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第一部
12 怖がりとひとりぼっち
玖堂は上空から玖堂を見下ろすユキチに術を放った。しかし、同時に玖堂の足元に泥のように溶けた怪異たちが群がり始めた。飛飛は怪異のほとんどを片付けたはずだったが、まだ用意があったらしい。玖堂は剣印を結んで自分に向かってくるそれらを祓おうとした。
そのときだった。
上空から放たれた光が怪異を攻撃して消滅させる。やったのはユキチだ。
(どういうことだ?)
この怪異たちはティファリアが放ったものだ。玖堂たちを足止めするために手駒として使われている。ティファリアの手の内にあるユキチからすれば味方ではないのか。それなのになぜ攻撃をしたのか。無差別に攻撃しているようには見えない。けれどその攻撃からはどこか余裕のなさを感じた。
(――昔の俺みてえだな)
家の中に、怪異が見えた上で術も使える人間が一人もいなかった。叔父の手ほどきはあったが、まともに力を使えるようになったのは今のユキチよりも少し大きくなってから――高校生になった頃だった。けれど力が使えても、最初は難航していた。叔父は見えないからこそ思いっきり力を放つことが出来たが、玖堂にはそれが出来なかった。
いっそ忘れてしまいたいと思うくらい、未熟だった頃の話だ。
(威力はある。けど使ってる奴の腰が引けてちゃ話にならねえ)
それがわかっていても、怪異たちの存在が恐ろしくて仕方なかったのだ。幼い頃から何の力もない自分に群がってきて、時には取り憑いて、厄介な後遺症まで残した。そんな存在を恐れるなと言うのは無理な話だった。
『しっかり見ろ! そんなんじゃ当たるモンも当たらないぞ!』
叔父の叱責が飛んで来たのを覚えている。そっちは見えてないくせに、と文句を言ったことも忘れてはいない。
(……怖くて、消したくて、仕方なかった)
ユキチが放つ光の矢は、群がる怪異を確実に射抜いていた。しかし、その攻撃は泣き叫んでいる子供と変わりない。敵であるはずの自分を助けたわけではない。ただ、視界に入るおぞましいものを、その恐怖から反射的に排除しているだけだ。
(あの頃の俺と同じか)
玖堂はその光景に、忌々しいほど鮮明な既視感を覚えた。
かつて、自分の部屋の隅に、あるいは通学路の木陰に。
人には見えない何かが蠢いているのを見つけた時の、あの内側からせり上がるような悪寒。叔父に教わった不格好な印を結び、震える声で真言を唱えていた頃の自分。
術が使えたとしてもそれでは意味がないのだと気付いたのは、いつだっただろうか。
(あの天使は、そこまでわかっててユキチを選んだのか?)
泪泪が解析の結果を伝えてくる。天使の目的を考えれば、ユキチはその体質を利用されたと考えて間違いないだろう。けれど連れ去ってすぐにここまで天使の力を使えることは予想していたのだろうか。
(違うな。――あの天使は、ユキチの心の弱いところにつけ込んだ)
そのためにカリグラを植え付けたのだ。カリグラはしてはいけないことをさせてしまう怪異だが、その性質上、その心の中をのぞき見ることになる。教誨師ならば刑務所や少年院に出入りして、そのときにカリグラを捕獲することは難しくなかっただろう。
(まさかここまでのことをしてくるとは思ってなかったからな。後手に回っちまったか。だが――ガキに負けるようじゃ民警なんてやってられねえだろ)
玖堂は上空から闇雲に攻撃を続けるユキチを見上げた。虚ろな目の奥に、確かに怯えたような揺らぎがある。
「さっきからちまちま雑魚ばっかり攻撃してるが、俺のことを忘れてるんじゃないだろうな?」
ユキチが息を呑む。そして取り繕うようにその翼を広げた。翼は鏡の破片に変化して、雨のように玖堂に降り注ぐ。そのいくつかは玖堂の腕に突き刺さったが、玖堂はそれを気にせずにユキチを挑発する。
「せっかくそんなに強い力を手に入れたんだから、もっとビビらずに撃ってこいよ」
ユキチが無言で腕を振る。先程までとは次元の違う光の奔流が、玖堂の頭上から降り注いだ。圧縮された天使の魔力がそのまま叩きつけられる。
凄まじい衝撃波がアスファルトを同心円状に叩き割り、土煙がユキチの視界を遮った。だがその土煙を割って、玖堂は再び姿を現す。
「……この程度で死ぬタマだと思われてんのか、俺は? それはちょっと俺のことを舐めすぎじゃねえかな」
闇雲に攻撃したところで、当たるものも当たらない。
強い奴ほど相手をよく見ているとはよく言ったものだ。ユキチは玖堂の挑発に乗って、怯えながらもその顔を見た。
