五芒星と避雷針

深山瀬怜

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第一部

6 カリグラとテレイドスコープ

 勾玉の状態を確認するために、定期的に事務所に来て欲しいと玖堂は言っていた。しかしあの日以来、ユキチの足が玖堂の事務所に向かうことはなかった。勾玉の色は綺麗なままだし、体調も悪くない。それ以上に、あの日に見た光景がどうしても恐ろしかった。
(行かなきゃ駄目なのは、わかってるんだけど)
 最近、体調は悪くないがどうもおかしいこともある。それを玖堂に確認するべきだと思う。それなのにどうしても玖堂に会う気にならなかった。それどころか今日は行くと伝えていたのにすっぽかしてしまった。
(僕……こんなこと、したことなかったのに)
 これまで、何も言わずに会う約束をすっぽかしたことはない。行かなければならないのに、行こうとすればするほど嫌になる。いや、それは少し違う。約束を破るなんて行けないことだと思えば思うほど、破ってしまいたくなるのだ。
 最近おかしいと感じるのは、そういう自分の心の動きだった。
 駄目と言われたらやりたくなる。それ自体はカリギュラ効果と名前までついているらしい。けれどその頻度があまりに高かった。自分が悪い子になってしまったようで、ユキチの心は塞いでいく一方だった。
 海を見ながら何度目かの溜息を吐いたそのときだった。
「約束すっぽかして黄昏れてるとは、ちょっと青春には早すぎるんじゃないか?」
「く……玖堂さん……!?」
 どうしてこんなところに。その言葉をユキチは呑み込んだ。約束を破ったことを怒られるかも知れないと体を固くする。しかし玖堂はユキチから少しだけ離れたところに腰を下ろした。
「来るって言っておいてこないから、その辺探し回ったぞ。俺じゃなくて泪泪が、だけどな」
「ごめんなさい。僕……」
 玖堂は静かに煙草に火をつけた。その煙がゆっくりと流れていく。しばらくは波の音と、海鳥の声だけがその場に響いていた。
「――俺が怖いか?」
 その短い問いに、ユキチは答えられなかった。
 玖堂のことが怖いのか。あの日のあの光景は確かに怖かった。今、玖堂を見ているとどうしてもそれを思い出してしまう。そのくたびれたスーツの下に隠されている刺青も見てしまった。けれど、改めて玖堂のことが怖いかと聞かれると、それだけではないことに気がついてしまうのだった。
「あの日、見てただろ」
「……ごめんなさい。来るなって言われたのに」
「子供に見せるようなもんじゃねえからっていう理由もちゃんと説明したのに見たのはお前だ。だから見てしまったこと自体はお前の責任だ。俺はあのときの行動に関してはあれが俺の出来る最善だったと思ってるし、もう一度あの状況になっても同じ事をやる。……俺はそういう人間なんだ」
 玖堂の言葉に迷いはなかった。ユキチの目には余りに陰惨に映ったが、確かに呪いは解けた。玖堂は玖堂のやり方で、自分の仕事を全うしたのだ。
「その上で、俺のやり方が怖いっていうのもわかる。だからお前が望むなら、他の、もっと穏便な方法を取れる民警に任せることも出来る。だけど代わりの人間が用意できるまでの間は、少し我慢してくれないか」
「玖堂さん、僕は――」
「俺の手を離れて、代わりの人間が見つかるまでの間に、お前に何かが起こるのが一番怖い。もちろんその勾玉の力は本物だが、過信できるものではない。纓羅の例もあるしな。なるべく早く代わりの人間は見つけるから」
 その口調は静かだが、どこか焦っているようだった。わからなかった。この人はどうして自分のためにそんなに必死になるのだろう。彼が民警であるということを差し置いても、出会ったばかりで、まだそこまで深い関係性が出来ているわけではないのだ。
「……どうして、僕なんかのためにそんなに必死になってるんですか?」
「『僕なんか』か。そういうのはできるだけやめておいた方がいい。……自己卑下する奴には、それにつけこもうとする奴が寄ってくる」
 玖堂はそこでいったん言葉を切った。煙草の先の赤い光と緑の瞳が少し翳りを帯びたような気がする。
「……必死になるのは俺が民警だからっていうのと……お前が、昔の俺に似てるからだ」
「え?」
