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第一部
13 天使と人間
飛飛の力は限界に近付いていた。そこに怒りに身を任せた天使が流星群のような光を降らせる。それは美しくはあるが凶悪な光だった。攻撃を避けきれないと判断した飛飛は、せめて致命傷は避けようと身を固くする。
――そのときだった。
「急急如律令!」
虚空から飛び出した白虎がティファリアの放った光を食らう。天使は忌々しげに玖堂を見下ろした。
「随分好き勝手やってくれたな、天使様。俺の式神にも、ユキチにも」
玖堂の声が、戦場に響き渡る。飛飛が驚愕に目を見開き、ティファリアが忌々しげに顔を歪めた。玖堂の全身から、ユキチから吸い上げた透明な霊力と彼自身の霊力が混じり合い、歪な螺旋となって立ち昇る。
「飛飛、お前は下がっていろ。ここからは俺の『趣味』の時間だからな」
玖堂の瞳には、かつてないほど冷徹で、かつ狂気じみた戦意が宿っていた。しかし天使には翼があり、上からの攻撃ができる。飛飛は式神であるが故に空中でも戦えるが、人間には無理だ。
(まずは引きずり落とすか)
玖堂はティファリアに気付かれないように周囲を見回し、脳内で泪泪に指示を出す。その間もティファリアの攻撃は続いていた。
(まるで弾幕だな。逆方向の力をぶつけて押し留めてるが、そう長くはもたない)
ティファリアは激怒していた。飛飛はそれほどまでのダメージを天使に与えていたのだ。玖堂は飛飛が刻んだ傷跡――純白の衣が裂け、そこから覗くティファリアの焦燥を冷徹に見据えていた。
玖堂は懐から五枚の呪符を出して扇状に放った。それらは空中で静止し、幾何学的な陣を描く。ティファリアは鼻で笑い、無数の光矢でそれらを一掃しようとした。
「無駄なことを。地を這う虫の足掻きが天に届くとでも?」
「天だの何だのうるせえよ。こっちは地に足つけて生きてんだ。お前をそのお高く止まってる場所から引きずり落としてやるよ」
玖堂が印を組み替えた瞬間、五枚の呪符が漆黒の霊力を噴き上げた。それは光を反射するのではなく、光を喰らう性質を持つ。ティファリアの放った弾幕がその黒い渦に飲み込まれ、不協和音を立てて霧散する。
「悍ましい力を……!」
「これを悍ましいとは失礼だな。この国じゃ神として祀られてるんだぜ?」
祀ることで鎮めて人は人の生活を守ろうとした。そして玖堂の中にはそれを執り行っていた人間たちの血が流れているのだ。
「まあこういうときじゃなきゃ使わないけどな」
溢れ出した力を吸わせて呪符にしているだけだが、それでも制御するのは難しい。体に刻まれた模様が痛み出した。しかし玖堂は痛みに耐えながら足元の影に指を突き立てた。
「――行くぞ、泪泪」
同時に、虚空から現れた黒い鎖がティファリアの翼に絡みついた。それは天使の力とは相反するものだ。更に追加された黒い鎖が物理的な質量を持って天使の四肢に絡みつく。
「ぐ、うぅ……ッ! 人間如きが……この私を、縛るなどと……!」
「せっかくなんだから縛られてることを楽しもうぜ――天使様」
玖堂は全身の筋肉を軋ませ、体重をかけて縄を引いた。この力を使うには負担がかかる。それは玖堂だけではなく、霊力を吸い上げられているユキチも同じだ。この戦いが彼に負担をかけることはわかっている。だからこそ打ち勝たなければならなかった。
「こっちへ来いよ。夜はまだまだ長いからな」
激しい衝突音と共に、ティファリアの体がアスファルトに叩きつけられた。土煙が舞い、天使の黄金の輝きが煤けた。
「っ……こんなことを……!」
「俺はあんたが望んでいる、綺麗だけど何の楽しみもなさそうな世界なんて御免なんだよ。それに人の心を塗りつぶして平気な顔をしている奴も嫌いだ」
「私は人を正しい方向に導こうとしているのに……!」
天使の美しい顔が歪む。玖堂は鎖を引きながら笑った。
「そんな高尚な気持ちでやってんのかよ、本当に。俺にはただ人間を弄んで楽しんでるようにしか見えなかったけどなぁ」
「……楽しんでいる、だと?」
ティファリアの喉から漏れたのは、銀鈴を転がすような声ではなく、地底から響くような不吉な地鳴りだった。
アスファルトに叩きつけられた衝撃で、その端正な輪郭がわずかに崩れ、歪んでいる。
「人間ごときが、私の慈愛をそのように汚すのですか。……ああ、やはりこの世界には『欠陥』が多すぎる。正しき模様に書き換えるには、一度すべてを更地にするしかないようですね」
「……あ?」
玖堂が眉を寄せた瞬間、世界から色が消える。
ティファリアの背から、黒い鎖を断ち切って三対の翼が現れた。
「……ふふ、ふははははッ!」
地面に膝を突きながら、天使が狂ったように笑い出す。天使の放つ魔力は対峙するだけで人間の生命を削るほどのものだ。それが今、剥き出しの状態で玖堂に向けられていた。
しかし玖堂はその圧倒的な力を前に尚も笑っていた。
「ようやく本性を現しやがったな。俺はな、善人ぶってるやつの仮面を引き剥がして、醜い本性を晒してやるのが好きなんだよ」
「不遜な人間め……神の怒りを知るがいい!」
「それは嫌だね。まだこの世界で楽しんでたいもんで」