「そのまま撃ってみろよ。今度は俺に当てられるだろうからな」
ユキチは手を伸ばす。しかし防御どころか構えもせずに立っている玖堂に対して攻撃を放つことが出来なかった。それはユキチに決定的な隙を生む。すかさず玖堂は口を開いた。
「――縛」
純白の翼もろとも、ユキチの体が玖堂の霊力に囚われた。浮力を失ったユキチの体がゆっくりと地面に落ちてくる。地面に叩きつけられることがないよう、落下速度は玖堂によって調整されていた。地面に転がったユキチは、どこか諦めたような目をしてぼんやりとしている。玖堂はユキチに歩み寄って、その顎を掴んだ。
「俺に縛られてんのに、そんな顔されちゃ困るんだよな」
「……やめて、来ないで……!」
ユキチの震える声が、夜の静寂に溶けていく。地面に組み伏せられたまま、彼は必死に首を振った。
玖堂の手から伸びた霊的な縄が、ユキチの四肢と純白の翼を無慈悲に締め上げる。天使の魔力と玖堂の霊力が衝突し、接点からパチパチと青白い火花が散った。
「捕まってんのに『来ないで』もねえだろ。お前と俺じゃ場数が違うんだよ」
玖堂は顎を掴む手に力を込めた。ユキチの瞳に、逃れようのない恐怖と、それ以上に深い絶望が宿る。
「……玖堂さんは、どうして……僕のことを傷つけるの? もう放っておいてよ!」
ユキチの叫びと共に、捕縛の縄を内側から焼き切ろうとするほどの閃光が溢れ出した。逆流する魔力が玖堂の腕を焼き、鼻腔に肉の焦げる嫌な臭いが漂う。それでも、玖堂は指一本動かさなかった。
「放っといてか。天使様のところはずいぶん快適だったらしいな」
「それは……」
「まあ、俺はお前にとって痛くて怖いことばっかりするもんな。そりゃそうだ」
玖堂はどこか自嘲するように笑う。自分のやり方は多くの人に受け入れらるものでないことはとっくの昔にわかっていた。
「でも捕まっちまったもんな。あの天使がお前を助けに来てくれることを祈ってみるか?」
「それは……」
「結局あの天使のことも信用できねえか」
ユキチが逃れようと身じろぎする。しかし動けば動くほど霊的な縄の締め付けはきつくなる。ユキチの顔が痛みに歪んだ。
「別にそんなことでお前を責めたりはしない。俺も、最終的に信じられるのは自分だけだと思ってるからな。運がよけりゃ助けてくれる奴もいるだろうけど、窮地に陥るほど運が悪いってのに誰かが来てくれる幸運なんて信じられないだろ」
それはこれまでの積み重ねの結果、辿り着いた結論だった。助けてくれる人がいなかったわけではない。けれどいつもいたわけでもない。最終的には自分を信じるしかなかったのだ。
「僕は……この光を広げないと……」
「何のために?」
「だって……怖いものも、嫌なものも、全部綺麗に変えられるから……」
玖堂は曖昧に笑った。ユキチの考えも理解できる。自分を害するものを全て綺麗な模様に変えられるのならその方がいいのかもしれない。
「……その綺麗な世界を作ったとして、そこにまた怖いものが出てきたらどうする?」
「それは……」
「たとえば世界を切り取って、ここからここまでが綺麗なものだと決めたら、いずれ絶対にそこからはみ出すものが出てくる。その度にそれを排除していったら、その枠はどんどん小さくなっていく。お前ははみ出したものを永遠に排除し続けることになるだろうな」
元々この世界はそれで破綻しかけて、その枠を一度広げたことで成立している。人と同じように守るべきものに従って生活するなら受け入れることにした。それは民警というものの歴史にも絡む話だ。
「それなら、はみ出すものを出さなければいい」
「そうか。じゃあお前はその世界で何を楽しみに生きていくつもりだ?」
ユキチの顔に疑問符が浮かび、その目が一瞬焦点を取り戻す。そのくらいユキチにとっては意味がわからない問いだったのだろう。
「……楽しみ、なんて」
ユキチの唇が震える。縄の食い込む痛みに耐えながら、彼は絞り出すように答えた。
「……怖くないなら、それでいい。嫌なことが起きないなら、何だって……。あんな、お化けみたいなものに追いかけ回されることも、誰かに変な目で見られることもないなら、それで……!」
「それで、満足か。……俺はそんなの御免だけどな」
玖堂は鼻で笑い、さらにユキチの顔を覗き込んだ。
「いいか、ユキチ。完璧に綺麗な世界ってのはな、変化がないってことだ。ずっと変わらずに幸せが維持されるかもしれないし、停滞を悪と言うつもりはねえが、それ以上の楽しみもない世界だ。お前がそれを望もうとも、俺はそれを望まない。やるなら一人でやってろ」