「お前と同じで、霊力垂れ流し体質だったんだよ。今は自分で制御してるけどな。この時代に、先祖返りもいいとこの霊力垂れ流し体質の子供が生まれて――ガキの頃は、その体質のせいで何度か死にかけた。ちゃんと自分で術が使えるようになるまで、ずっと怯えて暮らしていた。俺の場合は、叔父が霊の類は見えないけど、ある程度力はあって、気合いでぶっ飛ばしてくれたりとかはしていたけどな……でも、何度も何度も叔父に対処してもらうのが申し訳なくなって、叔父を避けていた時期があった」
 その叔父の話はあと急な大雨のときにも少し聞いた。玖堂は遠くの水平線に目をやってから話を続ける。
「それで……俺は、最悪なことに、自分で対処しきれないことまで抱え込んだ。叔父は祓えるけど見えはしないからしばらくそれに気付かなくて、何かがおかしいと叔父が思ったときには手遅れだった。叔父が無理やり祓おうとしたときにはほぼ手がつけられない状態で、それでも気合いで何とかしたけど……結局俺も叔父も死にかけた。まあ何とか回復したけどな」
 玖堂は少し笑う。
「……お前が俺を怖がるのは無理もないが、怖がるあまり一人で抱え込む事態は避けたい。俺は仕事はきっちりやるから、少なくともそれは信じてほしい」
 わかっていた。玖堂は自分に無理強いしてきたことはない。そもそも他の人に任せるということは最初からずっと言われていた。
「玖堂さん……あの、実は僕……」
 玖堂がユキチの顔をじっと見る。その緑色の瞳には底知れない光があって、ユキチは少し緊張した。
「……何かいるな。話してみろ」
「え、えっと……気のせいかもしれないんですけど、この前、玖堂さんの事務所に行っちゃいけないって言われた前の日からおかしくて……やっちゃいけないって言われたり思ったことほどやりたくなって……今日も、約束を破るなんてやっちゃいけないと思ったのに」
「そういうことか。あの前日、何をしたか、どこに行ったか覚えてるか?」
「えっと……朝は家にいて、朝ごはんを食べて、テレビを見て、早めにお昼を食べて、お兄ちゃんに面会しに行って、まっすぐ家に帰って、宿題やって、ゲームやってからご飯食べて、お風呂に入って、寝た……と思います」
「……それなら十中八九、少年院から連れて来てるな」
 ユキチは首を傾げる。玖堂には何かがわかっているようだが、ユキチにはわからなかった。
「『魔が差した』って言葉、聞いたことあるだろ? 犯罪の理由の定番だ」
「聞いたことはありますけど……」
「あれはな、本当に起きうることなんだよ。こっそり人に取り憑いて、そいつがやっちゃいけないと思ってることをやらせる。カリギュラ効果から『カリグラ』と呼ばれているが、まあ名前は何でもいい。少年院なんてカリグラの巣窟みたいなもんだからな。だけど……少し妙だな」
「妙って?」
「直近でくっつけて来ただけにしては奥に入り込み過ぎてるし、カリグラは纓羅みたいに悪知恵が働く奴でもない。その勾玉の守護を掻い潜れるとは思えなくてな。兄貴に会いに行ったときに、何か変わったことはあったか?」
「変わったこと……?」
 ユキチはその日のことを思い起こす。通常通りに面会に行って、案内されるままに面会室に入って、近況を話すなどした。それはいつもと変わらない。
「いつもと変わらなかった気がするんですよね。お兄ちが万華鏡の話をすごく沢山してくれて……あんまり喋らないタイプだから、それはちょっと珍しいなと思って。あと……あ、面会が終わった後に教誨師さんに会いました。少し話をして……この人が万華鏡の人なんだなって思って、あとそれからテレイドスコープっていうのを見せてもらって」
「テレイドスコープ……って何だ?」
「普通の万華鏡じゃなくて、景色を見るやつなんですけど……」
 玖堂は持っていたスマホでそれを調べているようだった。
「実際に触ったことはほぼないが、何となくイメージはついた。そのテレイドスコープをのぞいて……それで終わりか?」
「はい。お礼を言って別れて、僕は家に帰りました」
「……大体わかった。目的はわからんが……とりあえず先に対処するか」
 玖堂が言う。対処、と言われてユキチはわずかに身を硬くした。玖堂はそれに気付いて自嘲的に笑う。
「あんなに手荒にはしねえよ。その必要がないからな」
「それは……必要だったらやるってことですか?」
「……方法を選んでられないときは、そうなる」
 玖堂は少なくとも誠実な人ではあるのだろう。けれど怖いという気持ちは拭えなかった。ここで嫌だと言ったら玖堂はどうするのだろうか。
 ――言ってしまえ、という声が響く。