光の槍が降り注ぐ。いくつかはその軌道を逸らし、追いつかないものは逆の力をぶつけて相殺する。しかしその対処に追われてティファリアの接近を許してしまった。勢いをつけて後退しようとするが間に合わず、右目に伸ばされた指が眼球を抉る。
「お前の力の源はそこか」
「随分なことしてくれるじゃねえか……気に入ったぜ、天使様」
玖堂は呻きながらもそう言い返す。右目から鮮血が溢れ、頬を伝ってアスファルトに滴った。生まれ持った目の力が玖堂の術式の中心であるのは事実だ。しかし玖堂は苦痛に顔を歪めながらも天使の腕に独鈷杵を突き刺した。
***
杏杏に支えられながら、ユキチはかすかに呻き声をあげた。玖堂が遠慮なくユキチの力を吸い上げ、天使と交戦している。その影響が出ているようだった。
「ちょっとどころじゃなくフラフラする……」
「相手は天使なので、力の出し惜しみはできないかと」
縛られたまま動けない状態で、力を吸い上げられている。その状況は快適とは言い難いが、玖堂が戦っている証であることは確かだった。何かできることはないのだろうかと考えてしまうが、黙って力を渡していればいいのだと杏杏に言われてしまった。
「……う、あ……ッ」
ユキチは不意に、自分の右目に焼け付くような激痛を覚え、その場に蹲った。実際に傷を負ったわけではない。しかし、霊力の繋がりを通じて、玖堂が受けた傷が分かちがたい痛みとなって逆流してきたのだ。
「ユキチさん!」
「杏杏さん、これは……っ?」
「……主様の右目は力の核です。強さの源泉であり、最大の弱点でもあります」
ユキチの指の間から、まるで本物の血のように透明な霊力が溢れ出す。視界が赤く染まり、意識が遠のきかけた。しかしそれ以上に強くユキチの魂を揺さぶったのは、霊力の繋がりを通して流れ込む高揚感だった。
「……どうして、こんな……」
「そういう人なんです。昔、姉様と戦っていたときも笑ってました」
「痛くて、怖いはずなのに……どうして」
昔の自分みたいだ、と言ったのは玖堂自身だ。同じように霊が集まってくる体質で、怖いものを沢山見てきたのだろう。それなのに今はどうして笑っているのだろう。何を乗り越えたら、絶体絶命の状況で高揚感を味わったり出来るのだろう。
「それは、私にはわかりません。ですが――多分本当に楽しいんだと思いますよ」
理解できない。何がどうなったらそう思えるようになるのだろうか。けれど逆流してくる感情はユキチの心にも変化を与えていた。
「……あは、ははっ!」
ユキチの口から、自分でも信じられないような乾いた笑いが漏れた。
右目を焼くような激痛。身体中から力が引き抜かれていく倦怠感。それらすべてを塗りつぶすようにして流れ込んでくる玖堂の感情は、あまりにも熱いものだった。
「……玖堂さんは、おかしいよ」
ユキチは震える手で、地面のアスファルトを強く掴んだ。
自分はあんなに怖かった。怪異に見つかるのが、取り憑かれるのが、死ぬほど怖かった。兄の事件にかこつけて自分を虐げる人間達も怖かった。だから天使が差し出した綺麗な世界に惹かれてしまったのだ。
けれど、玖堂は違う。
その世界で何を楽しみに生きていくつもりだ――玖堂に投げかけられた問いが、今更ながらに突き刺さる。玖堂はユキチが知らない熱の中に生きているのだ。そしてその熱は、天使が望む世界の中には生まれない。それなら戦うしかないのだ。
「杏杏さん……僕、少しだけ……わかったかもしれない」
「……え?」
「全部を綺麗にして、何も変化のないところで生きるより……こうやって、痛い思いをしながらでも戦う方が……ずっと、生きてる感じがする」
ユキチから溢れ出す霊力が、その意志に伴って徐々に増えていく。
これまでは一方的に吸い上げられるばかりだった。しかし今は、ユキチ自身の意志がその奔流に混ざり合っている。恐怖を燃料に、怒りを炎に。そして何より――戦いに対する高揚感を。
「……全部、持って行っていいから……だから必ず……!」
ユキチが叫ぶと同時に、彼を縛る霊力の縄が青白い火花を散らし、戦場の玖堂へと膨大な力を送り込んだ。
***
(何があったかは知らねえが、いい力だ)
ユキチの霊力は純粋で、どこか暖かい。それが嫌なものを引き寄せる原因でもあったが、そういう存在からしても、もちろん玖堂からしても、魅力的な力だった。
右目から血を流し、至近距離でティファリアと対峙していた玖堂が、血塗れの口角を吊り上げた。
独鈷杵を突き刺した天使の腕からは黄金の液体が流れていた。人と似た姿をしているが、目の前の存在は人ではない。その美しい傷とは対照的に、玖堂の体は土煙と血で汚れていた。
「残念だったなぁ、天使様。ユキチはお前が用意したふかふかのベッドより、薄汚れた地面の方が好みみたいだな」
右目は奪われたが、ユキチの力で多少補えてはいる。視力に関しても、泪泪との視覚共有により、戦う分には問題ない状態だった。笑いながら言う玖堂にティファリアは怒りをぶつける。
「お前は、そうやって人の道を踏み外させるのだな」
「道を踏み外す、ねえ……正しい道ってのが平均台くらいの細さしかないのは大分問題だと思うぜ?」
