五芒星と避雷針

深山瀬怜

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第一部

9 趣味人と島の神

 飛飛は眠っている玖堂の傍にずっと佇んでいた。式神であるその身は人間ほどは休息を必要としない。だから何か変化が起きてもすぐに対応できるようにとずっと傍に顕現していたのだった。
「……飛飛」 
 不意に玖堂が目を開く。飛飛は無言でそれに応じた。
「別にずっと見てなくていいぞ。杏杏の薬も効いてるみたいだしな」
 泪泪の解析を元に、杏杏が薬を作った。陰陽五行説に基づいて作られているあたりは漢方薬に似ているが、そこには式神としての力もかなり加わっている。天使の攻撃で下がっていた体温も少しずつ回復しつつあった。視界はまだ元には戻らないが、薬を飲む前よりはかなりましだ。
「鏡の破片が突き刺さって体温が下がるなんて、お伽話かよって話だよな」
 飛飛は何も答えない。ただ真っ直ぐに玖堂の目を見ていた。玖堂は飛飛の頭を軽く撫でた。
「さっきも言ったけど、俺がこうなってるのはお前のせいじゃない」
 飛飛は何も言わない。極端に寡黙な彼女にとってはいつものことだった。玖堂は静かな湖のようなその青い瞳を見て言う。
「『どうしていつも庇うのか』って? さっき杏杏にも散々聞かれたけどな」
 小言を言いながら薬を調合していた姿を思い出したのか、玖堂が苦笑する。しかし飛飛は真剣な表情を変えなかった。
「あれは本当に咄嗟に体が動いただけだ。その上でだが……俺にはお前達を犠牲にして、自分だけ助かるという選択肢はない。それはあのときからずっとそうだ」
 飛飛が自分の膝の上で手を強く握る。玖堂はその頭を軽く撫でた。
「誰かが死んだら、楽しく趣味に走ることも難しいんだからな。……俺はもう少し寝るから、お前もいいタイミングで休むといい」
 飛飛は小さく笑った。この男は結局ここに行き着くのだ。それが一番自分に合う方法だとか、人を助けるのが仕事であるとか、そういうことを全てひっくるめて、天使にとってはとてもではないが許容できない『趣味』に生きている。再び目を閉じた玖堂の顔を見ながら、飛飛はもう何年も前、玖堂がまだ民警になりたての頃のことを思い起こしていた。

***

 駆け出しの頃の玖堂は、中規模の民警会社に所属していた。
 依頼は、ある無人島の調査だった。無人島と言ってもかつては人が住んでいたらしい。しかし災害などのやむにやまれぬ理由で人がいなくなり、現在はほとんど放置されているという。
 島と言っても干潮のタイミングで陸続きになることもあるような場所で、放置された島はいつしか調子に乗った若者達や無法者が入り込んで騒ぐような場所になってしまっていた。
 それだけなら民警の出る幕ではないが、ここ最近、この島に立ち入った者たちが怪奇現象に巻き込まれ、酷い者は命は助かったものの発狂してしまう事件が続いていた。玖堂たちはその調査のためにその小さな島に派遣されたのだった。
 しかし島の怪異は民警が上陸した瞬間から牙を剥いた。牽制のつもりだったのか、最初に上陸した民警は不可視の刃に切り刻まれて撤退を余儀なくされた。他の民警も上陸は出来たものの調査を開始するとすぐに黒い泥に呑み込まれ、全身をかきむしりながら発狂した。それはまさに地獄と言えるような現場だった。
 その中で、玖堂は大きな怪我をすることもなく調査を継続することが出来た。幼い頃の経験から、霊力を極力出さないようにして、見つからないように気配を消す訓練を重ねていたのがよかったのだろう。そして玖堂は他の民警たちとも協力して、島の怪異の正体を突き止めた。しかし――そこからが問題だった。
「説得と浄化だぁ? 馬鹿言ってんじゃねえよ。あんなん封印するか消滅させるかのどっちかだ」