玖堂の言葉は、天使の魔力で麻痺していたユキチの思考に、冷水を浴びせるような鋭さで突き刺さった。
「玖堂さんは、僕を助けてくれると思ったのに……」
ユキチはそうこぼした。最初に会った日のように、訳もわからず巻き込まれている自分を、玖堂なら救ってくれると思っていた。しかし先程の言葉はユキチを突き放すものだった。玖堂は呆れたように言う。
「じゃあお前の言う『助かる』って何だよ。さっき言ってたように全部綺麗に染めるんだったら、も自分だけでもできるだろ。お前は俺に何を望んでいる?」
「僕は……」
「ただ痛みや苦しみがない世界を望むなら、あの天使に頼んだ方がいい。それを踏まえた上で、お前は何を望む?」
縄がさらにきつくなり、ぎしりと音を立てる。呼吸さえ制限されているようだった。けれどこの行為に別の面があることにもユキチは気付き始めていた。
「……玖堂さんは、ずるい。そうやって、また僕を……この汚くて、痛いところに引き戻そうとする……!」
ユキチの瞳から涙が溢れ出した。それは光を放つ魔力の結晶ではなく、ただの熱い、人間としての涙だった。
「それが嫌なら自分の力で破ってみろ。……今のお前なら、心から望めばこんな拘束くらい簡単に抜け出せる」
「僕は……」
苦痛を突きつけてくるはずの存在だった。このままでいたら、あの柔らかなベッドで、綺麗なものだけに包まれていられるはずだ。それなのに、そこに居続けることも怖いのはどうしてだろうか。縛られて痛くて苦しいはずなのに、どこか安心するのはどうしてだろうか。
「何でなのか……自分でもわからないんだ……! こんなの、苦しくて、怖いはずなのに……向こうの方が優しくて、綺麗なはずなのに……冷たくて……」
許されないのではないか。身を任せてはいけないのではないか。そう思っているのに、自分を縛るものに身を委ねてしまう。
「僕を、独りにしないで……!」
ユキチの言葉を聞いて、玖堂は小さく笑った。その目は少しずつ元の色を取り戻し始めている。
「お前は本当に……昔の俺みたいだな」
玖堂は縄の締め付けを緩めないまま、空いている方の手でユキチの頭を乱暴に、だが包み込むように掴んだ。
「それを望む相手は、本当に俺でいいのか?」
ユキチは歯を食いしばり、玖堂の腕を掴もうとして――その指先が、玖堂のスーツの襟をぎゅっと握りしめた。言葉はない。ただ呻き声のようなものが漏れるだけだ。けれど玖堂は全てがわかっているかのように笑った。
「俺の目を見ろ」
玖堂の言葉に反応するように、ユキチは顔を上げる。どこか虚ろだったアクアマリンの瞳が焦点を結び、その色が元々の薄茶色に戻った。
「お前は天使なんかじゃねえ。ただの怖がりなガキなんだよ」
「……あ、う……玖堂、さん……っ」
それまでの拘束に加え、瞳術での拘束も重ねられてユキチは呻いた。拘束の下で、純白に輝いていた天使の翼が細かな光の粒子となって潮風に霧散していった。
「……ごめん、なさい……っ」
「そんな顔するんじゃねえよ。折角俺に縛られてんだから」
「……え?」
慰められているのかと思ったユキチだったが、さすがに聞き返してしまった。少なくともこの状況で飛び出す言葉とは思えない。
「俺が何も思わずにただ縛ってるだけだと思ってんのか? それの何が楽しいんだよ」
「えっと……そこまで来ると、ちょっと理解の及ばない範囲というか……」
「前も言ったけど、これはあくまで『趣味』だ。まあ実益もかなりあるけどな」
「ええ……」
あまりにも堂々と言われて、若干引いてしまうユキチだった。けれどこの行為に、天使には感じなかった暖かさを感じたのも事実なのだ。包まれていると言うにはきつくて、優しさと言うには苦しいけれど、それは密かに自分の中で育てていた孤独という暗闇を照らすものだった。
玖堂がユキチの四肢を縛っていた霊的な縄を解く。動けるようにはなったが、まだ起き上がることは出来ず、ユキチは地面に仰向けに寝転がった。
「……玖堂さん」
「何だよ」
「ありがとうございました。助けてくれて」
玖堂が胸ポケットから煙草を取り出す。それを口にくわえながら玖堂は笑った。
「さっきは『助けてくれると思ってたのに』って言ってたくせにな」
「あ、あれは……『やるなら一人でやってろ』とか言うから」
「あれに関しては取り消さないからな。俺は楽しみのない世界なんて御免だ」
玖堂は煙草に火をつける。ゆっくりと紫煙を吐き出すその仕草に違和感があった。ユキチは上半身を起こして、玖堂の、煙草を持っていない方の手を掴む。