「あの力があれば、誰も道を踏み外さずに、そして仮に踏み外したものがいてもすぐに正しい道に戻すことが出来たのに」
「たいそうな理想だが、そんなつまらねえ世界は願い下げだね」
ユキチの霊力と自分自身のそれを混ぜ合わせて、ひとつのものに変換する。それは黒い縄へと変化し、天使の体に同時に絡みついた。
「何ならここで縛りの良さを教えてやってもいいんだけどなぁ?」
「っ……私を愚弄するな! 汚らわしい人間め!」
「だったらお得意の力で俺を正しい道とやらに戻してみろよ。それとももう大人だからガキと違って可塑性がないから極刑にするか?」
「黙りなさい! このような縄など……!」
ティファリアの体が発光する。もちろん天使の本気に、あくまで人間である玖堂の力が耐えられるはずはない。それは玖堂自身にもわかっていることだった。
「いいぜ。そのまま力を出せばこんな縄なんて簡単に破壊できる。でも、一回でも捕まったらおしまいだ。無理にそれを破れば、お前の傲慢で醜い本性が曝け出されるだろうな」
「人間ごときが……っ!」
ティファリアが激昂し、縛られたまま三対の翼を羽ばたかせる。空間が歪んで全方位から光弾が玖堂を襲った。
しかし、玖堂は動かない。抉られた右目の奥で、ユキチから流れ込む膨大な霊力を一点に集中させ、漆黒の術式を編み上げていく。
「――『蝕』」
玖堂が短く唱えると同時に、彼の周囲に展開された黒い霊力の障壁が、降り注ぐ光弾を真っ向から受け止めた。爆音と共にアスファルトが砕け散り、衝撃波が周囲の空気を焼き尽くす。しかし、玖堂は一歩も引かない。血に染まった右目の奥に宿る空洞が、ユキチから借り受けた純粋な熱を、冷徹な破壊の力へと変換していく。
「何という執念。なぜ、そこまでしてこの穢れた世界に執着するのですか」
光と闇の渦の中で、ティファリアの声が震えていた。それは怒りではなく、理解不能なものへの根源的な恐怖に近い。
「執着じゃねえよ。これはただの『趣味』だ」
玖堂は右手を強く握り込み、天使に絡みついた黒い縄を限界まで締め上げた。縄はティファリアの神聖な魔力を徐々に蝕んでいく。
「人間ごときが……人間など、神と神の使いである我々にただ従っていればいいものを……!」
ティファリアが激昂する。しかし玖堂は笑みを崩さなかった。
「それが傲慢だって言ってんだよ。自分たちが上であり、正しいことを信じて疑わない。こっちは勝手に地面を這いつくばって生きていくから、そっちも勝手にやってくれよ」
玖堂の掌の一点に凝縮された黒い霊力が、至近距離からティファリアの胸元へと放たれた。それはティファリアのもたらす浄化の対極にあるような、ドロドロとして熱い何かだった。
「あああああッ! 汚らわしい、汚らわしい……!」
ティファリアの三対の翼が、内側から噴き出した黒い泥によって無残に引き裂かれていく。ティファリアは黒の侵蝕から逃れようと力を放出するが、黒い縄はそれを許さなかった。
「お前の負けだ、天使様。せめて最後くらい、気持ちよくしてから消してやるよ」
玖堂は抉られた右目を見開いたまま、地獄の底から響くような声で笑った。その瞬間、夜の闇を切り裂くような轟音と共に、天使の輝きが音を立てて崩壊し始めた。
「わ……私は……人間などには……消されたりしない……!」
しかしティファリアは最後の力を振り絞って黒い縄を振り切り、一瞬で上空に飛び去った。飛飛が顕現してそれを追おうとするが、玖堂はそれを制した。
「あの傷じゃしばらく大人しくしてるしかないだろ。もういい。俺も……さすがに限界だ」
玖堂は苦笑してその場に崩れ落ちる。飛飛は玖堂を支え、泪泪は天使が残していった玖堂の右目を拾い上げた。
「……置いていったのかよ、あのクソ天使。これ腕のいい外科医だったら何とか出来たりするのか?」
さすがに民警の腕利きの治癒魔法の使い手を連れてきても、抉られた目をどうにかすることは出来ないだろう。治癒魔法の基本は傷口を縫い合わせるような技術だからだ。それよりは最新の設備の整った病院で、腕のいい外科医に何とかしてもらった方がいい傷もある。
「――おやおや、楽しそうだから来てみたら何てザマだい」
そのときどこからか聞こえて来た声に、玖堂は大きな溜息を吐いた。近くの街灯の上から飛び降りてきたのは、背中に蜘蛛の足を蠢かせた女――纓羅であった。
「何しに来たんだよ、こんな時に」
「面白そうなことになってるから来てやったんだよ。でもなかなか近づけなくてねぇ」
「天使が結界でも張ってたんだろ。邪悪な妖怪には違いないからな」
「あんた相変わらず失礼だねぇ、このあたしに向かって」
纓羅がゆっくりと近付いてくる。飛飛と泪泪が警戒、というよりは明確な敵意を彼女に向けているのがわかった。
「まあまあ、そんな怖い顔しなさんな。一番楽しいところを見逃した腹いせに、その目を治してやろうって話なんだからさ」
「……本気で言ってんのか?」
「あたしの糸なら血管も視神経も霊力の管も綺麗につないで元通りさ。まあ色が見えなくなることに関しては、あたしの力でもどうにもなんないけどねぇ。ついでに傷口もちゃあんと縫ってやるから安心しな」
