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第一部
8 廃墟と鏡
「最初は心配してたけど、案外仕事もあるもんだな……」
廃墟のビルの中に怪異たちがたむろしているため解体工事ができないというのがその内容だった。怪異たちが人間の世界に溶け込んでいるといっても、それは人間と同じように戸籍を登録した存在だけだ。そこまでの知能を持たない怪異たちなどは人間が使っていない建物を勝手に借りて生活していたりする。
こういうときは穏便に交渉して、別な場所などに移動してもらうのが一番いい。人間でも道路建設のために立退をしてもらう場合はそうするだろう。拒絶して攻撃してくるようなら戦闘になってしまうが、なるべくならそうならないように終わらせたかった。
車を降りたときから妙な気配があった。怪異の巣窟にしては空気が綺麗すぎる。泪泪を呼び、玖堂は中の廃墟を調べさせる。昨日下見をしたときはそこまで強くはない怪異がそこかしこにいたが、今はその気配がない。
「……昨日いた怪異がいませんね。その代わりに……異質な力を感じます」
「異質な力か」
「ええ。前にユキチ様から感じたものに近いですね」
「あまりそっちに対する準備ができてないから会いたくはないんだけど……かといって入らずに帰るわけにもいかないか」
玖堂は溜息を吐いて、今度は飛飛を呼び出した。中の探知は自分でもある程度出来る。
「いきなり攻撃されることはさすがにないだろうけど、警戒はしておかないとな」
飛飛は無言で頷いた。警戒しながら建物に入るが、そこは不気味なほどに静まりかえっていた。普通ならば知覚できないほど小さな何かの気配を感じたりもするが、それすらなかった。まるでこの建物の中心で燻煙タイプの殺虫剤を使って、害虫どころか小さな虫すらも死んでしまったあとのようだ。
泪泪の言っている異質な力もここまで近付けば玖堂にもわかる。むしろ相手にはそれを隠すつもりはないようだ。まるで力を誇示するように、隠すことなく放出している。玖堂はその気配を辿って二回に続く階段を昇っていった。
一番大きな部屋に続くドアの手前で飛飛が反応し、太刀の柄に手をかけた。玖堂は軽く頷いてドアを押し開く。
「――あら」
その部屋の中央には褐色の肌の修道女が立っていた。褐色の肌に銀色の髪。こちらを見つめる目は金色の輝きを持っていた。
「何をした?」
玖堂は低い声で女に尋ねる。女は静かに笑ってそれに答える。
「何って……ここにいた怪異たちを祓って差し上げたのですよ」
「祓って差し上げた、ねえ……」
玖堂はそう言って周囲を見回した。そこにはもう怪異がいたという痕跡すら残っていない。一方的な蹂躙で消し飛んだように見えた。
「殺したのか?」
「殺してはいませんよ。ただここからいなくなってもらったあとで、ここを綺麗にしたんです」
「綺麗、か。……まあそうなんだろうな。洪水で全部押し流して何もなくなったあとの世界を綺麗だって言うんならな」
女は玖堂の言葉に微笑んだだけだった。恭しく頭を下げて言う。
「初めまして。私はティファリアと申します。以後、お見知り置きを――玖堂さん」
「俺はまだ名乗ってないはずなんだけどな、教誨師さん。何しに来たんだ、こんなところに」
「そうですね……少し、掃除をしたというところです」
「掃除ねえ……こっちは折角の依頼を慈善事業に横取りされたわけだ」
「自分でやったことにして報酬を受け取ればいいではありませんか。依頼人がほしがっているのは誰がやるかではなくて怪異がいなくなって解体を進められるという結果のはずです」
「あんたはそれでいいのか?」
ティファリアが報酬をもらうことだって出来るはずだ。そもそも玖堂は自分がやったことでもないことに報酬をもらうつもりはない。
