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願望(前編)
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考えと行動、完全に一致することはあるだろうか。もしかしたら、多くの人はこんなこと考えたことすらないかもしれない。だが、冷静に考えてほしい。自分でこうしたい、と思ったことでも、気が付けば別のこと、例えば宿題をしたい、と思っても気が付いたらゲームをしていたこと、他には巣から落ちた鳥のヒナを見つけ、無視しようと思ったがずっと見てしまったこと、などをしてしまうことはよくあるだろう。
この時、優作はこの奇妙な不一致を経験していた。隣の不幸を無視しようと思っていたのに、その手にはボールペンが握られていた。このボールペンをどうするつもりだ? 質問するまでもない。この状況でボールペンを筆箱から出したら、この後やることは一つしかない。
そういえば、何度かこんな経験をした。アンと出会った時、駅の中で起こった事件、どちらとも、こんな不一致を経験した。
確か、あの時、自分は一度アンを無視した。だが、この後よくわからない衝動、そうだ、あの時は“誰かを見捨てるような人間”になりたくなかったんだ。その衝動に任せ、自分はアンの下へ向かった。だが、頭の中で、ずっと思っていたはずだ。人間関係で苦労しない確実な方法、それは、人間関係を作らないこと。そう思っていても、体が言うことを聞かなかった。その行動に、それっぽい理由を後から付けただけだ。
なら、あの駅は何だったんだ? なんで、あの時俺は動けなかった? あの時は助けたかったのに。動けなかった。動きたかったのに。何も出来なくて、それで落ち込んで。動けなかったことは些細なことなのかもしれない。自分は、なぜあの時、あそこまで落ち込んだのだろうか。何が、自分の中を黒く染めたのか。
自分は何なのだろうか。なぜ、こんなことが起こってしまっているのか。なぜ、こんなによく分からないことが起こるのか。
ふと、隣を見てみる。ずっと困っている。だが、自分には何も出来ない。そこには壁がある。他人と自分を隔離する壁。これを超えることはできない。
……アンは、この壁に気が付いたとき、とてもショックを受けていた。自分は、ゾッとした。だが、どこか安心した自分もいる。不思議だ。独りだけの世界にいるのが、怖いのに安心できる。
自分は、最初から気が付いていたのかもしれない。自分は、小さな自分だけの世界に留まることが幸せだったと。自分が閉じこもる世界のことなんか気づかずに、ただ日常を過ごすのが幸せだったのかもしれない。
……なら、俺はあの時何を思った?
アンと世界一周飛行をした時、自分は、なぜあそこまで感動したんだ? もし、自分が狭い世界を望むなら、自分はあの時恐怖したはずだ。あの時は、自分の世界の小ささに気が付き、これから変わっていく自分に希望を抱いたはずだ。もちろん、あの時見た世界は、壁の中と比べたら圧倒的に広い。だが、自分は広い世界を求めた。それは確かなんだ。だから一度、アンに憧れた。アンみたいになりたいと思った。この小さな壁の中から脱出したい、そんな気持ちが湧き上がった。いや、ずっと存在していた、この感情に気が付いた。そして、壁の中から出ること、壁が壊されることの恐怖が衝突する。その葛藤が、今まで自分を立ち止まらせていたものの正体なのではないか? アンを拒絶した理由も、だんだん楽しい時間に変わっていったのも、無理矢理出される恐怖と、飛び出したい感情が絡み合った結果だったのではないか?
もう一度、隣を見てみた。学生はずっと困っている。そして、自分と学生の間にそびえる、一枚の壁。この壁が、自分を止めている。
こんなもの、壊してやる。優作はボールペンを持った手を、少しずつ、お隣へと伸ばし始めた。恐る恐る、そっと、手を伸ばす。やはり怖い。壁を壊すことは。だが、このままでいいのか? このまま、こんな壁の中にいていいのか? 外から無理矢理取り出そうとしてくれた人はもういない。自分の手で、自分の意志で壊さなければいけない。
壊すんだ、そう、壊すんだ……!
「あ……、あの……」
エアコンの音でかき消されてしまいそうな言葉が、優作の口から絞り出された。届いたのか? 聞こえなかったのか? 失敗したのか?
「え⁉ あ、は、はい……。何ですか?」
聞こえてた。もう後戻りできない。もう、行けるところまで行くしかない!