普段の行いのせいで全く安心できないことに纓羅は気付いているのだろうか。しかし纓羅の言葉が嘘でないこともわかる。泪泪は溜息交じりに言った。
「嘘ではないようですが……」
「ああ、そうみたいだな」
泪泪との視覚共有を切っていなかったので、普通では見えないものも見える。嘘もそのひとつだ。しかし纓羅には嘘の色は見えない。つまり彼女は本気で言っているということになる。
「……何が狙いだ?」
「なあに、そんなに難しい話じゃないさ。遊び相手が減ったら悲しいじゃないか」
「人間はその遊びで普通に死ぬんだけどな」
しかし、纓羅が嘘を言っていないことはわかる。玖堂は泪泪に指示をして、彼女が持っていた眼球を纓羅に渡した。
「素直でよろしい」
纓羅は泪泪から受け取った玖堂の右目を、まるで宝石でも愛でるかのように月明かりにかざした。血に濡れ、ドロリとしたそれは、彼女の細長い指先の上で奇妙な質感を放っている。
「さあ、始めようか。少し痛いかもしれないけどねぇ」
彼女の背中から生えた蜘蛛の脚が、器用に玖堂の顔の傷口を固定する。同時に、纓羅の指先から、目に見えぬほど細く、銀色に輝く糸が吐き出された。それは当然医療用の縫合糸などではない。彼女の妖力そのものを編み上げた糸だ。
「っ、ぐ……!」
玖堂に脳を直接焼かれるような激痛が走る。視神経が強引に繋ぎ直され、霊力の管が再び動き出する度に体温が異常な速さで上昇していく。隣で見守る飛飛が、思わず剣の柄に手をかけた。
「安心しなよ。この程度の痛みなら気持ちいいくらいだろう?」
「相手がお前ってことを除けばな」
「ほら、そういうことだから。その物騒な手は下ろしてくれ」
纓羅は鼻歌を歌うような余裕で、瞬きほどの間に数千もの結び目を作っていく。
やがて彼女が糸を切ると、玖堂の右目の周りにあった凄惨な傷跡は、まるで最初からなかったかのように消え去っていた。
「……ふぅ。血管も神経も、これ以上ないってくらい完璧に繋いでおいてやったよ。あたしの手技に畏れおののくがいいさ」
玖堂はゆっくりと、新しく嵌め込まれた右目を開いた。
色という情報が抜け落ち、すべてがモノクロームの濃淡だけで構成された世界。しかしこの光景は見慣れたものだ。昔からの後遺症の方はどうにも出来ないと纓羅自身が言っていた。宣言通りの仕上がりだ。
「……助かった。お前に礼を言わないといけないこと以外は最高の出来だ」
「せいぜいあたしが治してやった目で、色々なものを見るといいさ。その度にあたしに感謝することだね」
「ついでにこの後遺症も治してくれたら名医として讃えてやったんだけどな」
「そっちは専門外だからねぇ。本当はあの坊やにも挨拶しておこうかと思ったんだけど、今行ったらそこの式神に切り刻まれそうだからやめておくよ。それじゃあ、また遊びに来るからね」
「もう来なくていいんだけど」
玖堂の言葉を無視した纓羅は妖しく笑うと、夜の闇に溶けるようにして姿を消した。
静寂が戻った海岸線に、ようやく一息ついたユキチが、杏杏に支えられながら駆け寄ってくる。
「玖堂さん……大丈夫、なんですか……?」
玖堂は色のない世界で、駆け寄ってくる少年の姿を捉えた。
戦いが終結すると同時にユキチを縛っていた縄は解いた。玖堂が吸い上げていた力はほとんどユキチの体に戻り、その霊力の輝きは、モノクロームの世界でもはっきりと見える。
「……ああ、まあ色々あったけどな。とりあえず何とかなりそうだ」
けれど全力の戦いで疲れてしまった。これから車を運転して戻るにしても、自分しか運転できる人間がいないというのは不安だ。そのとき、どこからかパトカーのサイレンの音が聞こえた。
「運転手が来てくれたみたいだな」
玖堂が呟くと、近くでパトカーが停車する。そこから現れたのは異動になったはずの岬だった。
「岬さん! どうしてここに」
「ああ、ユキチくんがいなくなったってお母さんから連絡があってね。佐藤が色々探してたらしいんだけど、見つからないってこっちに連絡してきてさ。佐藤はまだ来て間もないから土地勘もないだろうしってことで捜索を手伝ってたんだ。玖堂くんにも連絡したんだけどねぇ」
そのときは電話に出られるような状態ではなかったのだろう。スマホを確認してみると、確かに岬からの不在着信が残っている。
「とにかく無事で良かった。話は落ち着いてから聞くから、今日はとりあえず家まで送っていくよ」
「あ……ありがとうございます!」
ユキチは岬に礼を言った。知らないうちに警察も動き出すほどの大事になっていたらしいということにようやく気付いたのだった。
「玖堂くんはどうする?」
「途中まで車で来たんだけどな。今運転できる状態じゃねえ」
「式神さんたちって運転できないんだっけ」
「全員無免許に決まってんだろ。警察が無免許運転推奨するなよ」
「確かにそうだねぇ。じゃあ玖堂くんは署までご同行願うということで」
任意同行ってことは断ってもいいんだよな、と言いつつも、この件について民警として報告しなければならないことがある。玖堂は岬の言葉に素直に従うことにした。
「車は自走は出来るんだよね? 鍵貸してくれたらあとで佐藤に回収してもらうけど」
「ああ、そうしてくれると助かる」
