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22・決意

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 和紗は今日は部活に行ってから帰ると言っていた。部活動ができるということは体調が安定しているということだ。けれどやはり和紗のことは気がかりだった。何が起きてもおかしくはない。新垣も手探りの状態で治療を進めている。治療に使っている薬にも副作用がないわけではないから、注意しなければならないと言っていた。
 美術室で絵を描いていた稔は、鉛筆を置いて溜息を吐いた。集中しようと思っても心配になってしまって、窓から外ばかりを眺めてしまう。美術室からはちょうど馬場が見える。窓に近づいてそちらを見ると、栗毛の美しい馬に乗って、ゆったりと馬場を駆けている和紗の姿が見えた。久しぶりの部活動だからか、無理をしないメニューにしているようだ。それには素直に安堵する。馬上の和紗の顔はさすがに遠すぎてよく見えないが、馬と一体になっている姿はそれだけで絵になると思った。
 和紗は部活が続けられるかどうかをかなり気にしているようだった。それだけ馬に乗るのが好きなのだろう。その中でも特に扱いが難しいと言われているクリスティーヌに執心しているように見える。クリスティーヌの姿を一目見たときからどうしても乗りたかったのだ、と言っていた姿を思い出す。

(部活は続けられそうでよかったけど……)

 もう和紗の体は元には戻らない。それはあまりにも絶望的な宣告だった。だからといってどうすることもできない。後悔しても何かが変わるわけではない。稔は真っ白なままのクロッキー帳を片付け始めた。このまま白い紙に向き合っていても捗るわけがない。今日は璃子は塾があるからと先に帰ってしまったし、和紗が終わるのを待って一緒に帰ろうと決め、美術室を後にした。

 上から見るとそれほど離れているようには見えないが、実際に歩いてみると校舎から馬場までの距離はそれなりにある。稔がそこに到着した頃にはほとんど部員が片付けや馬房の掃除までを終え、帰ろうとしているところだった。けれど和紗はいつも最後まで残っている。クリスティーヌの鞍上にいるためにはそれだけの努力が必要だったのだ。和紗の場合はそれを努力だとは思っていない面もあるが。
 稔は馬房から少し離れたところに腰掛けて、和紗が出てくるのを待つことにした。中で誰かが何かをしているのは音でわかる。自分が顔を出して、和紗の大切な時間を邪魔したくはなかったのだ。しばらくすると、部員たちが帰ってしまって静かになった馬房から、和紗の澄んだ声が聞こえてくる。

「これでいいね。綺麗になったよ」

 どうやらクリスティーヌの体を洗ってやっていたらしい。それはとても大切な仕事なのだと以前和紗が言っていた。馬との信頼関係を築くためにも、馬の些細な変化を見逃さないようにするためにも、そのときは気を抜いてはならないという。体を洗い終わったということはもう少ししたら帰るつもりだろう。稔はそのまま和紗が出てくるのを待っていた。

「こんなこと、クリスティーヌに言ってもどうしようもないのはわかってるんだけど」

 不意に和紗がそう言った。その声に影を感じて、稔は身を固くする。
 
「元に戻らないんだってさ、私の体――」

 和紗はそれを告げられたときも、一人落ち着いているように見えた。けれど平気であるはずはなかったのだ。母親は泣いていたし、父も動揺するような事態だ。でもそれを今まで誰にも言わなかった。相棒と呼べる馬に対してだからこそ言えるのだろうか。だとしたらそれを自分が聞いているという状況はあまりいいことではない。稔はその場を離れようとしたが、なぜか体が動かなかった。

「別に病気ってわけでもないし、薬を飲めば体調は安定するし、ドーピング検査で問題になる成分でもないから、これまで通りの生活はできなくはないみたいだけど」

 部活が続けられるかどうかは和紗が一番気にしていることだった。薬を常飲しなければならないと聞いたとき、和紗は真っ先にドーピング検査で問題になる成分が含まれているかどうかを尋ねていた。両親も稔も、そんなことよりも気にすべきことはあるのではないかと思ったけれど、和紗にとってはそれが何よりも重要なことだったのだ。

「それでも、自分だけが……っていうのはどうしてもあるんだ」

 稔は和紗の言葉を聞きながら唇を噛む。稔や璃子、そして巻き込んでしまった女子生徒たちの体は元に戻せると聞いて、和紗は安堵の表情を浮かべていた。自分だけが取り残されると言うことはしっかりと認識していて、それでも他人のことを気に病んでいたのだ。
 自分だったらどうだろうか。稔は俯いたまま考える。どれだけ繕っても、和紗のようには振る舞えないだろう。璃子ならできるかもしれない。けれど璃子の場合はそれが正しいことだから実行できるのだ。和紗は違う。和紗はそれが間違っていたとしても、優しさからそう振る舞ってしまうのだろう。

「これからどうなるかもわからないし、このまま一生薬を飲み続けなきゃいけないのかもまだわからない。それさえあればみんなとほとんど変わらない状態だって言われても、私がみんなと違うものになってしまったって事実は変えられない」