「玖堂さん……?」
「何だ?」
「手が、すごく冷たくなっているような……?」
「残念ながら手だけじゃねえな」
淡々と言う玖堂にユキチは目を見開いた。その体に触れてみると、それは生きている人間とは思えないほど冷たくなっていた。
「あの翼、鏡になってただろ。あれが体内に入ると体温を著しく下げる効果がある。もうちょっと効果が弱けりゃインフルエンザのときとかに役に立つだろうにな」
「いや、そんな冗談言ってる場合じゃないですよ! それに、僕が――」
ユキチは玖堂の腕を撫でた。その傷はもう消えているし、鏡の破片もない。それでも自分がやったことはしっかりと覚えていた。
「……責任を感じてるって言うなら、償いをしてもらおうか」
「償い……?」
玖堂は短くなった煙草を携帯灰皿に落とした。その動作一つをとっても、どこか緩慢で、重力が数倍になった世界にいるかのようだ。ユキチが触れた彼の肌は、まるで真冬の海から引き揚げられたばかりの死体のように、芯まで凍てついている。
「お前の、その垂れ流しにしている霊力を一時的に借りる。そうでもしねえと向こうには行けなさそうだからな」
「僕の……?」
「そうだ。向こうも俺のことを待っているだろうからな」
遠くの空にときどき強い光が明滅する。そこではティファリアと飛飛が死闘を繰り広げているのだ。
「わかりました。でも……どうやって」
「もう一回縛っていいか?」
「……えっ?」
ユキチから困惑の声が漏れた。しかし今この状況で冗談は言っていないだろう。
「あんなにきつくはしないさ。でもどっかで休んでた方がいいかもな」
「それはどういう……」
「状況によってはお前の力を根こそぎ借りることになるだろうからな」
ユキチは困惑しながらも頷いた。自分のせいで命の火を削っている男の願いだ。それがどんなに奇妙な提案であっても、拒む理由などなかった。
「……本当はもうちょっと準備ができてからにするつもりだったんだけどな」
玖堂は力なく口角を上げると、震える指先で再び印を結んだ。
「――縛」
ユキチの体に、先程よりよりは緩められた霊力の縄が巻き付く。だが、今度の感覚は大きく違った。締め付けられる痛みはほとんどなく、代わりに自分の内側に溜まっていた何かがその縄を伝って恐ろしい速度で玖堂へと吸い取られていくのがわかった。
「っ、あ……」
内側から力が引き抜かれる感覚に、ユキチは視界が回るような感覚に陥る。ふらついたユキチを、いつの間にか顕現していた杏杏が支えた。一方で玖堂の肌には徐々に赤みが戻っていく
「……なるほど。これは天使にも好かれるわけだな」
「えっと……どういうことですか?」
「これに関しては、色々片付いた後に説明してやるよ」
ユキチを支えている杏杏が玖堂に声をかける。その声はどこか切羽詰まっているようだった。
「行くんですか?」
「『こっちが片付いたら行く』って言っちまったからな」
「でも……そんな体で」
「ユキチの力をもらってるから問題ない。まあそのせいでユキチの方はちょっとふらついたりとかするかもしれないから、安全なところにいてくれ。あの天使を片付けないことにはどうにもならないからな」
玖堂は二人に背を向ける。杏杏がさらに声を上げた。
「いくら霊力を補給したからって……それに、その方法は」
「だから、お前はユキチについててくれ。安心しろ。お前の姉貴を助けに行くだけだ」
玖堂は振り返らずに右手を軽く上げて歩き出した。縛られたままのユキチは、自分を支える杏杏に話かける。
「玖堂さん……大丈夫なんでしょうか」
杏杏は一瞬身を固くした。そういえば彼女は人見知りなのだと玖堂が言っていた。玖堂とは普通に喋っているので、慣れれば話してくれるタイプではあるのだろう。杏杏は一度呼吸を整えて、意を決したように言った。
「あんな無茶をして大丈夫なわけないです。でも、それはあなたも同じです」
「え……?」
「今のユキチ様は常に霊力を奪われている状態です。しかも徐々に奪っていくわけではなくて、無理矢理全部奪われているような……死にはしませんが、具合が悪くなったり苦しかったりはするかもしれません。でも――」
「でも?」
「星の翳りが消えるのが見えました。私はそれを信じます」
それがどういう意味なのか、ユキチには完全にはわからなかった。けれど杏杏の確信めいた言葉に安心する。ユキチは杏杏に支えられながら、玖堂が去った方向を見つめていた。
そのときだった。
上空から放たれた光が怪異を攻撃して消滅させる。やったのはユキチだ。
(どういうことだ?)