玖堂は車の鍵を岬に渡した。それから玖堂は式神たちを隠形させ、ユキチと共にパトカーに乗り込むのだった。
――そのときだった。
「急急如律令!」
虚空から飛び出した白虎がティファリアの放った光を食らう。天使は忌々しげに玖堂を見下ろした。
「随分好き勝手やってくれたな、天使様。俺の式神にも、ユキチにも」
玖堂の声が、戦場に響き渡る。飛飛が驚愕に目を見開き、ティファリアが忌々しげに顔を歪めた。玖堂の全身から、ユキチから吸い上げた透明な霊力と彼自身の霊力が混じり合い、歪な螺旋となって立ち昇る。
「飛飛、お前は下がっていろ。ここからは俺の『趣味』の時間だからな」
玖堂の瞳には、かつてないほど冷徹で、かつ狂気じみた戦意が宿っていた。しかし天使には翼があり、上からの攻撃ができる。飛飛は式神であるが故に空中でも戦えるが、人間には無理だ。
(まずは引きずり落とすか)
玖堂はティファリアに気付かれないように周囲を見回し、脳内で泪泪に指示を出す。その間もティファリアの攻撃は続いていた。
(まるで弾幕だな。逆方向の力をぶつけて押し留めてるが、そう長くはもたない)
ティファリアは激怒していた。飛飛はそれほどまでのダメージを天使に与えていたのだ。玖堂は飛飛が刻んだ傷跡――純白の衣が裂け、そこから覗くティファリアの焦燥を冷徹に見据えていた。
玖堂は懐から五枚の呪符を出して扇状に放った。それらは空中で静止し、幾何学的な陣を描く。ティファリアは鼻で笑い、無数の光矢でそれらを一掃しようとした。
「無駄なことを。地を這う虫の足掻きが天に届くとでも?」
「天だの何だのうるせえよ。こっちは地に足つけて生きてんだ。お前をそのお高く止まってる場所から引きずり落としてやるよ」
玖堂が印を組み替えた瞬間、五枚の呪符が漆黒の霊力を噴き上げた。それは光を反射するのではなく、光を喰らう性質を持つ。ティファリアの放った弾幕がその黒い渦に飲み込まれ、不協和音を立てて霧散する。
「悍ましい力を……!」
「これを悍ましいとは失礼だな。この国じゃ神として祀られてるんだぜ?」
祀ることで鎮めて人は人の生活を守ろうとした。そして玖堂の中にはそれを執り行っていた人間たちの血が流れているのだ。
「まあこういうときじゃなきゃ使わないけどな」
溢れ出した力を吸わせて呪符にしているだけだが、それでも制御するのは難しい。体に刻まれた模様が痛み出した。しかし玖堂は痛みに耐えながら足元の影に指を突き立てた。
「――行くぞ、泪泪」
同時に、虚空から現れた黒い鎖がティファリアの翼に絡みついた。それは天使の力とは相反するものだ。更に追加された黒い鎖が物理的な質量を持って天使の四肢に絡みつく。
「ぐ、うぅ……ッ! 人間如きが……この私を、縛るなどと……!」
「せっかくなんだから縛られてることを楽しもうぜ――天使様」
玖堂は全身の筋肉を軋ませ、体重をかけて縄を引いた。この力を使うには負担がかかる。それは玖堂だけではなく、霊力を吸い上げられているユキチも同じだ。この戦いが彼に負担をかけることはわかっている。だからこそ打ち勝たなければならなかった。
「こっちへ来いよ。夜はまだまだ長いからな」
激しい衝突音と共に、ティファリアの体がアスファルトに叩きつけられた。土煙が舞い、天使の黄金の輝きが煤けた。
「っ……こんなことを……!」
「俺はあんたが望んでいる、綺麗だけど何の楽しみもなさそうな世界なんて御免なんだよ。それに人の心を塗りつぶして平気な顔をしている奴も嫌いだ」
「私は人を正しい方向に導こうとしているのに……!」
天使の美しい顔が歪む。玖堂は鎖を引きながら笑った。
「そんな高尚な気持ちでやってんのかよ、本当に。俺にはただ人間を弄んで楽しんでるようにしか見えなかったけどなぁ」
「……楽しんでいる、だと?」
ティファリアの喉から漏れたのは、銀鈴を転がすような声ではなく、地底から響くような不吉な地鳴りだった。
アスファルトに叩きつけられた衝撃で、その端正な輪郭がわずかに崩れ、歪んでいる。
「人間ごときが、私の慈愛をそのように汚すのですか。……ああ、やはりこの世界には『欠陥』が多すぎる。正しき模様に書き換えるには、一度すべてを更地にするしかないようですね」
「……あ?」
玖堂が眉を寄せた瞬間、世界から色が消える。
ティファリアの背から、黒い鎖を断ち切って三対の翼が現れた。
「……ふふ、ふははははッ!」
地面に膝を突きながら、天使が狂ったように笑い出す。天使の放つ魔力は対峙するだけで人間の生命を削るほどのものだ。それが今、剥き出しの状態で玖堂に向けられていた。
しかし玖堂はその圧倒的な力を前に尚も笑っていた。
「ようやく本性を現しやがったな。俺はな、善人ぶってるやつの仮面を引き剥がして、醜い本性を晒してやるのが好きなんだよ」
「不遜な人間め……神の怒りを知るがいい!」
「それは嫌だね。まだこの世界で楽しんでたいもんで」
光の槍が降り注ぐ。いくつかはその軌道を逸らし、追いつかないものは逆の力をぶつけて相殺する。しかしその対処に追われてティファリアの接近を許してしまった。勢いをつけて後退しようとするが間に合わず、右目に伸ばされた指が眼球を抉る。