「封印しようとしても抵抗してくる可能性が高い。お前だって上陸した途端に大怪我をさせられた先輩を見ただろ?」
「消滅させる方向で進めて、それが出来ないのであれば封印だ」
 玖堂以外の民警たちはその意見で一致しているようだった。自分よりもはるかに経験を積んできた先輩達の判断だ。それには従うべきなのだろうということはわかっていた。相手は確かに強大だ。その上三体もいる。しかも普通の怪異ではなく――堕ちかけた神である、という見解自体は玖堂も間違いがないだろうと思っていた。
「でも、まだ神気が完全に変質していない。今ならまだ引き戻せるかもしれない」
「それが甘いって言ってるんだ。もう死人も出てるんだぞ?」
 民警は怪異と人間が共生する社会を維持するために存在する。人に害をなす怪異は捕縛するか倒すか消滅させるという非道さも時には必要になる。それはわかっていた。けれどこの島にいた神が堕ちかけている理由を知ってしまったために、先輩達の意見に同調することも出来なかった。
「人間の都合で散々使い潰して、放置したと思ったら、馬鹿な奴らにふざけた態度で蹂躙されて、それで堕ちたら殺すか封印かなんて、そんなのあんまりだ」
「だが、堕ちかけた神を引き戻そうとしてこちらが倒れたら元も子もない。俺たちの安全のためにもそうするしかないんだ」
 先輩達も悪意があって言っているわけではない。民警として超常的な存在には敬意を払っているし、そもそもメンバーの中には人狼などの怪異側の存在もいた。それでも、殺すか封印するかしかないという判断だったのだ。
「わかってくれ。俺たちだって、もう被害を出したくないんだ。優先すべきものを間違えるな」
「……わかりました」
 表面上はそう答えたものの、玖堂はまだ納得できていなかった。危険なのは事実だ。近付こうとするだけで攻撃される。その上、こちらの動向は全て把握されているようだった。まともにぶつかれば、ここにいる精鋭達でも死傷者がでるのは免れないだろう。それでも、文献や解析術などで調べた経緯を思い起こすと、このまま殺すか封印するかを選んでいいのかと考えてしまうのだった。
 この島は災害や疫病などで島民を減らしていき、ついには誰もいなくなった。神はその不幸を退けられなかったことで人間に恨まれた。人々の恨みが集まり、それに侵蝕され続けた上に、島民が誰もいなくなったことでしばらく放置され、のちに興味本位で島にやってきた何も知らない人間たちに蹂躙された。祠は破壊され、ご神体とされていた物品も壊され、汚され、怒りを見せれば心霊スポットとして話題になり、更に良くない客を呼び込む結果になってしまった。人間を恨むようになったとしても仕方ないのではないかとさえ思ってしまう。
 その上、神はそもそもこの国の存在ではなかったのだという。嵐に巻き込まれて大陸からこの島にやってきた存在を無理矢理この地に監禁して神として祀り上げた。それなのに、災害や疫病を退けられなかったという理由で恨まれたのだ。
 先輩達の決定がどうにも納得いかず、玖堂は夜中に寝床を抜け出し、かつて神が祀られていた場所へと向かった。自分がしていることが自殺行為に近いことはわかっていた。けれどこのまま終わらせることも出来なかったのだ。
「――たった一人で何をしに来た」
 幼い声が暗闇から聞こえる。声は幼いが、それは玖堂よりも遥かに長く生きている存在であるということはわかっていた。
「……話をしに来た」
「人間とするような話などない……!」
 矢が飛んできて玖堂の肩を掠める。その矢は確かに憎悪の力で侵蝕されているが、かつての力の片鱗を確かに残していた。
「人間は私たちを都合のいいように使うだけで、いらなくなったら打ち捨て、そればかりか依代を破壊するなどという屈辱を与えた。そんなものと話すことなどない」
 矢の雨が降り注ぐ。陰に身を隠していても、位置がわかっているようで、避けきれなかったものが無数の傷を生んでいく。