 和紗は優しすぎて身を滅ぼす類の人間なのだろう。普段ならいい方に働くものが、今は和紗自身を追い込んでいる。もっと嘆いても、泣き叫んでも、他人に八つ当たりしても許されるだろうに。どうして自分だけが、と呪詛の言葉を吐いても、誰も和紗を責めたりはしないだろうに。
 和紗のためにできることは何もないのだろうか。このまま新垣に治療を任せて、それでいいのだろうか。新垣は専門家だし、素人の稔には何もできないということはわかっている。しかし自分の孤独を馬にしか打ち明けられない妹に手を差し伸べることができなくて、何が兄だろうか。

「だからどうするって話でもないんだけどね。もしかしたらいい方法が見つかるかもしれないし」

 未来を信じる言葉は、きっと自分に言い聞かせているのだろう。稔は拳を強く握り締めた。和紗の声がわずかに震えていることもわかっていた。

「それでも――……」

 心に思い浮かんだ方法は、きっと限りなく間違っている。誰も幸せにならないかもしれない。それでもこのまま和紗だけを置いていくわけにはいかないと稔は思った。心を決めるなら今しかない。

「安心するよ。君はいつだって君だね」

 和紗がクリスティーヌに対して言う。その声は先程までよりは幾分か明るかった。クリスティーヌの我関せずな態度は、今の和紗にとっては心地いいものなのかもしれない。誰もがこの事態に動揺している。そのなかで唯一変わらなかったもの。それが希望と呼ばれるものによく似ていることに稔も気がついていた。

「明日も体調がよければまた来るよ。おやすみ、クリスティーヌ」

 和紗が動き出した気配がした。稔は咄嗟に、今し方ここに来たという風を装って馬房に向かって歩き出した。聞いてたということを和紗に知られてはならないと思った。和紗が稔に気がついて、少しだけ目を丸くする。

「どうしたの、お兄?」
「ちょうど区切りがついたから、一緒に帰ろうかと思って」
「あ、そうか。璃子ちゃんは塾の日だもんね」

 和紗は稔が吐いた小さな嘘を信じてくれたようだった。稔はさりげなさを装って和紗に尋ねる。

「部活、どうだった?」
「今日は久しぶりだったから、ちょっと走っただけだよ。でもやっぱり馬に乗るのは気持ちいいね。お兄も今度乗ってみる?」
「前も誘ってくれたけど、ちょっと怖いんだよな……」
「大丈夫だよ。学園の馬は人を振り落とすようなのはいないし。クリスティーヌはまあ……ちょっと気難しいけどね。でもクリスティーヌも別にやる気を出さないだけで、ちゃんと乗せてはくれるから」

 単純に馬に乗ると高いから怖い、というのは和紗にはあまり伝わっていないようだ。クリスティーヌ以外の馬のことも和紗はよく把握している。それぞれの馬についての解説を聞きながら、稔は先程頭に浮かんだことを実行すべきかどうか悩んでいた。

「お兄の方はどうなの? 捗ってる?」
「全然。まだ題材も決められてなくて」
「そっかぁ……あ、馬にしてみる? 馬の筋肉とか美しいと思うんだけど」
「まあそれも悪くはないかな……。どうしてもいいのが浮かばなかったら、採用するかも」
「そのときは私に言ってくれれば、モデル向きの子を紹介するよ」

 クリスティーヌは綺麗な馬だが、和紗以外の人間の前では不機嫌を丸出しにすることもあるので、モデルには向いていないかもしれない。和紗は本気でどの馬を紹介すればいいかを考えているようだった。馬の話をしている和紗は本当に楽しそうだ。今の姿だけを見ていると、さっき聞いた言葉を忘れてしまいそうになる。
 馬が好きなのは本当だろう。しかし、稔に心配をかけないようにと明るく振る舞っているのも事実なのだ。

 稔は考えていた。和紗に言ったところで、和紗は稔の考えを喜びはしないだろう。それどころか誰に言っても反対されるのはわかっている。その中で実行しても、所詮は自己満足でしかない。それでも同じ立場に立たなければ差し伸べられない手もあるはずだ。

「お兄? どうしたの?」
「いや……ちょっと考え事」

 稔は歩きながら、自分の考えをどうやって実行するかを考えていた。当然、新垣の協力がなければ不可能なことだ。そして璃子に無断でやるわけにもいかない。まずはその二人と話をするのが先決だ。

***

 数日後、稔は璃子とともに新垣の自宅を訪問していた。当然そこには拓海もいて、稔たちの前にコーヒーカップを置いた。璃子は緊張した面持ちでコーヒーを一口だけ飲み、そっとソーサーに戻す。稔はコーヒーを半分ほど飲んでから、ゆっくりと話を切り出した。