「お前の力の源はそこか」
「随分なことしてくれるじゃねえか……気に入ったぜ、天使様」
玖堂は呻きながらもそう言い返す。右目から鮮血が溢れ、頬を伝ってアスファルトに滴った。生まれ持った目の力が玖堂の術式の中心であるのは事実だ。しかし玖堂は苦痛に顔を歪めながらも天使の腕に独鈷杵を突き刺した。
***
杏杏に支えられながら、ユキチはかすかに呻き声をあげた。玖堂が遠慮なくユキチの力を吸い上げ、天使と交戦している。その影響が出ているようだった。
「ちょっとどころじゃなくフラフラする……」
「相手は天使なので、力の出し惜しみはできないかと」
縛られたまま動けない状態で、力を吸い上げられている。その状況は快適とは言い難いが、玖堂が戦っている証であることは確かだった。何かできることはないのだろうかと考えてしまうが、黙って力を渡していればいいのだと杏杏に言われてしまった。
「……う、あ……ッ」
ユキチは不意に、自分の右目に焼け付くような激痛を覚え、その場に蹲った。実際に傷を負ったわけではない。しかし、霊力の繋がりを通じて、玖堂が受けた傷が分かちがたい痛みとなって逆流してきたのだ。
「ユキチさん!」
「杏杏さん、これは……っ?」
「……主様の右目は力の核です。強さの源泉であり、最大の弱点でもあります」
ユキチの指の間から、まるで本物の血のように透明な霊力が溢れ出す。視界が赤く染まり、意識が遠のきかけた。しかしそれ以上に強くユキチの魂を揺さぶったのは、霊力の繋がりを通して流れ込む高揚感だった。
「……どうして、こんな……」
「そういう人なんです。昔、姉様と戦っていたときも笑ってました」
「痛くて、怖いはずなのに……どうして」
昔の自分みたいだ、と言ったのは玖堂自身だ。同じように霊が集まってくる体質で、怖いものを沢山見てきたのだろう。それなのに今はどうして笑っているのだろう。何を乗り越えたら、絶体絶命の状況で高揚感を味わったり出来るのだろう。
「それは、私にはわかりません。ですが――多分本当に楽しいんだと思いますよ」
理解できない。何がどうなったらそう思えるようになるのだろうか。けれど逆流してくる感情はユキチの心にも変化を与えていた。
「……あは、ははっ!」
ユキチの口から、自分でも信じられないような乾いた笑いが漏れた。
右目を焼くような激痛。身体中から力が引き抜かれていく倦怠感。それらすべてを塗りつぶすようにして流れ込んでくる玖堂の感情は、あまりにも熱いものだった。
「……玖堂さんは、おかしいよ」
ユキチは震える手で、地面のアスファルトを強く掴んだ。
自分はあんなに怖かった。怪異に見つかるのが、取り憑かれるのが、死ぬほど怖かった。兄の事件にかこつけて自分を虐げる人間達も怖かった。だから天使が差し出した綺麗な世界に惹かれてしまったのだ。
けれど、玖堂は違う。
その世界で何を楽しみに生きていくつもりだ――玖堂に投げかけられた問いが、今更ながらに突き刺さる。玖堂はユキチが知らない熱の中に生きているのだ。そしてその熱は、天使が望む世界の中には生まれない。それなら戦うしかないのだ。
「杏杏さん……僕、少しだけ……わかったかもしれない」
「……え?」
「全部を綺麗にして、何も変化のないところで生きるより……こうやって、痛い思いをしながらでも戦う方が……ずっと、生きてる感じがする」
ユキチから溢れ出す霊力が、その意志に伴って徐々に増えていく。
これまでは一方的に吸い上げられるばかりだった。しかし今は、ユキチ自身の意志がその奔流に混ざり合っている。恐怖を燃料に、怒りを炎に。そして何より――戦いに対する高揚感を。
「……全部、持って行っていいから……だから必ず……!」
ユキチが叫ぶと同時に、彼を縛る霊力の縄が青白い火花を散らし、戦場の玖堂へと膨大な力を送り込んだ。
***
(何があったかは知らねえが、いい力だ)
ユキチの霊力は純粋で、どこか暖かい。それが嫌なものを引き寄せる原因でもあったが、そういう存在からしても、もちろん玖堂からしても、魅力的な力だった。
右目から血を流し、至近距離でティファリアと対峙していた玖堂が、血塗れの口角を吊り上げた。
独鈷杵を突き刺した天使の腕からは黄金の液体が流れていた。人と似た姿をしているが、目の前の存在は人ではない。その美しい傷とは対照的に、玖堂の体は土煙と血で汚れていた。
「残念だったなぁ、天使様。ユキチはお前が用意したふかふかのベッドより、薄汚れた地面の方が好みみたいだな」
右目は奪われたが、ユキチの力で多少補えてはいる。視力に関しても、泪泪との視覚共有により、戦う分には問題ない状態だった。笑いながら言う玖堂にティファリアは怒りをぶつける。
「お前は、そうやって人の道を踏み外させるのだな」
「道を踏み外す、ねえ……正しい道ってのが平均台くらいの細さしかないのは大分問題だと思うぜ?」
「あの力があれば、誰も道を踏み外さずに、そして仮に踏み外したものがいてもすぐに正しい道に戻すことが出来たのに」
「たいそうな理想だが、そんなつまらねえ世界は願い下げだね」