「いいのです。私はお金のためにやっているのではないのです。――全ては美しい世界のために」
「怪異がいない世界が美しい世界だとでも言うつもりか?」
「違いますよ。この世界は神の存在を忘れてしまった。私はそれを取り戻したいだけなのです」
「……そのためなら人の精神をねじ曲げてもいいってか。何様のつもりだよ」
「罪を犯すような心は美しい色に変えてしまえばいいのです。その方が皆穏やかに暮らせるでしょう?」
「……その考え方に関しては一定の理解は得られるだろうな。だがお前は――ユキチには全く逆のことをしただろう?」
ティファリアはすっと目を細めた。
「彼の問題はそうした方が上手くいくと思ったのです。放出する力をカリグラがある程度吸ってくれますし、それで何か間違いを犯すようであれば万華鏡で治療すればいい」
「その課程で本人の心がどうなっても知ったことではないっていうのか? それは教誨師としてどうなんだろうなぁ、ティファリアさん」
「私が求めているのは結果です。人はドリルを求めるのではなく穴の開いた板を必要としているのですよ」
「その発言はさすがに許容できねえなぁ」
玖堂の声は、廃墟の冷気を含んで低く響いた。
しかしその瞬間、玖堂の目の前に極彩色の幾何学模様が広がった。目を逸らそうとしてもその色彩が視界に侵入する。
「……飛飛!」
玖堂が言うと、飛飛が勢いよくティファリアに斬りつけた。しかしティファリアは笑みを浮かべたままでそれをかわす。
「あらあら。いきなり攻撃なんて、ひどいですね」
「そっちが先に仕掛けてきたんだろ」
「何のことです?」
「とぼけるなよ」
ティファリアは飛飛の攻撃を避ける。しかし飛飛は更に踏み込んだ。その猛攻を避けたティファリアの背に白いものが見えた。玖堂は目を見開く。
「飛飛、下がれ!」
飛飛はそれに即座に反応して玖堂の後ろまで戻る。玖堂はその目で背中から純白の翼を広げたティファリアを睨みつけた。
「……天使か」
「ええ、そうです。私は神に遣わされた天使。私の言葉は神の言葉と同じです」
「正体隠さなくてもいいのかよ」
「隠してはいませんし……それにもうすぐ気付かれてしまうでしょうから」
さすが天使と言ったところか。
玖堂が隠形させた泪泪に解析をかけさせていたことにも気付いていたらしい。そして天使ということであれば、その異質な力というのにも説明がつく。天使が使う力は魔力ではあるが、それは怪異などが持っている力とは大きく違うのだ。
玖堂は判断を迫られていた。このままティファリアと戦うか、撤退するか。ティファリアは余裕の微笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「私はあなたたちを攻撃するつもりはありませんよ。ただ救って差し上げたいのです」
「救って欲しいとは思ってないけどな」
「ですがその目……私ならば治せますよ」
玖堂は片目を押さえながら笑った。この目は力を持った現在でも治すことは出来ない。対処法はあるが根本的な解決ではないのは自分でもわかっていた。
「天使様の手を借りるまでもねえよ。しかもこんな方法で治されるくらいなら悪化した方がマシだね」
視界に直接極彩色の幾何学模様が割り込んでくる。この状態に長期間晒されれば、脳に影響が出るのは間違いないだろう。
「寂しいことをおっしゃるのですね。私に委ねてくだされば、美しいものだけを見て生きていけるのに」
「残念ながら、こっちは天使様が卒倒しそうなアングラ趣味の持ち主なんでね」
「そうですか。それは残念です」
「じゃあそういうわけで、俺はここにいた奴らをどうにかしてくれって言われただけだし、それはもうあんたがやっちまったみたいだから帰るわ」