この怪異たちはティファリアが放ったものだ。玖堂たちを足止めするために手駒として使われている。ティファリアの手の内にあるユキチからすれば味方ではないのか。それなのになぜ攻撃をしたのか。無差別に攻撃しているようには見えない。けれどその攻撃からはどこか余裕のなさを感じた。
(――昔の俺みてえだな)
家の中に、怪異が見えた上で術も使える人間が一人もいなかった。叔父の手ほどきはあったが、まともに力を使えるようになったのは今のユキチよりも少し大きくなってから――高校生になった頃だった。けれど力が使えても、最初は難航していた。叔父は見えないからこそ思いっきり力を放つことが出来たが、玖堂にはそれが出来なかった。
いっそ忘れてしまいたいと思うくらい、未熟だった頃の話だ。
(威力はある。けど使ってる奴の腰が引けてちゃ話にならねえ)
それがわかっていても、怪異たちの存在が恐ろしくて仕方なかったのだ。幼い頃から何の力もない自分に群がってきて、時には取り憑いて、厄介な後遺症まで残した。そんな存在を恐れるなと言うのは無理な話だった。
『しっかり見ろ! そんなんじゃ当たるモンも当たらないぞ!』
叔父の叱責が飛んで来たのを覚えている。そっちは見えてないくせに、と文句を言ったことも忘れてはいない。
(……怖くて、消したくて、仕方なかった)
ユキチが放つ光の矢は、群がる怪異を確実に射抜いていた。しかし、その攻撃は泣き叫んでいる子供と変わりない。敵であるはずの自分を助けたわけではない。ただ、視界に入るおぞましいものを、その恐怖から反射的に排除しているだけだ。
(あの頃の俺と同じか)
玖堂はその光景に、忌々しいほど鮮明な既視感を覚えた。
かつて、自分の部屋の隅に、あるいは通学路の木陰に。
人には見えない何かが蠢いているのを見つけた時の、あの内側からせり上がるような悪寒。叔父に教わった不格好な印を結び、震える声で真言を唱えていた頃の自分。
術が使えたとしてもそれでは意味がないのだと気付いたのは、いつだっただろうか。
(あの天使は、そこまでわかっててユキチを選んだのか?)
泪泪が解析の結果を伝えてくる。天使の目的を考えれば、ユキチはその体質を利用されたと考えて間違いないだろう。けれど連れ去ってすぐにここまで天使の力を使えることは予想していたのだろうか。
(違うな。――あの天使は、ユキチの心の弱いところにつけ込んだ)
そのためにカリグラを植え付けたのだ。カリグラはしてはいけないことをさせてしまう怪異だが、その性質上、その心の中をのぞき見ることになる。教誨師ならば刑務所や少年院に出入りして、そのときにカリグラを捕獲することは難しくなかっただろう。
(まさかここまでのことをしてくるとは思ってなかったからな。後手に回っちまったか。だが――ガキに負けるようじゃ民警なんてやってられねえだろ)
玖堂は上空から闇雲に攻撃を続けるユキチを見上げた。虚ろな目の奥に、確かに怯えたような揺らぎがある。
「さっきからちまちま雑魚ばっかり攻撃してるが、俺のことを忘れてるんじゃないだろうな?」
ユキチが息を呑む。そして取り繕うようにその翼を広げた。翼は鏡の破片に変化して、雨のように玖堂に降り注ぐ。そのいくつかは玖堂の腕に突き刺さったが、玖堂はそれを気にせずにユキチを挑発する。
「せっかくそんなに強い力を手に入れたんだから、もっとビビらずに撃ってこいよ」
ユキチが無言で腕を振る。先程までとは次元の違う光の奔流が、玖堂の頭上から降り注いだ。圧縮された天使の魔力がそのまま叩きつけられる。
凄まじい衝撃波がアスファルトを同心円状に叩き割り、土煙がユキチの視界を遮った。だがその土煙を割って、玖堂は再び姿を現す。
「……この程度で死ぬタマだと思われてんのか、俺は? それはちょっと俺のことを舐めすぎじゃねえかな」
闇雲に攻撃したところで、当たるものも当たらない。
強い奴ほど相手をよく見ているとはよく言ったものだ。ユキチは玖堂の挑発に乗って、怯えながらもその顔を見た。
「そのまま撃ってみろよ。今度は俺に当てられるだろうからな」
ユキチは手を伸ばす。しかし防御どころか構えもせずに立っている玖堂に対して攻撃を放つことが出来なかった。それはユキチに決定的な隙を生む。すかさず玖堂は口を開いた。
「――縛」