「あまつさえ、お前たちは私たちを殺すか封印することを考えているのだろう? そんなことはさせない!」
「待ってくれ」
「人間の指図などには従わない!」
 けんもほろろだ。こちらが何を言っても聞く気はないらしい。こんな状況で玖堂が彼女たちを助けたいと思っていると言っても伝わりはしないだろう。玖堂は陰に身を潜めるのをやめて、ひとつ息を吐き出してから、普段は制限している霊力の漏出を解放した。
「何を……」
 その行動に相手は少し動揺しているようだった。その理由はわかっている。これはほとんど自殺行為だ。狙ってくださいと言わんばかりの状態だ。けれどもうひとつの効果がある。
「俺がお前たちをここから連れ出してやるって言いにきたんだ」
 霊力を垂れ流している人間は、霊的な存在にはまるで灯台のように見える。迷いなく進むための道標。そしてその場所に縛り付けられた存在には、自分を解き放ってくれる存在として。
「……私たちはもう、ここから離れられない。私たちはこんなにも穢れてしまった」
 けれどその声には揺らぎがある。もしかしたら、という感情を抱いてしまうのは、地縛霊も神も同じらしい。
「そうだな。確かに蓄積した泥の上に、人間を攻撃し続けたことで更に降り積もったものがあるだろう。だがまだ引き剥がせる段階だ」
「それをどう信じればいい」
「俺のことは別に信じなくていい。……ただ、お前が感じた未来は信じるといい」
「何故それを……!」
「俺は……俺たちは民警としてここに来ている。民警には地味な資料調べの仕事もあるんだ。未来を占う力を持つ存在がいることはわかっている」
 未来を占う力と、それを避ける力は別だ。しかも正確に何が起こるかわかるわけでもない。しかし人は神に過度に期待してしまうことがあるのだ。
「自分を信じるならば、近いうちに何かを変える出会いがあると出ていた。けれど、それがあなたかどうかはわからない」
「まあ、そうだよな。この人ですと頭の上に書いてあるわけでもない。けれど何かを変える出会いをお前はどこかで期待していたわけだ」
「……姉様を、助けてくれる誰かが来るのを待っていた」
 この島で祀られていた神は三姉妹であるという記録が残っている。それぞれに得意とする分野があったことも玖堂は知っていた。
「だが、どうしてお前は傷を負ってまで私たちを助けようとする?」
「島に来たのは普通に仕事だけどな。だがわざわざ一人でここに来た理由を簡単に説明するなら……『趣味』だな」
「趣味?」
 思いっきり怪訝そうな顔をされる。そんな答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。
「お前たちのように著しくバランスを崩してる奴を見ると『調律』してやりたくなる。それが俺の『趣味』なんだよ」
 まだ完全に堕ちきっていない魂は美しいものだと感じられた。それを自分の手で調律したいというのは身勝手な思いでしかない。趣味というのが一番相応しい言葉だと玖堂は感じていた。
「……私ではどうにもできなかった。お前にできるのか?」
 鋭い視線が突き刺さる。おそらくこの神は玖堂が用いているのと同じ思想に基づいて占いや治療を行っている。その出自を考えればさもありなんというところだ。しかしそれを用いても姉が堕ちていくのを止められなかったと言っているのだ。
「まあ、荒療治にはなるだろうけどな」
「……姉様のところに案内する。最後までお前が立っていられたら、お前を信用することにする」
 玖堂は苦笑した。その保証はできないことはわかっているだろう。残り二人の神はより攻撃的で強い。既に傷を負っている状態でどこまで出来るのかは玖堂自身にもわからなかった。

 無惨に破壊された祠があった場所に向かうと、そこには巨大な闇があった。いや、それは数多の穢れに覆われた異形の姿であった。それが呼吸するように脈打つ度、刃が玖堂の肌を切り裂いていく。