「一昨日メールした件なんですけど」
「結論から言えば、稔くんが言っていることは不可能ではない。けれど私は反対だよ」

 その反応は予想の範疇だった。誰でも反対するだろう。稔が新垣に相談したことを一言で言い表すなら、「治療の放棄」なのだから。

「不可能ではないってことは、やっぱりこのまま何もしないでいれば、俺の体も生殖能力を取り戻すってことですよね?」
「そういうことになる。そうなる時期を早めることもできるが、黙っていてもそのままにしていればいずれ生殖能力が戻る。そして、そこまで体が変化してしまった場合、今のところ元に戻す方法はない」

 稔や璃子も、何もしないでいれば和紗と同じ状態になるのだ。変異した体を持つ人間が和紗だけではなくなる。それが稔の考えていたことだった。和紗を孤独にはしたくない。それなら自分が同じ立場になる。しかしその考えに賛成する人などいないことは重々承知だった。

「危険だよ。そもそも男性での成功例はまだないはずだ。君の体にどんなことが起きるのか、正直予想できないんだ」
「それでも、このままにしてはおけないんです」

 和紗は自分の本当の苦しみを誰にも見せていない。思いを吐露できた相手は馬だけだった。言ったところでどうしようもないと、和紗自身もわかっているのだろう。自分が苦しんでいる姿を見せることで、両親や稔に心配をかけたくないとも思っているのだろう。それは和紗の優しさだ。でも、その優しさで自分の心が壊れてしまうようなことはあってはならない。

「稔はさぁ、和紗ちゃんを救いたいとか……そういうことを思っちゃってるわけ?」

 拓海が稔の肩を抱きながら尋ねる。拓海が何を言いたいかは概ね察することができた。けれど違うのだ。和紗を一人にしたくないという気持ちは、決して彼女を救いたいという気持ちとイコールではない。

「これは俺の自己満足で、わがままでしかない。和紗が喜ばないこともわかっているし、救いたいなんて……俺が言うのはおこがましいだろ」
「それなのに治療を放棄するってのは、何か矛盾してないか?」
「和紗と同じでありたいだけだ。でも、誰にも賛成されないことくらいわかってたよ」

 稔が逆の立場なら、当然反対する。でもこの決意を曲げたくはなかった。

「――それなら、私もこのままでいる」

 璃子が言った瞬間、部屋の中に沈黙が広がった。稔はその言葉を頭の中で処理できなかった。それは璃子が言うはずないと思っていたものだったからだ。璃子はいつも正しい道を選ぶ。これほどまでに間違った道を自分から選ぶことなどないはずなのだ。

「いやいや、璃子ちゃん……稔も、もう少し冷静になって考えようぜ? 親父も言ってるけど、何が起こるかわからないんだ。リスクに対してリターンが少なすぎるだろ」

 慌てたように拓海が言う。拓海の反応ももっともだ。自分の体を危険にさらしても、得られるものはほとんど何もないと言える。しかし璃子は真っ直ぐな目をしたままで答えた。

「すごくわがままかもしれないけれど、仮に稔がこのままでいるのなら、私も稔と同じでいたいの。だって稔と和紗ちゃんは血も繋がってて、そのうえ体も同じ状態になって……私はその中に入り込めない気がするから」
「璃子……」
「それに、稔となら正直……できてもいいって思うし」

 璃子の言葉を聞いて、拓海が溜息を吐いた。

「言いたいことはわかるんだけどさぁ……リスクを負うのは二人なんだぜ? しかも必要のないリスクなんだよ。正直、璃子ちゃんがそんなこと言うのは意外というか……」

 それは稔も同じ意見だった。この道は正しいとは言えないのに、璃子は進みたいと言う。璃子は自分の膝に視線を落として言った。

「色々、考えたの。あのときどうして和紗ちゃんが私にあんなことをしたのかとか……私は、知りもしないで和紗ちゃんを責めるようなことを言ってしまった。それが正しいと思っていたから。でも……私が信じていたことが、本当に正しいのかがわからなくなってきたの。私たちは最初から選択肢を奪われているのよ。昔の人は捨てることを選んだのかもしれないけれど、私たちは生まれた瞬間に捨てることを決められている。そこに私たちの意思なんて存在しない」
「言っとくけど、後からやっぱりやめますっていうのは出来ないんだぜ?」
「――それでも、私は失いたくないものを得てしまったのよ」

 拓海が稔の方をちらりと見た。はっきりとは言っていないが、璃子と稔が性行為をしたということはこれで伝わってしまっただろう。望んでその状況になったとは言えない。けれど幸せだったことは覚えている。その心だけではなく体も愛して、二つのものが一つに溶け合うような瞬間。元の体に戻れば、その喜びはきっと失われるのだろう。

「二人がどうしてもって言うなら、俺に止める権利はないけどさ……これは、和紗ちゃんも含めて、もうちょっと話し合うべきなんじゃないのか?」

 拓海が言う。稔と璃子は顔を見合わせてから、ゆっくりと頷いた。
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