あくまで穏便に――玖堂が選んだのは撤退だった。相手が天使というのがわかった以上、ここで戦うのは得策ではないと判断した。どこまで位の高い天使かはわからないが、そもそも人間と天使が真っ向から勝負をして勝てるはずがないのだ。
「帰ってしまわれるのですね。もう少しお話をしたかったのに」
「そっちが俺に縛られてもいいって言うんなら考えてもいいけどな」
当然、天使がそれに頷くはずはない。天使にとっては冒瀆にも等しい趣味だろう。
「あなたのような存在は許容できません」
ティファリアの翼が広がる。その純白の翼から放たれた羽根が割れた鏡の破片に変化する。飛飛が玖堂の前に躍り出た。降り注ぐ鏡の破片をその太刀で吹き飛ばしていく。しかしティファリアはそのまま指先から光を放った。
「下がれ!」
玖堂の言葉に飛飛が素早く反応する。ティファリアが放った光は鏡の破片に反射して複雑な軌道を描く。飛飛が引かなければ、反射した光が彼女に直撃していた。
「撤退を優先するぞ」
飛飛が頷き、出口への道を開く。玖堂は飛飛の護衛と出口への道が潰されないように結界を張った。しかしティファリアが翼を動かした瞬間に空間が歪む。玖堂と飛飛は鏡張りの空間に閉じ込められ、扉が隠された。
隠形させたままの泪泪にこの空間の出口を探らせながら、玖堂はティファリアに言った。
「随分とまあ、いい趣味の部屋で。ラブホにこういうのあるよなぁ」
「その穢らわしい口を閉じなさい!」
「ガキ洗脳してる奴に言われたくないな」
再びティファリアが光線を放つ。鏡の部屋では何がどう反射するかわからないため、全方向に防護壁を展開して自分たちを守る。ティファリアは再び羽根を鏡の破片に変えて放った。それも防護壁で防ぐが、そのうちのひとつが異様な力によって内側に捩じ込まれる。それが狙う先に気付いた玖堂は咄嗟に飛飛に覆い被さった。
「……!」
普段からほとんど声を発さない飛飛がかすかな驚きの声を上げる。飛飛を庇った玖堂の背中には鏡の破片が突き刺さっていた。
その瞬間に出口が開く。飛飛は強引に玖堂の腕を掴んで出口に飛び込んだ。そのまま建物の外に出て、乗ってきた車の中に入って鍵を閉める。
「……っ、とりあえずここから離れるぞ」
痛みを堪えながらエンジンをかける。式神たちは当然車を運転することはできないから、これ自体は仕方のないことだ。しばらく走り、追っ手が来ないことを確認させてから玖堂は海辺の駐車場に車を止めた。
「何でいっつも庇っちゃうんですか!?」
杏杏が顕現するなり声を上げる。飛飛と泪泪は何も言わないが、杏杏と同じ意見だという顔をしていた。
「咄嗟に体が動くんだから仕方ないだろ……飛飛は怪我はないな?」
飛飛が静かに頷く。しかし杏杏は納得はしていないようだった。
「主の命で主のために働くのが式神なんだから! そこで式神庇っちゃったら本末転倒でしょ! 何回言ったら治るわけ?」
いつもは敬語を使う杏杏だが、それも外れてしまっている。姉二人に比べると考えていることがとてもわかりやすい式神だ。
「……小言は後で聞くから。とりあえず応急処置だな」
破片を泪泪に抜いてもらい、とりあえず傷口を術で塞ぐ。出血は幸いにもあまり多くなかった。しかし問題は別のところにある。
「体温が異常に下がってるな……何だこれは……」
「この破片に、そのような術がかけられています。精神も肉体も冷たい鏡に変化させるような」
破片を解析した泪泪が言う。体温の低下だけでなく、視界にも影響が出ている。鮮やかな幾何学模様に思考を邪魔され、玖堂は舌打ちをした。
「万華鏡とか使ってやってることを物理的にやってきた感じか。趣味が悪い天使だ。――飛飛、お前がこれを受けなくて良かった」
「さっきの話聞いてました!?」
当然の如く杏杏が言う。玖堂は車のシートに体を預けて笑った。