ユキチの霊力と自分自身のそれを混ぜ合わせて、ひとつのものに変換する。それは黒い縄へと変化し、天使の体に同時に絡みついた。
「何ならここで縛りの良さを教えてやってもいいんだけどなぁ?」
「っ……私を愚弄するな! 汚らわしい人間め!」
「だったらお得意の力で俺を正しい道とやらに戻してみろよ。それとももう大人だからガキと違って可塑性がないから極刑にするか?」
「黙りなさい! このような縄など……!」
ティファリアの体が発光する。もちろん天使の本気に、あくまで人間である玖堂の力が耐えられるはずはない。それは玖堂自身にもわかっていることだった。
「いいぜ。そのまま力を出せばこんな縄なんて簡単に破壊できる。でも、一回でも捕まったらおしまいだ。無理にそれを破れば、お前の傲慢で醜い本性が曝け出されるだろうな」
「人間ごときが……っ!」
ティファリアが激昂し、縛られたまま三対の翼を羽ばたかせる。空間が歪んで全方位から光弾が玖堂を襲った。
しかし、玖堂は動かない。抉られた右目の奥で、ユキチから流れ込む膨大な霊力を一点に集中させ、漆黒の術式を編み上げていく。
「――『蝕』」
玖堂が短く唱えると同時に、彼の周囲に展開された黒い霊力の障壁が、降り注ぐ光弾を真っ向から受け止めた。爆音と共にアスファルトが砕け散り、衝撃波が周囲の空気を焼き尽くす。しかし、玖堂は一歩も引かない。血に染まった右目の奥に宿る空洞が、ユキチから借り受けた純粋な熱を、冷徹な破壊の力へと変換していく。
「何という執念。なぜ、そこまでしてこの穢れた世界に執着するのですか」
光と闇の渦の中で、ティファリアの声が震えていた。それは怒りではなく、理解不能なものへの根源的な恐怖に近い。
「執着じゃねえよ。これはただの『趣味』だ」
玖堂は右手を強く握り込み、天使に絡みついた黒い縄を限界まで締め上げた。縄はティファリアの神聖な魔力を徐々に蝕んでいく。
「人間ごときが……人間など、神と神の使いである我々にただ従っていればいいものを……!」
ティファリアが激昂する。しかし玖堂は笑みを崩さなかった。
「それが傲慢だって言ってんだよ。自分たちが上であり、正しいことを信じて疑わない。こっちは勝手に地面を這いつくばって生きていくから、そっちも勝手にやってくれよ」
玖堂の掌の一点に凝縮された黒い霊力が、至近距離からティファリアの胸元へと放たれた。それはティファリアのもたらす浄化の対極にあるような、ドロドロとして熱い何かだった。
「あああああッ! 汚らわしい、汚らわしい……!」
ティファリアの三対の翼が、内側から噴き出した黒い泥によって無残に引き裂かれていく。ティファリアは黒の侵蝕から逃れようと力を放出するが、黒い縄はそれを許さなかった。
「お前の負けだ、天使様。せめて最後くらい、気持ちよくしてから消してやるよ」
玖堂は抉られた右目を見開いたまま、地獄の底から響くような声で笑った。その瞬間、夜の闇を切り裂くような轟音と共に、天使の輝きが音を立てて崩壊し始めた。
「わ……私は……人間などには……消されたりしない……!」
しかしティファリアは最後の力を振り絞って黒い縄を振り切り、一瞬で上空に飛び去った。飛飛が顕現してそれを追おうとするが、玖堂はそれを制した。
「あの傷じゃしばらく大人しくしてるしかないだろ。もういい。俺も……さすがに限界だ」
玖堂は苦笑してその場に崩れ落ちる。飛飛は玖堂を支え、泪泪は天使が残していった玖堂の右目を拾い上げた。
「……置いていったのかよ、あのクソ天使。これ腕のいい外科医だったら何とか出来たりするのか?」
さすがに民警の腕利きの治癒魔法の使い手を連れてきても、抉られた目をどうにかすることは出来ないだろう。治癒魔法の基本は傷口を縫い合わせるような技術だからだ。それよりは最新の設備の整った病院で、腕のいい外科医に何とかしてもらった方がいい傷もある。
「――おやおや、楽しそうだから来てみたら何てザマだい」
そのときどこからか聞こえて来た声に、玖堂は大きな溜息を吐いた。近くの街灯の上から飛び降りてきたのは、背中に蜘蛛の足を蠢かせた女――纓羅であった。
「何しに来たんだよ、こんな時に」
「面白そうなことになってるから来てやったんだよ。でもなかなか近づけなくてねぇ」
「天使が結界でも張ってたんだろ。邪悪な妖怪には違いないからな」
「あんた相変わらず失礼だねぇ、このあたしに向かって」
纓羅がゆっくりと近付いてくる。飛飛と泪泪が警戒、というよりは明確な敵意を彼女に向けているのがわかった。
「まあまあ、そんな怖い顔しなさんな。一番楽しいところを見逃した腹いせに、その目を治してやろうって話なんだからさ」
「……本気で言ってんのか?」
「あたしの糸なら血管も視神経も霊力の管も綺麗につないで元通りさ。まあ色が見えなくなることに関しては、あたしの力でもどうにもなんないけどねぇ。ついでに傷口もちゃあんと縫ってやるから安心しな」
普段の行いのせいで全く安心できないことに纓羅は気付いているのだろうか。しかし纓羅の言葉が嘘でないこともわかる。泪泪は溜息交じりに言った。
「嘘ではないようですが……」
「ああ、そうみたいだな」