「何故この人間を通したのです」
 その闇を背負うように現れたのは漆黒の服に身を包んだ女だった。その目元は同じく黒い布に覆われている。
(千里眼持ちか――)
 しかし直接目で見るわけではないので、玖堂の瞳術は効かない。ここを切り抜けなければその先には行けないようだった。
「……私は、姉様を助けたい。その力をこの人間が持っているかもしれないと」
「あれだけ裏切られ、あなたはまだ人間を信じるのですか」
 冷えた声だった。こちらはもう完全に人間に対する期待を持つのをやめてしまっているようだった。
「別に信じてもらう必要はないけどな」
 黒布で目を覆った女は、表情を変えずに指先を動かす。影が生き物のように蠢き、玖堂の足元からその自由を奪おうと絡みついた。
「こんなもので俺を拘束するつもりか。生ぬるいな」
 影は縦横無尽に動き、玖堂の動きを制限する。次にどこへ動くか、その体の動きが全て見えているらしく、影は即座に反応する。
(相手の動きを逃さない観察眼と、そのあとに攻撃を繰り出すスピードか。サッカーのキーパーとかやったら優秀そうだな)
 けれど玖堂も冷静にその動きを見ていた。彼女たちを倒すつもりはない。ただ長年降り積もった穢れを祓いたいだけだ。穢れを背負った状態というのは、均衡が崩れた状態でもある。その均衡を取り戻したい。玖堂は笑みを浮かべた。
(いいね、楽しくなってきた)
「何を笑っているのです!」
 その表情の変化を見逃す相手ではない。玖堂は猛攻を退けながらポケットの中にしまっていた翡翠の念珠を取り出した。輪になったそれをつないでいる糸を切ると、小さな翡翠の玉が重力に逆らって浮かび上がる。
「人を縛るときはこうやるんだよ、覚えておけ」
 飛び散った翡翠の玉が結び目となって、目隠しの女を拘束する。動けなくなった女に玖堂はゆっくりと近付いた。
「その千里眼は大したもんだが、縛りはまだ甘いな」
「何を言っているのです……?」
「趣味の話だ。人を縛るときはもっと楽しんでやらないとな」
「何をふざけたことを言ってるんですか!」
 顔の横を矢が掠める。当てるつもりのない攻撃だが、さすがにふざけすぎたらしい。
「私は姉様を助けてくれと言ったんです! 何楽しそうに縛ってるんですか!」
「これが趣味だからな」
「――杏杏。姉様のところには誰も近づけるなといったはず。これはどういうことなのですか?」
 最初に会った、幼い少女の姿をした神は杏杏と言うらしかった。目隠しの女の言葉から推測するに、杏杏が末妹で、目隠しの女が二番目なのだろう。
「私は……姉様を助けたい。この人間には多少見込みがありそうだと思ったのです」
 杏杏の言葉は大分上から目線に感じるが、神からすれば人間の扱いなどそんなものだろう。
「人間にそんなことが出来るはずはありません。何度人間に期待し、裏切られ、失望してきたか、あなたは忘れたのですか?」
 目隠し越しでも、鋭い視線が突き刺さる。玖堂は拘束されて動けなくなっている女と目線を合わせた。
「確かに人間はお前達に散々なことをしてきた。俺も、俺は違うから信じてくれなんて言うつもりはない。ほとんど趣味でやってるしな。そういやちょうど、趣味に付き合ってくれる友達が欲しいとも思ってたところだ」
「何を言っているのです……?」
 困惑としか言いようがない口調で目隠しの女が尋ねる。玖堂は笑みを浮かべた。
「わりと名案だと思ったんだけどな」
「……嘘では、ないようですが」
 その千里眼は嘘も見抜くことが出来るのだろう。だからこそ、玖堂の言葉に嘘がないことがわかって混乱していた。
「俺は自分が楽しいと思ったことを追求する。それが結果的に他人のためになるかもしれないが、正直それは二の次だ。まあ仕事はちゃんとやるけどな。お前達が俺をこの先へ進ませるのかどうかに関係なく、俺はこの先に行きたいから行く。それだけだ」