「聞いた上でだよ。俺の式神が天使ごときにいじくり回されてたまるかよ」
「でも」
「対処法はこれから考える。……他にも応用できるだろうしな」
泪泪が頷く。まずはこれがどういうものか、そしてどうすれば崩せるものなのかを解析しなければならない。
「痛みはだいぶ引いたな。だけどこれは……頭の中を掻き回されてるみたいで最悪だな」
体温もかなり下がっているのか、吐き出す息が冷たい。飛飛が心配そうな目を玖堂に向ける。
「……いや、あのままやっても勝てなかった。それはお前が悪いわけじゃないし、お前の力不足でもない」
式神はその名の通り神なのだ。それを玖堂の力で従わせているに過ぎない。飛飛が本来の力を発揮できているとは言えない状態にあるのは純粋に玖堂の力不足だ。
「とりあえず事務所に戻る。泪泪は解析を続けてくれ。杏杏はその結果に応じて――」
「もう、わかってるから無理に喋らないでください!」
どうやら杏杏はまだ怒っているらしい。それだけ玖堂の身を案じてくれているのであろう。何にしても任せられるところは任せて回復につとめなければならない。
(けど、あの天使……あんまり大人しくしてくれそうにはないな)
おそらくこの地域にこれまで民警がいなかったこともあり、文字通り羽根を伸ばせていたのだろう。しかし民警が来れば怪しい動きはすぐに気づかれてしまう。
(あの天使の本当の目的を早く突き止めないと)
だが玖堂はある確信を得ていた。ここに来る前に杏杏に式占を頼んだ。その結果は星に翳りが見られるというものだった。おそらくそれはあのティファリアという天使の影響だ。
敵の姿は見えた。
だがそれは当初想定していたよりも強大な存在であった。玖堂は事務所に向けて車を走らせながら思考を巡らせる。しかしそれを邪魔するように頭の奥で極彩色の光が踊るのだった。
廃墟のビルの中に怪異たちがたむろしているため解体工事ができないというのがその内容だった。怪異たちが人間の世界に溶け込んでいるといっても、それは人間と同じように戸籍を登録した存在だけだ。そこまでの知能を持たない怪異たちなどは人間が使っていない建物を勝手に借りて生活していたりする。
こういうときは穏便に交渉して、別な場所などに移動してもらうのが一番いい。人間でも道路建設のために立退をしてもらう場合はそうするだろう。拒絶して攻撃してくるようなら戦闘になってしまうが、なるべくならそうならないように終わらせたかった。
車を降りたときから妙な気配があった。怪異の巣窟にしては空気が綺麗すぎる。泪泪を呼び、玖堂は中の廃墟を調べさせる。昨日下見をしたときはそこまで強くはない怪異がそこかしこにいたが、今はその気配がない。
「……昨日いた怪異がいませんね。その代わりに……異質な力を感じます」
「異質な力か」
「ええ。前にユキチ様から感じたものに近いですね」
「あまりそっちに対する準備ができてないから会いたくはないんだけど……かといって入らずに帰るわけにもいかないか」
玖堂は溜息を吐いて、今度は飛飛を呼び出した。中の探知は自分でもある程度出来る。
「いきなり攻撃されることはさすがにないだろうけど、警戒はしておかないとな」
飛飛は無言で頷いた。警戒しながら建物に入るが、そこは不気味なほどに静まりかえっていた。普通ならば知覚できないほど小さな何かの気配を感じたりもするが、それすらなかった。まるでこの建物の中心で燻煙タイプの殺虫剤を使って、害虫どころか小さな虫すらも死んでしまったあとのようだ。
泪泪の言っている異質な力もここまで近付けば玖堂にもわかる。むしろ相手にはそれを隠すつもりはないようだ。まるで力を誇示するように、隠すことなく放出している。玖堂はその気配を辿って二回に続く階段を昇っていった。