泪泪との視覚共有を切っていなかったので、普通では見えないものも見える。嘘もそのひとつだ。しかし纓羅には嘘の色は見えない。つまり彼女は本気で言っているということになる。
「……何が狙いだ?」
「なあに、そんなに難しい話じゃないさ。遊び相手が減ったら悲しいじゃないか」
「人間はその遊びで普通に死ぬんだけどな」
しかし、纓羅が嘘を言っていないことはわかる。玖堂は泪泪に指示をして、彼女が持っていた眼球を纓羅に渡した。
「素直でよろしい」
纓羅は泪泪から受け取った玖堂の右目を、まるで宝石でも愛でるかのように月明かりにかざした。血に濡れ、ドロリとしたそれは、彼女の細長い指先の上で奇妙な質感を放っている。
「さあ、始めようか。少し痛いかもしれないけどねぇ」
彼女の背中から生えた蜘蛛の脚が、器用に玖堂の顔の傷口を固定する。同時に、纓羅の指先から、目に見えぬほど細く、銀色に輝く糸が吐き出された。それは当然医療用の縫合糸などではない。彼女の妖力そのものを編み上げた糸だ。
「っ、ぐ……!」
玖堂に脳を直接焼かれるような激痛が走る。視神経が強引に繋ぎ直され、霊力の管が再び動き出する度に体温が異常な速さで上昇していく。隣で見守る飛飛が、思わず剣の柄に手をかけた。
「安心しなよ。この程度の痛みなら気持ちいいくらいだろう?」
「相手がお前ってことを除けばな」
「ほら、そういうことだから。その物騒な手は下ろしてくれ」
纓羅は鼻歌を歌うような余裕で、瞬きほどの間に数千もの結び目を作っていく。
やがて彼女が糸を切ると、玖堂の右目の周りにあった凄惨な傷跡は、まるで最初からなかったかのように消え去っていた。
「……ふぅ。血管も神経も、これ以上ないってくらい完璧に繋いでおいてやったよ。あたしの手技に畏れおののくがいいさ」
玖堂はゆっくりと、新しく嵌め込まれた右目を開いた。
色という情報が抜け落ち、すべてがモノクロームの濃淡だけで構成された世界。しかしこの光景は見慣れたものだ。昔からの後遺症の方はどうにも出来ないと纓羅自身が言っていた。宣言通りの仕上がりだ。
「……助かった。お前に礼を言わないといけないこと以外は最高の出来だ」
「せいぜいあたしが治してやった目で、色々なものを見るといいさ。その度にあたしに感謝することだね」
「ついでにこの後遺症も治してくれたら名医として讃えてやったんだけどな」
「そっちは専門外だからねぇ。本当はあの坊やにも挨拶しておこうかと思ったんだけど、今行ったらそこの式神に切り刻まれそうだからやめておくよ。それじゃあ、また遊びに来るからね」
「もう来なくていいんだけど」
玖堂の言葉を無視した纓羅は妖しく笑うと、夜の闇に溶けるようにして姿を消した。
静寂が戻った海岸線に、ようやく一息ついたユキチが、杏杏に支えられながら駆け寄ってくる。
「玖堂さん……大丈夫、なんですか……?」
玖堂は色のない世界で、駆け寄ってくる少年の姿を捉えた。
戦いが終結すると同時にユキチを縛っていた縄は解いた。玖堂が吸い上げていた力はほとんどユキチの体に戻り、その霊力の輝きは、モノクロームの世界でもはっきりと見える。
「……ああ、まあ色々あったけどな。とりあえず何とかなりそうだ」
けれど全力の戦いで疲れてしまった。これから車を運転して戻るにしても、自分しか運転できる人間がいないというのは不安だ。そのとき、どこからかパトカーのサイレンの音が聞こえた。
「運転手が来てくれたみたいだな」
玖堂が呟くと、近くでパトカーが停車する。そこから現れたのは異動になったはずの岬だった。
「岬さん! どうしてここに」
「ああ、ユキチくんがいなくなったってお母さんから連絡があってね。佐藤が色々探してたらしいんだけど、見つからないってこっちに連絡してきてさ。佐藤はまだ来て間もないから土地勘もないだろうしってことで捜索を手伝ってたんだ。玖堂くんにも連絡したんだけどねぇ」
そのときは電話に出られるような状態ではなかったのだろう。スマホを確認してみると、確かに岬からの不在着信が残っている。
「とにかく無事で良かった。話は落ち着いてから聞くから、今日はとりあえず家まで送っていくよ」
「あ……ありがとうございます!」
ユキチは岬に礼を言った。知らないうちに警察も動き出すほどの大事になっていたらしいということにようやく気付いたのだった。
「玖堂くんはどうする?」
「途中まで車で来たんだけどな。今運転できる状態じゃねえ」
「式神さんたちって運転できないんだっけ」
「全員無免許に決まってんだろ。警察が無免許運転推奨するなよ」
「確かにそうだねぇ。じゃあ玖堂くんは署までご同行願うということで」
任意同行ってことは断ってもいいんだよな、と言いつつも、この件について民警として報告しなければならないことがある。玖堂は岬の言葉に素直に従うことにした。
「車は自走は出来るんだよね? 鍵貸してくれたらあとで佐藤に回収してもらうけど」
「ああ、そうしてくれると助かる」
玖堂は車の鍵を岬に渡した。それから玖堂は式神たちを隠形させ、ユキチと共にパトカーに乗り込むのだった。
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