「嫌、です」
「……そうか。それなら無理強いはできない。出来るだけ早めに対処できる人間を探す。まあカリグラだけならすぐに見つかるだろうしな」
 玖堂の言葉は淡々としていた。その「物分かりの良さ」が、かえってユキチの胸を締め付ける。
 本当にこれでよかったのか。玖堂はこの短い期間で何度もユキチを助けてくれた。その人をこんな風に拒絶してしまっていいのか。
「あ……」
 心の中にいる何かが、「いい気味だ」と嘲笑っている。けれど、その奥にあるユキチ自身の本当の心は、泣き出しそうなほど心細かった。
 玖堂は立ち上がり、砂を払うと、タバコを携帯灰皿の中に捨てた。
「ただ、その勾玉はつけておけ。それがあったら大事には至らないはずだ」
 ユキチは、必死に声を絞り出そうとした。けれど、口を開こうとするたびに、あの「嫌だ」という拒絶の感覚が喉を塞ぐ。
 けれどこのままでは、本当に何もかもが終わってしまうような気がした。
「玖堂、さん……っ!」
 ユキチは震える足で一歩、踏み出した。
「待って、ください! 僕……本当は、嫌じゃないんです! 怖いけど、でも……玖堂さんのことは、信じられるから……!」
 叫んだ瞬間、体の中で何かが割れるような音がした。
 玖堂はゆっくりと振り返ると、驚いたように目を見開いているユキチを、射抜くような緑の瞳で見つめ返す。
「……そうか。それなら遠慮なく」
 玖堂の口元に不敵な笑みが浮かぶ。その緑の瞳と目が合った瞬間、ユキチの体の自由が奪われた。
「舞台は整えた。あとはお前が自分の中にある異物を追い出すことをイメージしろ」
 声も出せないほどだが、痛みはない。ユキチは言われた通りに想像した。体の中にある何か黒いもの。それが体から抜け出していくイメージだ。
 玖堂が印を結ぶ。同時に、ユキチから抜け出した黒いものが、透明な箱のようなものに囚われた。玖堂はその箱を手に取ってポケットにしまう。動けるようになったユキチは戸惑いながら玖堂に尋ねた。
「えっと……終わったんですか?」
「とりあえずお前の中からは抜けた。生け捕りにして封印したから調査はこっちでやる」
「生け捕りって……」
「まあ、それに関してはこっちの話だ」
 玖堂が笑う。ユキチの体も心なしか軽くなったような気がした。けれどカリグラが抜けた今だからこそ、玖堂にきちんと伝えなければならないことがある。
「この前……来るなって言われたのに勝手に行っちゃって、しかもそのせいで勝手に怖がって……すみませんでした」
「怖がられること自体はな……逆に俺みたいなのに子供がホイホイ寄ってくるのも問題だろ。こちとら銭湯行けない体なんだぜ?」
「あ……あの刺青、その……ヤのつく自由業とかではないんですよね?」
「どこで覚えたんだその言い回し……。反社とは関わりないからそこは安心してくれ。この刺青は……能力を安定させるために必要だったんだ。陰陽五行説とか色々あるんだけど……聞くか?」
「結構ややこしいやつですか?」
「ちゃんとやろうと思えばな。まあ漢方に詳しい奴とかも使ってて、それこそネットで探せばいくらでも説明が出てくる。要するに物事のバランスの問題だ。常にそれを保つために、体に刻む方が早かったって話だ」
 玖堂は小さく笑って歩き始めた。ユキチは慌ててそれを追いかける。
「あの、玖堂さん」
「何だ?」
「……また、玖堂さんの事務所に行ってもいいですか?」
「むしろ来てもらわないと困るんだけどな。毎回式神に大捜索させる気か?」
「いや、そういうのではなくて」
「……わかってるよ」
 玖堂は苦笑しながら帰っていった。海から徐々に離れていく背中を見つめながら、ユキチは久しぶりに静かで穏やかな気持ちを味わっていた。

***

「……何考えてやがる」
 事務所に戻った玖堂は、泪泪の手の中にある透明な箱を見ながら呟いた。先程ユキチから引き剥がしたカリグラだ。現在、泪泪の手によって解析をかけられている。
「これ自体は普通のカリグラですね」
「やっぱりそうか。カリグラ自体は大した怪異じゃない。だが――」
「取り憑いた時期を考えれば、深く入り込みすぎていた。あの勾玉の守護を破ったのも妙です」
「そこなんだよな……」
 玖堂は机を爪でトントンと叩いた。やはりあの教誨師には何かある。しかし目的がわからない。最初に蒼吉の話を聞いたときは、強引な方法でも罪を犯した人間を善い方向に導こうとしている人物なのだろうと推測していた。しかしそう考えるとユキチに対しての行動が説明できない。