一番大きな部屋に続くドアの手前で飛飛が反応し、太刀の柄に手をかけた。玖堂は軽く頷いてドアを押し開く。
「――あら」
その部屋の中央には褐色の肌の修道女が立っていた。褐色の肌に銀色の髪。こちらを見つめる目は金色の輝きを持っていた。
「何をした?」
玖堂は低い声で女に尋ねる。女は静かに笑ってそれに答える。
「何って……ここにいた怪異たちを祓って差し上げたのですよ」
「祓って差し上げた、ねえ……」
玖堂はそう言って周囲を見回した。そこにはもう怪異がいたという痕跡すら残っていない。一方的な蹂躙で消し飛んだように見えた。
「殺したのか?」
「殺してはいませんよ。ただここからいなくなってもらったあとで、ここを綺麗にしたんです」
「綺麗、か。……まあそうなんだろうな。洪水で全部押し流して何もなくなったあとの世界を綺麗だって言うんならな」
女は玖堂の言葉に微笑んだだけだった。恭しく頭を下げて言う。
「初めまして。私はティファリアと申します。以後、お見知り置きを――玖堂さん」
「俺はまだ名乗ってないはずなんだけどな、教誨師さん。何しに来たんだ、こんなところに」
「そうですね……少し、掃除をしたというところです」
「掃除ねえ……こっちは折角の依頼を慈善事業に横取りされたわけだ」
「自分でやったことにして報酬を受け取ればいいではありませんか。依頼人がほしがっているのは誰がやるかではなくて怪異がいなくなって解体を進められるという結果のはずです」
「あんたはそれでいいのか?」
ティファリアが報酬をもらうことだって出来るはずだ。そもそも玖堂は自分がやったことでもないことに報酬をもらうつもりはない。
「いいのです。私はお金のためにやっているのではないのです。――全ては美しい世界のために」
「怪異がいない世界が美しい世界だとでも言うつもりか?」
「違いますよ。この世界は神の存在を忘れてしまった。私はそれを取り戻したいだけなのです」
「……そのためなら人の精神をねじ曲げてもいいってか。何様のつもりだよ」
「罪を犯すような心は美しい色に変えてしまえばいいのです。その方が皆穏やかに暮らせるでしょう?」
「……その考え方に関しては一定の理解は得られるだろうな。だがお前は――ユキチには全く逆のことをしただろう?」
ティファリアはすっと目を細めた。
「彼の問題はそうした方が上手くいくと思ったのです。放出する力をカリグラがある程度吸ってくれますし、それで何か間違いを犯すようであれば万華鏡で治療すればいい」
「その課程で本人の心がどうなっても知ったことではないっていうのか? それは教誨師としてどうなんだろうなぁ、ティファリアさん」
「私が求めているのは結果です。人はドリルを求めるのではなく穴の開いた板を必要としているのですよ」
「その発言はさすがに許容できねえなぁ」
玖堂の声は、廃墟の冷気を含んで低く響いた。
しかしその瞬間、玖堂の目の前に極彩色の幾何学模様が広がった。目を逸らそうとしてもその色彩が視界に侵入する。
「……飛飛!」
玖堂が言うと、飛飛が勢いよくティファリアに斬りつけた。しかしティファリアは笑みを浮かべたままでそれをかわす。
「あらあら。いきなり攻撃なんて、ひどいですね」
「そっちが先に仕掛けてきたんだろ」
「何のことです?」
「とぼけるなよ」
ティファリアは飛飛の攻撃を避ける。しかし飛飛は更に踏み込んだ。その猛攻を避けたティファリアの背に白いものが見えた。玖堂は目を見開く。
「飛飛、下がれ!」
飛飛はそれに即座に反応して玖堂の後ろまで戻る。玖堂はその目で背中から純白の翼を広げたティファリアを睨みつけた。
「……天使か」
「ええ、そうです。私は神に遣わされた天使。私の言葉は神の言葉と同じです」
「正体隠さなくてもいいのかよ」