「あ、あの、もしよかったら……、このボールペン、使いますか?」
相手が硬直した。ダメだったか……。
突然、隣の学生の目から涙が流れて来た。
「——‼‼」
「あ……、ごめんなさい。ほんと、どうなるか分からなかったので。それに、まさか隣の人に助けてもらえるなんて……」
隣の学生の顔が緩んだ。よっぽど大変なことだったのか。
「こ、こちらこそ、お役に立てて……」
「本当に、ありがとうございます!」
相手が安堵の笑みを浮かべた。その顔を見て、優作は心がほわっとした。
なんだろうこの感覚。この、なんとも言えない充実感。今までの快感をすべて合わせても届かない、爽やかで、暖かい感覚。冷たさを求めていたのに。独りで生きていける強さが欲しかったのに。今は、赤の他人だった人間から贈られる感情が心地よい。壁が壊れ、人と人がやさしさのような、よくわからないもので繋がる。今までなら恐怖していただろう。壁の外から来る謎の存在に、ただ警戒していただろう。もう違う。自分は壁を壊した。もっと広い世界へと旅立った。
そうか……。見るだけじゃダメなんだ。あの時自分は、とても大きな存在になれた気がした。だが、自分は何も変わっていなかった。その絶望が、あの落ち込みの正体かもしれない。今ならわかる。自分の力なしに広い世界を見せられたって、それは幻想でしかない。憧れこそ与えるが、現状を何も変えない。
自分の力で壊さないといけないんだ。自分を囲む壁は、自分で、自分の意志で、打ちこわし、乗り越えないといけない。自分の決定だからこそ、恐怖も、責任もすべて自分に降りかかる。だからこそ変われる。自分が捧げた感情、信念が、自分をものすごい力で突き動かす。
そして、壁を壊して気が付いた。自分が求めていた感覚。それは、これだったんだ。人と人のやさしさのつながり。依存するわけでも、拒絶するわけでもない。気軽に手を差し伸べ、また差し伸べられた手を快く取ることが出来る関係。自分の世界に閉じこもっていれば絶対につかめない感覚。時に恐怖を伴いながら、更に自分を広げていく暖かい感覚。そして、この感覚は、本当は身近に転がっていた。アンを助けた時、アンと出かけて、アンが笑っていた時、感じることがあった感覚。アンだけじゃない。もっと前から、実は身近に存在していた。壁が壊れ、この感情がダイレクトに心に流れ込む。自分はこれを求めていたんだ。
ベリッ!
優作は自分のレポート用紙を乱暴にはがした。そして、近くにあったシャープペンシルで、頭の中に浮かんだ文様を、繊細かつ大胆な筆遣いでレポート用紙に描き始めた。
この時、優作はこの奇妙な不一致を経験していた。隣の不幸を無視しようと思っていたのに、その手にはボールペンが握られていた。このボールペンをどうするつもりだ? 質問するまでもない。この状況でボールペンを筆箱から出したら、この後やることは一つしかない。
そういえば、何度かこんな経験をした。アンと出会った時、駅の中で起こった事件、どちらとも、こんな不一致を経験した。
確か、あの時、自分は一度アンを無視した。だが、この後よくわからない衝動、そうだ、あの時は“誰かを見捨てるような人間”になりたくなかったんだ。その衝動に任せ、自分はアンの下へ向かった。だが、頭の中で、ずっと思っていたはずだ。人間関係で苦労しない確実な方法、それは、人間関係を作らないこと。そう思っていても、体が言うことを聞かなかった。その行動に、それっぽい理由を後から付けただけだ。
なら、あの駅は何だったんだ? なんで、あの時俺は動けなかった? あの時は助けたかったのに。動けなかった。動きたかったのに。何も出来なくて、それで落ち込んで。動けなかったことは些細なことなのかもしれない。自分は、なぜあの時、あそこまで落ち込んだのだろうか。何が、自分の中を黒く染めたのか。
自分は何なのだろうか。なぜ、こんなことが起こってしまっているのか。なぜ、こんなによく分からないことが起こるのか。
ふと、隣を見てみる。ずっと困っている。だが、自分には何も出来ない。そこには壁がある。他人と自分を隔離する壁。これを超えることはできない。
……アンは、この壁に気が付いたとき、とてもショックを受けていた。自分は、ゾッとした。だが、どこか安心した自分もいる。不思議だ。独りだけの世界にいるのが、怖いのに安心できる。
自分は、最初から気が付いていたのかもしれない。自分は、小さな自分だけの世界に留まることが幸せだったと。自分が閉じこもる世界のことなんか気づかずに、ただ日常を過ごすのが幸せだったのかもしれない。
……なら、俺はあの時何を思った?
