながら、顔だけ振り向いて笑みを浮かべた。
「本当に初めてなんだね」
「何だよ急に」
「部屋入るなり体洗えとか、恋人にやったらムードがないって怒られるやつだよ」
「この状況にムードも何もないだろ」
そう言う天花は経験があるのか、とは聞けなかった。恋人がいたような気配はないけれど、初めて来たにしては落ち着いている。まさか初めてではないのだろうか。けれど尋ねてしまったら藪蛇になるかもしれない。別に恋人のようなことがしたくてここに来たわけではないのだ。あくまで、ここなら誰とも顔を合わせなくて済むからだ。
バスルームからシャワーの音が聞こえ始める。一人取り残された恭一は、赤いシーツが張られたキングサイズのベッドに横たわった。落ち着かない色だが、睡眠のためのベッドではないから仕方ないのだろうと溜息を吐く。
冷静になってこの数時間に起きたことを思い返す。たまたま用事があって出掛けているときに事は起きた。家に帰った恭一の目に飛び込んできたのは、包丁を持って血まみれで立ち尽くす天花と、血の海に沈んだ父親だった死体と、燃え盛る炎だった。父親は母が死んだあとから酒に溺れ、時折暴力を振るうこともあった。殺したくなる理由はいくらでもあった。天花がやらなければいつか自分が同じことをしたかもしれない。そのくらいには苦痛だった。きっかけはあっただろうが、少しのことで引き金が引かれてしまうような状態だった。
理由はどうあれ、見つかれば天花は捕まってしまう。それなら逃げ続けるしかない。金と潜伏先を一刻も早く確保しなければ早晩に詰む。宛てがないなどとは言っていられない状況だった。
暫く考えを巡らせていると、バスルームから天花が出てきた。アメニティのバスローブを着ている。備え付けのボディーソープの薔薇の香りが微かに漂ってきた。
「お風呂の中に空気で膨らますベッドまであったんだけど」
本来はそういうことのために使う場所だ。至れり尽くせりだが、今の状況では何の役にも立たない。天花は恭一が腰掛けているベッドに横たわり、何か言いたげな目で恭一を見上げている。
「――聞かないの?」
「何をだよ」
「私が、何であいつを殺したのかって」
恭一は溜息を吐く。確かに気にはなるが、そもそも殺したい理由なら山ほどあっただろう。何故殺したのかという疑問は浮かんで来ない。天花が話したいなら話せばいいし、話したくないならそれでいい。
「殺される理由の方が多かったくらいだろ」
「まあ……そうかもね」
ずっと、いっそ急性アルコール中毒にでもなって早く死んでほしいとさえ思っていた。さっさと家を出てしまいたいとも思っていたけれど、それでも留まっていたのは、天花を父親のところに残しておくわけにはいかなかったからだ。こんなことになるのなら自分が殺しておけばよかったのかもしれないとさえ恭一は思っていた。
「……自分でも、何でこんなことになったのかわからない」
「天花……」
「捕まったら、どうなるんだろう」
殺されても仕方がないと思えるような男だった。けれど人を殺したことには変わりない。父親の死体を詳しく確認したわけではないけれど、何度も刺されたような痕があったのは見た。少なくとも明確な殺意があったことは否定できない。どれだけの罪になるのだろうか。何よりも、この世界は道を踏み外した人間には冷たい。そこにどんな理由があろうとも、一度ついた汚れは死ぬまで、いや死んでも尚まとわりついてくる。前に進んでも後ろに進んでも、どちらにしろもう、普通の方法では陽の光の下で生きられはしないだろう。
「捕まらないために逃げてきたんだよ」
あんな男のせいで、未来永劫罪を背負って生きるくらいなら、全てを捨ててしまった方がいい。
「どこか、俺たちのことなんて誰も知らない場所でなら、やり直せるかもしれない」
罪を犯した人間が何とか逃げおおせて、名前を変えて全く新しい生活を送っている、なんてこともこの世にはあるらしい。人を殺したという罪に一生付き纏われるくらいなら、あんな男のために一生を棒に振るくらいなら、逃げてしまった方がよほどいい。
「でも、兄さんまで私に付き合う必要はないよ。あいつを殺したのも、家に火をつけたのも私なんだから」
「ここにいる時点で、俺も殺人犯を匿ってる犯罪者だよ」
恭一の言葉を聞いた天花が起き上がる。気がつけばその顔が思っていたよりも近くにあった。
「共犯者になってくれるってこと?」
伸ばされた手が頬に触れる。いい加減な答えは許さないと言うような鋭い視線。けれど恭一もまた適当な気持ちでここにいるわけではなかった。
たとえこの道の先に破滅しかなくても、だ。
「裏切ったら許さないから」
天花のその言葉が甘く響いたのは、この異常な状況がそうさせていたのだろうか。唇に柔らかなものが触れる。それが天花の唇だと気が付いたときには、柔らかく暖かい舌に絡め取られていた。
「……どこで覚えたんだ」
笑みを浮かべる天花に、恭一は思わずそう溢していた。妹の生活に深く干渉するつもりはない。恋人がいたことがあるのならそれはそれで構わない。けれど己の身体を簡単に武器として使ってしまうその姿は、これまで見てきた妹の姿とは大きく違っていた。
「どこだと思う?」
煽るような言葉は、答える気がないということを如実に語っていた。恭一は少しの苛立ちをもって天花の肩を押した。ベッドの上とはいえ頭を打たないようにしながら押し倒してみると、天花は一度だけ瞬きをした。
天花の肢体を目の前にした恭一は、自分が靭葛に誘われる小さな生き物になってしまったかのように感じた。理性は警鐘を鳴らしているのに、甘い香りに誘われて堕ちていく。それに近付いてはならないとわかっているのに抗うことができない。
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