「隠してはいませんし……それにもうすぐ気付かれてしまうでしょうから」
さすが天使と言ったところか。
玖堂が隠形させた泪泪に解析をかけさせていたことにも気付いていたらしい。そして天使ということであれば、その異質な力というのにも説明がつく。天使が使う力は魔力ではあるが、それは怪異などが持っている力とは大きく違うのだ。
玖堂は判断を迫られていた。このままティファリアと戦うか、撤退するか。ティファリアは余裕の微笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「私はあなたたちを攻撃するつもりはありませんよ。ただ救って差し上げたいのです」
「救って欲しいとは思ってないけどな」
「ですがその目……私ならば治せますよ」
玖堂は片目を押さえながら笑った。この目は力を持った現在でも治すことは出来ない。対処法はあるが根本的な解決ではないのは自分でもわかっていた。
「天使様の手を借りるまでもねえよ。しかもこんな方法で治されるくらいなら悪化した方がマシだね」
視界に直接極彩色の幾何学模様が割り込んでくる。この状態に長期間晒されれば、脳に影響が出るのは間違いないだろう。
「寂しいことをおっしゃるのですね。私に委ねてくだされば、美しいものだけを見て生きていけるのに」
「残念ながら、こっちは天使様が卒倒しそうなアングラ趣味の持ち主なんでね」
「そうですか。それは残念です」
「じゃあそういうわけで、俺はここにいた奴らをどうにかしてくれって言われただけだし、それはもうあんたがやっちまったみたいだから帰るわ」
あくまで穏便に――玖堂が選んだのは撤退だった。相手が天使というのがわかった以上、ここで戦うのは得策ではないと判断した。どこまで位の高い天使かはわからないが、そもそも人間と天使が真っ向から勝負をして勝てるはずがないのだ。
「帰ってしまわれるのですね。もう少しお話をしたかったのに」
「そっちが俺に縛られてもいいって言うんなら考えてもいいけどな」
当然、天使がそれに頷くはずはない。天使にとっては冒瀆にも等しい趣味だろう。
「あなたのような存在は許容できません」
ティファリアの翼が広がる。その純白の翼から放たれた羽根が割れた鏡の破片に変化する。飛飛が玖堂の前に躍り出た。降り注ぐ鏡の破片をその太刀で吹き飛ばしていく。しかしティファリアはそのまま指先から光を放った。
「下がれ!」
玖堂の言葉に飛飛が素早く反応する。ティファリアが放った光は鏡の破片に反射して複雑な軌道を描く。飛飛が引かなければ、反射した光が彼女に直撃していた。
「撤退を優先するぞ」
飛飛が頷き、出口への道を開く。玖堂は飛飛の護衛と出口への道が潰されないように結界を張った。しかしティファリアが翼を動かした瞬間に空間が歪む。玖堂と飛飛は鏡張りの空間に閉じ込められ、扉が隠された。
隠形させたままの泪泪にこの空間の出口を探らせながら、玖堂はティファリアに言った。
「随分とまあ、いい趣味の部屋で。ラブホにこういうのあるよなぁ」
「その穢らわしい口を閉じなさい!」
「ガキ洗脳してる奴に言われたくないな」
再びティファリアが光線を放つ。鏡の部屋では何がどう反射するかわからないため、全方向に防護壁を展開して自分たちを守る。ティファリアは再び羽根を鏡の破片に変えて放った。それも防護壁で防ぐが、そのうちのひとつが異様な力によって内側に捩じ込まれる。それが狙う先に気付いた玖堂は咄嗟に飛飛に覆い被さった。
「……!」
普段からほとんど声を発さない飛飛がかすかな驚きの声を上げる。飛飛を庇った玖堂の背中には鏡の破片が突き刺さっていた。
その瞬間に出口が開く。飛飛は強引に玖堂の腕を掴んで出口に飛び込んだ。そのまま建物の外に出て、乗ってきた車の中に入って鍵を閉める。