アンと世界一周飛行をした時、自分は、なぜあそこまで感動したんだ? もし、自分が狭い世界を望むなら、自分はあの時恐怖したはずだ。あの時は、自分の世界の小ささに気が付き、これから変わっていく自分に希望を抱いたはずだ。もちろん、あの時見た世界は、壁の中と比べたら圧倒的に広い。だが、自分は広い世界を求めた。それは確かなんだ。だから一度、アンに憧れた。アンみたいになりたいと思った。この小さな壁の中から脱出したい、そんな気持ちが湧き上がった。いや、ずっと存在していた、この感情に気が付いた。そして、壁の中から出ること、壁が壊されることの恐怖が衝突する。その葛藤が、今まで自分を立ち止まらせていたものの正体なのではないか? アンを拒絶した理由も、だんだん楽しい時間に変わっていったのも、無理矢理出される恐怖と、飛び出したい感情が絡み合った結果だったのではないか?
もう一度、隣を見てみた。学生はずっと困っている。そして、自分と学生の間にそびえる、一枚の壁。この壁が、自分を止めている。
こんなもの、壊してやる。優作はボールペンを持った手を、少しずつ、お隣へと伸ばし始めた。恐る恐る、そっと、手を伸ばす。やはり怖い。壁を壊すことは。だが、このままでいいのか? このまま、こんな壁の中にいていいのか? 外から無理矢理取り出そうとしてくれた人はもういない。自分の手で、自分の意志で壊さなければいけない。
壊すんだ、そう、壊すんだ……!
「あ……、あの……」
エアコンの音でかき消されてしまいそうな言葉が、優作の口から絞り出された。届いたのか? 聞こえなかったのか? 失敗したのか?
「え⁉ あ、は、はい……。何ですか?」
聞こえてた。もう後戻りできない。もう、行けるところまで行くしかない!
「あ、あの、もしよかったら……、このボールペン、使いますか?」
相手が硬直した。ダメだったか……。
突然、隣の学生の目から涙が流れて来た。
「——‼‼」
「あ……、ごめんなさい。ほんと、どうなるか分からなかったので。それに、まさか隣の人に助けてもらえるなんて……」
隣の学生の顔が緩んだ。よっぽど大変なことだったのか。
「こ、こちらこそ、お役に立てて……」
「本当に、ありがとうございます!」
相手が安堵の笑みを浮かべた。その顔を見て、優作は心がほわっとした。
なんだろうこの感覚。この、なんとも言えない充実感。今までの快感をすべて合わせても届かない、爽やかで、暖かい感覚。冷たさを求めていたのに。独りで生きていける強さが欲しかったのに。今は、赤の他人だった人間から贈られる感情が心地よい。壁が壊れ、人と人がやさしさのような、よくわからないもので繋がる。今までなら恐怖していただろう。壁の外から来る謎の存在に、ただ警戒していただろう。もう違う。自分は壁を壊した。もっと広い世界へと旅立った。
そうか……。見るだけじゃダメなんだ。あの時自分は、とても大きな存在になれた気がした。だが、自分は何も変わっていなかった。その絶望が、あの落ち込みの正体かもしれない。今ならわかる。自分の力なしに広い世界を見せられたって、それは幻想でしかない。憧れこそ与えるが、現状を何も変えない。
自分の力で壊さないといけないんだ。自分を囲む壁は、自分で、自分の意志で、打ちこわし、乗り越えないといけない。自分の決定だからこそ、恐怖も、責任もすべて自分に降りかかる。だからこそ変われる。自分が捧げた感情、信念が、自分をものすごい力で突き動かす。
そして、壁を壊して気が付いた。自分が求めていた感覚。それは、これだったんだ。人と人のやさしさのつながり。依存するわけでも、拒絶するわけでもない。気軽に手を差し伸べ、また差し伸べられた手を快く取ることが出来る関係。自分の世界に閉じこもっていれば絶対につかめない感覚。時に恐怖を伴いながら、更に自分を広げていく暖かい感覚。そして、この感覚は、本当は身近に転がっていた。アンを助けた時、アンと出かけて、アンが笑っていた時、感じることがあった感覚。アンだけじゃない。もっと前から、実は身近に存在していた。壁が壊れ、この感情がダイレクトに心に流れ込む。自分はこれを求めていたんだ。
ベリッ!
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