 使命感や助けたいという気持ちは、確かにあった。けれどそれ以上にこの先にあるものに心を躍らせている自分自身に玖堂は気がついていた。相手は強い。妹二人は戦闘が出来ないわけではないが、他に得意なことがある。けれど長姉はかなり戦いに特化した神だ。
 玖堂はゆっくりと立ち上がり、壁のようにすら見える闇の塊に目を向けた。そこには、もはや神域とは呼べないほどの濃密な闇が渦巻いていた。かつては美しかったであろう三姉妹の長姉。彼女は今、人間達の悪意を一身に引き受け、巨大な異形の塊へと成り果てていた。
 不意に、凄まじい風圧が玖堂を襲う。それはただの風ではない。霊的な刃を無数に含んでいる。玖堂の体は一瞬で血に染まった。肩、脇腹、頬。着ていたスーツがボロ布のように裂ける。服が裂けて露わになった肌に刻まれた刺青の色彩が月の光でわずかに浮かび上がっていた。
「これはすごいな……」
 玖堂は笑みを浮かべる。そのまま闇に向かって歩を進めるが、その度に傷は増えていった。
 普段抑えている霊力を解放しているため、それでも動くことは出来るが、動く度に地面に血が落ちる。
「――去れ。然もなくば、殺す」
 重い響きのある言葉だった。まるでそれ自体が刃のようだった。憎悪の塊がぶつけられる。そして闇の中から玖堂を睨む、濁った青の双眸。
「強い奴ほど、敵をよく見るらしいな」
 失血で視界がぼやける。けれど、力を振り絞り、玖堂はその青を見つめ返した。ただ目を合わせるだけで相手を縛ることが出来る、強力な拘束術。布を一枚隔てただけでも使えなくなるものだが、直接目を合わせれば相手が誰でもその動きを止められる。
「いいか。拘束っていうのはただ相手の動きを止めるだけじゃない。血流を操ったり、関節を固めたり、時には痛みを与えることもある。動けば縄や鎖が音を立て、さらに締め付けが強くなる。そのとき、縛られた側は何を思うかわかるか?」
 答えは返ってこなかった。そもそも返ってくることは期待していない。玖堂はそのまま続けた。
「縛られた側は嫌でも自分の体ってものを意識する。動かせる限界を、痛みを、あらゆる力の流れを、意識せざるを得なくなる。まあ、それを味わえるようにしてやるのは縛る側の技術でもあるんだけど」
 玖堂は、降り注ぐ刃の雨を避けることさえやめ、悠然と闇の核心へと歩み寄る。その歩調は、死地へ向かう者のそれではなく、極上の獲物を前にした蒐集家の足取りだった。
「お前は今、あまりにも肥大化しすぎている。人間たちの恨みや、自分自身の怒り……それらをごちゃ混ぜに溜め込んで、自分の輪郭さえ見失っているだろう?」
 闇の巨躯が咆哮を上げた。周囲の空気が振動し、物理的な破壊を伴う衝撃波が玖堂を襲う。しかし、玖堂はその衝撃さえも、まるで心地よい風を受けるかのように受け流した。
「だから、俺が教えてやる。……お前の本当の『形』をな」
 玖堂が手をかざすと、瞳術による捕縛の効果があがる。その瞬間、異形の巨躯が激しく身悶えした。
「なっ……!?」
 後ろで見守っていた杏杏と、拘束されたままの目隠しの女が息を呑む。
 玖堂の拘束術は闇を力ずくで押さえつけるためのものではなかった。それは、荒れ狂う神気の「急所」――力の巡りが滞り、鬱滞している箇所を正確に狙うための結び目を作っていたのだ
「縛られるっていうのは、強制的な『自覚』だ。どこが苦しいのか、どこに力が入りすぎているのか……お前が忘れかけたものを教えてくれる」
 玖堂が糸をぐいと引くように指を動かす。
 すると、巨大な闇の一部が霧散し、中から剥き出しになった美しい女の顔が、苦痛に歪んだ。しかし、それは同時に、長年彼女を苛んでいた重苦しい穢れから、一瞬だけ解放された瞬間でもあった。
「……あ……ああ……」
 闇の中から、掠れた女の声が漏れる。