「……っ、とりあえずここから離れるぞ」
痛みを堪えながらエンジンをかける。式神たちは当然車を運転することはできないから、これ自体は仕方のないことだ。しばらく走り、追っ手が来ないことを確認させてから玖堂は海辺の駐車場に車を止めた。
「何でいっつも庇っちゃうんですか!?」
杏杏が顕現するなり声を上げる。飛飛と泪泪は何も言わないが、杏杏と同じ意見だという顔をしていた。
「咄嗟に体が動くんだから仕方ないだろ……飛飛は怪我はないな?」
飛飛が静かに頷く。しかし杏杏は納得はしていないようだった。
「主の命で主のために働くのが式神なんだから! そこで式神庇っちゃったら本末転倒でしょ! 何回言ったら治るわけ?」
いつもは敬語を使う杏杏だが、それも外れてしまっている。姉二人に比べると考えていることがとてもわかりやすい式神だ。
「……小言は後で聞くから。とりあえず応急処置だな」
破片を泪泪に抜いてもらい、とりあえず傷口を術で塞ぐ。出血は幸いにもあまり多くなかった。しかし問題は別のところにある。
「体温が異常に下がってるな……何だこれは……」
「この破片に、そのような術がかけられています。精神も肉体も冷たい鏡に変化させるような」
破片を解析した泪泪が言う。体温の低下だけでなく、視界にも影響が出ている。鮮やかな幾何学模様に思考を邪魔され、玖堂は舌打ちをした。
「万華鏡とか使ってやってることを物理的にやってきた感じか。趣味が悪い天使だ。――飛飛、お前がこれを受けなくて良かった」
「さっきの話聞いてました!?」
当然の如く杏杏が言う。玖堂は車のシートに体を預けて笑った。
「聞いた上でだよ。俺の式神が天使ごときにいじくり回されてたまるかよ」
「でも」
「対処法はこれから考える。……他にも応用できるだろうしな」
泪泪が頷く。まずはこれがどういうものか、そしてどうすれば崩せるものなのかを解析しなければならない。
「痛みはだいぶ引いたな。だけどこれは……頭の中を掻き回されてるみたいで最悪だな」
体温もかなり下がっているのか、吐き出す息が冷たい。飛飛が心配そうな目を玖堂に向ける。
「……いや、あのままやっても勝てなかった。それはお前が悪いわけじゃないし、お前の力不足でもない」
式神はその名の通り神なのだ。それを玖堂の力で従わせているに過ぎない。飛飛が本来の力を発揮できているとは言えない状態にあるのは純粋に玖堂の力不足だ。
「とりあえず事務所に戻る。泪泪は解析を続けてくれ。杏杏はその結果に応じて――」
「もう、わかってるから無理に喋らないでください!」
どうやら杏杏はまだ怒っているらしい。それだけ玖堂の身を案じてくれているのであろう。何にしても任せられるところは任せて回復につとめなければならない。
(けど、あの天使……あんまり大人しくしてくれそうにはないな)
おそらくこの地域にこれまで民警がいなかったこともあり、文字通り羽根を伸ばせていたのだろう。しかし民警が来れば怪しい動きはすぐに気づかれてしまう。
(あの天使の本当の目的を早く突き止めないと)
だが玖堂はある確信を得ていた。ここに来る前に杏杏に式占を頼んだ。その結果は星に翳りが見られるというものだった。おそらくそれはあのティファリアという天使の影響だ。
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だがそれは当初想定していたよりも強大な存在であった。玖堂は事務所に向けて車を走らせながら思考を巡らせる。しかしそれを邪魔するように頭の奥で極彩色の光が踊るのだった。
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※初出2024年7月