純白の翼もろとも、ユキチの体が玖堂の霊力に囚われた。浮力を失ったユキチの体がゆっくりと地面に落ちてくる。地面に叩きつけられることがないよう、落下速度は玖堂によって調整されていた。地面に転がったユキチは、どこか諦めたような目をしてぼんやりとしている。玖堂はユキチに歩み寄って、その顎を掴んだ。
「俺に縛られてんのに、そんな顔されちゃ困るんだよな」
「……やめて、来ないで……!」
ユキチの震える声が、夜の静寂に溶けていく。地面に組み伏せられたまま、彼は必死に首を振った。
玖堂の手から伸びた霊的な縄が、ユキチの四肢と純白の翼を無慈悲に締め上げる。天使の魔力と玖堂の霊力が衝突し、接点からパチパチと青白い火花が散った。
「捕まってんのに『来ないで』もねえだろ。お前と俺じゃ場数が違うんだよ」
玖堂は顎を掴む手に力を込めた。ユキチの瞳に、逃れようのない恐怖と、それ以上に深い絶望が宿る。
「……玖堂さんは、どうして……僕のことを傷つけるの? もう放っておいてよ!」
ユキチの叫びと共に、捕縛の縄を内側から焼き切ろうとするほどの閃光が溢れ出した。逆流する魔力が玖堂の腕を焼き、鼻腔に肉の焦げる嫌な臭いが漂う。それでも、玖堂は指一本動かさなかった。
「放っといてか。天使様のところはずいぶん快適だったらしいな」
「それは……」
「まあ、俺はお前にとって痛くて怖いことばっかりするもんな。そりゃそうだ」
玖堂はどこか自嘲するように笑う。自分のやり方は多くの人に受け入れらるものでないことはとっくの昔にわかっていた。
「でも捕まっちまったもんな。あの天使がお前を助けに来てくれることを祈ってみるか?」
「それは……」
「結局あの天使のことも信用できねえか」
ユキチが逃れようと身じろぎする。しかし動けば動くほど霊的な縄の締め付けはきつくなる。ユキチの顔が痛みに歪んだ。
「別にそんなことでお前を責めたりはしない。俺も、最終的に信じられるのは自分だけだと思ってるからな。運がよけりゃ助けてくれる奴もいるだろうけど、窮地に陥るほど運が悪いってのに誰かが来てくれる幸運なんて信じられないだろ」
それはこれまでの積み重ねの結果、辿り着いた結論だった。助けてくれる人がいなかったわけではない。けれどいつもいたわけでもない。最終的には自分を信じるしかなかったのだ。
「僕は……この光を広げないと……」
「何のために?」
「だって……怖いものも、嫌なものも、全部綺麗に変えられるから……」
玖堂は曖昧に笑った。ユキチの考えも理解できる。自分を害するものを全て綺麗な模様に変えられるのならその方がいいのかもしれない。
「……その綺麗な世界を作ったとして、そこにまた怖いものが出てきたらどうする?」
「それは……」
「たとえば世界を切り取って、ここからここまでが綺麗なものだと決めたら、いずれ絶対にそこからはみ出すものが出てくる。その度にそれを排除していったら、その枠はどんどん小さくなっていく。お前ははみ出したものを永遠に排除し続けることになるだろうな」
元々この世界はそれで破綻しかけて、その枠を一度広げたことで成立している。人と同じように守るべきものに従って生活するなら受け入れることにした。それは民警というものの歴史にも絡む話だ。
「それなら、はみ出すものを出さなければいい」
「そうか。じゃあお前はその世界で何を楽しみに生きていくつもりだ?」
ユキチの顔に疑問符が浮かび、その目が一瞬焦点を取り戻す。そのくらいユキチにとっては意味がわからない問いだったのだろう。
「……楽しみ、なんて」
ユキチの唇が震える。縄の食い込む痛みに耐えながら、彼は絞り出すように答えた。
「……怖くないなら、それでいい。嫌なことが起きないなら、何だって……。あんな、お化けみたいなものに追いかけ回されることも、誰かに変な目で見られることもないなら、それで……!」
「それで、満足か。……俺はそんなの御免だけどな」
玖堂は鼻で笑い、さらにユキチの顔を覗き込んだ。
「いいか、ユキチ。完璧に綺麗な世界ってのはな、変化がないってことだ。ずっと変わらずに幸せが維持されるかもしれないし、停滞を悪と言うつもりはねえが、それ以上の楽しみもない世界だ。お前がそれを望もうとも、俺はそれを望まない。やるなら一人でやってろ」
玖堂の言葉は、天使の魔力で麻痺していたユキチの思考に、冷水を浴びせるような鋭さで突き刺さった。
「玖堂さんは、僕を助けてくれると思ったのに……」