 玖堂は自らの血で顔を濡らしながら、狂気さえ感じさせるほどに艶やかな笑みを浮かべた。
「――いい声だ」
 玖堂は一歩、また一歩と、巨大な異形の中心部――かつて神と呼ばれた存在の懐へと踏み込む。
 もはや刃は飛んでこなかった。神は、玖堂が施すあまりに緻密で、あまりに冷徹な拘束に、抗う術を失っていた。いや、抗うことよりも、己の輪郭を縛り、形作ってくれるその感覚に、魂が縋りつこうとしていた。
「……お前たちに提案がある」
 縛られた女の体から溜め込んだ穢れが離れていく。玖堂は持っていた人形ひとがたにそれを移した。完全に魂まで穢れによって変質していたのなら引き剥がすことは困難を極めただろうが、今回はそうではなかった。しかし彼女たちはここにはもういられないだろうし、それを望むこともないだろう。
「俺は怪異が起こす事件なんかを専門に取り扱う民間警備会社の人間だ。ちょうど仕事を手伝ってくれて、趣味にも付き合ってくれる仲間が欲しいと思っていたところだったんだが……俺と一緒に来てくれないか?」
 全ての穢れを取り払われ、拘束を解かれた女は青の瞳で玖堂を見る。その口から言葉が発されることはなかったが、代わりに目隠しの女が言った。
「姉様は『三人全員引き受けてくれるのか』と言っています。『それはあなたの体に大きな負担をかけるはずだ』と」
「……体に負担がかかるってのは事実だけど、垂れ流しに出来るくらいに霊力があるってのもまた事実だ。それぞれの力が十二分に発揮できるという状況にはできないかもしれないが、だからといって誰かを置いていくことはしない」
 それは最初から決めていた。引き受けるのなら三人一緒だ。この三姉妹はそれぞれがそれぞれの得意分野を持っている。玖堂としても三人いた方が都合が良い。
「それなら――」
 女が玖堂の目に指を伸ばす。そこから入り込んだ神気が玖堂の中に刻まれていく。これが契約、ということなのだろう。
 その瞬間、島を覆っていた暗雲が弾けた。
 玖堂は息を吐いてその場に膝をつく。気力だけで持たせたが、もう体力は限界だった。

 ある程度動けるまで回復した玖堂は、三人を隠形させて民警達の拠点に戻った。治癒魔法が使える民警に頼んで傷を治してもらった玖堂に告げられたのは残酷な決定だった。しかし玖堂はそれを甘んじて受け入れた。重大な命令違反をして、独断専行で負傷したというのは事実だ。そんなことをする民警を抱えておくことは出来ないと言われるのも仕方ないと納得した。
「別に民警の資格を剥奪されたわけじゃないしな。最悪自分で会社作ればいいわけだし」
 最初はどこかの民警会社に所属して、数年後に独立して会社を作る民警もそれなりにいる。民警の管理者になるための試験さえクリアしてしまえば、あとは食い扶持に困らない程度の仕事がもらえれば何とかなるのだ。
「命令違反しただけの価値があったのは間違いないさ」
 玖堂はそう言って笑った。大きなものを得たが、同時に失ったものもあった。けれどどこか身軽になったような、そんな清々しさを玖堂は感じていたのだった。

***

 最初から、助けられてばかりなのだ。
 飛飛は宣言通り再び眠り始めた玖堂の顔を見る。
 命令に背き、単身で乗り込むなんてあまりにも命知らずな行動だ。けれどそれをやってしまう男なのだ。おかげであれからは比較的愉快な日々を生きることが出来ている。あの島にずっといたら、得られなかった生活だ。
 飛飛はそろそろ休もうと立ち上がった。そのとき、窓の外と式盤を見ながら青ざめた顔をしている末妹に気がつく。
「姉様――星の、翳りが濃くなっています」
 飛飛は何も言わずに頷いた。嫌な予感がする。飛飛はただ静かに杏杏を見つめた。それだけで彼女は飛飛が何を言いたいのかを理解して頷くのだった。
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