「テレイドスコープも万華鏡も、鏡を使って、それを覗き込むものだ。術式は組みやすい。精神に作用する術式で、内側から勾玉の守護を破ったんだろうな。あれは外側からの異物に対しては強いが、内側からのものには弱い」
「私の見立ても同じです」
「あいつの兄貴には面会するとして……その教誨師はどうするかな。正体がわかるまで手を出すのは危ない」
 目的が更生にあるのであれば、行き過ぎた行為だとしても様子見していてもいい相手だと思っていた。しかしどうやらそれは甘い考えだったらしい。
「まるで人間で実験してるみたいだ。不良の心は美しく作り替えて、素直な子供の心には魔を巣食わせる。でも……そんな術を使える奴なら、あの勾玉のことには気付くだろう。ユキチに仕掛けたところで、こうやってすぐに引き剥がされるとは考えなかったのか? いや、あえて自分の存在を俺に気付かせたかったか?」
「このカリグラからはそこまでの意図は読み取れませんでした」
「だろうな」
「ただ……ユキチ様の右目の周辺に異質な力の残滓が見られました」
 それは玖堂には読み取れなかった。おそらくわかるのは泪泪くらいのものだ。
「異質な力か」
「魔力、霊力、呪力、聖法力のどれとも違っているように感じられました。残っていたのが微量なので、正確にはわかりませんでしたが」
 右目に残っていたのは、右目でテレイドスコープをのぞいたからだろう。しかし泪泪の言葉が引っかかった。
「だいたいその四つに分類されるはずだろ。魔力は種族によって質が違うから、珍しい種族だったら確かに異質な力に感じられるだろうけど」
 人間と共生している人とほとんど姿の変わらない怪異たちの魔力は、種族が違っても根本のところは大きく変わらない。しかし悪魔や天使となると話は変わってくる。
「相手が人間じゃない可能性も考えないといけないってことか」
 人間に使える力は、だいたいその四つに分類される。そこから外れる力の持ち主となると、正面からぶつかった場合は勝てる可能性が限りなく低い。玖堂の使う力はあくまで人間が突き詰めた道の延長線上にあるものだ。神仏の力を借りるにも限界がある。
「いずれにしても、あいつの兄貴に会わないと話は始まらないってことだな」
「そうですね。これはどうします?」
「そいつはまあ……その辺に放り出しておけ」
 人に取り憑いて、やってはいけないと思うことをやらせてしまう怪異だが、その禁忌はダイエット中に甘い物を食べてしまう程度のことで終始する場合の方が多い。あまりに悪い影響が出ていたり、内部に入り込みすぎている場合は祓うことになるが、基本的にむやみに怪異を祓うことはしたくなかった。
 泪泪は頷き、カリグラを窓から文字通りに放り出した。この高さから落とされても怪我をするような怪異ではないから、あとは放っておけばいいだろう。念のためにしばらく行動を監視するための印はつけておいたが、特に害がなさそうであればそれもあとで剥がすつもりだ。
 玖堂は椅子の背もたれに体を預けて溜息を吐いた。泪泪が気遣わしげな視線――といっても彼女の目は布で隠されているのだが――を向けてくる。
「そろそろお休みになった方が」
「……そうだな。少し目がかすんできた」
 泪泪が隠形する。玖堂は事務所を簡単に片付けると、部屋に鍵をかけて、隣にある自室に戻った。
 今日は少し休めば元に戻る程度だが、目の力を使いすぎると視界に異常が出る。本来この瞳術にはそんな副作用はないが、子供の頃に取り憑かれた怪異を放置していたせいで死にかけ、後遺症が残ってしまったのだ。視力がなくなるわけではなく、目に映る世界から色が消える。何も見えなくなるわけではないから気付かれにくいが、地味に不便な状態に陥ることも多かった。いざとなれば泪泪の千里眼を一時的に借りるという方法もあるが、千里眼は逆に何もかもが見えすぎてしまうので、それはそれで扱いに困るのだ。
 玖堂はベッドに横たわり、天井を見上げる。子供の頃、叔父に遠慮して言い出せなかったくせに、気付いて欲しいと思っていた自分のことを思い出す。その結果がこれなのだ。ユキチに同じ苦しみを味わって欲しくない。それはあくまで玖堂の個人的な、勝手な感情だ。けれどそれが伝わっていて欲しいと思ったのだった。
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