ユキチはそうこぼした。最初に会った日のように、訳もわからず巻き込まれている自分を、玖堂なら救ってくれると思っていた。しかし先程の言葉はユキチを突き放すものだった。玖堂は呆れたように言う。
「じゃあお前の言う『助かる』って何だよ。さっき言ってたように全部綺麗に染めるんだったら、も自分だけでもできるだろ。お前は俺に何を望んでいる?」
「僕は……」
「ただ痛みや苦しみがない世界を望むなら、あの天使に頼んだ方がいい。それを踏まえた上で、お前は何を望む?」
縄がさらにきつくなり、ぎしりと音を立てる。呼吸さえ制限されているようだった。けれどこの行為に別の面があることにもユキチは気付き始めていた。
「……玖堂さんは、ずるい。そうやって、また僕を……この汚くて、痛いところに引き戻そうとする……!」
ユキチの瞳から涙が溢れ出した。それは光を放つ魔力の結晶ではなく、ただの熱い、人間としての涙だった。
「それが嫌なら自分の力で破ってみろ。……今のお前なら、心から望めばこんな拘束くらい簡単に抜け出せる」
「僕は……」
苦痛を突きつけてくるはずの存在だった。このままでいたら、あの柔らかなベッドで、綺麗なものだけに包まれていられるはずだ。それなのに、そこに居続けることも怖いのはどうしてだろうか。縛られて痛くて苦しいはずなのに、どこか安心するのはどうしてだろうか。
「何でなのか……自分でもわからないんだ……! こんなの、苦しくて、怖いはずなのに……向こうの方が優しくて、綺麗なはずなのに……冷たくて……」
許されないのではないか。身を任せてはいけないのではないか。そう思っているのに、自分を縛るものに身を委ねてしまう。
「僕を、独りにしないで……!」
ユキチの言葉を聞いて、玖堂は小さく笑った。その目は少しずつ元の色を取り戻し始めている。
「お前は本当に……昔の俺みたいだな」
玖堂は縄の締め付けを緩めないまま、空いている方の手でユキチの頭を乱暴に、だが包み込むように掴んだ。
「それを望む相手は、本当に俺でいいのか?」
ユキチは歯を食いしばり、玖堂の腕を掴もうとして――その指先が、玖堂のスーツの襟をぎゅっと握りしめた。言葉はない。ただ呻き声のようなものが漏れるだけだ。けれど玖堂は全てがわかっているかのように笑った。
「俺の目を見ろ」
玖堂の言葉に反応するように、ユキチは顔を上げる。どこか虚ろだったアクアマリンの瞳が焦点を結び、その色が元々の薄茶色に戻った。
「お前は天使なんかじゃねえ。ただの怖がりなガキなんだよ」
「……あ、う……玖堂、さん……っ」
それまでの拘束に加え、瞳術での拘束も重ねられてユキチは呻いた。拘束の下で、純白に輝いていた天使の翼が細かな光の粒子となって潮風に霧散していった。
「……ごめん、なさい……っ」
「そんな顔するんじゃねえよ。折角俺に縛られてんだから」
「……え?」
慰められているのかと思ったユキチだったが、さすがに聞き返してしまった。少なくともこの状況で飛び出す言葉とは思えない。
「俺が何も思わずにただ縛ってるだけだと思ってんのか? それの何が楽しいんだよ」
「えっと……そこまで来ると、ちょっと理解の及ばない範囲というか……」
「前も言ったけど、これはあくまで『趣味』だ。まあ実益もかなりあるけどな」
「ええ……」
あまりにも堂々と言われて、若干引いてしまうユキチだった。けれどこの行為に、天使には感じなかった暖かさを感じたのも事実なのだ。包まれていると言うにはきつくて、優しさと言うには苦しいけれど、それは密かに自分の中で育てていた孤独という暗闇を照らすものだった。
玖堂がユキチの四肢を縛っていた霊的な縄を解く。動けるようにはなったが、まだ起き上がることは出来ず、ユキチは地面に仰向けに寝転がった。
「……玖堂さん」
「何だよ」
「ありがとうございました。助けてくれて」
玖堂が胸ポケットから煙草を取り出す。それを口にくわえながら玖堂は笑った。
「さっきは『助けてくれると思ってたのに』って言ってたくせにな」
「あ、あれは……『やるなら一人でやってろ』とか言うから」
「あれに関しては取り消さないからな。俺は楽しみのない世界なんて御免だ」
玖堂は煙草に火をつける。ゆっくりと紫煙を吐き出すその仕草に違和感があった。ユキチは上半身を起こして、玖堂の、煙草を持っていない方の手を掴む。
「玖堂さん……?」
「何だ?」
「手が、すごく冷たくなっているような……?」
「残念ながら手だけじゃねえな」
淡々と言う玖堂にユキチは目を見開いた。その体に触れてみると、それは生きている人間とは思えないほど冷たくなっていた。
「あの翼、鏡になってただろ。あれが体内に入ると体温を著しく下げる効果がある。もうちょっと効果が弱けりゃインフルエンザのときとかに役に立つだろうにな」
「いや、そんな冗談言ってる場合じゃないですよ! それに、僕が――」
ユキチは玖堂の腕を撫でた。その傷はもう消えているし、鏡の破片もない。それでも自分がやったことはしっかりと覚えていた。
「……責任を感じてるって言うなら、償いをしてもらおうか」
「償い……?」
玖堂は短くなった煙草を携帯灰皿に落とした。その動作一つをとっても、どこか緩慢で、重力が数倍になった世界にいるかのようだ。ユキチが触れた彼の肌は、まるで真冬の海から引き揚げられたばかりの死体のように、芯まで凍てついている。
「お前の、その垂れ流しにしている霊力を一時的に借りる。そうでもしねえと向こうには行けなさそうだからな」
「僕の……?」
「そうだ。向こうも俺のことを待っているだろうからな」
遠くの空にときどき強い光が明滅する。そこではティファリアと飛飛が死闘を繰り広げているのだ。
「わかりました。でも……どうやって」
「もう一回縛っていいか?」
「……えっ?」
ユキチから困惑の声が漏れた。しかし今この状況で冗談は言っていないだろう。
「あんなにきつくはしないさ。でもどっかで休んでた方がいいかもな」
「それはどういう……」
「状況によってはお前の力を根こそぎ借りることになるだろうからな」
ユキチは困惑しながらも頷いた。自分のせいで命の火を削っている男の願いだ。それがどんなに奇妙な提案であっても、拒む理由などなかった。
「……本当はもうちょっと準備ができてからにするつもりだったんだけどな」
玖堂は力なく口角を上げると、震える指先で再び印を結んだ。
「――縛」
ユキチの体に、先程よりよりは緩められた霊力の縄が巻き付く。だが、今度の感覚は大きく違った。締め付けられる痛みはほとんどなく、代わりに自分の内側に溜まっていた何かがその縄を伝って恐ろしい速度で玖堂へと吸い取られていくのがわかった。
「っ、あ……」
内側から力が引き抜かれる感覚に、ユキチは視界が回るような感覚に陥る。ふらついたユキチを、いつの間にか顕現していた杏杏が支えた。一方で玖堂の肌には徐々に赤みが戻っていく
「……なるほど。これは天使にも好かれるわけだな」
「えっと……どういうことですか?」
「これに関しては、色々片付いた後に説明してやるよ」
ユキチを支えている杏杏が玖堂に声をかける。その声はどこか切羽詰まっているようだった。
「行くんですか?」
「『こっちが片付いたら行く』って言っちまったからな」
「でも……そんな体で」
「ユキチの力をもらってるから問題ない。まあそのせいでユキチの方はちょっとふらついたりとかするかもしれないから、安全なところにいてくれ。あの天使を片付けないことにはどうにもならないからな」
玖堂は二人に背を向ける。杏杏がさらに声を上げた。
「いくら霊力を補給したからって……それに、その方法は」
「だから、お前はユキチについててくれ。安心しろ。お前の姉貴を助けに行くだけだ」
玖堂は振り返らずに右手を軽く上げて歩き出した。縛られたままのユキチは、自分を支える杏杏に話かける。
「玖堂さん……大丈夫なんでしょうか」
杏杏は一瞬身を固くした。そういえば彼女は人見知りなのだと玖堂が言っていた。玖堂とは普通に喋っているので、慣れれば話してくれるタイプではあるのだろう。杏杏は一度呼吸を整えて、意を決したように言った。
「あんな無茶をして大丈夫なわけないです。でも、それはあなたも同じです」
「え……?」
「今のユキチ様は常に霊力を奪われている状態です。しかも徐々に奪っていくわけではなくて、無理矢理全部奪われているような……死にはしませんが、具合が悪くなったり苦しかったりはするかもしれません。でも――」
「でも?」
「星の翳りが消えるのが見えました。私はそれを信じます」
それがどういう意味なのか、ユキチには完全にはわからなかった。けれど杏杏の確信めいた言葉に安心する。ユキチは杏杏に支えられながら、玖堂が去った方向を見つめていた。
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